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第三十話 もう一度、僕を信じてくれる?

 魔王軍を率いていた敵将の一人。モルゲンブルグで発生した領都襲撃の計画者。そして、戦後生き残った唯一の魔人。

 灰色の巨人が、暗がりから青く光る瞳を向けた。心臓の萎縮するような感覚に後ずさりしそうになった。殺されかけたのを忘れたわけではない。あの時の痛みは、強烈な記憶として脳裏に刻まれている。


「私たちは『旧支配地』を越えた先を目指している。魔王が死んだ今、あそこを知っているのはお前だけだ」


「……ふん、無知蒙昧の輩が何を抜かすかと思えば。我らが王にして母は死んでなどおらぬ。あまりにも遠く、お姿を感じることは出来ぬが」


 ゲヴァルトとキュナスを連れてきたのは、彼らが旧支配地を経験しているからだ。ホルンに聞き取りをしてもらうといった方法では、正確に地図を埋められない。

 魔人は石の砕けるような唸り声を上げた。肩を揺らす様は、まるでこちらをせせら笑っているみたいだった。いちいち気にしてなどいられない。怪物の態度を無視して話を続けた。


「お前たちが領のいたるところに『秘密の通路』を持っているのは知っている。旧支配地にも通っているんだろう」


 秘密の通路。元は王国軍内で使われていた便宜上の名前であり、単なる俗称に過ぎない。

 神出鬼没な魔人たちについて、国はかねてより人間の把握していない移動経路があると推測を立てていた。疑惑が確信へと変わったのは襲撃事件がきっかけであった。当時ギルドから報告されていた出来事から都市への攻撃計画があると察知していたジギスムント侯爵は、事前に少数の兵を率いて砦を離れていた。膠着状態に陥っていた戦線で敵軍が動きを見せる気配はなかった。しかし、結果を見ればネローらは計画を実行に移しており、勇者ギルドは侯爵らと連携を取ることも出来ずに壊滅した。

 軍の関係者はこの怪物から情報を得ようとあらゆる努力をしたが、確かに通路が実在するという事実確認以外に何の成果も無かった。


「誰が教えるものか。星に巣くう病巣を、肥え太らせるしか能のない馬鹿共に」


「選択肢はないよ。遅かれ早かれお前もいつか処分される運命だ。でも私たちに協力すれば……もしかしたら生き残る道はあるかもしれない」


 はったりだ。今のところネローを処分する予定はない。王都の魔術師たちが研究価値を主張して、予定されていた処刑が無期限に伸びているのだという。一方で、必要以上の部外者が城を出入りすることを疎んだ侯爵が、魔術師たちを出禁にしてしまった。双方の意見がこんがらがって、こいつの処遇は宙ぶらりんになっている。

 だが、この怪物が王国の内情を熟知しているはずもないし、私の言い分には一定の説得力がある。古今東西、恭順の姿勢を示した捕虜の扱いが改善されるのはよくある話だ。こいつは魔王がまだ生きていると思っており、つまるところ生存を諦めない理由がある。


「くだらん。殺したくば殺すがよい。それで困るのは貴様らじゃろうて」


 なんて潔い姿勢だ。見上げたものじゃないか、くそったれ。

 いや、付け焼刃のはったりなんて看破されて当然だ。指摘の通りネローに協力するだけの利点はなく、むしろ拒めば人間共に嫌がらせができる。こいつはそれを見透かして、断るにとどまらず私たちを煽ってきたのだ。

 ホルンに目をやると、彼女は階段の方向を気にしていた。悠長にはしていられない。

 牢へと意識を戻し、鉄格子に近寄った。灰色の巨人は狭い部屋の中で丸まっており、私を見ようともしていない。


「選択肢はないと言った。協力しないなら、お前は魔王に会う機会を失うよ」


「他者を頼るならば相応のもてなしをしてみせよ。人間如きに出来るとも思わんが」


 そもそも機会など永久に来ない。万が一、魔王が生きていたとしても、魔人同士の接触なんて危険すぎて許せるわけがない。人類はようやく戦争から抜け出したのだから。

 だが、果たして戦争は終わったのだろうかとも思う。貴族たちの野心が膨らみ、王が勇者を追放するような状況で、戦争が絶えたなどと断言できるだろうか。確かに人と魔人の局所的な争いは終わったのだろうが、次にやって来るのは人と人の争いだ。それも勝てば終わる類のものでなく、ずっと先まで引きずるような泥沼の戦いになるかもしれない。

 戦争によって旧支配地は永遠に変わってしまった。私たちの故郷がそうならないとも限らない。取り返しのつかなくなる前に、何としてもフランツを連れ返さなければならないのだ。


「待って、誰か来る!」


「え、いや、時間はまだあるんじゃ……」


 それは突然の出来事で、隠れる時間はなかった。

 ゆっくりと牢獄の戸が開かれ、冷気と共に人影が入ってくる。軍靴のたてる規則的な音が地下に響く。ゲヴァルトだけが反射的に斧の柄を握っていた。

 人影は閉めた扉に鍵をかけると、私たちの顔を順に眺める。


「状況を説明してもらえるかな、ギルド長」


「……客人に、城を、案内しておりました………………ジギスムント様」


 夜にも関わらず、正装に身を包み、白髪は整えられ、眉間に深い皺を寄せながら背筋をぴんと伸ばしているモルゲンブルグ侯は、鎧さえあればすぐにでも戦地へ旅立てるような雰囲気を伴っていた。鋭い視線がホルンを貫き、彼女は肩を竦める。


()()は城の所有物で、部外者が利用する場合は領主の許可が必要なはずだが」


「利用とおっしゃいましても、なにせ生き物です。偶然近くを通りかかった時に何か意味のある言葉を口走ったとして、我々にはどうしようも……」


「ホルン、苦しい言い訳はやめなさい。お前たちはネローから情報を聞き出そうとしたのだろう。たとえば王国軍をやり過ごすために使う『秘密の通路』の話などを」


「僭越ながら城内における魔人の取扱いはまだ定められておりません。確かにネローは規則上城の備品にあたりますが、我々は何の情報も得ておりませんし、既存規則を参照しても、罰則の適用に必要な条件を満たしているとは言い難いかと存じます」


 ジギスムントは返事をしなかった。彼はつかつかと歩み寄ると、私の隣に立ち、鉄格子の向こう側にある闇と相対する。見上げると、横顔は数年前と同じようにくたびれた老人のそれだった。

 なぜ、と問いかけたくなる気持ちをぐっと抑える。なぜフランツを簡単に追い出したのか、なぜ静観し続けるのか、なぜここへ来たのか。なんとなく答えは分かっていたし、たとえ質問を浴びせても納得できるとは思えなかった。

 侯爵の目に映る魔人と、私が見ている魔人は、見た目以外の全てが違っているのだろう。どこか冷めたような眼差しは、壁や蝋燭へ向けるのと大差がないように感じられた。


「この怪物を生かしておけば、領になにか利があると思うかね」


「……わかりません。私は侯爵様のように賢明ではありませんので」


 侯爵は賢明、と口にすると鼻で笑う。それは皮肉交じりの返答への侮蔑というより、自身を嘲っているように感じる響きだった。


「賢愚は関係ない。見てきたものの違いが表れるに過ぎん。私は魔人を……彼の救出に役立てようなどとは、お前たちが来るまで考えもしなかった」


「それでも、侯爵様は私たちの意図を見抜いたんですね」


「年季の差だ。領主である前、ありふれた男に過ぎなかった時代もある。遠い昔だが」


 この男には様々な顔がある。時に軍人らしい猛々しさを、時に貴族らしい冷淡さを、あるいは老爺の寂寥を垣間見せる。その理由が少しだけ分かった気がした。ばらばらに感じられる全ては偽りない素顔で、長い時間の中で積み重ねてきた人生の断片を覗かせているに過ぎない。それらを包括してジギスムント・フォン・モルゲンブルグは成り立っている。

 おそらくこれが回答なのだ。先程、私が内心で抱いた問いかけに対する答えは『彼が領主であるから』に他ならない。それは理解こそできるけれど、やっぱり納得出来なかった。


「本当は陛下が満足されるまで待つつもりだったが、アナスタシウス卿の奥方は違う考えを持っているらしい」


 侯爵がゲヴァルトに一瞥をくれる。


「彼女が決断したならば、間もなく他の者たちも選択を余儀なくされるだろう。魔人という共通の敵を失った王国は動乱の時代を迎える……最後に王冠を被るのが誰であれ、この土地と陛下を守護するという私の使命は変わらない」


 ふいに、誰かが扉を叩いた。

 外側からはジギスムントを呼ぶ声が聞こえ、こじ開けようともがいているみたいだった。


「この声、特別復興官様を呼ばれたのですか」


「勇者フランツが帰ってくるまで私は陛下の忠実な僕だ。怪しい企みを持つ者がいれば王の部下と共に誅するのが正しき在り方なのだよ」


 特別復興官、というのが王の配下なのだろうか。ホルンが魔術を唱えると、扉の前に薄い結界が張られた。時間稼ぎぐらいにはなるだろうか。

 ゲヴァルトとキュナスが私の元に寄って来た。「大事になりゃあ俺たち反逆罪だぜ」と笑う傭兵の額には汗が浮かんでいる。反逆罪という言葉が効いたのか、魔術師は私の腰に抱き着いてその場にへたり込んでしまった。

 どうする。仮にここで大人しく見つかったとして、私たちはどのような処罰を受ける。ホルンの指摘通りなら領の規則に抵触したのが問題なのであって、王国に咎められることは何もしていない。だがここにいる面子は勇者フランツの関係者ばかりだ。最悪の場合でもゲヴァルトはイガル夫人が守ってくれるかもしれないが、私とキュナスの処遇は未知数としか言えない。特別復興官とやらが突入してくるまでホルンに法律の講義をしてもらうのもやぶさかではないが、あまりにも時間が足らない。そして侯爵の態度を鑑みるに擁護は望めないだろう。ともすると彼はこうなるのを見越してホルンを泳がせていたのだろうか。

 何年、牢に入れられる? そこから出られたとして、また長い距離を移動して、準備に時間をかけて、再出発までどれだけの歳月がかかる? キュナスの分まで罪を肩代わりできるだろうか?

 勇み足でここまで来たのが失敗だったか? いいや、でも、他に方法なんてなかった。本当に? 安直に目先の成果に飛びついただけなんじゃないのか。焦燥が生んだ判断錯誤で、またしてもフランツから遠のいてしまうというのか。そんなの嫌だ。でも、じゃあ、一体どうすれば。


「…………ねえユーリエ。前みたいに、あたしのことを信じてくれるかしら」


 腰に手を回していたキュナスが震える声で尋ねる。すっかり酔いの醒めている彼女は小動物のように震えていて、初対面の印象とは大きく違って見えた。黙っていれば神秘的な美しさを持つ容貌は、酒が入ればくしゃくしゃに笑い、怖気づくと迷子の子供みたいに頼りない。どこか抜けていて、他者に依存しがちで、年上の貫禄なんて微塵もない。

 今の彼女はもっとひどくなっていた。酒場まで我慢できていたはずの飲酒は懐に小瓶を忍ばせるほどに悪化し、自己肯定の拠り所としていた魔術は活用できず、銀行にある貯蓄を削って生きていくだけの毎日を送っている。

 そんな人間が、この危機的状況において自分を信じられるかと問うてきた。意図を直接探る余裕も意味を脳内で読み解く時間もない。ならば今は、正直に応えるべきだろう。


「信じる、君となら魔獣の潜む森だって怖くないさ」


 だって彼女は、私の友達だ。圧倒的な死と暴力から救ってくれた命の恩人で、魔術の面白い話をしてくれる博識者で、誰かのために行動できる善人なのだ。

 キュナスはぱっと顔を輝かせると、持っていた杖を握り締めた。「ちょっと待っててちょうだい」と言いながら、酒の小瓶を取り出して床にこぼし始める。それが足りなくなると、自分の指先を傭兵が持っていた斧で引っ掻き、血を垂らして補った。

 みるみるうちに、拳四つ分ほどの大きさを持つ魔術式が描かれていく。


「パンドゥ……ポルタ……ネクサス……」


 耳慣れない術文を唱う彼女は、杖を強く握り過ぎて、指先の傷からさらに血が滲んでいる。液体がうっすらと光を放ち始めると、それは輝く柱となって牢獄の天井を突き抜けた。それは奇妙にも、規模こそ違えど、王国軍の遠征時に目撃された光柱の報告と合致した。

 まさかあれは、魔王の攻撃などではなく────。


「………………………………………………みんな、危ないから口を閉じて!」


 光や、他のあらゆる光景がぐるぐると回りだす。それは目視で捕えられないほどの速さで私を包み込み、膨大な情報となって脳内を駆け巡った。突如として地面が消失し、あらゆる音は彼方へと追いやられ、私が私であるという感覚すらも忘却し、拡散し、泡沫のように弾け飛ぶ。それは魔術の奔流であり、星の内海から流れ出る息吹であり、生命の根源であり、形而上にのみ存在しうる本質だった。

 深淵。

 いや、いやいや、待て待て待て。これはなんだ。頭の中に流れ込んでくる意味不明な心象の列挙に眩暈がする。信じるとは言ったけれど、時間が無いのも承知していたけれど、だからってこんなわけ、わかんないじょうた、いに、な、るな、ん──て───き──いてな────────────────────。






 ──────────────────────────────い。

 砕け、万物と混ざり合った情報が、ほどなくして最初の形を思い出す。生命、感情、記憶、それは根幹を形成する、これが個である所以。手が二本、足も二本、内臓を守る胴体があって、思考するに必要な頭が二つ、いや一つ。

 これには両親がいて、故郷があって、大切な幼馴染と仲間たちがいて、人生を賭けた目的があって生きている。これは人間であり、社会性の生き物であり、ユーリエという名前を与えられた魂である。つまり『これ』とは私だ。

 私。私は、確かモルゲンブルグの地下牢にいて、なんかやばい状況……そう、国王の手下がすぐそこまで来ていた。それで、どうしようと思っていたら、魔術師、ええと、キュナスから質問を受けて、私は信じると言った。だからええと、いや、違う。そうじゃなくて、大切なのはその後に起きた出来事で、世界が超高速の水車みたいになったのだ。

 どこかで、喇叭の音がした。


「ぐべぇっ!」


 痛い。

 全身を殴打する痛みで、散逸していた思考がまとまりを取り戻す。頬のざらざらとした感触から推測するに、屋外のように思えた。

 体の節々に走る鈍痛をこらえながら起き上がり、辺りを見渡す。すぐ近くに岩壁がそそり立ち、離れたところには葉の一枚もついていない古木の森が広がっている。山中の通行路にも思えたが、そこかしこに生い茂る雑草からすると整備はされていないようだ。人工物もなく、城どころか、明らかに領都ですらなかった。

 どこなんだ、ここは。


「おいキュナス! てめえもっと優しく移動できねえのかよ!」


 うめき声の方向を見ると、ゲヴァルトが腰をさすりながら立ち上がっている。

 辺りを見渡すとキュナスが大の字になって寝転がっていた。前にもこんなことがあった記憶がある。あれは確か、魔力切れをおこした時で、同じような状態で地面に伸びていたのだ。


「ねえ、大丈夫?」


「くそが、こりゃあ駄目だな。休ませといてやれ………………そんで」


 ゲヴァルトは自分の肩を揉みながら舌打ちをする。彼が構え直した斧の刃は、この場に居合わせる最後の存在──魔人へと突き付けられた。

 遥か彼方を見上げている魔人は呆けているように見える。が、この怪物がどのように考えているかを読み取るのは実際のところ非常に困難と言えるだろう。星空の下にあって、青い瞳が不気味な輝きを放っていた。ネローは傭兵の呼びかけに対してぎこちなく首を動かしたが、それ以上は何もしなかった。

 話を聞き出すのが目的だったが、まさか解放する羽目になるとは想定外だ。魔人の解放などという危険な行為、モルゲンブルグどころか王国への叛逆ととらえられてもおかしくない。のこのこ歩いて戻れば逮捕は決定事項だ。しかし、この旅が始まって想定通りに事態の進む方が珍しかったのも事実。想定外こそ想定内、よし、そういうことだ。落ち着いてきた。


「ただの転送ではない、あれは星の血脈……人間如きがかような術を行使するとは……」


「御託は聞きたくねえ。逃げようとしたら殺す。勝手に動いても殺す。魔術を唱えようとしても殺す。お互い平和的にいこうぜ。なあ、魔人?」


「獣にも劣る蛮族めが、貴様らなぞ……」


 ネローはいきなり喋るのを止めて足元に視線を落とす。辛うじて聞き取れるほどの声量で呟いており、端々に「やはり」とか「いずこへ」などの単語が含まれていたのは分かった。ゲヴァルトが再度呼びかけても、今度は嫌味一つ返さなかった。魔術を警戒したものの、何かが起きる気配はない。それどころか、怪物からは攻撃的な意思を感じ取れなかった。

 魔人も厄介だが、まずは私たちがいる場所を把握するのが先決だ。城へ行く前に腹は満たしてきたが、最悪は野営をする必要がある。キュナスの術で飛ばされて来たのだから彼女に所縁のある土地だろうが、探してみれば似たような光景は王国中にあるだろう。


「ああ、ここはブルンズウィク城の近く。旧支配地の外縁部だ」


 意外にも答えはすぐに判明した。

 ブルンズウィク城、かつて将軍フォティアの指揮下にあった魔王軍の元拠点である。奇襲を受けた王国軍が大敗を喫した地でもあり、現在は旧支配地と併せて忌み地として知られている。実質的に魔王軍本陣までの最終防衛線の役割を果たしていたため、勇者フランツ率いる遊撃隊によって陥落したことで戦争が最終局面へ至った。

 奇襲のせいで行方をくらませていた勇者たちは城近くの森林で発見された。新聞によると、魔術師と侯爵はひどく憔悴しており、勇者たちに支えられながら砦に帰還したとされている。


「じゃあ、キュナスが発動したのは……転送魔術?」


「それも、あいつが独自に開発した術式だ」


 私は外套を脱いで気を失っているキュナスにかけた。よく見ると、彼女の下には消えかけの術式が描かれている。転送成功に必要な出口だ。

 魔王の攻撃から生き延びたのも、結界による防護ではなく転送による逃亡が功を奏したということか。発動後、山中に飛ばされた一行は身動きのできなくなった彼女を抱えつつ、魔王軍の追跡を躱さなければならなかった。砦への帰還が困難だったのは想像に難くない。

 万能に思える魔術だが、距離に関わらず発生する膨大な魔力消費と事前準備にかかる手間、運べる物の少なさから意外にも術文の中では実用的でないと彼女が説明してくれた記憶がある。


「ま、この辺じゃないと不発に終わるから、結局使い勝手は悪いんだけどな」


 キュナスが言っていた旧支配地にかけられている呪いのおかげ、だろうか。

 いずれにせよ、ここがブルンズウィク城の近くなら周辺に村落はない。野営は確定だ。寝床を用意しようにも、こういう時に頼りになる人物は魔力切れで寝込んでいるし、魔人はもちろん、森に潜む獣に用心しながら夜を過ごさなければならない。ゲヴァルトがどれだけ経験豊富な戦士でも休息は必要だ。私も体を張る時が来たか…………。


「おい、持っているものをよこせ」


「……え、私?」


「はよう、よこさんか」


 ゲヴァルトが月明かりに刃を照らす。傭兵の脅しでこちらに伸ばして来た腕を引っ込めたが、魔人は催促を止めなかった。地図を持つ手に力が入る。これはフランツ捜索の重要な足掛かりであると同時にここから抜け出すために不可欠な道具だ。易々と渡してしまうのは抵抗があった。

 こいつがどうして地形を知りたがる。散々自分たちが利用してきた土地じゃないか。数年の牢屋暮らしで忘れてしまったか、そもそも地形把握が目的でないのか。嫌がらせで破り捨てられたら、私たちは大切な資料を失ってしまう。

 しかし、これは同時に転機でもある。ネローが呆けるのをやめたのには理由があるはずだ。

 迷った末に渋々地図を渡すと、魔人は慎重につまみあげ、何度となく角度を調節しながら目を走らせた。現実の世界と紙の地形を交互に確かめ、その人差し指は行ったり来たりを繰り返し、やがて、意を決したようにのそりと起き上がる。


「呼び声が聞こえる。儂は行かんばならん」


 ゲヴァルトが振り下ろした斧は魔人の足首を的確に狙っていたが、あと少しのところで受け止められた。金属のぶつかり合うような音とともに、ネローの硬質化した表皮がぱらぱらと剥がれ落ちる。両者は間合いを取り、互いの出方を伺っていた。

 私は這う這うの体でぴくりともしない魔術師の元へと逃げる。くそ、結局こうなるのか。


「忠告したよなあ、てめえの末路はてめえ自身が選んだんだぜ」


 魔人の人間に対する優位性は、圧倒的な体格差によって生じる膂力にある。長い手足と攻撃範囲の広い武器の組み合わせは粗末な見た目以上に脅威となるのだ。

 また、この怪物たちは魔術の行使に術式を必要とせず、応用力も人類と比較して遥かに優れている。中でも解析が全く出来ない類の術を、専門家は呪いなどと呼んだりしている。


「ちょ、ちょっと、地図は傷つけないでくれよ!」


 では人間が魔人に劣るばかりであるかというと、そうではない。

 社会性に富み、豊かな戦術と数の優位性を持つ私たちは、しっかりとした備えさえあれば敗北に直面することは少ない────。


「そら、まずは一本!」


 ────こと、数年間も牢の中で暮らし、戦闘の感覚も筋肉もとっくに衰えた魔人の相手は、経験豊富な人間の戦士が一人いれば十全に務まる。

 灰色の右腕が宙を舞い、怪物の咆哮が空気を震わせる。土埃の舞う中で、ネローは斧の連撃を躱すので精一杯だった。

 下からうわ言が聞こえる。見ると、キュナスがようやく目を覚ましたようだ。まだ本調子でないのか、私の声掛けに「世界……浸蝕する深淵……」と意味不明な発言を返した。頬を軽く叩いてやると、徐々に意識が鮮明になったのか、眼前で起こっている戦いに目を白黒させていた。

 がさり、と、茂みが揺れる。闇の中から何かがこちらを視ている。キュナスはゲヴァルトとネローの戦闘に夢中で気が付いていないようだった。

 小動物であれば、魔人の咆哮が聞こえた時点で逃げ出すに違いない。巣を荒らしているわけでもないから、熊のような生き物が来たとも考えにくい。道中を見張っているという王国軍が騒ぎを聞きつけたのかと危惧したが、私が存在に気付いた時点でなんの行動もおこしていないが不自然だ。気性が荒く、血に飢えたその生き物は、おそらく。


「まずいゲヴァルト、魔獣だ!」


 私の警告で傭兵が後方に飛びのくと同時に、茂みから大きな影が飛び出した。それは先程まで大きな音を立てていた場所へと突っ込んでいき、疲弊していたネローに直撃した。突発的な出来事に構える余裕もなく魔人は横へ飛ばされる。ぐしゃり、と嫌な音がした。

 極彩色の毛並みが月明かりに照らされて美しく輝く。鼠型の魔獣が長い首を露にして、もがく魔人の首筋に前歯を突き立てようとした。ネローは必死に抵抗するも、やはり片腕だけでは分が悪いようで迫りくる凶器を抑えきれていない。


「ええい、深淵の忌み子風情がっ……!」


 このまま放置しても勝敗は明らかだ。王国最後の魔人は魔獣に寄って殺される。まともに考えて、ネローが将来に及ぼしうる危険を考えれば、それもまた選択肢としてアリなのかもしれない。

 しかし、残念ながら今はまともから程遠く、あの怪物と同じように、私たちに残された道も少ない。


「キュナス、ゲヴァルトが魔獣を仕留めるだけの隙を作れるかな?」


「……もう、なにがなんだかわかんないけど、人使いが荒いんだから!」


 目覚めたからといって、万全まで回復したわけではない。魔力は変わらずほぼすっからかんだろう。以前の彼女であれば夜通し気絶したままで術を放つなんて到底不可能だった。

 以前であれば、だが。

 どこか嬉しそうなキュナスが唱える「インペトゥス」の言葉と共に、構えた杖の先から目に見えない攻撃が繰り出され、魔獣が動きを止める。それは極限まで魔力を節約するために糸のように細くしなやかな調節を施され、通常であれば人間の皮膚さえ貫通出来ない代物だった。暴れる生き物の身体にある穴に素早く入り込み、内側からの攻撃を可能としたのは彼女の才覚によるものが大きい。

 私が再度名前を叫ぶと、ゲヴァルトは躊躇なく魔獣へ切り込んだ。彼は瞬時に、この混沌とした状況の全てを受け入れ、仲間の行動に応えることを選んだ。戦士として培ってきた判断力が、魔人の手助けをすることによる懸念を捨てさせた。そして、鼠の化け物は首の根本からバッサリと断ち切られ、抵抗する間もなく絶命した。

 ネローが死骸を押しのけると、後には荒い息遣いだけが残る。私は地面に落ちていた地図を拾って、戦う気力も逃げる体力も失った魔人に歩み寄ると、その青い瞳を見下ろした。


「どこへ行くつもりだったのか教えてもらおうか。処遇を考えるのはそれからだ」


 ネローの表情は動かない。感情が表面化しないのは魔人という種族全体の特質なのか、それとも牢に閉じ込められていたがゆえの結果なのだろうか。しわくちゃになった地図を広げると、少し間を空けてから怪物はある場所に指を置く。私が描いた円の線上だ。

 地図には山も川も村も存在しない。それでも魔人は何かを感じ取って、ここへ行こうとしている。

 なにより、転送されていた時に聞いた喇叭の音。あれはおもちゃとか礼式用といった代物ではなく、王国を旅していて一度も聞いたことが無い音色だった。ただ一度だけ、忘れもしない惨劇の中で、悲鳴と怒号に混ざりながら都市に響いていた音色だ。

 フランツを置いていった者たちの報告。滅んだはずの魔王軍が鳴らす喇叭。ネローが発した言葉の数々と、目指している場所。一つ一つは取るに足らない事象だが重なるならば意味が生まれる。勇者失踪とは別の、しかし繋がっている何かが裏側で進行している。の、かもしれない。


「私たちも連れていけ。そのザマではお前も一人で目的地までたどり着くのは困難だろう」


「誰が人間などと行動するものか」


「たかが魔獣一匹、退けられやしなかったのに?」


 手に持っていた地図を鼻先に突き出すと、ネローが目を細めた。

 確証はない。何が待ち受けているのか、何と関わろうとしているのか、慎重に見定めていかなければならない。それでも目の前に選択肢がある以上、何かを選んで行くしかない。いや、絶対に行く。

 意味のある未来を掴むために、私は行くのだ。

 灰色の巨人は私を、そしてゲヴァルトを睨みながら、自身の肩から下を地面に突き立て、勢いよく引き抜いた。そこには失われたはずの右腕が生えており、指先まで滑らかに動かしながら調子を確かめている。やがてぴくりとも動かない魔獣の死骸を一瞥してからこちらに視線を戻し、地図を受け取った。


「…………そこの蛮族を儂に近づけさせるな。うっとおしくてかなわん」


「おや、人間流のもてなしはお気に召さなかったかな」


 かくして、人間三人と魔人の奇妙な道中が始まった。

 森を抜け、旧支配地を横断し、隣国との境を目指す旅である。

 戦後にジギスムントと王国軍が撤退して以降、ブルンズウィク城は管理者が任命されておらず、実質的に廃城と化している。隣国への接触を試みる商人以外に人影は全くない。理由は明快で旧支配地との距離が近すぎるからだ。魔獣の出現報告も多く、進んで管理したがる者は誰もいない。魔王の呪いと魔獣について尋ねると、ネローは「関係あるわけなかろう」と一蹴した。

 行動を共にしてすぐに『秘密の通路』の謎は判明した。土地のそこかしこに鼠型の魔獣が穴が残されており、魔人たちはこれを利用してモルゲンブルグを移動していたのだ。出入口は草木と魔術を併用して偽装されており、人間が不用意に入ると爆発で塞がれるようになっていた。通路によっては丁寧に整備されたり、拡張工事をしたような痕跡もあって、魔王軍がかなりの頻度で使用していたらしいのが伺える。山を登り、川を渡らずに進軍出来るのだから、なるほど素早いわけだ。山中と違い、変わらない景色の中をひたすら歩くのはなかなかに苦痛だった。


「ほら、あと少しだから頑張って! 貴女なら出来る、出来るわ!」


「うえぇ~……出来ない…………」


「なあ、もうこいつ置いていこうぜ」


 旧支配地に直通している穴に入る前、私は後ろを振り返った。地平線のはるか遠くにブロッケンの山嶺が並び、昇りたての太陽がモルゲンブルグの広大な地を暖かく照らしている。わずかばかりの名残惜しい気持ちを抑え、大自然に別れを告げた。

 戦争が始まる前、人々にとって自然の示す雄大さは、語り継がれゆく物語と同じように古からの言伝だった。魔王の呪いと呼ばれる現象が、岩壁から切り出された鋭角まみれの剣山を、腐敗と再生を急速に繰り返す果実の庭園を、あるいは溶岩の溢れ出す灼熱の谷を生み出す前の牧歌的な願いである。旧支配地と呼称される土地の実態を知ったのは、フランツを探す旅に出てからだった。一帯を形成する強大な法則は魔力の歪みを発生させ、人間の居住を拒絶している。

 一方で歴史学者によると、ルートヴィーヒと初代勇者が訪れた当時はこのような状態にはなっていなかったとする説が有力である。古い文献を紐解いても特異であったとの記述はなく、建国の父は難なく進軍を成功させている。事実として魔王が復活する前は平凡な山間の地域であり、伝説における要所である以外、特筆すべき点は何もなかった。

 王国軍の兵士たちは、魔人が各地に築いた木造りの砦に防護結界を張って活動拠点としている。旧支配地の外にいる人員と交代を繰り返しながら、勇者の捜索と土地の警備の任務を全うしていた。ネローの案内が無ければ発見ののち捕縛は免れなかっただろう。兵士たちが飲んでいた酒を羨ましそうに見つめていたキュナスは、ゲヴァルトに首根っこを掴まれ、強引に引き摺られていた。

 子供の頃、あれだけここへ来ることを渇望していたのに、君が隣にいないなんて考えもしていなかった。今はどこで何をしているのだろう。自分の物を大切にしていたから、よく休日は鎧や武器を磨いていたりしたよね。それともまた私が見ていないところで鍛錬に励んでいるのかな。荒野の向こう側なんて寂しいところじゃなくて、せめて暖かい暖炉の前にいてくれるといいな。


「────どうか無事でいてくれ、フランツ」


「おい何やってんだユーリエ。こいつ運ぶの手伝ってくれ!」


「うぅ、待って、行かないで、私の蜂蜜酒~!」


「はようせい、置いてゆくぞ」


 不気味なほどに生き物の気配がしないことに寒気を覚えつつ、私たちは谷に沿って歩いていく。終戦から暫くして、王国はモルゲンブルグ領内における魔人の根絶に成功したと表明し、民草にこれ以上の被害は発生しないと確約した。戦士ギルドにおいてもの交戦記録は二年ほど全く報告されおらず、平民の中には王国の発表を信じている者も多い。

 だが、本当に魔人は全滅したのだろうか。まだどこかに隠れ潜んでいて、次の機会を伺っているのではないか。旧支配地を見て回っているうちにそんな不安が頭をよぎった。

 旅を続けて分かったのは、あの戦争がただの区切りに過ぎないという冷酷な事実だった。本で語られる物語のような決定的な終わりなど訪れないまま、世界は否応なしに続いていく。新しい時代の到来に劇的な始まりなど用意されておらず、なんてことない日常が淡々と積み重なっていくだけである。

 旧支配地の境界線を越えた時、私たちは手を取り合うとか、物思いに耽るとか、そうした特別なことは何もしなかった。尋常ならざる土地を踏破した達成感よりも、不慣れな環境で蓄積された疲労が大きかったのだ。かつての夢の終着点は、気が抜けるぐらい呆気なかった。


「呼び声はそう便利なものではない。あれは王にのみ許された特権なのじゃ。たとえ同胞たちが生きていたとしても、直接会いにゆく以外に方法はない」


「でもお前たちは都市で喇叭を鳴らしていたじゃないか。あれは呼び声ではないのかい?」


「あれは呼び声を模したもの。しょせんは形ばかりのまがい物に過ぎん」


 呪われた土地を抜けてしばらく歩くと大きな川に行く着いた。透き通っている緩やかな水流を渡り、向こう岸へ到達すればついに王国の領地を越える。生まれて初めて過ごす異国の夜は、モルゲンブルグよりも少しだけ暖かく感じた。

 ろくな装備もない野営は本来困難を極めるものだ。キュナスが自然魔術に精通していなければ、旧支配地の横断などという無理筋を通すのは不可能だったろう。嫌々ながらネローが手を貸したのもあって、旅は順調に進んでいた。灰色の巨人曰く、人間の魔術など古に枝分かれした稚拙な模倣に過ぎず、源流たる魔人の術はより世界の理により近く、効率的であるのだという。最初は訝し気であったキュナスも、段々と前のめりになりながら話を聞いていた。

 道中で遭遇した危険のほとんどはゲヴァルトが対処してくれた。大型の魔獣は魔術師の手を借りる時もあったが、多くの場合は傭兵が斧一本で対処した。


「ネロー、魔人の術でこう、私を屈強な戦士にできたりしないかい? できれば副作用のない感じで……」


「こやつは歩きながら寝ておるのか? 寝言をほざいているようじゃ」


「貴女が暴れたら人死にが出るわよ」


 その村は、だだっ広い平原の中にある小さな集落だった。離れたところは森になっており、故郷では見たことも無いような草木が生い茂っていた。ネローによればここが呼び声の終点であるらしい。

 みんなでぞろぞろと出て行けば間違いなく現地の人々を警戒させてしまう。誰が行くべきか話し合い、とりあえず私が代表して村人と接触するようになった。他の三人は目立たない場所で待機だ。目標地点を目の前にして、ネローはじれったそうにしていたが。

 王国の共通語は初代国王が覇業を成した際、今の王都周辺で使われていた言語を各地に広めたのが大本である。田舎によっては共通語と地域の原語がごちゃ混ぜになっている場合が珍しくない。モルゲンブルグの端にあったいくつかの村も例外ではなく、彼らの独特な訛りは仕事の話をするときに苦労した。だが今回に限っては、あの経験が功を奏した。

 集落へ入り、最初に出会った村人の喋る内容は大半を理解できなかったが、かつて聞いた訛りと似た響きの言葉が混じっていたおかげで友好的な雰囲気を作ることができた。私たちが歩いてきた方角を指さし、身振り手振りで人探しをしていると伝え、最後に幼馴染の名前を出すと、村人は分かりやすく反応してくれた。


「フランチェ?」


「そうそう、フランツ。オサナナジミ、えーと……グ、グデイエ?」


 村人はある掘っ立て小屋に案内してくれた。木材を組んで作られた粗末な家であった。促されるまま、私は戸口の前に立つ。

 拳で扉を叩く直前、頭の中で多くの出来事が甦った。二人で旅に出た時のこと、苦労して魔獣を倒した時のこと、初めて合金鎧を購入した時のこと、引っ越し作業が大変だった時のこと、酒場で仕事の話をしていた時のこと。

 そして、砦で交わした最後の会話。最悪な別れ方だった。変に意地を張って、まるで相容れないかのように振る舞い、何もかも宙ぶらりんで終わってしまった嫌な記憶だ。自分を拒絶した女がのこのこと目の前にやって来て、彼はどんな顔をするのか。

 最初に掛けるべき言葉はなんだろう。「やあ」とか「こんにちは」では呑気過ぎる。でも、いきなり「すまなかった」は唐突だ。もっと丁寧かつ下手に出ていくべきだろうか。あまり他人行儀だと、むしろ溝が深まってしまうかもしれない。もっと、こう、明るい感じで「おつかれさまっ」とか。いやあそれはナシだ。王国から追い出された人間にかける言葉じゃない。過去のあれこれは無かったことにして「迎えに来たよ」と格好つけるか。それも論外だろう。冷静に考えるとそんなに格好良くないし、ふざけていると怒られるかもしれない。

 葛藤していると、村人がさっさと扉を叩いてしまった。慌てふためく間もなく、戸口が軋みながら開かれる。


「ホイ、フランチェ!」


 出てきたのは、若い青年だった。村人の元気な掛け声に軽く相槌を返している。柔らかく落ち着いた声色からは優しい人間性を感じさせる。素朴な衣服とざっくばらんに切られた頭髪は、この小さな集落によく馴染んでいた。彼の青く澄んだ双眸が私を捉えると大きく見開かれる。

 やっぱり生きていたのだ。物語でも噂でも劇の題材でもなく、本物の幼馴染が、目の前に立っていた。信じていた、荒野の向こう側になど行っていないと信じていたとも。君を連れ帰って、再び故郷の土を踏んでもらって、おじさんやおばさんと抱き合ってもらうためにここまでやってきた。君と再会することを人生(いみ)と定めて、勇者のアシスタント(ユーリエ)は今日まで生きてきたのだ。

 彼は私を知っている。私も、彼を知っている。知っていて当然だ。だって小さいころから一緒にいたのだから。いじめられていた時も、勇者になった時も、英雄になった時も、その姿を見届けていた。

 久しぶり、フランツ。


「ユーリエ…………?」


 彼は「どうしてここに」と消え入るような声で言った。驚くと少しだけ唇を開きっぱなしにする癖はそのままだ。

 つい、実在している確信が欲しくて手が伸びたけれど、思いとどまる。


「分かっていないようだね、フランツ。私がここまで来たのは、幼馴染と会うために決まっているじゃないか」


 故郷から地図の外側までの旅。君のいない道行は、とても、とても、とても寂しかった。一人では絶対に成功できなかった。私をここまで導いたのは君が示してくれた勇気だ。私をここまで届けてくれたのはかつての日々が繋いでくれた人々の縁だ。

 ごめん。ごめんなさい。

 逃げてしまってごめんなさい。遅くなってごめんなさい。いきなり来てごめんなさい。自分なりに考えて、ようやく見つけた意味を貫くためにここまで来ました。

 もしよければ、私の話を聞いてください。君の話を聞かせてください。だってこんなにも会っていなかったのだから、積もる話題は山ほどあるでしょう。

 だから。


「帰ろう。一度だけでいい、またここに戻ってきてもいい、戻り道はいくらでも付き合う。だから、だからっ、一緒に村へ帰ろう……それで、村の連中に、自慢するんだ。君は、君はこんなにも、頑張ったって……っ!」


 上手く喋ることが出来なかった。きっと言ってることは支離滅裂だ。

 視界がぼやけている。もっとフランツの顔を見たくて、しっかりと記憶に留めたくて、何度も目元を拭ったけれど、次から次へと涙が溢れてきた。

 曖昧な輪郭が揺れると、それは一歩近づいてくる。


「遅かったなあ。ねえユーリエ、もう一度、僕を信じてくれる?」


 嗚咽で言葉すら出てこなくなって、私は何度も首を縦に振った。

 武器を手にして敵を倒したり、盾を持って仲間を守ったり、魔術でみんなを幸せにしたりはできないけれど、くじけそうになっている誰かの隣に寄り添って、その人の可能性を信じて手助け(アシスト)するぐらいはできるのだ。

 取るに足らないのかもしれない。ありふれているかもしれない。でも、それでいいのだ。誰にでもできる行いで、誰かが前に進めるならば、それは何よりも喜ばしいことなのだから。

 これが私の選んだ道だ。


「────────────それなら仕方ない。うん、分かったよ。一緒に帰ろう」


 涙が止まらなくて、彼の胸に顔面をうずめた。当然ながらそんなんで感情に蓋をするのは不可能だったけれど、ほんのり伝わる体温が心地よかった。

 ありがとう、私の大切な幼馴染。

 いきなり泣き出す余所者に終始困惑していた村人は気を遣ったフランツが帰した。感謝を込めて頭を下げると、やはり意味の分からない言葉で陽気に応えてくれた。

 ようやく嗚咽が落ち着いた頃に一人で来たのかと質問され、村の外れを指さす。ゲヴァルトとキュナスが一緒だと説明すると、よく集められたものだと感心された。まあ経緯を語ろうにも、偶然うまくいったとしか言えない部分もたくさんあるけど。

 ネローのことも素直に打ち明けた。隠し立てしても仕方ないと思ったからだ。フランツは「うわあ、大変なことになってるね」と苦笑していたが、あの魔人がいなければ幼馴染の元までたどり着けなかったのも事実だ。


「ネローがいなければって、どういうこと?」


「呼び声が聞こえるとか言って、あれがここまでの道のりを案内してくれたのさ。真意はまだ分かってないんだけど……」


 その時、ふと彼の後ろから物音がした。石で出来た床を軽やかに踏み鳴らし、中から人影が出てくる。それは最初フランツの背中に隠れるそぶりを見せてからひょっこり顔を出した。

 人影の正体は、小さな女の子だ。


「フランツ。この女、誰」


 歳は十を超えたばかりだろうか。長い髪を後ろで結び、きつい眼差しを向ける少女の雰囲気は、明らかにこちらを歓迎していない。


「安心してよアルケー、彼女は僕の友達だ」


 いやいやいや、「誰?」はこちらの台詞だ。フランツが子供と同居しているだって?

 思わず取り乱すところだったが、深呼吸をして踏み止まった。逆算すればすぐ違和感に気が付く。二十代の彼に十歳の子供がいるわけがない。貴族たちはもちろん、ゲヴァルトやキュナスもそれらしい言及をしていなかったから、王国を追放されてから出会ったのだろう。


「フランツはどこにもいかない。(エゴ)が力を取り戻すまでここに残る。それが約定」


「……初めまして。お姉さんはあなたから彼を奪いに来たんじゃないよ」


「敵意が無いというならネローを呼んで。話を聞きたいから。いるんでしょ、あの子」


 お手上げだとでも言うみたいにフランツは自分の額に手を当てる。対して、灰色の肌を持つ少女は淡々と要求を押し付けてきた。彼女の動作からは感情に類するものが感じられず、愛くるしい顔立ちは人形のように冷たかった。

 その瞳は太陽の下にあって、青い光を鈍く放っている。


「お前、いったい何者だ」


(エゴ)は星の代理にして、深淵より来る獣の敵対者。あるいは────魔王」


 魔王(アルケー)は人差し指をこちらに向けて「ひれ伏しても良いけど?」と言った。

 ここに魔人が求める何か、特にあれらの王と関わりのある何かが隠されているとは予想していた。例えば力や宝物といった遺物や、あるいは遺言のようなものがあると思っていたのだ。灰色の巨人は魔王が生きていると主張していたが、あれはいわば荒野に消えた勇者よろしく伝説めいた語りだと信じていなかった。だが実際に待っていたのは魔王の肩書を僭称する少女だ。

 やはり、まだ何も終わっていない。

 凡人の手が届かない場所で、今も時代は動き続けている。王が国を意のままに動かそうと画策し、貴族たちが権力闘争に耽り、魔人たちが不滅である限り、終わりはいつまでも訪れない。やがて、再び戦争のような大きなうねりが私たちを吞み込み、暴力と抗いがたい悲劇を突き付けてくるのかもしれない。

 ああ、まったく、だからどうしたというのだろう。

 時代が暗闇をもたらすならば、何度だって明かりを灯してみせよう。時代が善意を引き裂こうとするなら、何度だって繋ぎ止めてみせよう。時代が悪意で覆い尽くすなら、その何倍もの善意が隠れていると信じよう。

 私のやることは変わらない。

 フランツと故郷へ帰る。今度こそ絶対に離れたりなんかしない。

 もしもこれが成功したら…………いや、未来のことは、また後で考えるか。

 だって現実は、想像よりもずっと無限大なのだから。

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