プロローグ2
“彼”とは……。
淡く光るディスプレイに、書きかけの文章が表示されていた。その末尾ではカーソルが点滅を繰り返している。その言葉の続きを書こうと電子鍵を叩くも、納得のいくものにはならず、結局はこの文章の所にまで戻って来る。
そんなことを何度か繰り返すうち、私はディスプレイを忌々しく睨み付け、やがて諦めたように背もたれに体重をかけた。年季の入った安物の椅子からは軋むような音が鳴る。
どこかボンヤリとし始めていた頭に活でも入れようかと、テーブルの端へと追いやられていたマグカップに口を付ける。香りが売りらしいと聞いていたコーヒーはとうの昔に冷め切っており、芳醇だったはずのそれは、苦みと酸味だけが増した液体へと化していた。
「……淹れ直すか」
長時間パソコンの前に陣取っていたせいか、体の節々が痛む。うず高く積まれた書籍や資料で大人一人通るのがやっと、と言った室内の僅かに床が見える中を器用に移動していく。
入口の脇に併設されたわずかな給湯スペースも、最低限の場所以外は同じような感じだ。熱源がIHになって火災の危機から脱し、喜んでいる研究者は私一人ではないはずだ。
そんな給湯スペースの脇、いつから電源が入っているか皆目見当もつかない保温ポットの中から、温かく、芳醇な香り立つものを注ぎ直し、ふっと一息つけば、それまで意識していなかった疲れがドッと押し寄せてきた。
時計を確認すれば、すでに深夜と呼べる時刻へと差し掛かっていた。授業が終わり、この研究室に戻ってきたのは、まだ燦々と太陽が照っていた時間帯だったはずだ。
またやってしまった。そう思いながら、私は入り口ドアのそばにある照明のスイッチを押した。部屋が暗くなっていることにすら気が付いていなかったようだ。集中しすぎると周りが見えなくなってしまうという性があるのは自覚していたが、最近の自分は度が過ぎている気がすると、自分でも感じ始めていた。
なみなみと注いだコーヒーをこぼさないように、再び室内を移動していく。こもった空気を喚起しようと窓を開け放つと、新緑の香りとともに、まだ寒さの残った風が吹き込んでくる。長時間フル回転させて、熱を持った頭を冷やすには心地よい温度だった。
少しだけ口を付けたカップをテーブルに置き、大きく体を伸ばす。途中で腰のあたりから不穏な音が聞こえたのは幻聴だということにして、一休みしようと使い古した屋外用のサンダルに履き替え、ベランダへと出る。大きく息を吐き、胸ポケットに入れっぱなしにしていた煙草に手を伸ばす。
火をつけようとポケットをまさぐり、安物の電子ライターのスイッチを入れる。しかし、うんともすんとも言わない。バッテリーを確認してみると、確認のためのランプすらつかない始末だった。今からそれを回復させるためにはどれだけ充電時間が必要なのか。いざ時間の経過を認識し、疲弊を感じ始めたこの精神にそんな気力は残っていない。
仕方ないと一度部屋に戻り、棚の上で埃をかぶっている火龍の置物を手に取った。ずしりと重量感を感じさせる置物片手に再びベランダへと出ると、龍の鱗を模した魔術回路に魔力を込めた。その昔に東国旅行で買った名産品の一つで、以前は瀟洒な貴族達がマッチ代わりに使っていた物のレプリカだ。火龍を模した置物の先端が、ほんのりと赤く光る。
火龍の髯は魔力を流すと赤熱する特性を持っている。置物の先端、龍の鼻先に仕込まれた龍髯が、十分に熱されたのを確認して煙草を近づけ、火を付けた。
大きく紫煙を吐き出すと、ふっと疲れも抜けるような気がした。校内は禁煙になっているが、すでに時刻は深夜、咎める者も居ないだろう。
実際、この時間まで学校に残っている者と言えば、図書館や研究室、魔素工房に詰めている熱心な学生と、守衛係くらいのものだろう。
三口ほどで、フィルターに近い場所まで煙草の葉を灰に変えると、脇に置いてあった水を張ったバケツに吸殻を投げ込んだ。灰に残った僅かな煙を吐き出し、冷たい空気を深呼吸して取り込むと、再度研究室の中へと入っていく。
こんな日々を送るようになった原因はただ一つ。“彼”だ。
足の踏み場も無くすほどに研究室に敷き詰められている史料も、入り口の隅で布団替わりに持ち込んだ毛布に包まって寝るのも、浴びるほど飲むコーヒーも、すべては“彼”を見つけて以来の生活だ。
しかし、一向に手がかりを見つけることはできないまま、いたずらに時間だけが過ぎ去っていく。
「『王国史』はもとより『メルシオール回顧録』も手掛かりは無い。国軍の保管している史料にもあたってみたが、該当するような人物は存在しなかった……」
私はそう呟く。王国の正式な歴史書も、有名な将軍の回顧録も、国防省に保管されている“内乱”時の名鑑にも、結局手がかりを見つけることはできなかった。他にもあたった史料は山のように積みあがる。
「いい加減、掃除をしないと怒られるな……」
史料に混じり、講義用のレジュメや会議用の書類も散らばってしまっている。と、言うか、片付ける暇を惜しんでそのままにしていると言った方が正しい。
こんな惨状、清掃の業者に見られてしまうと、冷たく呆れられた目をされてしまいそうだ。
そんな、床に散らばっている書類の中に、いつぞや売りつけられそうになった偽書が混じっていた。
「まだ残っていたのか、とっくに廃棄したと思っていた」
そう言い、その文書をつまみ上げる。丸めて、溢れてしまっているゴミ箱に投げ捨てようと構えた。そこでふと私の思考は止まった。偽書。偽造された証拠。そして捏造。
二通の手紙が存在し、その中で語られる”彼”は確かにあの時代を生きていた、生きていたと思われる……。しかし、いかなる記録にも”彼”が存在する証拠は示されていなかった。
極端なほどに。何一つとして。
「記録に残らなかった、ではない。わざと記録に残さなかった、もしくは記録から消去された……?」
まさか、と思う。そんな都市伝説の類いを研究者が生み出してどうすると自嘲気味に頭を振り、クシャクシャになったそれを放り投げようとし、そして止まった。ある。あるのだ。歴史上、記録を消されたとされる事実は存在する。
記憶の消去刑。
遥か昔、十世紀をゆうに超えて遡った時代には、反逆者や、時の為政者にとって都合の悪い人物の、その存在を一切合切消し去ってしまう。そんな刑罰が存在していた。
いや、なにも古い時代だけではない。近現代においても、強権的な国家において、政敵や、失職した政治家の姿が公式の写真や議事録から抹消された例もある。
しかし、そんな中においても、完全にその存在を消し去ることなど出来なかった。消し去ろうとする人物がいれば、残そうとする人物は必ず存在する。もし、手元にある2通の手紙が、その端緒に触れるものだとしたら……?
そんな思考が顔をのぞかせた時に、窓を抜けた風がカーテンを揺らし、積みあがった本のページを勢いよくめくった。開かれたのは『王国軍首都憲兵隊日報』の、あるページだった。
窓を閉めた私は何気なくそのページに目を落とした。
「統一歴318年3月9日分日報。王国南方にて野盗の類と思われる賊の襲撃により、輜重隊に被害が発生。南方軍憲兵隊は首都憲兵隊に増援を要請するも、なお被害は拡大……」