第二十七話 幼馴染でいてくれてありがとね
たとえば、朝日。
草を食む家畜。がらがらと回る水車。鶏の元気な鳴き声。地面にできた水たまりと、水面に映る白い雲。轍のくっきりと残った湿り気がある地面。背の高い雑草にこびりついた水滴が、音もなく落下する。太い幹に寄りかかっていると、葉っぱの間から差し込む木漏れ日が心地よく肌を撫でる。
地平線は無い。草や木や、森や、山が遮って、囲んで、世界は狭く完結している。
まだ眠気の払えていない顔つきで、人々は農耕用の道具を手に取る。土の臭い。汗の臭い。誰かと誰かが笑って、いじわるを言って、喧嘩になって。水たまりに赤みがさしてきたらば、家に帰る。食事のため、家族と団欒するため、明日に備えて眠るため、帰っていく。
日常。
私を構成する全て。私が手にできる全て。私が積み重ねる全て。
祖母のように、母のように、いつか子供が出来た時に共有できる原風景。自然と共に生きるがゆえに変わらない数々の営み。でも、なぜだろう。自分に子供ができるなんてちょっと想像がつかない。
「人には向き不向きがあるからさ、無理すんな」
青年に肩を叩かれて私はえずく。ちょっとの衝撃で、胃の中に入っているものが暴れ出して、どこかへ逃げ出してしまいそうだ。身に着けたはずの体力はとっくに過去の思い出と化していた。
「うえぇ……や、やめてくれヨハン……しんどい…………」
近くの木に立てかけた農具が使われるのを待っている。けど、使用者はこんな有様だから、すぐに復帰とはいかないだろう。
見ているだけではいられなくて畑仕事の手伝いをした。初めのうちは私でもいけると威勢よくやっていたけど、半日経ってみれば木陰から動けなくなっていた。心配して駆け寄ってきたヨハンは、汗と鼻水でぐしゃぐしゃになった私の顔を見て苦笑した。格好がつかないじゃないか、まったく。
水はいるかと聞かれて、近くの瓶を指した。これ以上飲んだらむしろ危うい。
「俺らの大変さ、少しは実感したか?」
作業をしていた農夫が手を止めて、こちらに来る。
昔から知っている人だ。子供の頃、本の受け売りで業務改善を声高に主張し、忙しくしているこの人の横であまりにうるさくしたものだから、めちゃくちゃに怒られたことがある。今にして思えば、参考にしていた本とこの村では気候も土壌も全然違うのだから、まるで意味の無い主張を喚く鬱陶しいガキだったのだ。
「本に書いてある内容だけじゃ上手くいかねーだろ」
「な、生意気言ってすいませんでした……」
「ま、ちょっと休んだら今日はもう帰りな。人手は足りてるからよ」
「い、いえ、まだまだやれます……頑張ります、よ……」
「バカヤロウ、ヨハン坊も言ってただろ。人には向き不向きがあんだよ。俺みてえなのとは違ってユーリエちゃんは学があるんだから、村長さんの手伝いしてやんな」
村人たちといざ話してみると、かつての嫌悪感や隔たりのようなものが薄まっていくのを実感する。小さな共同体にあって、村人たちは連携を維持するのに細かな決まりや暗黙の了解を作るが、これはよそ者を排斥するためではなく、自分たちを守るためのものだ。しっかりと理解して迎合する姿勢を見せれば、馴染むのはそう難しくない。
悪口や陰口、くだらない噂話はやはり好きになれないが、とぼけた顔でだんまりを決め込んでいれば存外にやり過ごせた。
私が何者で、何が出来て、何をして暮らしているのか。これだけ開示すれば、余計な詮索をしてくることは少なくなる。時折、ヨハンとの関係を揶揄う人もいるが、やはりとぼけた顔で相槌を打っていると満足して去っていった。
都市の生活、とりわけ雪国での生活が大いに役立った。都市も田舎も本質的な部分は変わらない。人々と交流していた日々のおかげで、思っていたよりも抵抗なく村人と接することができた。
「なんか変わったよな」
帰り道、ヨハンが呟いた。
「何の話」と聞き返すと、青年はこちらを指さす。
「上手く表現できないけど、なんつーか、丸くなった」
「太ったって言いたいのかい。呆れた奴だ」
ヨハンの「確かめてみるか」という返事の意味が掴めないでいると、彼はいきなり私の腰辺りを掴んで持ち上げた。予期していない行動に驚いて、腹部をおもいっきり膝蹴りしてしまった。
うずくまる青年に対して詫びを入れたが、冷静に考えれば悪いのはあちらだ。
「襲われたと父の元に駆け込んだら、どうなるだろうね」
「許してください、ユーリエ様……」
「ふん………………それで、どうだった?」
彼は神妙な顔で「お前、運動したほうがいいぞ」と言ってきたので、背中を足蹴にした。
丸くなったなんて全然ぴんとこない。いや、体型ではなく性格の話だ。体型は……むしろ筋肉が落ちたせいで前より細くなったと信じている。たぶん、きっと。
私は私の考えで今を生きている。丸くなったと評されると、まるで妥協せざるを得なかったみたいで嫌だ。
「そうそう、そういうところ。指図する奴は絶対許さねーってのがお前だったろ」
どこか嬉しそうにヨハンは人差し指を振る。私を危険人物だと勘違いしているらしい。反論しようと行いを振り返ってみたけど、確かに王都で暮らしていた時くらいまでは幼馴染を除くあらゆる人間に対して少なからず攻撃性を見せていたかもしれない。
え、もしかして周りから危険人物だと思われてたのか。
「危険というより、面倒くさい奴。フランツもよく見放さなかったと感心するね」
「その名前出すのかあ。絶交してやろうかな」
昼の村は、当然ながら夕方よりもいくらか活気に満ちている。都市からやって来た商人が、即席の露店を開いているからだ。とくに都市で発行された新聞用紙は人気が高く、刺激に飢えている田舎者たちの娯楽となっていた。
今日も数名の村人が額を寄せ合って喧々諤々やっている。雰囲気で政治を語るオヤジや扇情的な噂を好むどこぞの奥様が、一様に眉をひそめていた。子供まで混じっていると流石に珍しいと感じてくる。興味が湧いて声をかけると、紙きれを持っていたオヤジが表面を叩いた。
「勇者フランツ、失踪…………?」
王国広報室は今日、モルゲンブルグに滞在していた英雄が失踪したと発表した。領主ジギスムント侯爵は総力を結集して捜索に当たると国王陛下に宛てた手紙で述べたようだが、戦後の混乱著しい同領においてどれだけの人材を動員できるかは未知数だ。勇者フランツは失踪の前日までモルゲンブルグ城の中庭にて鍛錬に励んでいる姿が確認されており、特段の異変は見られなかったという。さる関係筋の情報によると、かの英雄は初代勇者への強い憧れを抱いており、神話に倣って王国のいずこかにあるとされている『荒野の果て』を目指すために旅立ったのではないかと考えている者もいるそうだ。国王陛下は沈痛な面持ちで建国神話第三章の一節を引用した。「もし叶うのであれば、再び彼を抱きしめ、我らの間にあった友誼を確かめさせてほしい」と。
死んだと思っていた人物が実は生きていて、今度は姿を消した。紙面には初代勇者へのあこがれだの、王との友誼だの、聞いたこともない人物像が当たり前のように描かれている。これは、ここで取り上げられている勇者フランツとは、本当に私の幼馴染だった人物なのだろうか。本当はやっぱり魔王の奇襲で命を落としていて、王国の扇動に利用するためにひた隠しにしていたと考えるほうが、まだ納得できる。
ギルベルト二世が引用したのは、神話の最終盤、死の床に就きながら過去を悔いたルートヴィーヒが荒野に消えた初代勇者を偲んでの一節だ。神として祀りながら、建国の父は最期の瞬間まで友の影を求め続けた。
王国は、フランツをも新しい時代の礎とするつもりなのだろうか。
「行こうぜ」
二の腕を引っ張られて、私は人だかりを抜け出した。ヨハンの真剣な表情に気圧されて、しどろもどろになりながらついていくと、人気の少ない場所で歩みを止めた。
「……その、大丈夫か」
彼はこちらを見ようとしない。
「大変なことになったね。フランツのご両親、とくにゲルダおばさんはひどく動揺するかもしれない。元を辿れば責任は私にもある。今日は彼らの家に行って、寄り添ってあげないと」
いや、私が行ったらおばさんの神経を逆なでしてしまうだろうか。ヨハンなら気遣えるだろうけど、思い付きで彼に指図するのも申し訳ない。両親に相談してみよう。
家に帰るのは変わらない。逸る気持ちを抑えて歩き出そうとすると、目の前にヨハンが立ち塞がった。怒っているのかと錯覚したけど、よく観察すると、彼の眉はひそめられていなかったし、口はへの字になっていない。眼元は涼しげですらある。いつも通りのはずなのに、なんだかいつも通りではなかった。
「違う、お前は大丈夫かって聞いてんだよ」
ああ、ユーリエか。どうなんだろう。大丈夫なのか。以前までなら悲嘆にくれたかもしれない。義憤に駆られたかもしれない。衝撃のあまり寝込んだかもしれない。友人の魔術師や頼りになる傭兵に泣きついたかもしれない。
ただの可能性で、仮定の出来事だ。がらんどうの凡人にとってはフランツが生きていたことすら実感が湧いていないのだ。失踪したと報じられたからといって、何を感じれば良いのだろう。
「びっくりしてるけど、まだ実感が無い」
遠い世界の事件を読んでいるみたいだ。地続きの空間で起きているとは思えない。この感覚を知っている。遠い過去に体験している。空想に耽溺していた子供時代の感情が呼び起こされた。
青年に対して嘘をついたり、隠し事をしたりしようとは考えなかった。深い悲しみを感じているなんて言ってもすぐばれてしまうだろうし、余計な振る舞いで彼を失望させたくなかった。
なのに、私は選択を間違えてしまったらしい。
「それだけ?」
「う、うん……怒ってるのかい。顔が怖いよ?」
私は「薄情に見えたならすまない」と謝る。「彼が失踪するなんて考えられない」とも付け加えた。これで全部だ。心の内から紡ぎ出せる言葉は全部。残念だが、私は魔術師でも俳優でもない。ヨハンの求める感情を的確に察知するなんてできない。だから、どうかこれで納得してほしかった。
フランツの性格を考えるなら、勝手に消えるなんてありえない。けど何かの、あるいは誰かの思惑が絡んでいるとしたら、もう手の打ちようは無い。
「考えらんないなら、確かめに行こうとか考えないわけ」
「…………はあ? 訳が分からない。こんな時に不謹慎だ。英雄の失踪なんてすぐにご両親の耳に入るだろう。悲しむ彼らを横目に、私がどの面を下げてもう一度ここを出ていくって?」
「こんなの俺でもおかしいって分かる。凱旋式以来、城にずっといたフランツが失踪なんて、裏で何かあるに決まってるだろ」
「やめてくれ、ヨハン。彼がどんな陰謀に巻き込まれていてもここでは関係ない。夢物語は酒場で仲間とやってくれたまえよ。それで……終わりだ。現実に戻って、いつもの日常を過ごそう」
日常。
わたしが望んだ日常を壊そうとするなんて変だ。両親もヨハンも、私も、これで満足しているはずのに、どうして真意を確かめようとするのだろう。
「じゃあ、手に持ってるのはなんだよ」
手元でがさりと音がする。握られているのは一枚の紙切れで、王都で発行している新聞だった。頭に躍り出ているのは『速報』の文字。商人が持ってきた新聞用紙は村人を経由して私の左手に収まっていた。
これは、えっと、偶然だ。ほら、ヨハンがあまりに強く引っ張るものだから、勢いのまま持ってきてしまったんだろう。困ってしまうな。新聞用紙なんて生活の中ではもったいなくて使えないから結局ゴミになってしまうじゃないか。しかも内容が内容だ。適当な場所に置いておくのも憚られる。
いやあまったく、本当に困った。
「────父と母に見せるんだ。さあ、行こ」
釈然としない青年を振り切るように、家に向かう。
新聞用紙なんて、内容を把握すればただの紙だ。いや、きれいな紙はそれだけで価値があるが、やっぱりただの紙だ。都会に行けばありふれている。乱雑に折りたたむと、衣囊に突っ込んだ。
折よく両親ともに自宅におり、件の事件も首尾よく説明できた。母はいたって平凡な反応──つまり口元を手で覆ったり、驚愕の声を出すといった類だ──を示した一方で、父はありきたりな相槌を打つのみだった。我が親ながらなんと冷淡な態度か。これでハンスおじさんと知己の間柄とはにわかに信じがたい。
父は常に絶対的な現実の信奉者であり、紙面を彩る文字には興味を示さない。彼の中にあって揺るがない道理は私の人生において幾度となく障害となってきた。だが、道理の明快さは人生に対してある種の指針を与えてくれるのだと学ぶ良い機会でもあった。
私は父が嫌いだったが、正しいのはいつもあちらなのだ。
陰気な仕草で眼鏡を押し上げ、彼は私と青年を一瞥する。
「私が行く。ユーリエは付いてきなさい」
父が指示する時、母は意見を挟まない。両者の力関係が偏っているわけでなく、煩わしいあれこれを『村長は偉いからなんでも考える』という言い分で一任しているのだ。夫婦の間に議論と呼ばれるものはほとんど存在せず、たまに母が異を唱えると逆に父は大人しく指示を引っ込める。
今回もまた、母は沈黙を選択していた。
異論はあるけど、彼らにも考えがあってのことだ。汲み取るのは難しいにしても、やってみればなるようになるのだろう。
フランツの両親が住む家に辿り着いてすぐ、父が自ら行くと提案した理由が分かった。哀れな夫婦の悲しむ様子を見るために、野次馬根性を丸出しにした村人が集っていたのだ。父は自宅での陰気な調子とは違うよく通る声で「お前たちは仕事をしろ!」、「こんなところで油を売っていたと旦那に言いつけるぞ!」と怒鳴り、住民たちの顰蹙と非難を鼻で笑い飛ばしていた。わざわざ恨みを買うようなやり方しかできないのがこの人らしい。
家にはゲルダおばさんしかおらず、彼女は突然の来客に対して温和な姿勢を崩さなかった。
「君たちなら問題ないと思うが、娘が心配だと言って聞かないから様子を見に来た」
「たくさんお客さんが来たから、忙しくて驚くも悲しむもなかったわ」
椅子に座り、おばさんが用意してくれた紅茶を啜りながら、父は「だろうな」と呟く。
繊細さの欠片もない言葉に、私はめまいのする気分だった。他人の家でなければ小突いていたかもしれない。息子が失踪したのだから、問題ないわけがないのだ。
「おばさん、フランツはその……きっと、すぐに見つかりますよ」
根拠のない慰めがちくりと胸を刺す。フランツをここから連れ出して、勝手に失ったと勘違いして勝手に帰ってきて、どの面を下げてこんな益体もない発言をしているのだろう。父が私を同行させたのは、ゲルダおばさんを怒らせるためなのだろうか。
古馴染みの女性は穏やかに「ありがとう、ユーリエちゃん」と言って微笑んだ。素朴な優しさに、さらなる胸の痛みを覚える。おばさんは私たちと向き合うように座ると、机に頬杖をついた。
「でも変な感じ。息子の生死が不明なのに、涙なんてこれっぽっちもでない。実感が湧かないっていうか……息子が魔王を倒したのだって、ちょっとよく分かってないし」
「君は昔から強い女性だった。だがハンスは些か繊細だ。支えてやってほしい」
「ええ…………なんでしょうね、あたしって薄情な人間なのかしら」
「そんなことありません」
大きな声に自分でも驚く。おばさんが呆気にとられた顔をしている。無意識のうちに噛みしめていた奥歯を弛め、握りしめていた拳を見た。
小さな頃、フランツの家に遊びに行ったことがある。途中で遮られないのが気持ちよくて、幼馴染の少年だけに留まらずその両親にまで講釈を垂れていた。ゲルダおばさんは理解している感じでもなかったけれど、持ち寄った本が汚れないよう大切に扱ってくれた。ハンスおじさんは偉そうな私を叱らず、ふんふんと髭を揺らしながら静かに聞いてくれた。少年の原点が、しっかりとそこにあった。
「フランツは、どんなにボロボロになっても、もう休んでいいと説得されても『助けてくれた沢山の人たちに報いる』んだと言って、戦場に行きました」
戦場。砦。礼拝堂と薬品の刺激臭。過去の断片が記憶の隙間から滲み出てくる。
「彼は人から受ける善意を、優しさを知ってました。王都にいた時、私は自分のことしか考えてなかったのに、同業者なんて歯牙にもかけていなかったのに、彼は積極的に交友を深めていました。彼の呼びかけに答える勇者がいたからこそ、モルゲンブルグは救われたんです。彼は、彼の優しさは……両親から受けた愛情を知っていたからに他ならない、と、思います」
たとえば、夜闇を照らす魔術光。
酒場の喧騒。街道を行く馬車の音。石の敷き詰められた道路や、変わった造りの建物。がちゃがちゃとうるさい鎧とすれ違い、嗅いだこともないような香辛料の香りが宙を漂う。外に出れば、霞のかかった地平線や、白く輝く山領が広がっている。暗がりに潜む獣や、切り立った崖に伸びる細長い道。土地を横断する大きな川では、本でしか見たことのない魚が飛び跳ねている。
誰かが、青年に声をかける。今日も仕事か。大変だな。たまには一緒にやろう。どこで装備を手入れしてる。青年は一つ一つ丁寧に応えていく。決して輪の中心にいるような性格じゃないけど、いつも誰かに絡まれていた。その横顔を、穏やかな微笑を見ていたような気がする。
過去。
私を構成している一部。私が手にしていた一部。私が積み重ねてきた一部。
この光景を過去のものにしたのは、紛れもない私自身。
「ごめんなさい、おばさん。おばさんから悲しみを奪ったのは私です。フランツを奪ったのは私です。彼となら上手くやれるなんて、偉そうなことを言ってごめんなさい」
こんな謝罪に意味は無い。だって、フランツは戻ってこないのだから。
私にとっては一年余り。でもおばさんにとってはあの日から、全ての時が止まっている。文字が、文章が、物語が、神話がいくら飾り立てようとも、彼ら両親にとってフランツは英雄なんかじゃない。ここに住んでいた十六歳の少年のままなのだ。
整理したはずの過去から溢れてきたのは感情だった。ゲルダおばさんやハンスおじさんから奪った感情だ。自分自身、知らず知らずのうちに零していたと信じ込んでいた感情が、ぽろぽろと流れ出てきた。彼らに返したい。本来持っているべき彼らにこの感情を、どうか。
柔らかい感触が手首を温める。おばさんの指がゆっくりと甲を伝って、私の指先を握った。
「──よしなさい。奪われたものなんてこれっぽっちもないわ」
違う、私が奪ったのだ。私の咎だ。どうか安易な慰めをしないでほしい。きっと弱い私は甘えてしまう。救われてしまう。そんなの、なおさら苦しくなるだけだ。許しが欲しくて来たのではない。だって、奪ったのでないなら、一体なんだというのだ。
「あたしたちはね、あの子の人生をあの子に返したのよ。あなたたち二人を信じて旅立ちを見送った瞬間から、他でもないフランツだけの人生になったの。その隣にあなたがいて、何を感じたとしても、それは最初からあなたの人生にのみ許された感情よ」
おばさんは「寂しくないと言えば嘘になるのかしらねえ」と呟いた。
「でも後悔は無い。悲しんだりする必要もない。だってあたしたちの代わりに、あなたがこんなに泣いてくれる──────ねえユーリエちゃん、フランツの幼馴染でいてくれてありがとね」
彼の人生。
初めて王都の安宿に泊まった夜、今後の計画を語り明かした。最初の仕事はとんでもなく緊張した。闘技場で奮闘する姿は輝いてみえたけど、傭兵に負けてへらへらしているのは腹が立った。魔獣を前に置き去りにしたときは怖くて仕方なかった。特注の鎧を購入した時は、二人で夜通し撫でまわした。慣れない雪国で体調を崩した時、熱に浮かされながらお互い看病した。傭兵はしきりに酒を飲ませたがっていたけど、彼は果汁飲料の方が好きだった。酔いつぶれた魔術師を一緒に運んだのは、一度や二度じゃない。私が弱音を吐くと、彼は決まって励ましてくれた。自分だって弱っていたくせに。
「────はい……はいっ! こちらこそ、私たちを信じてくれて、送り出してくれてありがとうございました…………!」
暫く忘れていた感触が、いともたやすく思い出せた。生きているフランツの声や態度、眼差しが、すぐ近くにあるようにさえ感じた。
英雄の物語でなくて、ただのフランツの人生。後世には残らない、けれどよく知っている人生。彼の足跡を見届けた日々は、無駄ではなかったのだろうか。意味はあったのだろうか。
本当にこのまま、投げっぱなしでいいのだろうか。
「これではどちらが慰められているかわからんな」
父のため息で我に返った。おばさんが口元を抑えながら「確かに」と笑っている。細めていたけれど、目尻に光るものがあったように見えたのは、気のせいだろうか。
やってしまった。おさまりが悪くて俯いていると、玄関の戸を誰かが叩いた。
「うっす、おばさん。これ差し入れです」
来訪者はヨハンだ。小ぶりの鍋を抱えており、ゲルダおばさんに差し出した。母が作った料理だろう。私たちがさっさと出ていったものだから、慌ててヨハンに持ってこさせたらしい。
後ろからハンスおじさんがぬっと顔を出した。日はとっくに傾いて、労働者たちの時間は終わりを告げていた。おばさんがせわしない動きで台所に向かう。
「もうこんな時間なのね。いっぱい貰っちゃったし、どう、食べていかない?」
「嬉しいんですけど、お袋に何も言ってないので……」
「帰るついでに、私から伝えておこう」
席を立つ父にヨハンが「え、帰っちゃうんですか?」と尋ねる。陰気な男は小さく頷き、こちらに視線を寄こした。
「ユーリエ、分かってると思うが迷惑の無いように」
釘よりも鋭い視線が心を貫く。憎たらしいくらい当然のように、父は私を見透かしている。
窓から、帰路に就く父へ群がる人影が見えた。村人たちの標的はおばさんから村長へと変わったらしい。彼らは新鮮な刺激を求めて、どのような会話を交わしたのかをつぶさに聞き取るつもりだろう。冷淡な父のことだ。「暗いのだから帰れ」とかなんとか言って、興味をむき出しにしている人々を追っ払うのが予想できる。実際、間もないうちに人影は蜘蛛の子を散らすように消えた。
彼が先んじて帰ったのは、こうなるのを察知していたのだろう。娘にまで煩わしい興味を沸かせないよう動いたのかもしれない。
私は自分の胸に手を当てる。心臓が拳にどくどく、どくどくと生を伝達してきた。父の発言を反芻してなお、鼓動は止まない。小さく息を吸って、ゲルダおばさんの手伝いをするために立ち上がった。
冷静になってみると、変な食卓である。フランツの両親と幼馴染、彼をいじめていた青年が一堂に会しているとは、運命はかくも複雑怪奇なのか。ハンスおじさんとゲルダおばさんはヨハンの所業を知らないはずもないが、わだかまりもなく自然に接しているところに、知らない歳月を感じさせた。
日常。いつか馴染みゆく光景だ。祖母のように、母のように、このささやかな光景の中で生きていく。私は幼馴染の人生を奪ってしまったと思っていたけど、これもまた傲慢だったのかもしれない。そう自分に言い聞かせているのに、さきほどの父の視線を受け止めたのに、浮かんでくるのはゲルダおばさんの「寂しくないと言えば嘘になる」という言葉だった。
夕食を終え、帰りがけにおばさんはいつでもいらっしゃいと声をかけてくれた。
「おばさん、元気そうだったな」
いつもの散歩と同じように薄暗い道を、肩を並べて歩く。せっかちな星屑が夕闇の空で踊っていた。
二人っきりなんて珍しくもないのに、今日はなんだかそわそわする。
「心の中では寂しいと思ってるさ」
「寂しい、か。人の心って複雑だよな。本とか劇とか、唄とかさ、上手く言葉にできるのってすげーと思う」
「昔は馬鹿にしてたくせに」
「……すまん。もっと話を聞くべきだったって後悔してるよ」
遅すぎる。でもまあ、いいかな。
私たちが外にいる間、ヨハンは自分なりの過去を積み重ねてきたのだろう。私と同じように、失敗とか後悔とか経験して、家の天井をぼうっと眺めて夜を明かすこともあったかもしれない。そういえば、しょっちゅう一緒にいるのに、彼の過去を積極的に探ろうとしてこなかった。子供の頃の話ばかりで、隣の青年についてあまりにも無知だった。
「ねえ、ヨハン。今日はいつもと違うところを歩かないかい」
村の外れ。やけに背の低く感じる雑木林を抜け、記憶にあるよりもずっと短い山道を少し歩いたところに、数年前と変わらない丘があった。
鬱蒼とした山道を抜けると、満天の星空が散らばっている。日が落ちてしまったせいで眺めはよくないけれど、星が綺麗だから帳消しとしよう。こみあげてくる激情をこらえながら、私は手ごろな小岩に腰かける。
暗がりに目が順応したおかげで、青年の顔がうっすら見える。彼は雑木林に入ったあたりから、露骨に口数が減っていた。
「いい場所だろう。昼間であれば王都が見えるんだけど、まあ、仕方ないや」
「なんで、ここを……」
知っていたのか。とっておきの場所を紹介したつもりだったのに、空回りしたみたいで恥ずかしい。
むかしむかし、本が大好きな女の子が使っていた秘密の場所は、大人の私からするとちょっと狭い。窮屈な村を嫌っていたのに、結局もっと閉じた世界へ逃げていたのだからおかしなものである。外を旅して、長い長い時間をかけてここへ戻ってきたときには、どこかに本を忘れてしまった。
裸眼で遠くを眺めていたあの頃が懐かしくて、眼鏡を取る。
「信頼の証と思ってくれればいい。私もようやく準備ができたんだ」
黙りこくっている青年にじれったくなり「もっと喜んでほしいんだけど」と不満を口にする。
準備、なんて大袈裟だったかもしれない。本音を語らせてもらうなら、本当は必要なかったのだ。単純にきっかけが欲しかっただけ。私に度胸がなかったから、ずっと先延ばしにしていた。
「人を好きになるというのは存外に度胸がいるものだよ。ああいや、ヨハンが悪いというのではなくてね、その、他者の人生に影響を及ぼす重みを学んだばかりで臆病になっていたんだ」
「…………酔ってんのか。ハンスおじさんの酒を間違えて飲んじまったんだな?」
「素面だよ。淑女の告白を無下にするなんてどうしようもない奴」
青年が「馬鹿言ってないで帰るぞ」と肩に手を置く。首を横に振ると、彼は無理やり立たせるために私を抱きかかえようとした。逃れようと手足をじたばたさせたら、当たり所が悪かったらしく、二人で地面に倒れ込んでしまった。
馬乗りになる私。王都の酒場でもこんな感じでもみくちゃになってる奴らがいた。坊主の男と髭面の男で、彼らは流血も厭わず拳を用いて己の主張を押し通そうとしていた。
所詮、過去の出来事だ。
「ヨハンは、私のことが好きなんだろう?」
青年の瞳を見る。こんなに近くで人の顔を見たのは、いつぶりだろう。誰の顔だったろう。いや、いや、何でもいい。全部、遠い彼方に消えた感情じゃないか。青年は暫し逡巡する素振りを見せて、短く「ああ」とだけ言った。
彼の腕を掴んで、自分の胸元に押し当てる。大きくて太い、男の人の腕だった。
「鼓動の鳴動を感じるかな。緊張してる。私も……ヨハンが好きだ」
だから、もしヨハンさえ良ければ。
「私を抱いてくれ。この場所で君を刻んでほしい」
青年の短い返事より、私の口にする『好き』は遥かに薄っぺらい。人を好きになるってどんな心境なんだろう。よく本では胸を焦がすようなとか、花が咲くような、なんて表現されるけど、見当もつかない。他者の行動に、言葉に、最も強く揺さぶられた記憶を挙げるならば、それは本じゃなくて、あの日、この場所で少年がかけてくれた──────。
違う。違ってはいないけれど、今は違う。いい加減、過去を顧みるのをやめろ。私は誰と話している。何を伝えるべきだ。どのような類の誠実さで以て青年に応えるべきなのか。
「いいぜ」
「へっ?」という間抜けな相槌意外に反応する暇は無い。青年は素早く上体を起こし、私を押し倒した。繁茂する雑草が背中に走る痛みを和らげてくれる。暗闇の中で浮かび上がる二つの目が、こちらを値踏みしていた。
幼馴染と一緒に仕事で山籠もりをした記憶が蘇る。魔獣が見つからなくて、夜は野営したけれど、暗がりの中から獣が覗いているような錯覚をして、怖くて眠れなかった。咄嗟に目を強く瞑ったのは、恐ろしい記憶から逃れるためだった。
じっとしていると、こちらを押さえつけている指の力が、ふっと抜ける。
「訂正させてくれ」
「…………なに」
「俺はお前のことが好き『だった』」
だったって、つまり、過去形。
でも、わざわざ時間を割いて私と散歩していたじゃないか。好きでもない相手に労力を費やすなんて道理が通らない。そもそもいつ好きになって、好きじゃなくなったっていうんだ。
「偉そうで空気が読めないけど、物知りで、大人っぽくて、煙たがられても自分を曲げないお前が好きだった。粋がってるくせに大人の顔色伺ったり、つるんでる奴らに合わせてる俺なんかよりすげー奴だって思ってた。誰よりも真っ直ぐだったお前に憧れた」
彼は苦しそうだった。声は穏やかだったけれど、末尾は震えているように聞こえた。ヨハンは私の上から退き、暗がりに臨む丘へ立つ。夜空に突き出された手の平は、しかし何を掴むでもなく空を切った。
「再会した時さ、正直嬉しかったよ。帰って来てくれたのも、あいつがいなかったのも。お前は多くを語らなかったけど、喧嘩別れでもしたんだろうって……でもがっかりだ。大人になったお前は信念も何もない腑抜けになっちまってた。つまんねーよ。いつもうじうじしやがって。今のお前のほうがよっぽどあいつにお似合いじゃねーの」
「…………やめてくれ」
「まだ覚えてるぜ。おれがあいつを罵倒した言葉。臆病だ。臆病者のフランツと腑抜けのユーリエ。なんだぴったりじゃん。もしかしてあいつに影響されてお前も弱気になっちまったのか。あんな奴さっさと見切りをつけて、一人でやっていったほうが上手く────」
破裂するような音が、静かな森に木霊した。
手の平の痛みも意に介さず、青年の胸ぐらを掴んで引き寄せる。
「やめろと言っただろう。私を悪し様に形容するのは構わない……けど、次にまたフランツを臆病者なんて呼んだら、お前と一切の関係を絶つ。同い年とか、父から頼りにされているとかどうでもいい。何も知らないくせに、彼を否定するなんて許さない」
言い切ってから、自分のしでかしたことに気が付いて手を離す。
よりにもよってヨハンをはたいてしまった。おそらく父は嫌な顔をするだろう。あの人が私とヨハンをくっつけたがっているのは察している。この青年と私に、ゆくゆくは村の運営を任せる気でいるというのも、なんとなく気付いている。性格や能力はお互い補いあえそうではあるし、父の意向を汲むつもりでいた。
しかし、フランツの悪口を容認するなんてできない。
「じゃあ、証明してみせろ」
ヨハンは頬をさすりながら、挑戦的な目付きでこちらを見降ろした。ひねりもなく「証明?」と返すと、彼はニヤリと笑う。
「あいつを探して、連れ戻して来い。そんでゲルダおばさんやハンスおばさん、村人連中の前に突き出して、真意を確かめようじゃん……こんな馬鹿みたいな試み、お前にしかできねえよ」
────────────駄目だ。
駄目だ、駄目だ。だってそんなの、みんな迷惑する。両親に心配をかける。第一、本当にただの失踪だったら侯爵が解決して終わりだ。私の出る幕じゃない。あるいは侯爵に見つけられない失踪ならば、平民に何かできるわけもない。がらんどうの凡人はお呼びで無いのだ。
だから私はヨハンを誘った。一瞬でもフランツを探しに行こうなんて考えた自分が許せなくて、忘れさせてほしくて、青年をここに招いた。彼だって私が出ていくのは反対だろうから、応じてくれると思っていた。
なのに、彼は私に幼馴染を探しに行けと言う。辻褄が合わない。見当がつかない。なんで、どうして、過去を蒸し返そうとするのだろう。
どうして私は、こんなにも過去を思い出すのだろう。
「……もう家族に心配はかけられない。その提案は、あまりに現実的じゃない」
「くっだらね。あれこれ言い訳してるけど、失敗が怖いだけだろ」
失敗が怖い?
そんな簡単に括られる問題じゃない。無理だった。堪えられなかったんだ。彼を、彼の師を、友達を信じられなかった自分に腹が立つけど、同時にあれが私の限界だった。
生死を問わず、どんな顔で会えばいいのか分からない。もし恐れている事態があるとしたら、きっと、彼にあらゆる意味で拒絶されてしまうことだ。
自ら不必要の烙印を押した役立たずを、誰が受け入れるだろう。
そう思っているのに、どうしても止まらない。
整理したはずの思い出が心臓を鳴らしている。区切りをつけたはずの記憶が、血管をとめどなく流れている。雪国の寒風が全身の産毛を逆立て、焚火の音が耳をくすぐる。深呼吸すれば、酒場の眩暈のするようなかおりが鼻孔を通り抜けていくような錯覚を起こす。
全身の震えが止まらないのは、忍び寄る回顧への恐怖か、それとも懐かしくも新しい激情への高揚なのか。
「昔よく言ってたよな……現実的なんてチセツな言葉、お前には似合わねーよ」
愛おしい、忘れがたい過去。
ユーリエという人間が始まった場所。物語を描き続けた青空と、どこまでも広がる雄大な景色の丘。彼と話して、彼を説得して、彼と一緒に旅立ちを決めた最初の感情。
私と彼だけに許された、いつまでも変わらない原風景。
ああ、そっか。
零していたのは、失くしていたのは、置き去りにしていたのは、過去じゃなかった。
本の内容を忘れたら、何度でも読み返せばいいい。信頼に翳が差したらば、再び向き合えばいい。間違いを犯しても、時間をかけて正していけばいい。だからこそ『現実』は無限大なのだから。
本当に落としていたのは、現実と向き合うために必要な、ほんの少しの勇気だ。
ああ、まったく、なんで私は気付いてしまったんだろう。
もう止まることは不可能だった。
「──────やる。やってやるさ。絶対にフランツを連れて帰ってきて、彼を臆病者と呼んだ君も、父も、ろくに理解もしないままうわべだけ褒めそやす村の連中にも、改めて実感させてやる。あのフランツが、いつまでも垢抜けない田舎者が魔王を倒したんだぞって。それで、みんなをきちんと見返してやるんだ……!」
過去は、すでに過去でなくなっていた。
勇気を薪として、燃え上がる意志が身体を突き動かす。意識を背け続けていた概念がゆっくりと構築されていく。
たとえば、明日の昼食。
旅をするだけの体力。注意するべき事柄。野営した時に活用していた翌日の天気を見分ける方法。私にできること。誰を頼り、何を使い、どこへ行くべきか。最後に目指すべきは、失踪した幼馴染の隠れ場所。未知への好奇心と、無知への焦り。
未来。
私が構成していく明日。私が手にするべき明日。私が積み重ねていく明日。
過去と日常の終着点。
「ありがとう、ヨハン。おかげで大切なことを思い出せた」
「礼を言われる立場じゃねえっての……これからどうすんだ」
「まずは父を説得する。あの人は反対するだろうから」
きっと、父は正しいことを言う。でもそれは正しいだけの言葉だ。ならばもう負けることなんてない。今度こそ信じてみせるのだ。他ならない私自身を。
丘に、青年に背を向けて、私は家路につくために歩き出す。じゃりじゃりと土を踏みしめる感覚が、靴を通じて足裏に伝わってきた。
「…………じゃあな、俺の憧れ」
背後から聞こえた声には答えない。きっと求められてもいないだろう。
幾千もの光が瞬く夜空で、一番星が煌々と輝いていた。




