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“彼女”からのメッセージ

作者: スズキ



 今日も帰りが遅くなってしまった。アパートの自分の部屋になだれ込むようにして入った僕が最初にしたのは、スーパーで買ってきた冷凍食品を冷凍庫に入れることではなく、洗面所で手を洗うことでもなく、お世辞にも広いとは言えないワンルームのこの部屋で一番面積をとっている薄いマットレスのベッドに倒れ込むことだった。


 このところ大学の実習でかなり疲れが溜まってきている。大学で芸術学部の演劇学科に所属している僕は、一ヶ月後に上演が迫る実習公演の稽古で出演者として参加しているのだが、出演者といったって、そんなに目立つような役じゃない。今実習で取り組んでいる劇は古代ギリシャ悲劇の『オイディプス王』で、僕の役は主人公のオイディプス王に仕える配下の兵士その7、といったところだ。


 黒のインナーの上に甲冑を付け、手に槍を持ってひざまずき、合唱のパートになると立ち上がって他の兵士や、王の姿を見届ける民衆を演じる役者たちとともに歌声を奏でる……それが僕らに課せられた主な役割で、舞台の中央で陣取っている主役級の役者に小道具を手渡したり、物語上で起こる出来事に対して身振り手振りでリアクションをとったりはするが、まあ、ほとんど背景みたいな存在だ。


 なので実習中は歌の稽古と、舞台の上での実際の立ち位置に従って、身体の動作を伴う稽古(ミザンス、という。舞台志望じゃなかったら、覚えなくていい)が半々で、毎日五時間。それが週に五日あって、さらに実習以外の大学の他の講義やレポート、実習の時間以外でも自主練もしなきゃいけないので……当然のように、キツい。午後三時から始まって、終わりが午後八時だけど、片付けとか着替えもあるので帰れるのはそれからだいたい三十分後、電車に乗ってアパートまで帰って着くのが午後九時少し過ぎ。最近は公演日が近くなって追い込みで実習の時間が長くなって、もっと帰りが遅くなってきてる。


 そしてこれが始まってからもう既に二ヶ月も経っていて、表方も裏方も含め、プロダクション全体がだいぶ厳しい雰囲気になりつつある。


 あと一ヶ月しかないという状況に焦る者がいれば、講師の演出家の欲求に応えられず演技プランにことごとくNGを出され、自信を喪失していく者がいる。そして焦りや熱意の足りてない者に対して自分との意識の差に苛立ちを募らせる者に、緊張感が高まり、険悪になりつつある状況に耐えられず、思わず泣き出してしまう者が現れていき……そしてぼくも正直いって、泣いて逃げ出したい気分になりつつある。


 こうやって僕が音を上げていることからわかるだろうけど、これは2年生の僕にとって、初めて参加する実習だった。小学校の時に学校行事で見に行ったミュージカルに魅了されて以来、ショーの世界に憧れを抱いていた僕は大学での進路は絶対に演劇学科の演劇学部と言い張り、両親や高校での担任の先生や進路指導の先生を説き伏せて、上京してこうして夢に見た世界に飛び込み、最初の一年で舞台用語を覚えたり、舞台の制作現場の見学や演技のクラスでの短い劇の発表を経て、ようやく念願の舞台づくりに本格的に携わることになったのだ。


 そしてその結果がこれだった。湖を優雅に泳ぐ白鳥が水面の下で死に物狂いで足をバタつかせているように、舞台芸術の世界も裏ではきっと苦労が多いんだろうなとなんとなく予想はしていたものの、あまりにも甘い見通しだった。


 結局、本当は僕はこの世界に向いていなかったんじゃないか? 親に高い授業料と下宿代を払ってもらっておいて、いったい僕は何をしているんだろう? ベッドの上でそう思うたび、身体が重くなっていく。誰かに今僕が抱えているものについて聞いて欲しかった。もう全てひとりじゃ抱えきれず、破裂してしまいそうだった。


 でも誰に言えばいいんだろう? 同じ実習の受講生? 駄目だ。向こうだって疲れている。かといって先生や、実家の両親といった大人たちに話すのも抵抗があった。そんな時、ひとりの女性の顔が浮かんだ。


 ……彼女は僕が高校生の時の恋人だった。同じ部活に入っていて(演劇部がなかったから、運動部に入ってた)、僕の進路についても時々相談を聞いてもらって、夢を応援してくれた。彼女が励ましてくれるたび、僕は自分が進もうとしている道に自信が持てた。


 だけどそんな彼女とも、高校三年生の時に別れてしまった。原因は僕だ。AO入試で大学受験を早く終わらせてしまった僕は、映画館やレジャー施設などいろんな場所で彼女を遊びに連れ出そうとしたのだが、地元の国立大学を志望していた彼女にとってそんな僕はあまりにも無神経だった。そして冬の冷たい風が訪れる少し前、既に疎遠になりつつあった僕らの関係は、彼女からラインで告げられた言葉で完全に終わりを迎えた。


 彼女とのやりとりは高校の卒業式の日にラインでほんの少しだけして以来、ずっと途絶えている。


 彼女に聞いて欲しかった。休みの日や夜遅くでも送られる、自主練の日取りや稽古のダメ出しが書かれた上級生からのラインのメッセージにうんざりしていること、自分より熱意や志のある人を目の前にして挫けてしまいそうだということ、そしてずっと楽しみにしていたこの日々が、早く過ぎ去ってしまってほしいと願い始めている自分自身に失望していることを、聞いて欲しかった。そして、ひとことでもいいから、高校で付き合っていた時のように励ましてくれたら、どんなに救われるだろうと思った。


 でもいまさら、どうやって彼女に話を持ち掛ければいいっていうんだろう? 既に僕らは終わった関係で、さらにそれからもう随分経ってしまっている。


 ラインの彼女とのトーク画面を開いてみた。そこにはあの卒業式の日に交わした、よそよそしいやりとりが残っていた。入力欄に触れてキーボードを表示させてみたが、何の言葉も思いつかなかった。久しぶり、とか、元気? とか書くのもなんだかバカバカしかったし、それにメッセージを送ったところで彼女に迷惑をかけるだけだと思った。高校を卒業してから、こっちにはこっちの大学生活があって、向こうにも向こうの大学生活がある。今の僕に今の彼女の生活に干渉する権利があるのか? ……あるわけがなかった。


 携帯の画面を切ってベッドに置くと、僕は横になったままぼんやりと部屋の天井を見つめた。そして数分か数時間ずっとそうしていた時、不意に携帯の通知が鳴った。


 どうせまた実習のことで誰か送ってきたんだろうと、うんざりしながら携帯を手に取ったが、画面に表示されている名前を見て、僕は思わず心臓が止まりそうになった。


 ……彼女だ。高校で別れて以来、一度も言葉を交わしていなかった、彼女からのメッセージが届いていた。僕はすぐさまラインの彼女とのトーク画面を開くと、彼女から送られてきたメッセージに胸を高鳴らせた。


 彼女から送られてきたのは「久しぶり、今暇?」の一文だけだった。でも、それだけでここ数週間失われつつあった僕のエネルギーをみなぎらせるには十分だった。


 なんて返事しようか。少し考えて、こちらもシンプルな返事にしようと思い、「久しぶり。今家に帰ったところ」と書いて送信した。付き合っていた頃、デートの帰り道で別れ、家に着いた時にこんな感じでお互い帰宅の報告をし合ったのを思い出した。


 数秒経って自分のメッセージに既読のマークが付くと、僕の胸はさらに高鳴った。ここ数ヶ月、こんなに嬉しい気持ちになったことはない。いったい何の話をしよう? ここ最近実習がきついって話? いや、久しぶりのやりとりで愚痴っぽくなるのは良くないな。学部には男子より女子の方が圧倒的に多いから、いまだにちょっと馴染めないとか、そういう笑える感じで。


 それよりいま彼女がどうしているか聞きたくなった。そっちの大学生活はどう? とか、僕は実習が大変だからやってないけど、サークルってどんな感じ? とか、とにかくいろいろな話をしたかった。なんだったら電話で夜通し話し続けるのもいいなと思ったり、そして何より、どうして今連絡をくれたのか……それが訊きたかった。


 ベッドから起き上がって、そわそわしながら狭い部屋の中をぐるぐると歩き回って彼女からの次の返信を待っていると、ベッドに置いていた携帯から再び通知音が鳴った。それを聞いた僕は飛びつくようにベッドに乗り、携帯を手に取って明るくなった画面を見て、彼女から送られてきたメッセージを見た。


 彼女から送られた文面はこうだった。


「急いで、iTunesカード3万円送り、ください。。」


 ……この文章の意味を理解するのに、十秒から二十秒ほどかかった。


 乗っ取り、ってヤツだろう。どこかの誰かが彼女のアカウントを乗っ取って、彼女の知り合いにこんな感じで文面を送りつけ、金をダマし取ろうとしているのだ。


 つまりさっきのメッセージも、このメッセージも、彼女が僕に送ってきたメッセージなんかじゃなかったってことで、それを僕は本物だと思って、バカみたいに浮かれていたってわけだ。


 僕は携帯を横に置いて再び天井を見上げると、ここが集合住宅だということを忘れて思いきり大きな声で笑った。そして気がつくと、ぼろぼろと涙を流していた。実習で耐えきれず泣き出してしまった、彼女たちのように。



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