第二十九話 嫌いです
王都からモルゲンブルグまでは、いくつかの都市と山道を経由する。流石に人通りもそれなりにあって険しい道のりでもないが、以前は徒歩と商隊への同行を繰り返しながら移動しなければならず、とても時間がかかっていた。
しかし、近年は周辺の交通事情に変化があったようだ。
「あんたら、領都に行ったらモルゲンの酒場に寄りなよ。金はいるけどメシは旨い。あっこはいいぜ~」
しっかり教育されているのか、御者は人当たりの良い若者で、自身の雇用主が経営する店を抜かりなく紹介してきた。荷車の後ろで食料が詰め込まれた木箱を背もたれにしながら、私とゲヴァルトは曖昧に返事する。
モルゲンの酒場が持つ輸送網は広範囲に及び、御者と護衛の傭兵を交代させつつ様々な土地から食材を運んでいる。このように、いち都市の酒場が独自の輸送網を持つのは稀である。特にモルゲンブルグにおいては魔人に襲撃される危険性をふまえて不可能であると考えられていた。
酒場の店主は、目を輝かせながら語っていた夢を実現させたらしい。
「ゲヴァルト、イガル夫人って昔からあんな感じだったの?」
「……若い頃は抜身の剣みたいな奴だった。おっかないのは変わりないが、今はどっちかって言うと毒の入った水瓶だな」
会合が終わった後、夫人がけろっとした態度で接してきたのを思い出す。とんでもない場所に招いてくれたことに閉口していると、彼女は「私、格好良かったかしら?」なんてすっとぼけていた。
思い出して、全身に走る寒気で身震いしたが、降雪地帯に近づいているのが原因ではないだろう。
とはいえ、巻き込まれたものは仕方がない。なにより夫人の言葉通りフランツの失踪に国王が関係しているなら、遅かれ早かれ対峙しなければいけない問題だった。退路を断ってもらえたと思えば覚悟も…………。
いや、できるもんか。
これ見よがしにため息をつくと、耳聡く聞きつけた御者が「お悩みかい?」と話しかけてきた。
「分かるよ。悩みって尽きないもんだよな。俺っちも飼ってた豚が消えちまって大変だったぜ」
質問と思わせて自分語りを始めたのに面食らったが、根掘り葉掘り聞かれるよりはマシだと考え直す。
馬車に乗せられている場合、旅の移動というのはひどく退屈な時間であり、身体の痛みを耐え抜く時間でもある。こうした苦痛を凌ぐには、誰かと話すのが一番だ。
「豚は見つかったのかい?」
「いんや。近所の連中と総出で探したが見つからなかった。今頃……勇者様に可愛がってもらってるかもしんねえな」
「たくさんの人に好かれていたんだね」
わざわざ近所に人まで協力してくれたのだから、さぞ愛されていたのだろうと思った。しかし御者は「そりゃあねえさ」と笑う。
「あいつはいたずら好きでよ、俺っちも含めて迷惑ばっかりかけてやがった。まあだからこそ愛おしいとも思ってたけど、近所の連中はあんまし近寄りたがらなかったな」
「……なのにどうして、近所の人たちは協力してくれたのかな」
「助け合いの精神ってやつだよ。あんたモルゲンブルグは初めて?」
初めてではないが、似たようなものだろう。
御者が横顔をこちらに向けた。
「領都が襲撃された時、城の連中は逃げ遅れた連中をあっさり見捨てやがった。平民たちは城門の近くで立ち往生してたんだよ」
魔人による攻撃は今も雪国に深い爪跡を残している。それは建物や資源の段階に留まらず、人の心にまで及んでいる。
目を瞑れば、喇叭の音と肉の焼ける匂いが甦る。フランツ達がいなければ私の命も存在していない。
「だけど一人の女の子が言った────『逃げ遅れた人を探す』ってさ。貴族でも戦士でもなさそうな女の子が勇気を出して人助けに行こうとしてたワケ。んで、その場にいた奴らは思った。まだやれることはあるってさ」
「それは…………なんというか、すごい話だ」
「おうとも。みんなで協力して生き残ってる人を探し回った、間に合わなかった奴もいたけど助けられた奴もいた。俺っちもおかげで助かったクチだ。一部の人間にとっちゃあ、顔も知らない女の子こそ影の英雄って話よ」
以来、モルゲンブルグでは助け合いの精神という標語が市井を中心に密かな盛り上がりを見せたのだという。やがて、戦争が終わりを迎えたことで新しい時代の到来を期待する人々が改めて口にし始めたことで、標語は領全体へ広まっていったらしい。
襲撃事件から半年ほど都市にいたが、そのような風潮は見かけたことが無かった。あの頃は引継ぎ作業で忙しく、フランツたちを除けば他人と仕事の話ばかりしていたせいだろうか。
「だから、この程度であればあんたらも駄賃を払う必要はないぜ。どうしてもってんなら……モルゲンの酒場をどうぞよろしく!」
ブロッケン山脈を横断し、黄昏谷を渡った先に領都はある。まだ雪の積もる季節ではないが、山々はすでに色褪せ始め、地面には朽ちた落ち葉や固くなった木の実がそこかしこに落ちている。自然界は着々と冬の準備を進めていた。
都市での目的は二つ。一つ目はフランツの足取りを追うこと。最初は城に出向くのも検討していたが、イガル夫人からやめるよう助言を受けた。城主のジギスムント侯爵もフランツの失踪に加担しているかもしれないと。彼女は忌々しそうに「あのゴマ擦り翁は王様の味方だから」と吐き捨てていた。モルゲンブルグとカッセルハイムは同じ辺境地でありながら王家からの信頼という絶対的な差異がある。夫人としても思うところはあるのだろう。
私としては侯爵本人に真実を問い質したい気持ちもあるが、流石に無謀過ぎるか。
二つ目は、友人に会うこと。館を与えられて魔術の研究をしているというが、ゲヴァルトからすると閉じ込められているようなものだと言っていた。彼の時と同じように、どうにかして顔を合わせてきちんと話したかった。
馬車は外壁に沿って進んでいく。まばらに建っている農場の中に、あの老婆が住んでいた家を探したけれど見つけられなかった。彼女がどうなったのかは想像する他ないが、息子さんと仲良くしているよう願うばかりだ。
門まで到着すると、私たちは御者に礼を言ってから馬車を降りた。詰め所で担当者が外からやって来た私達の恰好を子細に記録している。剣を腰にぶら下げた守衛に、いろいろな身分の人が出入りする場所がどこか尋ねた。何を始めるにしても、まず情報が無ければ始まらないからだ。てっきり酒場を指定してくるものと予想していたが、答えは意外な場所だった。
「いらっしゃいませ。戦士ギルドへようこそ。本日はどのような要件でしょうか?」
「えーっと、人探しをしてるんですけど……」
戦士ギルド。モルゲンブルグにおける勇者ギルドの後継団体だ。
再建された建物は微塵も面影を感じさせず、石造りの堅牢な造りへと変わっていた。
襲撃事件によって壊滅した時、立て直しのために領内の人材を中心として生まれ変わった同団体は、国内で起きたギルド解体の煽りを受けることなく名前だけ変えて活動を継続していた。戦後、職を失った荒くれ者たちの再就職先としても機能しているらしく、強面の戦士たちが書類を片手に談笑している光景に懐かしさがこみ上げてくる。
なにより、意外な人物との再会に驚かされた。
「あれ、ユーリエちゃんじゃーん。どしたのー?」
明るい色合いの仕事服を着て現れたのは、ホルンだ。
王都から派遣されてきた経歴をふまえて、とっくに領を離れたと思っていたが、どうやらそうもいかなかったらしい。
「正規の軍人さんが足りないから下請けでいろいろ仕事回されちゃってさ、例の標語があるから職場の空気は悪くないけど、もうてんてこ舞いだよー」
「大変なんだね、ギルド長サマも」
砦の事務官もそれなりの立場だが、団体の長ともなれば大出世だ。王都に帰るつもりで荷物をまとめていたホルンにとって、侯爵自ら引き止めに来たのは大きな誤算だったようだ。
受付窓口の脇に設置された客用椅子に座りながら、将来設計が崩れたと嘆く彼女の肩を優しく叩いた。
「そうだーここで働かなーい?」
もちろん、丁寧にお断りした。
入って来た人が記載台に用意された紙を手に取ると何やら書き込み始める。それは依頼かもしれないし、仕事終わりの報告かもしれない。どちらにしても、用紙にはその人の物語が刻まれていく。魔人のせいで焼け落ち、生まれ変わったギルドの建物こそが、この都市の歩んできた軌跡なのだ。
モルゲンブルグの人々と私は英雄の失踪と言う形で再び相まみえたが、この再会も長くは続かないだろうという根拠のない確信があった。人生とはそういうものだろう。
窓口の奥からホルンを呼ぶ声がした。いくつかの案件でギルド長からまだ承認を貰っていないという要望に、素っ頓狂な悲鳴をあげて立ち上がる。仕事の関係であんなに焦る彼女をほとんど見たことが無かった。
「そろそろ行かなきゃ……ねね、ユーリエちゃん。せっかく来たなら劇場に寄っていきなさいなー」
ホルンはあわただしく奥へと消えていく。
呑気に劇を鑑賞している余裕はない。当然、適当に返事だけで済ませるつもりだったが、わざわざ劇場を名指しした彼女の言動が引っかかった。
ギルドを出るころにはすっかり日も落ちてしまい、私たちは宿を取ることにした。王都の出発前に夫人からいくらかの旅費を強引に押し付けられ、手持ちはそれなりにあるものの、贅沢をする気はない。記憶を頼りに街道を歩くと、安宿の並ぶ区画に行きつく。
あの頃と同じ価格で、とはいかないものの、王都の宿に比べれば格安で部屋を取れた。
「変なことを考えないでくれたまえよ」
「俺の好みは棒切れじゃないんでね」
「こいつ…………」
結局、フランツの行方や魔術師が住んでいる館についての情報は教えてもらえなかった。職員たちはゲヴァルトの姿を見ると存じ上げないの一点張りだ。ホルンものらりくらりと質問を躱していた。何かあるのは間違いないけれど、やはり協力は望めないらしい。
彼女が口にしたモルゲンブルグの観光名所。やはりあそこに秘密が眠っているのだろうか。
酒場に劇場、人と話すたびに立ち寄る場所が増えていくのはなんとも奇妙だった。もしかすると、これもどこかの策略家による差し金なのだろうか。
…………やめよう。某伯爵夫人のおかげで変な勘繰りをするようになってしまった。
隣の寝台に横たわっていたゲヴァルトが、背を向けたまま私の名前を呼んだ。
「あのほわほわ女は侯爵のお気に入りだ。信用しすぎるのは危険だぜ」
「ほわほわ女って、ホルンのこと?」
侯爵と距離が近い事実は認めなければならない。外部から派遣されて来た事務官を領主の裁量でギルドの長に任命するなんて異例の抜擢だ。しかし、一人の友人としてホルンを疑うのに同意したくない自分もいた。彼女がいたから、私は故郷へ帰る決断が出来たのだ。
夜が更けても、ホルンの顔が頭の中から消えなかった。
翌日、一階で朝食を取っていると、宿の主人が私を玄関に呼び出した。配達人が手紙を届けに来たという。外に出てみると、一人の少年が待っていた。
「ホルンさんからです。あなたにこの都市を隅々まで満喫してほしいみたいって」
渡されたのは小さな短文厚紙と、観光案内の冊子だ。小さな厚紙には可愛らしい文字で『モルゲンブルグへようこそ、ユーリエちゃん!』と書かれている。添えられてる絵はひどく奇怪な生物で、少年から犬のつもりらしいとの補足をもらった。
冊子を開こうとすると、配達人が手を重ねた。
「それは後でゆっくりご覧になってください」
鉄の防具や腰に巻かれた麻袋、簡素だが頑丈な作りの革靴は、標準的な勇者の装備だ。いや、今は戦士と表現するべきだろうか。若くしてこれだけ揃えられているのはギルドの支給がしっかりしているのか、それとも本人に金を工面する才能があるのか。
年齢は、最初に故郷を飛び出した頃の私と同じくらいに見える。くるくると巻かれた金髪と緑色の綺麗な瞳。鼻筋に散りばめられたそばかすに見覚えがある。
私が目を見開くと、少年は照れくさそうに頬を掻いた。
「お、お久しぶりです。お姉さん」
人は他者を通じて歳月を感じるらしい。なるほどこれは含蓄のある言葉だ。自然や出来事でなく、人間は人間が老いる様を見て時間の流れを感じられるというのはまさにその通りだ。特に年上や同年代よりも、小さな子供こそ成長速度に驚かされる。
「ゆう……戦士の道を選ぶとは過酷な選択をしたね、少年」
「そうでもありませんよ。孤児の人生としては上等です」
私に手を引かれて、瓦礫と化した都市を走っていた頃から逞しくなったものだ。背丈も、もうすぐ抜かされてしまいそうだった。声変わりもすっかり終えており、そばかすが無ければ分からなかったかもしれない。
少年は拳を握り締めて「過酷だとも思ってませんし」と付け加えた。
「お姉さんが助けてくれたから今の僕があります。強いとか弱いとか、全然関係なくて、誰かを助けようとするのはとても美しいことなんだって教えてもらったから……だから全然、過酷だとは思いません」
どう返事をしてよいか分からず、曖昧な表情で頷く。
まるで偉人のように語られているが、実態は無力な一般市民の独断専行だ。あの時、私は結局なに一つ成し遂げられていない。少年に最後まで寄り添えていたわけでも、多くの領民を救えたわけでもない。本当に凄いのは、悲劇から立ち上がった彼ら自身だ。
戦争は大衆の記憶に、生活に根付いてしまったけれども、焦土と化した大地からは新たな時代が芽吹こうとしている。この土地は領民たちの善性と努力によって必ずや復活を遂げるだろう。あの時、無名の少女が行動していなくとも、彼らの中に息づく信念が未来を築いていたに違いない。
そんな人々の人生に関われたことを、私は光栄に思う。
「モルゲンブルグの戦士ギルドはあなたの味方です。困ったことがあればご相談ください」
少年が去った後、朝食を済ませた私とゲヴァルトは部屋に戻った。今後の行動について認識を擦り合わせるためだった。
少年はああ言ってくれたが、誰が敵で誰が味方なのか、いまだ見えぬ全容を見極める必要がある。侯爵やホルンがどういう立場であれ、ここが領都である以上は領主の気持ち一つで身柄を拘束されてしまいかねない。話し合いの中で傭兵は「都市に入ってからずっと誰かに見られている気がする」なんておっかないことを口走っていた。用心しなければならないだろう。
観光案内の冊子を開く。都市の図面が載っており参考になると思ったからだ。期待通り名所を子細に明記した地図があったほかに、一枚の紙が挟まれていた。
それは劇場の入場券だった。
「……どう思う」
「ほわほわ女の罠かもしれないが、いやに回りくどいのが引っかかるな」
適当な理由で捕縛するなら、少年が訪ねてきた時点でやってるはずだ。
傭兵は「それでも俺は反対だ」と意見を表明した。行動が早すぎて、何らかの目的を果たすために機会を待っていたみたいだと彼は指摘する。ゲヴァルトは入場券の裏に隠された陰謀を懸念していた。
私はすでにカッセルハイムの令嬢にしてイガルギッター伯爵の奥方である人物がもたらす陰謀に巻き込まれている。ここにホルン、引いてはモルゲンブルグ侯爵の目論見が加われば、幼馴染の捜索はいよいよ混沌としてくるだろう。
寂れた闘技場を思い出した。戦争が終わり、貴族たちによる権力闘争が始まりつつある。時代という名の波は人々を飲み込み、暴力の渦へ巻き込んでいく。そして誰かが訳知り顔で『これが現実だ』などと偉そうに説明する。
────────────────────知ったことか。
思惑の中心には勇者がいる。最後に斃れるのが王国にせよ、貴族たちにせよ、誰より先に彼を見つけて主導権を握らねばならない。
「昨日の発言もこの厚紙も誘われているのは私だ。乗ってやろうじゃないか」
「罠に飛び込むのか」
「牽制だよゲヴァルト。イガル夫人の勢力は今や王国が無下にできないほど膨れ上がっている。逆に夫人は大貴族である侯爵を警戒しているよね。双方を牽制するためには、まず双方と関わりを持たないといけないのさ」
「………………お前、ムートに似てきたか?」
劇が催されるまでの数日間、私とゲヴァルトは魔術師の居所を探して回った。目立たないよう外套で身を隠していたものの、やはり成果は得られなかった。市場にいる農民も酒場に集う酔っ払いも例外なく、勇者の仲間がどこにいるか知らないと言う。中には、彼女が都市に残っていることすら初耳だという者もいた。
胸中に宿る不安──魔術師も失踪している可能性──を振り払いながら、私たちは当日を迎えた。
数年ぶりのモルゲンブルグ劇場はやはり壮観で、田舎者を圧倒させる巨大建築物だった。魔術の成果物であるとはいえ、どのようにして大理石の資材を運び込み、規則正しく組み立てたのか見当もつかない。
ゲヴァルトには用事を頼んでおり、一人でここまで来た。大衆の面前で荒事になる可能性は低いと想定しての判断だったが、果たしてどうだろうか。
手に握られた入場券を見ると『再来』という題名が書かれている。内容は知らないが、縁起のいい名前だと思った。もちろん、再びやって来るのが目当ての人物であればの話だが。
雑然とした広間を抜け、係員に券を提示すると二階の特別席へ案内される。廊下はしんとして職員以外誰もおらず、流れるまま個室に通された。
「こちら特別席になっておりますので、会話を楽しみながら劇をお楽しみいただけます」
扉が閉じると、廊下を照らす魔術光が遮断されて室内が薄暗くなる。完全な闇となるのを防いでいるのは、机に用意された蝋燭のおかげだった。次いで、こちらに背を向ける形で置かれた二つの椅子が目に入る。腰掛ければ舞台が見下ろせる角度の配置だ。
先客がいる。直感的に、片方がすでに埋まっていると思った。
右と左、どちらを選ぶべきか迷った末に埋もれていた過去を掘り返し、かつてと同じ方へと歩み寄るとやはりそこは空席だった。
「『再来』は我が生涯をかけるに値する傑作であり、建国神話に比肩する伝説であり、未完の大作である。幕が下りる時、貴様の目には何が映っているであろうな……勇者の使いよ」
巻き髭を撫でながら、作家先生が語り掛けてきた。
この劇がどのような物語なのか気にならないと言えば嘘になるが、それよりも彼がここにいる意味を掴もうとするので必死だった。私は動揺を悟られないように、深々と椅子に座り舞台へ目を向ける。
「あなたがこの劇の筋書を書かれたのですか。ヴィルヘルム様」
合図が鳴り響き、舞台袖から俳優たちが登場する。ついに劇が始まったのだ。
見知らぬ青年が森の中で愛と平和を高らかに謳い、危険に満ちた野心的な時代を終わらせると決意する場面が進行していく。青年は平民であり、勇者であり、英雄の役を背負っていた。
作家先生は息を漏らすような声量で「ふむ」と呟き、私以上に舞台を注視している。
「吾輩と、なじみ深い悪友による共同脚本だ。吾輩がここにいるのは悪友の代理である。代理! 全く役不足も良いところではないか」
王都へ出てきた青年は頼もしい戦士と出会い、友情を深めながら着々と成功を重ねていく。獰猛な魔獣や恐るべき魔人を打ち倒す雄姿は、かつての出来事を情緒たっぷりに描いていると言える。彼の胸中には弱い自分への歯がゆさと、理想を成し遂げる難しさへの苦悩があった。迷いの拭えない背中を、戦士が優しく押してやることで青年はついに自身を覆っていた殻を破る。
「多くの大衆は良き結末を求めるもの。我らも極力観客の意に沿ってやりたいが、一部のひねくれ者は悪しき結末をやたらと好みがちだ」
「時には、ひねくれ者の声が大きい場合もあるのでは?」
「今回が正にそうだ。悪友は……折り合いをつけようと努力した。大いなる悲劇ののちに一筋の光を差し込ませ、ひねくれた観客を満足させながら登場人物をも救済する。そのはずだった」
劇は中盤へと差し掛かっていた。王都を出た青年と戦士はモルゲンブルグへ到着し、新たなる生活を始める。だがこれは新しい試練の到来でもあった。
モルゲンブルグの悲劇は、勇者の持つ英雄性によって塗りつぶされている。領民たちの悲しみも善性も、舞台上に表出することはなかった。
「だが、突発的な不幸によって結末の書かれた原稿が失われてしまった。運び人の不手際だ。連中はどここかで落としたなどとぬかしたのよ。ひねくれ者は怒り狂い、大勢の仲間に探すよう命じ、奪われるのを恐れるあまり他に探す者がいれば殺せなどとのたまった」
青年は剣を振るい続けた。愛のため、平和のため、理想のために血を流した。彼の隣には戦士と、新しく仲間となった魔術師がいて、傷つき斃れそうになる青年を支え続けた。やがて勇者たちは諸悪の根源である魔王に見え、戦いに勝利する。そして多くの人々に称えられ、王の歓待を受け、そして、そして。
そして物語は終わる。あまりにも唐突に、呆気なく、情感を断ち切るように、幕は降ろされていった。観客たちは拍手しながらも、ある者は首を傾げ、ある者は釈然としない様子である。
この先は隠されているのではなく、存在しない。勇者の物語は魔王を倒した時点で終わっている。後に起きた出来事は、取るに足らない些事でしかない。人々の願いによって生まれた英雄は、願いを叶えた時点で用済みとなったのだ。そしていつしか新しい英雄が生まれ、再び願いを叶えるための物語が始まるのだろう。
これは確かに再来だ。王国の始まりから繰り返されて来た英雄の物語だ。
作家先生は始まった時と同じように髭を撫でつけながら「感想を言え」と催促してきた。いろいろな比喩や感想が浮かんでは消え、ぐるぐると回る。やがて、私はその全てを投げ捨てた。
「────────────────────────嫌いです」
出来過ぎている英雄の物語が、愛だの平和だのと綺麗ごとばかりに頭を悩ませる人間味のない主人公が嫌いだ。人々の願いを叶えたのは、こんな人物ではなかった。
「あなた様に招待されて、初めて演劇を見た時、私はその繊細さに驚きました。太古の昔に消えた人々の新鮮な感情がそこにあったのです。人が人を演じる、これこそが劇の真価だと実感しました。ですが今の劇は演者でさえも登場人物との向き合い方に苦心したように思えます。舞台上の出来事は面白みのない事実の列挙でしかありません。こんなもの、歴史書を読めば事足りるのではないでしょうか?」
ヴィルヘルムは歯をむき出しにして笑みを浮かべる。そこにあるのは喜びにも怒りにも見えた。私の率直な感想に彼は膝を叩いた。
「即ち未完なのだ。この劇は重要な役が欠けておる。今のままでは小綺麗な英雄譚でしかない。完成させるには消えた結末を誰かが拾いに行かねばならん……多くの観客を見てみよ! 下手くそな締めに不満を抱いているのは明らかだ。これが何度も繰り返されれば、やがて怒りへと変わるであろうな」
作家先生の雑談はある興味深い事実を示していた。
王の命令によって勇者を追放しなければならなかったジギスムントは、当初、何らかの形で救済策を用意していたのだろう。たとえばどこかに置き去りにして、後でこっそりと連れて帰るといった策だ。
しかし、蓋を開けてみればフランツを運んでいった者たちはどこへ置いてきたか分からないと報告した。王は激怒し、王国軍を派遣して捜索させている。つまり新聞の内容は本当で、侯爵や王もフランツの行方を本当に把握していないのだ。
「面白いお話でした。しかしなぜ私は呼び出されたのですか?」
「これは単なる愚痴だ。即ち、ある種の意思表示でもある。同じ探し物をしている者同士、共有できる悩みもあるだろう」
侯爵は敵じゃない。そして味方でもない。作家先生の説明は筋が通っており、私たちを安心させようとしているように感じるが、同時に警告の意味も持ち合わせている。王はまだ睨みを利かせており、不用意に動けば命取りになる。
用心したいのは山々だが、軍の派遣が本当なら残された時間は多くないかもしれない。もしフランツが捕まれば、その後の処遇は火を見るより明らかだ。
「なるほど。それで、落とし物はどちらに?」
「『旧支配地』だ。そこから先は分からん。」
「ありがとうございます…………どうして、あなたたちは劇の完成を求めるのですか」
「嘆かわしい愚門だな。良いか、作家は大衆の目であるべきである。世情を映し、願望を映し、人間性を映すのだ。我々が英雄を作るのは、大衆が英雄を求めているからに過ぎん。つまり…………必要だから、完成させるのだ」
礼を述べて席を立つ。劇はすでに終わっており、留まる理由はどこに無い。
ヴィルヘルムは相変わらず舞台を凝視している。彼にとって、暗闇の中に浮かび上がる四角い場所こそが世界の全てなのだろうと思った。あらゆる出来事を劇の形で解釈し、落とし込み、昇華することを命題として生きていくのだろう。
部屋を出る前に、私は歩みを止めた。
「私たちも探しものがあってここまで来ました。でもそれは原稿ではなく人間です。これから先、何を見つけたとしても、あなたと悪友様の期待には応えられないと思います」
深々と頭を下げるも、後ろから言葉が返ってくることは無かった。短く鼻を鳴らす音が聞こえ、ゆっくり扉が閉じられると、後には静寂が残された。
勇者とは何のために、誰のために存在するべきなのだろうか。偶像としての英雄。大衆の願望器。人々を正す倫理の象徴。そこに個の人格は存在しえない。
劇場を出て、近くの広場へと向かう。都市でもっとも大きなそこは、いつも多くの人で賑わっていた場所だ。開けた場所であるおかげで日当たりも良く、秋ごろでも天候次第で昼間はぽかぽかと暖かい。ゲヴァルトとの待ち合わせに指定していた場所だ。街道では小さな子供が親をいたわるように寄り添っている。川をまたぐ橋の上で貴族と商人が談笑している。ギルドの戦士だろうか、鎖帷子を着込んだ人間が旅人に都市を案内している。
広場に辿り着き、傭兵を待つために適当な長椅子を探す。空いているところを見つけたが、近くの地面にうずくまる人影があった。もぞもぞと動いているあたり、死んではいないようだが、周囲の人間も異質に思ったのだろう。どこからか守衛が駆けつけて、無理やり起こそうとしていた。
「キュナスさん、またこんなところで寝て……いい加減にしてくださいよ!」
────────────────────へ?
ちょっと待て、なんて言った?
守衛が口にしたのは勇者の仲間であり、優秀な魔術師であり、なにより私の大切な友達の名前ではなかったか?
いやいや、そんな、だって彼女もまた魔王を倒した英雄だ。ありえない、こんなところで、まるで浮浪者のような。
「あまり耳元で叫ばないで……飲み過ぎて頭が痛いの……」
女性は胸に抱えていたとんがり帽子を目深に被り、おぼつかない足取りで歩き出した。
彼女だ………………。
守衛のもとに近寄り「すみません」と話しかける。
「彼女の知り合いなんですが、引き取ってもよろしいでしょうか」
「あら……おかしいわ、まだ酔いが醒めてないのかしら。ユーリエがいるなんて……」
訝し気だった守衛は、キュナスが私を知り合いであると認めたおかげで素直に引き渡してくれた。広場の長椅子に腰かけて、持っていた水筒を手渡す。
最初は酒の見せる夢だと思い込んでいたのだろう。魔術師は私の声掛けに対して真面目に取り合おうとしなかったが、質疑応答を重ねていくうちにみるみる顔面が青ざめていった。
居所が見つからないのも当然だった。生活費の足しにするため、半年以上前に売り払ってしまったのだという。戦士ギルドから援助の申し出があったものの、それも断ってしまったらしい。
「なんか、やる気がおきなくて…………」
「仕事の?」
「仕事も、魔術の探求も、全部……魔王を倒してやりきっちゃったっていうか……」
「私よりひどいじゃないか」
戦争が終わった後、彼女は領主から自宅待機を命ぜられた。館の近くには護衛の名目で兵士が居座り、外出も許可を得た上で勝手に付いてくる始末だったという。待機期間中はなにもやることがなく、蔵書を片手に酒を飲む生活を送っていたようだが、次第に酒器に注がれる量が増えていった。程無くして兵士が去り、彼女自身も自由の身となったものの、そのころには無気力な酔っ払いが完成していた。
両親やヨハンがいなければ、私もこうなっていたかもしれない。
「なによ、ひどいのはそっちじゃない。戻ってきた時、貴女がいないと知ってどれだけ悲しかったか分かる?」
「それは…………ごめん………………」
「ゲヴァルトは伯爵様に連れていかれちゃうし、フランツ君も消えちゃった。あたし、また独りになっちゃったって……」
言葉尻が霧散する。さめざめと泣きだしてしまった魔術師の背中をさすってやろうか迷ったけど、結局やめた。小さな頃、肩を抱いてやるとか、頭を撫でてやるとか、母からそういった慰めをたくさんしてもらったけど、私が上手にできるとは思えなかった。
拳を握ると、指先がひんやりと冷たい。おそらく彼女の指も同じくらい冷えているだろう。
「あー、その、今はどこに住んでるのかな」
「人の家に泊めてもらったり、ギルドの宿直室を借してもらったりしてる……」
隣をちらっと見ると、キュナスはうなだれている。
フランツが失踪したことを話すと「知ってる」という短い回答が返ってきた。
「兵士たちがいなくなってから、侯爵様に掛け合ったりもしたわ。けれど『お前は動くな、まだ待て』としか言われなくて……はは、魔術の才能なんて、何のためにあるんでしょうね……」
悲観的な精神状態に突入したキュナスはヤバい。おおよそ自己肯定感という概念が消失し、とにかく酒に走り、自暴自棄になって私物を見境なく捨て始める。手元に杖が無かったので、またしても金に換えてしまったのかと心配したが、盗まれないようその辺の木に立てかけておいたとのことらしく、よろよろと木陰まで近づくと、見慣れたものを取り出していた。それで防犯になっているとは思えないが、とにかく安心だ。
彼女の手を取ると、やっぱり指先は芯から冷えていて、こちらまで震えそうになった。
「キュナス、君にはまだ出来ることがある。話を聞いてくれるかな」
────
数日後、私たちは宿屋の食堂に集まっていた。他に利用者は誰もおらず、宿の主人である老婆さえ、昼寝のために奥へ引っ込んでいた。
長机には大量の紙が並べられている。あちこちからかき集めた資料だ。
ゲヴァルトが一枚の用紙を手に取った。都市の出入者記録簿である。領都襲撃の後、警備強化の名目で導入されたもので、門の守衛たちが目視で書き留めた情報を集約してある。本来であれば外部の人間が閲覧するのは非常に困難だが、そこはゲヴァルトの知名度が大いに役立った。私が劇場に行っている間、彼に記録簿の写しをもらうようお願いしていたのだ。
「フランツが都市を抜けたのはこの日だと思う」
「男、三十代くらい、商人らしい服装、徒歩。男、年齢不詳、農民らしい服装、徒歩。ほか諸々……こんなのでどうしてフランツたちだと分かる」
「戦時と違って人の出入りが減少している。業者でもないのに複数人で都市を出るのは珍しいんだ」
小さい頃、故郷の村でも時折訪れる旅人を泊めたりしていたが、帰ってきた時はそういったことも全くなくなっていた。領をまたいで活躍する勇者がいなくなった今、都市間を移動するのは専ら商人たちで、多くは馬車のような移動手段を持っている。他にありえるとすれば巡礼者ぐらいなものだが、彼らは服装で判別ができる。
当該の日付では合計六人が夜間に都市を出たとされており、これがいかにも怪しかった。門の詰め所で管理されている記録簿では削除されていたが、ギルドで保管してある写本にはばっちり残っている。念のため双方から写しをもらっておいて正解だった。
どういった人間がどういう目的で出入りする、という考え方は砦にいたころ身に着けたものだ。
「新聞に載っている日付から王都とモルゲンブルグの移動時間分を差し引くと、おそらくフランツを置いてきた連中が領都に帰ってきた日になる。都市を出てから戻ってきた日数を踏まえれば、大まかな移動距離が分かるはずだ」
残念ながらこれは正確な算出とはいかない。ほとんど希望的観測といって差し支えないだろう。おまけに連中は置いてきた場所をきちんと説明していないというから、しっかりと割り出すのは不可能に近い。それでも、何か目安があった方が当てもなく彷徨うよりマシだ。
地図の写本を広げ、領都を丸で囲む。その近くに出入でかかったであろう日数を書き込んだ。
「移動したのは男の集団だ、移動距離も俺たちより長いと考えていいだろうな」
「ふむ……なら範囲はとりあえずこのぐらいとしておこうか」
都市を中心に大きな円を描く。線ぎりぎりの部分こそフランツがいるかもしれない領域だ。歯がゆいことに、領の外側には長く伸びる川や山脈を除き何も記されていない。『旧支配地』を越えた先は王国にとって久しく足を踏み入れていない場所であり、強大な術で周辺地形を要塞に作り変えて以降、古い資料は参考にならなくなってしまった。人の生活できる環境ではない、魔王の住んでいた忌み地である。
これに加えて王国軍が周辺に展開している。領の兵士たちと違って、各地の人材から成る正規の軍隊だ。見つかれば命はない。
「仮に騎士たちを迂回出来たとしても、旧支配地を抜け出せないかもしれない。突入した時のことを覚えてるかな?」
「あくまで王城までの道のりだけだ。そこから先は……」
「覚えてないわ。あそこはよくわからない呪いが施されているせいで、魔術もうまく作用しないの」
髪と同じくらい顔を真っ赤にしながら、キュナスが酒瓶を片手に暗い表情で呟く。彼女の探知魔術も当てにならないと考えると今の状況で向かうのは無謀であるように思えた。
必要なのは土地勘だ。旧支配地の攻略に携わっていた人や、作戦立案に使用されていた資料が領に残されていると良かったのだが、全て王国軍の影響下にある。都合よく協力してくれる人材などいるわけもなく、手詰まりの感があった。
「魔王以外で、あの土地を完璧に把握している存在はいないんじゃないかしら」
机に突っ伏していた魔術師は、上体を起こすと酒を呷いだ。見かねた傭兵が瓶を取り上げると、頬を膨らませながらそっぽを向いてしまった。
全貌を把握していた魔王はとうに斃されてしまった。山間にある呪われた大地は人間を拒み、今もなお堅牢不変の天然要塞として君臨している。これから時間をかけて王宮の魔術師たちが研究を重ねていけばやがてその門戸を開くやもしれないが、それを待ってはいられない。
だが、本当にいないのだろうか。あそこを知る者は一人残らずいなくなってしまったのだろうか。
「…………いや、旧支配地を案内できる奴が、まだ王国にいる」
翌日、戦士ギルドへ顔を出した。笑顔で歓迎してくれたホルンは私のとある頼みに難色を示したが、最終的に首を縦に振ってくれた。彼女が城の内部に影響力を有していたのは幸運だった。侯爵から信頼されているだけあって、いろいろと融通を利かせてくれた。
無謀な挑戦だ。それでもやってみる価値はあるだろう。
燭台の上で橙色の火が揺れている。窓の外はすっかり暗くなっており、領都を一望することは出来ない。ホルンの後に続きながら、彼女が持つ鍵束のジャラジャラと鳴る音を聞いていた。物音がする度にキュナスが私の肩を掴みながら「ひいっ」とか「はあ」とか呻いているが、まあ、気にしないでおく。最後尾のゲヴァルトが周囲に気を配ってくれているから、過剰な心配はいらないのだ。
領運営の中心。モルゲンブルグ城の内部に、私たちは忍び込んでいた。
忍び込む、というと聞こえの悪い感じがするけど、城の鍵を持っていたホルンの案内で来訪しているだけだ。観光と考えれば特段怪しい行動ではない。ただ一点、正規の手続きを踏んでいないという部分に目を瞑ればだが。
「お前、どうして俺たちに協力する」
声量を落としながら傭兵は「いい加減、腹を割って話してみろよ」とホルンに問いかける。彼の喋り方は普段よりも強張っており、温和なギルド長への警戒心からくるものである。最初の接触から一貫して、ゲヴァルトは彼女への疑いを露にしていた。
ホルンの背中は蝋燭の火と同じように揺れるばかりである。侯爵らが表立って協力してくれない関係上、事態が露呈したら彼女も処分を免れない。ここまでしてくれる理由は、私も知りたいところではあった。
「うーん、大した理由はないのよー。魔術を学んだのも、王立学校に入ったのも、戦争の最前線を配属希望先に選んだのも、ぜーんぶ同じ理由。ギルドの運営を任せられたときは気分が乗らなかったけど、この生活も存外に悪くなかったしねー」
階を降りていくうちに、ふかふかの絨毯や硝子細工の照明器具、壁を縁取る凝った意匠は見られなくなり、武骨な石造りの内装が姿を現していく。権威を誇るという目的から外れ、砦としての本分が露呈していく。豪華な彩りを添えたとしても本来の用途、つまり戦争と居住のためにあることからは離れられないのだ。
「できるから、やる。やれることは全部やるのー。そのほうが人生楽しいでしょ?」
長い螺旋階段を下っていくと、そこにあったのは城の地下牢獄だった。私たちは物陰に隠れて、ホルンが見張りの兵士を余所へやるのを待つ。差し入れを手渡しながら、ギルドの仕事とかなんとか説明していると、兵士は牢獄を出ていった。
足音が遠ざかるのを聞いてから、彼女は「せいぜい一時間くらいが限度ね」とこちらに声をかける。それが兵士を追い出しておける精一杯の時間だ。彼女曰く城にはまだ王の部下たちが残っており、彼らに勘付かれればまずいとのことだった。
深く息を吸って、静かに吐き出す。ここからが本番だ。
地図と羽筆を取り出して最奥へと進むと、暗闇に包まれた牢がぽつんとある。
王国の黎明期、城の牢獄には様々な用途があった。貴族の裏切り者を捕らえたり、連れ去ってきた平民を閉じ込めたり。最も多かったのが、捕虜の生活空間として使用する事例だ。
生唾を飲み下し、私は牢にいる虜囚の名前を呼んだ。
「ネロー、話があって来た」




