第二十八話 その時こそが全ての始まりよ
父は人望と呼べるものを持っていなかった。あの人の取柄は真面目さだけであり、村長に選ばれたのも生来の性分が理由であると母は言っていた。狭く小さな村の中にあって、彼の頑固な正しさはいかんなく発揮され、そこには奇妙な信用が生まれていた。村人たちにとって父は統治者でなく、統治に必要な法そのものだった。
だから父は正しい。あの人はいつも正論であり、法則であり、道理なのだ。
「話があるんだけど」
そう切り出すと、父は母を呼びつけた。机を挟み、私は横並びで座る両親と相対する。娘に生じた変化を察知したのだろうか、彼はいつにも増して陰険な表情で、こちらの様子から何かをくみ取ろうとしている。
どこから説明するべきか迷った。全ての事柄は地続きで、母と一緒に初めて本を読んだときまで遡れてしまえる。だけど、いくら言葉を尽くしても彼は納得しないだろうと思ったから、極めて簡潔に、自分のこれからを伝えることにした。
「…………フランツを探しに行く」
沈黙。
母がちらりと視線を送るも、父の眼差しは絶えずこちらに向けられていた。彼は無言だが、瞳には一つの疑問が浮かんでいた。「どうやって?」という疑問が。眉間に寄せられた皺ときつく結ばれた唇は父の怒りを物語っている。きっと、がっかりしているのだ。
ふいに父の眼差しから力が抜ける。無精ひげの生えた顎をさすり、ささやかな間を持たせた。父がこんなにも迷っているのを見るのは初めてだ。もしかすると彼が量ろうとしているのは娘の内面ではなく、自身の性分なのかもしれなかった。じれったくなった母に肘でつつかれて、ようやく父は口を開いた。
「私からすれば、お前はまだまだ世間知らずの甘ったれた子供だ。目論見が成功するなんて思えないし、応援をしようとも思えない…………だが、行くんだろう」
「……うん」
「お前をあの夫婦の家に同行させたのは、そうだな、葬式のつもりだった。お前たちの区切りになるよう願っていたのと、遠方の土地で行方をくらました青年への同情が、私にそのような考えを植え付けたのだろう」
やはり父は正しい。私は世間なんてものをろくに知らないし、ずっと人の優しさに甘えてきた人間である。現実的に考えて、こんな奴が消えた勇者を探し出すなんてできっこない。
それでも行くのだ。置き去りにしてしまった幼馴染を、過去と今を携えて探しに行くのだ。
「ハンスとゲルダには悪いが、フランツを連れてこれるとは思ってない。せいぜい失敗して、大泣きしながら帰ってこい」
「…………止めないの?」
「子供が進む道を見つけたなら、送り出してやるのが親の役目だ。説教は戻って来た時にすればいい」
父は奥の部屋を指さし「前にお前が持って来た金貨はそのままにしてある」と言った。村のために使ってくれと丸々渡したのだが、使わずに取って置いたらしい。
「あーあ、やっぱり行っちゃうのね。息子は全然戻ってこないし、もし死んじゃってもこっちで葬式すらさせてもらえないなんて、ほんっとうにひどい子供たち」
咳払いする父を気にも留めず、母が軽やかに笑う。私が謝ろうとすると、彼女は手で制した。
「いらない。生きて帰ってくれたら、あんたの親不孝ぶりは全部ちゃらにしてあげる」
いたずらっぽい笑みを浮かべ、母は片目を瞑って見せる。
両親は、かつて送り出してくれた頃と変わらない調子で、私の決意を受け入れてくれた。
それからはあっという間だった。旅支度と言っても、大したものは持って行かない。フランツの足跡を辿るためにモルゲンブルグを目指すが、道中は基本的に馬車の移動になるだろうから、必然的に荷物を減らさないといけなかった。鞄は大して入らないから現地調達が基本になる。よく村へやって来る商人に話をつけて、まず王都まで送ってもらうようお願いした。以前は心強い同行者がいたけれど、今回は一人だ。
出立の日、両親に「いってらっしゃい」と言われて家を出る。父は見送りなど必要ないと言って憚らなかったが、母が「あの人は寂しい顔を見せたくないのよ」とこっそり教えてくれた。代わりにゲルダおばさんとヨハンがやってきて、焼き立てのパンをくれた。
馬車から身を乗り出して、小さな点みたいになった二人へ手を振り続ける。
狭い故郷が嫌いだった。狭い故郷に満足している人々が嫌いだった。なにより、故郷そのものである父が大嫌いだった。
戻ってきたとき、故郷はやはり小さくて窮屈だった。嫌いだったところはいつまでも変わっていなかったけれど、同じくらいの安心感があって、今はほんのちょっぴり好きになれそうだった。変わったのは、他でもない私自身だったのだ。
いってきます。どうか変わらずにいてください。帰ってきたときにまた少し、あなたのことが好きになれると思うから。
────
久しぶりの王都は戦勝の余韻もなく、忙しそうな勤め人達が行き交う雑多な雰囲気をすっかり取り戻していた。
民草を見下ろすように、国王の像が立っている。厳格な表情は戦勝国の指導者らしい威厳で溢れていたが、実態は大したことのない、落ち着きのない振る舞いと引き攣った愛想笑いが特徴の小物だ。フランツの失踪に関わっているにせよ、関わっていないにせよ、嘘っぱちの友情を騙って同情と人気を得ようだなんていけ好かない。
他の人にばれないよう小さく舌を突き出す。王はともかく、この像は評価できる。人込みのすごい王都にあってひときわ大きく輝いているのだ。丁度いい目印となる。
通りを横切ると、探していた建物にようやくたどり着いた。毎日のように見ていた看板は下げられており、中から男たちの喧噪は聞こえてこない。地味だった外観もさらに寂れてしまったように感じるのは懐かしい気持ちのせいだろうか。
扉を押し開けると、かびの臭いが鼻をつく。埃の舞う部屋の奥、受付窓口だった場所に一人の男性がいた。よく顔を合わせていた綺麗なお姉さんはどこで何をしているのだろう。首元のあたりで切り揃えた髪を撫でながら、昔日に思いを馳せる。
「こんにちはー……」
分厚い外套を纏う黒髪の男性はこちらを見て、怪訝そうな様子を隠そうともしない。
「お、お久しぶりです、ペーターさん。あの、ユーリエです」
かつて私達の経歴検査をしてくれた勇者ギルド専任魔術師は片眉を上げた。驚いているのか、誰だか分かっていないのか、男の反応からは内心が読めない。
戦争の終結で存在意義を失った勇者ギルドは、活動規模を急速に縮小していた。依頼や勇者職の募集は取りやめられ、貴族と関わりを持てなかった勇者は身分をはく奪されて故郷へと帰っていった。地方ギルドの大半は国からの支援が打ち切られたために撤退したが、一部は名前ばかり残している。
王都の勇者ギルドも、実質的に活動を停止していた。残務処理の都合で魔術師が一人で建物に残っているが、ゆくゆくは完全に事業を止めるらしいと聞いていた。
「いやあ、まさかあの少女とこうして再会できるとは。縁というのは摩訶不思議ですね」
幸いにも彼は冴えない田舎者の顔を覚えていてくれた。放置されていた木造り椅子の汚れを払い、私に座るよう促す。使われていなかったせいか、ぎしりと軋んだ。
よく利用していた大きな掲示板はすでに撤去されていた。早朝にギルドを訪問しては、フランツの依頼歴を更新するため掲示板の前に立っていたものだが。ペーターも当時のことは記憶しており、私の知らないギルドの裏話を聞かせてくれた。
「これは失敬……年を取るとどうにも昔話が長くなって行けません。本日はどういった要件で来られたのですか?」
「実はとある事情で長旅に出ることになりまして、道中も危険ですから護衛を探していたんです。それでここを出入りしていると耳にしたんですよ。凄腕の傭兵が」
都市には人が溢れており、こんなところで特定個人を探すのは容易ではないと思える。しかし、裏を返せば至るところに人の目があり、酒場や娼館などを訪ねれば存外に容易く居場所が判明する。
ペーターは意味深に「凄腕、ですか」と呟き、腕を前に組んだ。
「ううむ、そんな傭兵は知りませんね」
「え、あれ、おかしいな。確かにここで会えるって……」
「うちに来るのは、斧を背負っている酒と女が好きなろくでなしだけです」
ああ、その人だ。出会ってきた人たちのなかで最も腕の立つろくでなしを私は探していた。正直、彼が王都にいる可能性は半々ぐらいに考えていた。もともと傭兵とは根なし草である。他の都市に体を移していても不思議はなかった。
期待とは裏腹に、黒髪の魔術師は手元の暦表に視線を走らせると、次いで肩を竦めた。
「とはいえ接触は難しいでしょう。今週は雇い主の屋敷にいますから」
新しい雇い主がいる可能性は考えていた。そもそも金を積んだとて、傭兵自身が旅の誘いに応じるとも限らない。せめて最後にフランツと一緒にいた時の話だけでも聞きたかった。本音を言うと、傭兵と接触したいのは護衛を頼むという実利的な理由より、私なりにけじめをつけたいからだった。
傭兵を雇っている人物について尋ねると、ペーターはある名前を口にした。社交界の華にして幅広い人脈を持つその人物を私もよく知っている。彼女は、貴族たちの間でイガル夫人の愛称で有名だった。夫人の屋敷がある場所は今でもしっかり記憶している。事前の連絡もなしに会ってくれるとは思えないが、手紙を出せば反応をくれるかもしれなかった。
逸る気持ちで席を立とうとする私に、魔術師は神妙な面持ちで声をかけた。
「最後に質問を。ユーリエさんから見て、彼との旅路はいかがでしたか?」
良かったという答えが喉元までせりあがり、急いで吞み込む。なんといってもあの傭兵だ。酔っぱらっては性的な冗談を飛ばして喜ぶおっさんとの旅が、果たして『良かった』の一言で済ませていいだろうか。
よせと忠告しているのに娼館通いを控えず、多少の傷はつばをつけておけば治るなんて言って気にせず、こちらの失敗を嬉々として揶揄ってくる奴だ。幼馴染の男の子とは全然違う性格で、彼の振る舞いでどれだけ額に青筋を立てたか覚えてもいない。でも、弟子からは不思議と慕われていた。
荒っぽいくせに、こちらが落ち込んでいると察し良く気遣ってくれた。みんなが慌てている中、彼だけは落ち着いていた。
「……悪くなかった、と思いますよ」
だからこそ、けじめをつけないといけない。
私の気持ちを伝えて、謝らないといけないのだ。願わくばまた共に、という思いはあるが、まず会って話さないことには始まらない。
「そういえば、ペーターさんは彼とどういう関係なんですか」
「大したもんじゃありません。昔、少しのあいだ行動を共にしただけです」
まだまだ謎の多い、傭兵が持つ過去の断片がちらりと垣間見える。
深堀したい気持ちもあったが、今はその時ではない。ギルドを後にしようと出入り口に近づくと、扉が勢いよく開かれた。突然の出来事に思わず身構える。やって来たのは、身なりの良い男性だった。
「ペーター。我らが『剛腕』を迎えに来たのだが、いるかね!」
「これはこれは伯爵様。彼ならもう奥様のいるお屋敷に出向かれたと思われますが」
「なにっ。ムートめ、愛しの旦那を差し置いて男を入れるとはなんて奴だ」
「ご安心ください。彼は母親の胎に甲斐性を忘れてきた骨無し野郎ですから、奥様の愛が向けられるなど寸分たりともありえません」
私は来訪者の顔を知っていた。
イガルギッター伯アナスタシウス。一時的にモルゲンブルグ方面軍の総指揮官となっていた貴族だ。魔王の奇襲で軍が総崩れとなった後、兵を率いてハイムガルト砦まで撤退してきた男である。あの時、取り乱した私は彼や傭兵に対して…………。
全身を悪寒が駆け抜け、咄嗟に鞄で顔を隠した。よく覚えていないが役立たずとかなんとか罵倒した気がする。平民同士ならごめんなさいで終わる余地があるのだが、これはやばい。もしあちらが私を記憶していたら、今度こそ首を刎ねられるかもしれない。いや、絶対に刎ねられる。あの時は状況が混乱していて、幸運にも見過ごしてもらったに違いないのだから。
だが待てよ。伯爵様は傭兵の名前を口にして、魔術師は傭兵が奥様の家にいると言った。この場をやり過ごしたとしても、伯爵様に身分を明かすのは避けられない。えっと、それはつまり彼がイガル夫人の旦那ってことで。
もしかして、詰んだ?
「加えて、ちょうどいいところに来てくださいました。彼女はあの男の客人でございます。どうかお屋敷に招いてはいただけないでしょうか」
「これは奇遇だ。ご婦人、名前をお聞きしても?」
大変だ。混乱で思考も纏まっていないのに、恐ろしい速度で逃げ道を塞がれた。
覗き込もうとしてくるアナスタシウスを鞄で防ぐ。彼の振る舞いは貴族と言うより、無邪気な子供みたいだった。
「な、名乗りを上げるほどの者ではございませんので……」
「貴族の質問に答えないとは無礼千万、吊るし首ですよ」
「おお、そうなのか?」
「ユーリエです………………………………………………」
おずおずと手を降ろすも、伯爵は特段の反応を示さなかった。私の名前を小さく連呼しているあたり、記憶を漁っているようだが幸運にも無礼を働いた女のことは毛程も記憶にないらしい。
装飾のない簡素な服に、頑丈ながら地味な上着。明らかに農民と分かる恰好にもかかわらず、アナスタシウスは最低限の礼節を持って接してくれた。友人の知り合いもまた友人という対人観の持ち主らしく、気さくな態度で屋敷への訪問を快諾した。
仕事用の笑顔を浮かべるペーターに礼を述べ、私と伯爵はギルドを後にする。本当はしっかりと道のりを覚えていたけど、鷹揚な態度で道中を行くアナスタシウスに歩調を合わせた。好奇心丸出しで浴びせられた質問の数々にしどろもどろになるも、質問者はなにやら勝手に納得していた。
魔術師の言葉を借りるが、人の縁とは摩訶不思議なものだ。かのイガルギッター領を治める若き領主と傭兵の雇い主が夫婦であるとは考えもしなかった。夫人の家族関係を追及する機会はいくらでもあったが、彼女の有無を言わせぬ雰囲気が詮索の気概を無意識に削いでいたのかもしれない。
というか、どうして領主ともあろう人が平民と肩を並べて歩いているのだろうか。しかも王都で。
「ムート、愛しの妻よ。アナスタシウスがそなたのために馳せ参じたぞ!」
半ば突き破りそうな勢いで館の主人が扉を開ける。使用人がせわしなく出迎え、伯爵は片手をあげて挨拶を済ませた。
いかにも家政婦といった風貌の使用人は主人に同行してきた平民を露骨に訝しんだ。軽く会釈をするも、釘を刺すような一瞥をよこすだけだった。
「ムート、おおムートよ。主人の頬におつかれさまの口づけをしてくれまいか」
「あら、お疲れでしたら寝室までご案内しましょうか」
声のした方向を向くと、ある部屋の入り口にイガル夫人が寄りかかっていた。波打つ髪を揺らしながら滑らかな動作で伯爵に近づき、その頬に優しく唇を当てた。続いて横に意識を向け、俯いていた私に初めて気付いたとでも言いたげに「あら」と呟いた。
「お客様ね。申し訳ないけれど、あちらで待っていてくださる?」
初対面のような言動に居心地の悪さが増す。悪い人ではないのはとっくに知っているが、悪だくみをする人種であるのもうっすらと察していた。
示されたのは先程夫人が入り口で寄りかかっていた部屋だ。客室、というのだろうか。貴族の屋敷自体ほとんど入った経験がない。モルゲンブルグにいた頃に仕事の打ち合わせで招待されたぐらいだ。かつては彼らの領域で守るべき礼儀作法全般を頭に叩き込んでいたが、すっかり抜け落ちてしまった。
いいさ。以前と違って、ただの客人としてここに来たのだ。いかにも田舎者らしい面構えでふんぞり返ってやろう。そんな心構えで客室に入ると、中には先客がいた。
大柄な体格を包む黒っぽい服が金髪を目立たせている。長年の習慣によって丸まった背中は、さんざん見ていたものだ。珍しく鎧を脱いでいるのは、夫人の指示によるものだろうか。彼は夫人のものでない足音を聞きつけて機敏に振り返った。
まさか、こんなに早く再会できるなんて。
「お前、なんで…………」
「久しぶりだね、ゲヴァルト」
かつて共に行動した男がそこにいた。
元勇者だった傭兵。『剛腕』の異名を持つ戦士。経験豊富な斧使い。もしくは、飲んだくれのおっさん。方々を駆けずり回り、魔王の攻撃で行方不明となった勇者フランツとジギスムント侯爵を探し出した影の英雄だ。
彼は瞬時に無表情を繕うと、こちらに背を向ける。
「こりゃあ悪夢か。平民風情がずかずかと貴族の屋敷に上がり込んでるなんて信じられねえな」
「君に会うためここへ来た。アナスタシウス様に招いてもらったんだ」
「解説ごくろうさん。これで用事は終わったわけだ。さっさと帰れ」
覚悟していたが、やはり取り付く島もない。対話を続ける意思は微塵も感じられず、壁に掛けられた絵画を黙って眺めている。描かれている人物は、アナスタシウス伯爵によく似ていたが、刻まれた皺は深く、より世界について知悉しているような印象を受けた。
「…………ごめん。この通りだ。ずっと謝りたかった」
頭を下げる。
彼が満足するまで、ずっとそうしているつもりだった。
誠意を示せば何もかも元通り、なんて妄想を抱いているわけじゃない。私たちの間に空いてしまった空疎な隙間を誠意で埋めようとしているに過ぎないのだ。
「ツラを上げろ。謝る相手が違うんだよ間抜け」
「でも……」
「お前が帰郷したと伝えたら、あいつは少し驚いて、それから微笑みやがった」
ゲヴァルトが苦悶の表情を浮かべている。彼の語るフランツの姿よりも、ずっと苦しんでいるように見えた。
これこそが、私のしでかした行いの代価なのだろうと思う。
「魔王を倒した時も、モルゲンブルグに帰った時も、国王に表彰された時も、あいつは自分を褒めそやす連中の中に誰かの影を見つけようとしていた。本当に求めていた言葉も、かけてほしかった人間もおらず、その果てに……消えちまった。教えてくれ勇者の代理人さんよ、こんなのが勇者フランツに相応しい末路だったのか?」
この一年、新聞や人づての噂話で勇者の活躍を追っていた。語られる彼は聡明で、力強く、たくましかった。こうしてゲヴァルトが話してくれなければ、本当のフランツを知るなんて出来なかっただろう。
相応しいわけがない。このまま終わって良いはずがない。
あんなに頑張った人間の終わりが、呆気のない消失だなんてありえない。
「だから私はフランツを探しに行く。何年かかろうとも見つけ出し、連れて帰る」
「砦から逃げたお前に出来るのかよ」
「逃げたからこそ、だよ。この後悔があるから今の私はどこまでも行けるんだ」
あの時、帰郷を選んでいなければどうなっていただろう。苦痛に耐えて勇者と仲間たちを待っていたら、もっとマシな今になっていただろうか。
それはきっと違う。零したものの見当もつかず、なんとなく幼馴染という立ち位置で居場所を得たつもりになってた過去の自分が、フランツの失踪に対して何か行動できたとは思えない。
他の誰でもない自分の価値によって、私は彼を探すのだ。
だから、その。
「えっと、ゲヴァルト。わ、わた、私と、その、いっしょに────」
「雇い主の前で勧誘とはすばらしい度胸ね」
言葉にならない悲鳴が口から漏れた。
いつの間にか戻ってきていたイガル夫人は客室のきらびやかな椅子に腰かけると、長い衣服の袖も意に介さず、軽やかな動作でこちらに体を向ける。気配はまるで無く、幽霊か幻のようにさえ思えた。
「それに勇者フランツを探す、ですって? 国王が追放を命じたかの英雄を?」
ゲヴァルトが「おい、よせ」と咎めるも、イガル夫人は肩を竦ませるのみだ。
彼女はとんでもないことをさらっと言ってのけた。フランツの失踪に国王が関わっていると断言したのだ。王都においてこのような憶測を噂することすら危ういというのに、どこから情報を得たのだろうか。
そもそも王の命令で勇者が追放されたなら、私のしようとしていることは国家への叛逆になるのかもしれない。
夫人のいやらしい笑みが目に付く。試されている────直感がそう告げた。
「新聞を読みました。みんな彼の失踪を悲しんでいます。国王陛下でさえも『再び彼を抱きしめたい』と語っておられました。なら、誰かが探すべきです」
脳みその、しばらく使用していなかった部分が軋みながらも動き始めた。使い方さえ忘れてしまっているのではないかと危惧したが、人は存外に昔のことを覚えているらしい。
「表向き、ジギスムント侯爵様が頑張ってるみたいだけど?」
「私が行動しない理由にはなりません」
陰謀。思惑。企み。
貴族たちの世界へ足を踏み入れると、あらゆる人々の欲望が泥濘となって淀んでいるのに気が付く。彼らは他者の望みを平然と踏みつけ、もがき、我欲を押し通そうとする。そのおぞましい光景にうんざりしたことがあった。受け入れたこともあった。今はただ、いかに利用できるかを考えている。
夫人は何かを企んでいる。彼女は、私が逃れられないように国王の名前を出したのだ。泥濘の中に引きずり込んで、傍観していた平民を当事者に仕立てようとしている。
「そもそも、勇者フランツが死んでいたら? あなたの努力は無意味になるけれど」
「ずっと頭の片隅で危惧していました。でも今は、夫人のおかげで彼の生存を確信しています。」
もし本当にフランツが殺されているなら、イガル夫人は『追放』の語を選ばなかっただろう。
実のところ、掴みとれる選択肢は少ない。彼女は冷酷な貴族で、思惑を拒否すればフランツの捜索が前途多難になるのは明らかである。
成功以外の道はない。つまり、最初と何も変わらないのだ。
夫人はゆっくりと頷くと、ゲヴァルトと目を合わせた。傭兵の不機嫌そうな舌打ちを聞くに、彼女の計画通りことは進んでいるらしい。
「もしある日突然、ゲヴァルトや……家族、友人知人が何らかの理由であなたへ協力するのを拒んだら、どうする?」
関係ない。一人であっても目標は変わらない。
質問であると同時に脅しでもあるように感じた。本当に可能かどうかはさておいて、彼女の思惑を拒んだ場合に、無理やり私を孤立させるような手段を持っていると恐れさせるだけの雰囲気が夫人にはあった。
質問の意図は見え透いている。私の決意を、覚悟を問うているのだと思った。おそらくイガル夫人は私に起きた出来事を知っている。一度全てを投げ出したのを知ったうえで、ただの平民にやり抜くだけの意思が残されているのか判断を下そうとしているのだろうと推測した。
────────────────────────本当に?
彼女は自分よりもずっと上手だ。優れた策略家は隠し事に嘘を使わない。真意を巧みに隠し、悟られぬうちに事実によって他者を動かそうとする。
この場においてイガル夫人が動かそうとしている『他者』は誰だ。見え透いた質問で私を後押しして、自分の手駒とするよう企んでいるとでもいうのか。
否、断じて否だ。私に求められているのは『事実』の役割。回答によって誰かを突き動かす役割を負わされている。もしかして、彼女は…………。
「…………私はかつて、あらゆる物事から逃げ出しました。怖かったのです。嫌だったのです。疲れていたのです。だから、大切な人たちへの信頼を手放してしまいました。二度と同じ轍は踏みません。国王やあなたが何を企もうとも、友人たちは協力してくれると信じています。フランツと共に過ごした彼らの思いは、紛れもなく本物ですから」
「────────────────ですって。ゲヴァルト?」
今まで積み上げてきたものを蔑ろにしてはいけない。どれだけ自分に自信が持てなくとも、あの日々を無かったことにしてはいけない。それは傭兵や、かつての夫人が教えてくれた教訓だ。
「なんだよ、言いたいことがあるならはっきり言え」
「彼女は質問に答えたわ。いつまでも拗ねてないで、あなたも応えなさいな」
ゲヴァルトは楽しげな伯爵夫人をひとしきり睨みつけると、大きな音と共に立ち上がり、ずかずかと私に近寄ってきた。眼前に広がる大きな胸板。その迫力に気圧されて二、三歩ほど後ずさりする。鼻息は荒く、まるで荒ぶる野獣と相対しているようにさえ感じられた。
仕掛け人のイガル夫人はというと、大きな仕事を終えたような具合でひどく寛いでいる。助け船を求めようにも、すぐそこに筋肉の壁があるから無理だ。
「……どうしてもってんなら、もう一度お前に雇われてやるよ」
彼は明後日の方向に顔を向けながら、早口で言った。
本当について来てくれるんだ。
先ほどまで感じていた隙間はとっくに埋まっていた。埋めているのは誠意と、もっと暖かい感情だった。
こみあげてくる気持ちを抑えきれず、私は彼の名を叫びながら胴に飛び込む。傭兵はまるで巨木のようにぴくりとも動かない。後ろで夫人がため息をつき「いくつになっても意気地なしなのね」と野次を飛ばした。
「うるせえぞ。これで満足か」
「ううん、及第点ね」
イガル夫人はあっさりと傭兵を手放すことに同意した。彼女曰く、ゲヴァルトを雇っていたのは終戦後に待ち受ける面倒くさい諸問題から古い友人の誼みで守ってやっただけなのだという。アナスタシウス伯爵が前線へ出向いていたのも好都合で、半ば強引にモルゲンブルグ領から連れ出して来たのが実態だった。今は、イガルギッター領と王都を往復して暮らしている夫人が王都に滞在しているときに護衛を務めていたらしい。
傭兵はこうなるのを予期していたのかもしれない。だから私に、フランツを手放すなと警告していたのだろうか。
「ユーリエ、あなたにぜひ出席してもらいたい会合があるの」
その日の帰りがけ、夫人は私を呼び止めて散歩に誘うような口ぶりで提案した。明日の夜、とある場所に貴族たちが集まるから、来てもらいたいとの話である。腹のうちが読めない人だ。あれこれと邪推するだけ無駄なので私は彼女の誘いに乗った。
翌日、約束の時間に宿を出るとゲヴァルトが迎えに来ていた。
王都の夜を彩る煌びやか光を見るに、数年前に国王が促した綱紀粛正はあまり意味をなさなかったらしい。鮮やかな灯火の下に沈んだ暗がりを、黒い外套を羽織りながらこそこそと歩く。闇の中には影さえも溶け込んで、後には靴音だけが残された。
案内されたのは、もう使われていない円形闘技場だった。
終戦で暴力の時代が表向きの終焉を迎え、勇者と共に役割を終えたこの建物は、王都の街角で静かに次代の到来を待っている。いつか平穏に飽いた人々が渇望する、力によって欲得を濯ぐ時代。即ち、争いの再来だ。それまでは大きな動物の遺骸が如く体を横たえるのみである。
入り口に立っていた二つある影の一人が頭巾を取る。出迎えたのは、イガル夫人だった。
「じゃあ後は頼んだわよ、ペーター」
もう一人は恭しくお辞儀をすると、杖を取り出して天高く昏い閃光を打ち上げた。魔術は瞬く間に薄い膜となり、闘技場全体を覆っていく。防護結界を連想するような光景だったが、素人の私には具体的にどんな効果があるのか判別できなかった。
ゲヴァルトと一人を置いて、私たちは闘技場へ入っていく。黒づくめの夫人は堂々たる足取りで、後ろをついていくので必死だった。
「人生って、ままならないものだと思わない?」
囁くような声が廊下に響く。
また何かを試されているのか、それとも多くの人が抱える普遍的な悲嘆の吐露なのか。僅かに迷って、私は後者を選んだ。
「イガル夫人ともあろうお方でも、そのように思われますか」
夫人が鼻を鳴らす。皮肉っぽい声色はどことなくゲヴァルトに似ていた。
本来はムート伯爵夫人と呼ぶべきなのだろうが、彼女は自身を『イガル夫人』と呼ぶよう周囲に求めている。愛称の由来は彼女を嫌う者たちの陰口らしいが、夫人はこれを王都貴族社会より授かった勲章だと言ってのけた。
イガル谷の輝き。不遜にも夫以上に領の代表者のように振る舞い、口先だけで他領にさえ強い影響力を行使するとされている彼女を、人々は輝きと見做さなかったのだろうか。
「若い頃ね、武器を担いで野山を駆けて、魔獣や魔人を狩っていたのよ。仲間にも恵まれてとっても楽しかった」
「二十代の、あの頃が懐かしい」と夫人は笑う。
実を言うと、王都に住んでいた頃は彼女の評判をほとんど知らなかった。モルゲンブルグの領都において、仕事の関係で関わりを持った貴族のご夫人たちが畏怖の念を滲ませながら話してくれたのだ。
冷酷非情な女君主であるとか、都市を裏から牛耳る策略家だとか、変装して人間の世界に忍び込んだ魔王であるとまことしやかに語る者もいた。無邪気な夫人しか知らない私は胸を痛める────ということもなく、他者に対して挑発的な言動をする彼女に心当たりがあったので、大いに腑に落ちてしまった。
「でも結婚の話が来て、全部終わり。父に言われたわ。いい加減大人になりなさいって」
「貴族の結婚は、いろいろ複雑だと聞き及んでおります」
「うちは貧乏だったから、他の大貴族と繋がりを持たなくてはいけなかったの」
政略結婚、というやつだろう。
モルゲンブルグ領のように王家と深い関わりを持つのは特殊な事例だ。多くの場合は夫人の実家とイガルギッター領のように、婚姻ないし友好の結びつきでもって互いに関係を持つ。
「名残惜しくもあるけれど晴れて伯爵夫人。戦争の遥か後方で優雅にお茶会でもして上品な生活を送るんだ……そう、思っていたのだけど、どこかの馬鹿に対抗意識を燃やした旦那が、最前線に飛び込んで行っちゃったからもう大変」
「もしかしてその馬鹿というのは……」
「あら、野暮な言及はやめて頂戴な」
貴族の大半は、夫人と同じように自分の所有する土地と王都を行ったり来たりしている。彼らは土地の管理をする傍ら、王都で他の者たちと交流を持たねばならない。よほど恵まれていない限り、自分の土地に引きこもっているだけではやっていけないのが現実だと聞いたことがある。
王の都がいまだに国の中心であり続けているのは、文字通り立地が周辺領地のど真ん中にあり、相対的に諸侯が集まりやすいという点も大いにあるだろう。
「でも、この生活も悪くない。ほどほどに誰かを宥めすかして、ほどほどに誰かを威圧して、剣の代わりに言葉を武器にして戦うの。かけがえのない思い出は、過去に在るからこそ輝いているのかもしれないわね」
廊下の奥に橙色の光が見えた。
歩いていくと、長い暗闇はようやく終わり、辺り一面に蝋燭の灯りがあった。見渡す限りの火が闘技場全体を照らしている。囲むように設置された観客席で、黒づくめの人間が幾人も私たちを待ち受けていた。
夫人は前に出ると「良いことを教えてあげる」と言ってこちらに振り返る。
「ここ十年くらいでうちの領地もようやく軌道に乗ってね。イガルギッター領からの支援もあるけど、もう一つ。優秀な文官を王都で雇えたっていうのもあるのよ」
「文官、ですか」
「アナスタシウスと喧嘩して里帰りをしたときに、その文官と会ったの。彼は故郷のことを話してくれたわ。特に、本が好きでやんちゃばかりする妹の話を」
どうして、イガル夫人は自分の過去を私に聞かせたのだろうと思った。
冷酷な策略家には似つかわしくない極めて平凡な郷愁。大人がふとした瞬間に帰りたくなるような、遠い過去への目配せ。その過程は波乱に満ちていたのかもしれないが、根底にある感情はきっと他の人と変わらない。
即ち、記憶の中にのみ存在を許される憧憬だ。
「現実に挑み続ける少女。しがらみを物ともしない娘。お兄さんはあなたをそうやって褒めていた。ねえ、ユーリエ。あなたは私が過去に置いてきた憧憬よ…………フランツのこと、せいぜい頑張んなさい」
両親から、王都で文官をしていた兄は早くからその手腕を評価され、さる地方領主に仕えることになったと聞かされていた。歳が離れていたから能力に開きがあるのも当然なのだが、母親が嬉しそうに手紙の近況報告を読み上げるたびに嫉妬していた。
夫人が私のことを知ったのは、ゲヴァルトからでもペーターからでもなかった。おそらくもっと前から、彼女はユーリエという少女の存在を知っていたのだ。
「あの、失礼ですが昔のお名前を伺ってもよろしいでしょうか……」
「ムート・ハイデマリー・マルテ・カッセルハイム。覚える必要はないわ。もうどこにも存在しない女の名前だから」
カッセルハイム領は、間違いなく兄がいる場所だった。
イガル夫人が悠然と階段を下りていく。全身を隠した民衆の只中になって、彼女だけが頭巾を脱いでいた。揺らめく蝋燭が左右へ退けられ、影の道が観客席の端まで伸びていく。道を往くのは、輝きを必要としない女傑だ。
かつて戦士たちがしのぎを削った場所に降り、円の中央で立ち止まると、彼女は観客席を見回した。場内は暗く、その表情は分からない。
「皆々様方ごきげんよう。自己紹介は、必要ないでしょうね?」
歌うような声が闘技場の隅々まで行き渡る。魔術師の展開した結界が、何らかの形で作用しているのかもしれない。
「今宵、ここに招いたのは夜空の星を眺めるためではないわ。いつものように親交を深めるためでもない。ただ一つの気持ちを共有したかったの……勇者フランツの失踪について」
まるで葬式だ。黒装束の人々と蝋燭。去り行く者を弔うための儀式。でも、フランツはまだ死んでいないはず。夫人は誰の葬式をするつもりなのだろう。
「私は最近、勇者の悲劇について思いを馳せていた。王国の歴史はこの悲劇から始まったと言っても過言ではない。民草を救った英雄はどうして荒野の彼方へ消えないといけなかったのか。誰がどんな権利で以て愛すべき哲人を追放したのか」
疑心。傲慢。恐怖。
始まりの時点で植え付けられた忌まわしき種は、歴史と共に国を蝕んでいった。誰もが勇者フランツの失踪に悲しみを表明しながら、心のどこかで仕方がないと諦めている。私たち一人一人の心に芽吹く忌まわしき花の根は、強く、深く、その心に絡みついている。
「──────本当にこれでいいのかしら。悪心の種を看過して、子供や孫の心すら縛ろうというの? 私はそうは思わない。私たちの先祖が受け入れた傲慢と偏狭を、遠い昔の過ちを認めて、私たちで打ち破るべきだと思っているわ」
どこかで「その通りだ」という声が上がった。
「真の歴史を、万民に愛される始まりを私たちは築く。それは勇者が悲劇に遭わない歴史。何ものにも縛られず、故郷へと帰り家族と共に暖かな食卓を囲んで終わる、誰もが望むべき物語こそ約束されるべきよ」
表情なんてわからないのに、彼女と目が合った気がした。イガル夫人の微笑みが脳裏をよぎる。
「この闘技場の中にも、いまだに恐怖と怒りを持ちながら傾聴している人もいるでしょう。あなたたちは悪心とその根源が自分達を守ってくれると信じているのでしょう。でも、考えてちょうだい。あの『勇者』でさえも疎ましく思う悪心が、一度だって真の意味で味方をしてくれたことはある? これは私たちが道徳心を取り戻す最後の機会。これを逃せば、さらに広がった疑心と恐怖が領地を埋め尽くし、やがてすべてを放棄せざるを得なくなる。それでもまだ悪逆におもねるというのなら……この『イガル夫人』が、あなたとあなたの一族、あなたの土地に植え付けられた忌まわしき種の一切を滅ぼすわ」
夫人が両腕を広げると、黒い外套の中から白くなまめかしい素肌が露になる。闇夜の中にあって、それは導きだった。闘技場の誰もが彼女の演説に聞き入っていた。
「勇者フランツは生きている。必ず生きて帰ってくる。その時こそが全ての始まりよ」
私はようやく夫人の壮大な企みに気が付いた。彼女は善意や衝動でゲヴァルトを手放したわけでも、好奇心や遊び心、単なる憧憬で私と話したわけでもない。
その計画はいつから始まっていたのだろう。親の命令で勇者を辞めて結婚した時。アナスタシウス伯爵が前線へ旅立った時。王都で『イガル夫人』と呼ばれるようになった時。それとも、もっと最近だろうか。
未来、悪心は淘汰されるかもしれないが、代わりに彼女の野心が国を覆い尽くすだろう。
大層な美辞麗句と名分を並べているが、真の歴史とはつまり、新しい国の誕生を意味する。これは王家への叛意を表明する組織の会合に違いなかった。
それは王都で過ごした中で最も忘がたい夜となった。数日後、都市を発つ準備をしていた時でさえ、私の指は微かに震えていた。




