天上災禍①
身を刺すような冷たい風が、前方から吹き付ける。
風に混じる真っ白な雪はこの大陸では珍しい。だがその存在は優しくはなく、訪れた者の侵入を拒むかのように、熱を奪い痛みを与える。
「イニスアの囚人」の一人、マドクは雪積もる山の斜面をゆっくりと歩いていた。トレンチコートを一枚羽織ったその格好は、一見して冬の装いには違いないが、整備されていない自然そのままの険しい山を歩くには不相応と言える。
自然そのまま、とは言ったがマドクにはこの近くに人工の建物があると確信していた。右手に握った携帯端末、そのディスプレイに表示された地図を確認しながら、歩を進めていく。
「存外近かったな。灯台下暗しとはこのことか」
マドクは独り言ちながら斜面を登っていく。三分ほど経って、その目は山の斜面に掘られた穴を塞ぐ、鉄の扉を捉えた。ほんの少し油断すれば見落としかねない、本当に地味な小さな鉄の扉だ。
僅かに塗装が剥げ、所々錆びを覗かせる小さな扉の前にマドクは立つ。取っ手、ドアノブの類は見当たらない。マドクは右手に嵌めていた手袋を外し、ドアの表面に手のひらを当てる。雪山の中にある金属の扉、それはかなり冷たく、マドクは手のひらから伝わって来る強い冷感に顔をしかめた。
フォン……
手のひらが触れた部分から水紋のように、緑色の光が扉の表面を走り、広がっていく。いくつもの光の波紋が広がり、それが収まったと思うと、扉は軋み音を立てながらゆっくりと開いた。
マドクはその中へ足を踏み入れる。二メートル先もわからないほどの暗闇。だが彼が三歩歩くと、壁に取り付けられた照明がひとりでに起動し、辺りを照らし始めた。灯りの付いた廊下は奥の部屋まで随分と長く、マドクはため息をつく。
マドクは廊下の奥へ歩みを進める。コツコツと足音が反響するのを聞きながら歩くこと五分、行き止まりの小さな小部屋に辿り着いた。扉を開けて中を見渡し、いくつもの機材の中から目に留まった操作盤の様な物へと手を伸ばす。いくつかあるボタンの内の一つを押すと、少し離れた位置にある引き出しから、ガチャリと音がした。
◇ ◇ ◇
「やりすぎでしょ~イルタちゃん」
「違う。殺すつもりはなかった」
「毎回その供述が通用すると思わないで!?」
とある街の舗装されてない通り。その端に人の下半身が横たわっていた。
地面には大きな血だまりができ、建物の壁も真っ赤に染まり、それを見た通行人が悲鳴を上げて逃げ去る。そこには二人の男女だけが残された。 長身のウェーブヘアの軽薄そうな男――ナハブと銀髪に赤い瞳の美しい女性――イルタ。二人とも「イニスアの囚人」と呼ばれる者だ。
「襲い掛かってきたところをちょっと手で前に押しただけだ。正当防衛だ」
「人間離れしてるのは自覚してるでしょ? ちゃんと加減覚えなよ~……ほら、うるさい治安部隊が集まってきちゃったじゃん!」
イルタは困ったように眉尻を下げて、血まみれになっている自身の右手を見つめる。ナハブの言った通り、街の治安部隊が駆け寄り、小銃を構えてイルタたちを包囲する。
「膝をついて両手をあげ……待て、コイツらまさか」
「隊長、どうされましたか?」
銃を構えた隊員達の後ろでその部隊の隊長が、ナハブとイルタを見るなり手元のタブレット端末を操作し始めた。徐々にその顔は緊張で引きつり、冷や汗が彼の頬を伝っていく。
「隊長?」
「全員、銃を構えたまま後退する」
「!?」
「本部へ通達! 市内にてクラスⅣ、懸賞金額二十億テリ、一般接触及び戦闘禁止対象のナハブ、もう一人……クラスV、懸賞金『なし』、絶対接触禁止対象のイルタを確認! 市民の緊急避難指示を要請する!」
後ろに下がり始めた治安部隊の様子を、ナハブは不思議そうに見る。
「ありゃ? もしかしてなんか俺ら有名人になってるっぽい? スベンがやられたのが効いたか。どうするイルタちゃん?」
「帰る」
「……まあ捕まえる気がないなら逃げさせてもらった方がいいかな、用事もないし……ん? 着信?」
ナハブはズボンのポケットの中の携帯端末から、電子音が鳴っていることに気づく。端末を取り出して彼はその画面を確認する。
「……おお……おお~! あれ? イルタちゃん? おわあ、もうあんなところに! 待ってイルタちゃん! マドクからメッセージ来た!」
既にその場から離れたイルタを、ナハブは慌てて追いかける。イルタは振り返った。
「メッセージ?」
「見つけたってさ、〝カース・リムーバー〟! 〝門限〟を克服して自由になれるってことじゃん俺ら!」
(天上災禍② へ続く)




