第10話 元見習い聖女のお言いつけ
もしかすると、人生で一番気持ちよく寝られた一日だったかもしれない。
作戦のためとはいえ、お日様が登ってから寝床に入るという、ちょっと不健康な感じではあるのだけど。
メリッサさんのおかげで心身ともに充足した私の、昼過ぎごろの目覚めはバッチリだった。
寝起きに昼食をいただいて、少しのんびりしたいのは山々だけど、私にはやらなきゃいけないことがある。
集落の長老殿に一言断り、集落の若い方数名を立ち会いのために伴って、私は集落の外へ出た。
向かう先は、若干離れたところにある大木、その木陰だった。
魔法契約による言いつけに縛られ、影使いの悪魔シェダレージアがそこにいる。
この虜囚は、接近する一団の先頭にいる私の姿を認めるなり、居住まいを正して平伏した。
私がすぐ側に着く前から、こんな調子で、少し心配な気持ちはある。
こんなふうにしちゃった責任は、もちろん私にあるのだけど、この者には今からひと働きしてもらわないといけないのだから。
「頭を上げなさい」と、感情を抑制して告げると、悪魔は無言で応じた。
いくら私が、自分を打ち負かした聖職者だからって、立ち会いに一般人がいる前での、この対応。
この地に、漆黒の巨竜として君臨していた日々に比べれば、相当の屈辱でしょう。
今回、こうして立ち会いに付き添っていただいているのは、シェダレージアに対する命令についてを直接共有してもらうのが一番の目的なのだけど、相手の敗北感をより徹底的にする意味合いもある。
伏し目がちな悪魔は、決して自分から何もいうことはなく、ただ静寂の中で居心地悪そうにしている。
そんな彼に、私は告げた。
「今から魔界へ帰還し、私との契約にある通り、日没後にあの岩場へと同胞を呼び寄せなさい」
すると、命ぜられた悪魔はかなりためらいがちに、「お伺いいたいことがいくつか」と口を聞いた。
問いというのは、仮に後釜が見当たらなかったら、ということだけど。
ただ、経験上というか、ユナリエ聖教会に集まった知見では、「空き地」へ来たがる悪魔というのもはいつだっているものだった。
「与し易い縄張りを好む者は、決して少なくないのでしょう?」
聞き返す私に、悪魔は口を閉ざし、ごくごく小さくうなずいた。
この人間界への移住を目論む悪魔というのは、結局のところ、魔界でやっていけない半端者というのが、私たちの間の常識になっている。
魔界で同族相手に勝ち上がり、盛名を成す。それに比べれば、人間相手に威張り散らして日々の糧を捧げさせるというのは、ちょっとしたコンプレックスの現れかもしれない。
――正直な話、わからなくもないのだけど。
ともあれ、聖職者に見つからない程度に、それでいて地域の民には偉そうにしたい。そうした連中が魔界には相当数いて、あの岩場みたいな空き地は、よくあるスポットだった。
そのへんの、あくまで出来損ない元見習い聖女の認識は、魔界生まれの民からしても正当なものだったようで。
影に隠れて巨大な怪異を装っていた悪魔は、その裏まで見透かされている事実に悄然とし、うなだれた。
「興味を示す、次の客がすぐ見つからないとも限りません。あなたの方で相応の努力があり、にもかかわらず成果が上がらなかったとしても、それは不問とします」
これは、私にとっては道理なのだけど、向こうには温情に聞こえたかもしれない。ハットあがってくる頭に――
正直、他人のように思えない。暗い陰を胸のうちに感じつつ、私は続けた。
「いまから魔界へ戻り、日没後に、成果の有無に関わらず帰還すること。客の有無、あるいは報告等に虚偽あれば、その場で契約により抹殺します。よろしいですか?」
「か、重ねてお尋ねすべき事項が……」
いかにも、畏れ多いといった風に尋ねてくる悪魔に、私はうなずいた。
「もし仮に、複数の同胞が同時に、この件について興味を示した場合は……」
これは、その意志がなくとも、私への騙し討ちと取られかねないから、今のうちに聞いてきたということだと思う。
実のところ、その辺への理解がないわけじゃなかった。
というのも、影使いというのは、自分の力が行き渡って支配が及ぶ領地でなら、十全に戦えるのだけど……他の影使いがいると、影の取り合いになって都合が悪い。
だから、単騎でも相応の戦闘力や対応力を有しているけど、同じ能力を持つ者は不要か、かえって邪魔でさえある。彼らにとって影による「数の利」というものは、自分一人の力で発揮するもの。
今回、シェダレージアに同胞――つまり、影使いの悪魔――を、夜毎に呼んでこいと告げた理由は、そのあたりにあった。
「複数でかかろうという影使いなど、物の数とも思えませんが……運悪く、そういった輩を引っ掛けてしまった場合も不問としましょう」
この、万一の場合について、無理解な命令者でないことを確認し、悪魔は小さく安堵のため息を漏らし、いま再び深く頭を下げた。
双方にとって必要な確認事項を確かめ合い、その後。
影使いが自らの身に落ちた影へと飲み込まれていく。
人間界と魔界を行き来する悪魔は、それぞれ固有の方法で渡り歩いている。
中でも、影使いのこれは、世に知られた方途の中では大掛かりな儀式等を要しない、利便性に長けたものだった。
だからこそ、取るに足らない影使いまで、こちらへやってこれるのだけど。
命じたひと仕事へ向かう悪魔を見送り、振り向くと、立ち会いの方から心配そうな目を向けられた。
「次もあえて呼び込むという話でしたが……大丈夫でしょうか?」
でも、私なんかに思いつく手段というと、やっぱりこれぐらいしかなくて。
――武力で以って、相手を制圧する。従属するか、さもなくば根絶やしまで。
「大丈夫です。一度手を付けたことですし、やり遂げますから」
答える自分の声に、思いがけないくらい力がこもっていることに気づく。
大丈夫、次も勝つ。次の次も、その次も。そうやって、ここが安全になって――
連中が近寄れなくなるまで。