9
私がこのヴァンパイアの王国、アトレアにやって来てから早くも二週間が経とうとしている。毎日のようにエヴァンと一緒に診療所(仮)に出向いて、掃除をしたりご飯を作ったり。簡単な怪我の手当てもできるようになってきた。
充実した毎日だったのだけれど、その間、元の世界へ帰れるような兆しは全く見当たらなかった。
「…いつになったら帰れるんだろう…」
窓辺で頬杖をついてため息をつく。すると背後から、耳元で囁く声がして肩を揺らした。
「…サラ」
「…皇子?」
振り返れば端正な顔立ちが間近にあってビビる。
「お前は昨日も城下へ向かったらしいな」
その言葉にドキッとした。決して責められているわけではないのだけれど、呆れたような声色になんだか罪悪感が湧いてくるのだ。
「え…や…」
慌てて言い訳をしようとする私を見て皇子はくすくすと笑った。
「民の仕事を手伝っていたのだろう?知っているよ」
…エヴァンか?いやでもこのことは皇子には秘密だって言ってたような。
「…この手が、そう言っている」
まるで悪戯が見つかった子どものような気持ちでいると、スッと右手を取り眺められる。時には重いものも持ったりしていたからか、手のひらには豆がいくつかある。
「あんまり綺麗じゃないから、見ないでよ…」
そう言うと、目を細めた皇子がゆっくりと首を横に振った。
「…綺麗だよ、お前は。この手も含めて、綺麗な心の持ち主だ」
ふわりと笑った皇子に、やっぱり胸がドキドキする。エヴァンには抱かない感情だ。
「…だが、最近エヴァンに懐きすぎだ。私にも構いなさい」
そんな甘えた子どもみたいなセリフにクスリと笑ってしまった。彼の表情は全く子どものようではなかったけれど。
「おいで」
その一言は私を束縛する。自分の意思では体を動かせなくなって、ただ皇子の言われるがまま行動してしまうのだ。
両腕を広げた皇子の、あたたかな温もりの中へ私は身を沈める。優しく抱きとめてくれた彼の胸に顔を埋めて、頬を擦り寄せれば皇子は息を小さく吐いた。
「…ああ、可愛いな」
その言葉とともに、ぎゅうっと腕に力がこもったのがわかる。毎晩一緒に寝ていることもあって皇子とのスキンシップにもだんだんと慣れてきた。最近は恥ずかしさよりも安堵感が勝ってきている。
「…そろそろ、仕事も落ち着きそうだ。明日は私と出かけようか」
優しくそう告げた皇子に、嬉しくて思わず抱きついたまま顔を上げる。私を見下ろす皇子の、まるで愛おしいものを見るような表情。私の方が蕩けてしまいそうなくらい、甘い。
「…可愛いサラが、護衛に奪われたら堪らんからな」
「皇子…」
恋人とはこういうものなのだろうか。そう錯覚してしまうほどのお姫様扱い。周りの従者さんたちにも皇子の側室?だなんだと誤解されてしまっているし。
「…さあ、では明日に備えて休もうか」
私の脇の下に手を滑り込ませ軽々と抱き上げる。仕事が忙しい時には私が寝静まってから布団に入ってくることも珍しくなかった。そんな彼がはじめから一緒にいてくれるなんて。喜びの方が先にやってくるのだから、やっぱり私はどこかおかしいのかもしれない。
私をベッドに横たえると、自分もそっと隣に寝転ぶ。二人で同じ布団を体に掛けると温もりが共有できた気がして、ふふっと笑みが零れた。
「おやすみなさい、皇子」
「…おやすみ、サラ」
私の髪を梳き、流れるように額に唇を落とす。その“おやすみの挨拶”にも慣れて自然に受け止めているのだから、人間って変わるものだ。
皇子に抱きしめられているのか、自分から抱きついているのか、それすらも認識できないまま私の意識は夢の中へと誘われていった。