第二十六話 私の旅はとっくに終わった
窓の外に広がる赤みがかった空の下、草木のかおりが風に乗って流れ込んでくる。
周辺に植生している雑草の名前を頭の中で諳んじようとしたが、やめた。
握っていた筆を置くと、私は凝固していた身体を精一杯伸ばす。ろくに雑談も挟まずに文字と向き合い続けるというのは、骨の折れる作業なのだ。
魔術の才を持つ母は他の村民と共に畑の様子を見に行っていて、家には父しかいない。手伝いと称して遠方の兄に送る手紙を代筆させられているが、父の口から出てくるのは村の近況や社会情勢ばかりで、家族の話や思いやりを述べることはない。あるいは母であれば文章中に優しい気遣いを忍ばせるぐらい造作もないのだろうが、小さなころから離れて暮らしている兄に対してかける言葉など私自身も持ち合わせていなかった。
「む……ああ、彼か」
退屈な事柄をつらつら語っていた父は、ふいに口を閉じた。眼鏡の奥の陰気な視線は窓の外から見える人影に注がれており、手紙への関心は一瞬で失せてしまったようだ。もしかすると、この、目先の現実を重視する頑固な田舎者にとって、文字のやり取りなんて端から意味を持っていないのかもしれない。
客人は、いつも決まった時間帯にやって来る。家に吹き込むそよ風が彼の訪ねる前兆だ。おかげで私は辛気臭い家からの外出を許されるし、言外に責め立てるような父の鋭い眼差しから逃れられる。背中まで伸びる髪の束をほどき、机の上を整理して、さりげなく出ていこうとすると呼び止められた。
「…………ヨハン青年に、よろしくと伝えてほしい」
少し歩くと村を囲うように設置されている簡素な木柵があり、そこから牧草地が一望できる。見飽きた光景だが新鮮な空気を吸うにはもってこいの場所だ。柵に沿って歩くヨハンの背中に、かつての小柄ないじめっ子の影は重ならない。
思い返せばあの幼馴染も同じだった。同い年の子供だった彼らは知らないところで大人になって、当たり前みたいに知らない一面を見せつけてくる。途端に、私が過ごして来た時間がただのごっこ遊びに感じられ、目の前にいる人物がずっと大人に感じてしまう。ヨハンを前にしてもこれだけ気後れするのだから、もう一度彼と会ったら、目を合わせるのだって難しいのではないだろうか。
遠い雪国にいる姿を想像しようとしたけれど、上手くいかなかった。
「毎日、毎日、よく飽きずに来るね」
「おかげでお前も家を出られるんだから感謝してくれよ」
ユーリエ、と彼は私の名前を呼んだ。
家であれ外であれ、基本的に単独行動を認められていない。前に村近くの森で遭難して死にかけたのが原因だった。ヨハンがいなければとっくに獣の餌となっていただろう。
あの行動は失敗だった。もっと時間帯を選んでいれば、発見されずに済んだ筈なのに。
けれど、もう一度挑戦する気持ちになれないのも事実だった。今となっては私の命を捧げる行為すら意味を持たない。
「はいはい、感謝感謝。ついでに今日もお疲れ様。鍛冶見習いさん」
ヨハンは「ついでってなんだよ」と笑う。
横に並び、広々とした草原に目をやる。人々が変わりゆく中で、自然はいつまでも同じ形を留めていて、故郷の風景は時として人と接する以上の安寧をもたらしてくれる。忘れていた感覚を、この一年間で取り戻しつつあった。
どこかで、家畜が呑気に鳴いている。
「子供の頃はここが嫌いだった。原っぱなんて退屈だって思ってたよ」
「そりゃあ一人で歩く分には退屈だろ。散歩にはイケてる奴を連れて行かないと」
すれ違う村人に、ヨハンは挨拶を欠かさない。わざわざ名前を呼んで、家族を気遣う言葉まで述べていた。
「へえ、じゃあ帰郷ついでに王都から美男子でも連れてくるべきだったかな」
調子を合わせる。ヨハンの言う『イケている』とは、たぶんそういものだ。
おちゃらけてみせたが、彼が帰郷という単語に僅かな反応を示したのを見逃さなかった。
一年前、村に帰って来た時に出迎えてくれた青年は彼だった。始めこそ喜んでくれたが、すぐに私の様子がおかしいことに気が付いていた。
どうして幼馴染の男の子と一緒でないのか、どうして浮浪者のような恰好をしていたのか、どうして何も話さないのか。疑問はいくつもあったろうに、両親と彼は言及を避けた。詮索好きの村人たちが一切尋ねてこないあたりから察するに、口止めは徹底されているらしい。彼らは、私が心の整理をするのに余りあるほどの猶予を与えてくれた。
「都会はやめとけ。上品ぶった軟派ヤローしかいないだろうから」
心身に余裕が生まれると、父は村長の仕事を手伝わせるようになった。村人から来る陳情の取りまとめや役人へ送る手紙の作成、商人との取引。母に同行させて農耕作業に関わらせようとする時もあった。これらの仕事は意図せず過去の経験が役に立った。もちろん、過去を思い出すたびに幾ばくかの苦痛を伴う羽目になったが。
「手厳しいなあ。じゃあ、イケてる奴の条件を言ってみなよ」
「田舎育ちは体が丈夫だ。そんで人望があって、面が良くて、ついでに気心の知れた奴なんてどうだい」
またしても、村人から声を掛けられる。
あらヨハン彼女さんと散歩なの。こんばんはおばさんいえユーリエはただの友達ですよ。あらあらそうなのもしかして村長さんとこの娘さんかしらまあ暫く見ないうちに大きくなって。いやあ時が経つのはあっという間です。ほんとねえあのいたずら坊やもこんなに成長しちゃうんだから。その節はご迷惑をおかけしました。やあね冗談じゃない今後も若い衆を引っ張っていって頂戴よ。
立て板に水を流すように、中身のない言葉の応酬が続く。どうして良いか分からず曖昧な笑顔でたたずんでいると、村人は首を傾げた。
「ユーリエちゃん、前は別の男の子とつるんでたわよね、どこの子だったかしら」
「──やだなあ。あまり昔の話をされると恥ずかしくってしょうがないですよ」
ヨハンが気まずそうに頭を掻くと、村人は「あら」と楽しそうに口元を抑える。雑談を適当に切り上げて、私たちは話好きな老人と別れた。あれはどこの家の誰だっただろう。子供の頃は簡単に思い出せたのに、今は名前もうろ覚えだった。
去りゆく時間は短く感じるのに、歳月は確実に万物を風化させていく。私が帰郷してすでに一年経ったということは、勇者フランツが魔王を倒してから一年以上が経過したのだ。関心の薄い人からすれば、村を抜け出した少年と勇者の関連性を忘れさせるには十分な時間が過ぎたと言える。彼らにとって英雄は御伽噺の登場人物で、現実に飛び出してくる存在ではないのだ。
これから先、王都やモルゲンブルグにいたあの日々から現実味が失われる時が来るのかもしれない。
「いたずら坊やも昔の姿。俺、けっこう人望あるんだぜ」
ヨハンが自信ありげに胸を張る。こういう子供っぽいところが昔は好きになれなかった。でも、無理に大人びた態度を取るのも同じくらい子供っぽいと悟ったのはいつだったっけ。
「フランツへの仕打ちは、道化師ですらいたずらとは表現しないんじゃないかな」
「正論で殴られると拳よりも痛いって知ってたか?」
皮肉を軽く躱される。本心から咎めるつもりはないと知っているからだ。私など、大切な局面でフランツの元を離れたくせに他人の所業を責め立てるほどの厚い面皮は持っておらず、生存を喜ぶくらいが精々である。
幼馴染の少年が生きていると聞いた時、最初は王国がついた嘘だろうと思った。あの状況から軍を立て直して、魔王の根城まで攻め入るなんて考えられなかった。しかし時が流れるにつれて、疑念を抱いても仕方がないと感じるようにもなった。田舎の平民に確かめる手段はなく、胸中を蝕む苦痛に意味を見出せなくなっていった。
フランツは生きて、モルゲンブルグで働いている。故郷に戻ってくる気配がない理由は分からない。忙しいのかもしれないし、引き止められているのかもしれない。いずれにせよ王国の公式発表を信じ、改めて自分の感情に蓋をした。両親やヨハン、村のことなど、向き合うべき課題は目先で山積みだった。あるいはすでに、砦で仕事をしていた記憶から現実味が失われつつあったのかもしれない。
幼馴染の名を出すと、ヨハンは安心した顔をする。おそらく私がフランツと喧嘩別れをしたとでも思っているのだろう。配慮のつもりか、彼の方から名前を挙げることはしていない。
「しかし、相も変わらず村の人たちは妄想逞しいね。男女が二人でいれば恋人か」
「みんな暇を持て余してんだろ。俺も暇だからお前を連れ出してんの」
「なあんだ。てっきり、私に気があるんだと勘違いしていた」
隣から青年の気配が消える。後ろを見ると、挙動のおかしいヨハンが立ち尽くしていた。日が沈んできたせいでしっかりと確認できないけど、きっと顔を真っ赤にしているに違いない。
その手の経験が豊富とは言い難い私でも流石に察しが付くほどに、彼の好意は分かりやすい。村には若い女の子も少ないし、両親と結託して私の様子を伺っているうちに、といった具合だろうか。
「父も早合点してね、『ヨハン青年に娘をよろしく頼むと伝えてくれぇ~』なんて言っていたから、後でしっかり訂正しておかないと」
「…………お前はどうなんだよ」
ずるい返答だ。気があると言えば丸く収まるし、気がないと言っても「だと思っていた」と適当に誤魔化せば済ませられる。
駆け引き、というのだろう。面倒くさいと感じなくもないが、人間関係は日進月歩の速度で築いていくのが基本だ。薄っぺらい感情の立て札を並べ立てても、きっと相手は喜ばない。
そう思っていたのに、続く言葉は意外な内容だった。
「また村の外に出ていきたい気持ちとか、無いわけ」
彼の方から言及があるとは思っていなかった。私の考えは両親も常々気にしているところだろうから、いつか面と向かって詰問されると予想していたけれど。
推測するまでもなく父と母は村に居続けるのを望んでいるだろう。わざわざ仕事を手伝わせているのだから思惑は見え透いている。逆に言えば、彼らは心配しているのだ。放埓な娘がまたしても遠くへ行って、今度こそ野垂れ死んでしまうのを。
両親には両親なりの愛情の示し方がある。彼らはずっと、私を心配していただけだった。こんな単純な事実へ行きつくのに気の遠くなるような回り道をしてきた。
いい加減、安心してもらうべきだ。
「────────────────ないよ。私の旅はとっくに終わった」
口にしてしまうと、驚く程あっけない。
怒りも情熱も現実に立ち向かうと息巻いていたあの頃の無鉄砲な心意気も、全て等しく終わった。過去の気持ちを否定するような真似はしない。ただ綺麗に整頓され、過去のものとして奥底に仕舞われて、ふとしたきっかけで自分を慰めるための思い出として引っ張り出されるだけの代物となる。幸い心の中は空っぽで、保管する場所は有り余っていた。
過去は、今という現実を生きるための糧なのだ。
ヨハンは喜ぶ素振りを見せなかった。落ち着きを取り戻し、低い声で「そうか」と呟いた。
なんだ。せっかくの門出なんだから、もっと祝ってくれてもいいじゃないか。
「さりとて散歩は終わっていない。最後まで付き添いをお願いしてもいいかな?」
「…………俺で良ければ。お嬢様」
夕闇と共に、風が草木のにおいをさらっていく。
穏やかだった。何もかも夢であったみたいに、嘘であったみたいに、故郷の風は穏やかだった。あんなに嫌っていたのに、この風こそ明日のよすがであるように感じた。ふと上を見ると、微かに星が瞬いて消えた。
完全に暗くなってしまわないうちに、青年は自宅まで送り届けてくれた。窓から蝋燭の光が漏れており、扉の中からは談笑が聞こえてきた。来客は珍しくないが、今日は誰だろう。
「ただいま」
父と、もう一人の男性が向き合って座っている。酒が入っているのか、表情がいつもより朗らかだった。挨拶に対しても片手をあげて応えるのみで、いつもの重苦しい雰囲気は無い。
もう一歩近づいて、私は訪問者にも挨拶した。
「こんばんは、ハンスおじさん」
とりわけ目立つ風貌ではないが、年齢に見合わないがっしりした体格と白髪交じりのもじゃもじゃ髭は目を引く特徴だ。物静かだが眼差しに陰気さはなく、本に出てくる賢者のような神秘性を宿している。狩人としての経歴がそう感じさせるのかもしれなかった。昔はよそ者と嫌う住民もいたが、今となっては村に欠かせない人物である。
フランツの父親だ。
彼は返事をせず、小さく頷く。嫌悪の意図は無い。単に口数が少ないのだ。
帰郷してから、幼馴染の両親と会う機会は決して多くなかった。フランツの死を伝えなければと息巻いていたけど、私が砦を抜けてからの出来事は彼らのほうがよっぽど詳しかった。村の人々は、商人や王国の発表を通じて情勢を把握していたのである。父が詮索を禁じたのか、彼らから息子について尋ねることもしなかった。
両親やヨハンの善意に甘え、何もかも宙ぶらりんのまま日常を送って生きた。そうはならないと分かっていても糾弾されるのが怖かった。よくも連れて行ったなと非難されるのが怖かった。でも、ようやく区切りをつけたのだ。逃げる必要はない。恐れる必要はない。ただ聞かれるままに、ありのままの事実を答えればいい。本当に糾弾された時は、ただ受け入れればいいのだから。
「……ねえ、おじさん」
使われていない椅子を持ってきて、二人と向き合うように腰かける。普段と違う娘の行動に父の顔が強張る一方で、ハンスおじさんは静かにこちらを見た。
「機会を作らなくてごめんなさい。聞きたいこと、たくさんあるよね?」
その日、蝋燭の灯りはいつまでも燃え続けていた。
────
魔王が敗北して以降、王国はさらなる繁栄を手に入れ、王家の威光は増すばかりであった。若輩と侮られていたギルベルト二世は戦勝の実績によって国父ルートヴィーヒの再来と称えられ、権勢を確固たるものとした。忠臣を篤く遇し、敵対していた貴族に対して鷹揚に接するなど、凡庸暗愚と揶揄された治世は厚情賢明と評されるようになっていった。歴史家に曰く、王の民草に対する信頼と道徳心こそが勇者を導き、暗黒の時代を切り抜けたのだという。
これらは国中で話されている事柄だが、出処を入念に辿れば最終的に一つの場所へ行きつく。即ち、王城である。誰かが、王の功績を喧伝してまわっているに違いなかった。貴族、道化師、使用人、数々の身分を持つ人間が入り乱れる空間に、一人の侯爵が呼び出されて来た。
赤い絨毯の敷かれた長い廊下を歩きながら、男はモルゲンブルグの劇場を思い出していた。権威を嫌う古き友は、もしかするとここを参考にしながら劇場を設計したのかもしれないと考えた。
指定されたのは城の主がいる執務室だ。砦や地方の城とは訳が違い、人を招くなど稀である。普段の主は専ら他者を威圧するため無駄に広い応接の間を利用する。侯爵の心中には、すでに嫌な予感が渦を巻いていた。
「────ジーク、遠方からよくぞ来てくれた」
ギルベルト二世その人が、ジギスムントを座したまま迎えた。愛称は、元々ジギスムントの旧友だけが使っていたものを偶然耳にした国王も使い始めた経緯がある。こうした無遠慮な性分を嫌う貴族は多いが、侯爵は行動の裏にある必死さに哀れみを覚えるばかりだった。
部屋の隅には白衣の外套を着込んだ宮廷魔術師が一人。王が侯爵と同じか、それ以上に信頼している数少ない側近だ。謎多き術者は大貴族を前に大きなとんがり帽子のつばで顔を隠したまま、恭しくお辞儀をして最低限の礼を示した。
「ジギスムント・フォン・モルゲンブルグ、招請に応じ参上いたしました」
「長旅は骨身に染みたろう。座れ。長ったらしい口上もいらん。怪我の具合はどうだ?」
長机には上等な葡萄酒が置いてある。ギルベルトはおもむろに立ち上がると、自身の手で侯爵の酒器に赤黒い液体を注いだ。
手厚いもてなしをした場合、決まって後から無理難題を申し付けてくる。軽薄な笑みは王なりに愛想を示しているのだが、知らぬ者の目には恐ろしく映るだろう。ギルベルトは戦争と共に王位を得たが、彼の敵は魔人でなく玉座を狙う貴族たちだった。親愛は憎悪を、信頼は裏切りを覆い隠すための薄布であると学びながら成長してきたのだ。
王と臣下、王と民。何かを築く前から関係は決まっており、その対人観は常人のように育まれていない。
「凱旋式の時から大いに癒えました。都市の中を歩くぐらいなら余裕にございます」
ジギスムントは右脚を撫でた。
魔王の奇襲から逃れた際に負った怪我は順調に回復している。年齢を考えれば凄まじい活力であると修道士から感心された。
侯爵からすれば部下たちが全力で繋いでくれた命だ。職務を十全にこなせるよう早急な全快を目指していたところに王からの呼び出しを受け、領を離れることになったのは、なんとも複雑な思いである。
「魔王の統治領域が消えた今、モルゲンブルグは隣国との交易拠点になる。お前の統治下であそこは更なる発展を遂げるであろうな」
雪国の領主は、その父も、そのまた父も、王国の堅固な盾であり鋭い矛であった。先祖は実直さによって歴代国王の信任を勝ち取り、堅実さで以て領を発展させた。ジギスムントは息子や孫の代まで王家との信頼関係と領の繁栄が続くのを望んでいたが、ギルベルトの性分が悩みの種だった。
「時に……勇者フランツは元気にしているか。彼の部下たちは?」
「陛下の申し付け通り、こちらの城に滞在してもらっております。部下の魔術師は都市に留めておりますが、傭兵はイガルギッター伯と共に領を出ました」
国王が目を細める。彼は細長い指で前髪を撫でつけると、勢いよく酒を呷った。
ジギスムントは、ギルベルトが酔っているのを見たことが無かった。凱旋式や、政敵だった叔父を処刑した日の夜も、城の蔵から持ち出した葡萄酒を勢いよく飲み干していたが、やはり顔色は変わらなかった。あるいは王宮という名の伏魔殿に君臨しているだけあって、常に酔っているのかもしれないとさえ思う。
酔えぬ狂人と酔える常人、果たしてどちらがマシなのか。
「よい。よい。全て私の望むままだ。私は王。万民に頭を垂らすよう命令できるのは私だけよ。何故叔父でなく私が、ここにいると思う」
「陛下こそが臣民の支持を得たからに他なりませぬ」
侯爵が王と話すとき、決して過剰な賞賛をしなかった。心にもないおべっかがギルベルトの不信を生むと知っているからである。飾り気のない言葉が出てくると、決まって国王は嬉しそうに口角を歪める。
「そう、支持だ。人気だ。従うに足る名分だ。理由があるから私は王なのだ。理由を失ってしまえば、私には蛆虫以下の価値しかない……そして、考えてみろ。今の王国には支持も、人気も得ている人間がもう一人いる」
酒器の中で揺れる赤色の液体から、ジギスムントは目を離した。
「勇者フランツは、やがて王国分断の要因となりえる。お前もそう思わないか」
老齢の侯爵はギルベルトの目論見を即座に理解した。心臓が脈打ち、額に汗がにじむのが分かった。部下たちと命からがら戦場と駆け抜けた時以来の緊張で、身体が強張る。
ジギスムントは常に王の忠臣だった。彼の父も、祖父も、やはり忠臣だった。領と民草を思えばこそ、国に忠を尽くすことが必然の道だと教えられてきた。だが、祖父も父も、領と民草の恩人に剣を向けた経験はない。
勇者フランツは国の英雄である。民は彼の功績を褒め称やし、吟遊詩人は彼の活躍を謡う。そうなるよう仕向けたのは王と侯爵だ。青年を旗頭にして強欲な貴族共の重い腰を上げさせた。戦争を終わらせるために、モルゲンブルグを守るために必要な行程だった。だが、英雄の称号は王の不信を膨張させ、青年を内外から食い散らかそうとしている。
この日が来るのは予測できていた。青年に対する王の信頼を得ようと動いてきたが、やはり徒労になってしまった。
「道義にもとる所業であるのは理解しているとも。なに、殺せとは言わん。英雄の死はこれまた大きな名分となる。追放だ。追放せよ。誰の思惑も届かぬ……そうさな、渓谷より先の隣国に」
「フランツに邪な企みはありませぬ。彼の本性は朴訥な田舎者、数年も待てば民の興味は失われましょう。しょせん人気など一過性にございます」
侯爵は己の詭弁に顔をしかめた。平和の中でこそ陰謀は芽吹く。彼の知らないところで、すでに欲深い貴族たちが勇者の名声を利用する方法について思案している可能性は否定できない。そもそも、このような疑念を抱いた時点でギルベルトは誰にも止められない。
「ジーク……友よ、私は不安なのだ。どこかの大貴族がかの勇者を使って叛意を企てるのではないかとな。たとえばそう……今日に至るまで勇者を手元に置いている大貴族などが」
「……我が忠心を疑っておられるのですか」
「十中八九ありえんと思っている。王がモルゲンブルグ候を疑うなど人間が自らの手足に疑念を抱くようなもの。常人であれば一笑に付して終わる幼稚な懸念よ。しかし……私は残りの一、二がたまらなく恐ろしい。呪われてしまえば、人は容易く手足の自由を奪われてしまう。この場合の呪いはつまり、欲だ。権力という欲得だ」
ギルベルトの言葉に熱がこもる。まるで悪夢にうなされているみたいに、彼は疑心の奔流を止めようとしない。聴衆の面前で演説する時もこのような状態になる。気安い態度も、親近感の湧く小話も、全て王が唯一身に着ける鎧なのだ。
信頼と疑念。栄光と裏切り。まるで建国神話の第三部だ。あるいはルートヴィーヒも、このような心境で初代勇者を追放したのかもしれない。
「────過ぎたる不安は口をついて出るものだ。たとえばそう、あの輝かしい凱旋式の日などに、酒の勢いで誰かに口走ってしまったやもしれない。誰だったか……ううむ、カッセルハイムのハゲタカだったろうか」
ギルベルトが王となった理由。摂政を務め、政治に明るかった叔父に勝利した理由がここにある。
彼に人望は無い。文武に優れているでもなく、他者を惹きつける才覚もない。ただ、自分の血筋が持つ重みを誰よりも理解していた。
貪欲な貴族共の矛先も、常に玉座へ向けられているわけではない。互いの領地、利権、人もまたその対象である。大義名分さえあれば、彼らは欲を満たすために相争うだろう。そして王という立場は、大義名分を与えるのに十分すぎる権力を持っている。
ジギスムントがフランツを追放しなければ、王は深刻な顔で諸侯に語るだろう────モルゲンブルグ候に叛意あり、と。貴族共はこぞって反逆者の膝元に群がり、利益を貪るために大義を叫び、ジギスムントやその祖先たちが作り上げてきた領地を食い尽くすのだ。王が本当に懸念を口にしたのであれば、時間すらも侯爵の敵となってしまった。
フランツを侯爵の城に留めるよう密命した時点で、王の意思は固まっていたのかもしれない。
「私にとってお前は友であり……肉親よりも信頼できる存在だ。このようなくだらぬ問題に悩まされている姿を見るのは耐えられん。受け継がれゆく忠義と信頼、一時の恩、選ぶべきは明白であろう?」
ギルベルトの眼差しに、ジギスムントは昔日の面影を重ねていた。
魔王が復活し、先王が崩御し、兄王子たちが不慮の事故で命を落とした時、齢十七の少年が選ばれた。戴冠式の前日、主君となる若者を労わるため早期に参じた侯爵は、青白く痩せっぽちの彼と対面し、決意を固めた。
少年の盾となり矛となると。
十数年前、ジギスムントもまた若かった。周囲から有能と持て囃され、判断に自信を持ち、能力を疑うことをしなかった。だが、彼はこの五年余りで自らの衰えを痛感していた。後悔は日に日に積み重なり、夜になると過去へ逃避したくなる気持ちが沸き上がった。
彼は老いて、疲れていたのだ。




