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皇子の言葉が頭をぐるぐると回る。思考がそのことにしか向かわず、気がつけば馬は停止していた。
「ここは…?」
目の前には洞窟の小さな入り口。人ひとりがやっと入れるくらいだ。
「ここが我が帝国、アトレアだ」
皇子がエスコートしてくれて、恐る恐る踏み入れた洞窟。
細い道を通っていけば、少し開けた場所に。
「え…」
目の前の行く手は大きな扉で塞がれている。その傍らには門番と思われる兵士が左右に二人。
さすが皇子、彼が現れた瞬間に深く頭を下げた。
「おかえりなさいませ、ノア様」
ノア皇子はそんな門番に「ああ」とだけ返し、ギギーッと音を立てて開かれる扉を進んでいく。
彼のマントの陰に隠れて歩く私をチラリと見て、口元を緩める皇子。当たり前だけどとても堂々としていてカッコいい。
すれ違う人々が次々と頭を下げて挨拶していく。私を見ても驚かないのは、きっとこの人が女性を連れているのはそう珍しくもないということ。無意識のうちに、抱いていた子犬を撫でていた。くうん…と私を元気づけるように腕の中のその子が鳴く。
…これが噂の“お戯れ”か。
そんなことを考えていると、さらに大きく開かれた場所に出た。…いや、もはや開かれたという規模じゃない。目の前に広がるのはここが洞窟だと忘れてしまうほどの大きな町。店や家が立ち並び、多くの人で賑わう目の前の光景は目を疑うほどだ。天井なんて見上げてみても私の眼では確認できないくらい高い。
「…アトレアは、世界でも有数の地下帝国だ」
そう誇らしげに町を見つめる皇子はこの帝国を心から愛しているのだろう。優しい眼差しはこの人がとても良い君主になるであろうことを予感させるものだった。
そしてたどり着いたのは、これまた立派な宮殿。ここが洞窟だからか、広すぎて驚くと言うよりもその歴史を感じさせる建物に圧倒された。まるであの有名なヴェルサイユ宮殿のような。実際に見たことはないから、イメージでしか描けないのだけれど。
「ここが私の宮だ」
「…でしょうね」
さっきまで私を包んでくれていたマントを靡かせて颯爽と歩く皇子に着いていくのが戸惑われる。だけど振り返った皇子が優しく微笑んでくれるから慌てて後を追った。
「…おかえり、なさいませ…」
先ほど湖で出会った黒い人…エヴァンだったか…が皇子の前で跪く。私を鋭い目つきで見据えると
「…お戯れはほどほどに、と申し上げたはずですが…?」
淡々とノア皇子に告げる。その冷たい声もさらりとかわす皇子は大したものだ。私なら恐ろしくて声も発せないほどの威圧感なのに、さすが皇子。その態度も失礼だと見なさないのは家臣との信頼関係が成せるものなんだろう。
「いや…月明かりに照らされた“これ”が、ひどく美しかったからな…。思わず連れ帰ってきてしまった」
皇子って気障なものなのだろうか。この噎せてしまうほど甘い言葉を堂々と発することができるのはある意味才能だと思う。
「…ノア様。物珍しさ故のお戯れも結構ですが、正室をはやくお迎えくださいませ。民も待ちわびておりますよ」
胡散臭い微笑みを浮かべたエヴァンは、私へと向き直る。
「どうやってノア様に取り入ったかは知らないが…ここはお前がいるべき場所ではない」
そう冷たく言い放った彼。恐怖から思わずビクッと身体を揺らした私。抱いていた子犬を抱きつぶしてしまいそうになった所を、皇子がそっと抱き寄せてくれたから抑えることができた。
「そんなにサラを怯えさせるな。それに、私の正妃になる女性は私が決める。誰よりも相応しい女が現れるまで、正妃は持たぬと言っているだろう?」
ため息交じりに言葉を発した皇子は、私の顔を覗き込む。
「ああ…。顔色があまり良くないな。体が冷えてしまっている上に、慣れない環境に戸惑い、疲れているだろう?」
紳士的な皇子は優しく気遣ってくれる。強張っていた身体から力が抜け、コクンと頷いた。
恭しく手を差し出してくれる皇子に、自分の手を重ねる。
「エヴァン。しばらくの間、サラは私が預かる」
有無を言わせない、その威圧感のある言葉にエヴァンはただ頭を下げただけだった。その表情には、不満しか現れていなかったけれど。
「…こいつも客人だ。丁重に扱え」
私の腕の中にいた子犬をエヴァンに引き渡す。
「…はい…」
彼は私に向けていたものとは全く違った優しい眼差しをその子に向けていた。どうやら、動物は好きらしい。
「…来い、サラ」
「は、はいっ」
子犬を抱いて頭を下げているエヴァンから私に目を向け直した皇子は、優しく手を引いて歩き出す。
慌てて自分の脚を動かしてついて行けば、迷路のように長く曲がりくねった廊下を進んでいく。
左右にたくさんのドアがあって、一体いくつ部屋があるのかと思ってしまう。
そんな風に宮殿の中を観察していれば、何度目かの曲がり角の後、廊下の突き当たりに他のものよりも格段に大きくて豪華な扉が現れた。
「…ここが、皇子の部屋…?」
「そうだ」
その部屋の主人にふさわしい、その扉。皇子がそっと開けば中には大きなベッド。なんとお洒落な天蓋付き。机の上には仕事用の書類なのか、資料なのかが積まれている。
家具やカーペット、全てが高級であることがわかる。それは平凡な生活しかしてこなかった私にとって珍しいものばかり。無意識のうちにキョロキョロと辺りを見渡してしまった。
「…小動物のようだな」
クスクスと笑う皇子に恥ずかしくて顔を赤くする。
皇子はベッドに乗り上げてごろんと横になると、頬杖をついた。
「おいで」
反対の手で手招きする。たったそれだけなのに、色気たっぷりで誘惑されている気になってしまうのはどうしてだろう。
「何もしないさ。…もちろん、血も吸わない」
ためらっている私を宥めるようにそう言った。
さっき初めて会った人だけれど…皇子はきっと、私が嫌がるようなことはしない。そんな確信があるのだから、私は彼にどこか惹かれていたのかもしれない。
「…はい」
そっと彼のそばに寄り、ベッドに座る。
「…もっと」
にやりと笑った皇子の手が私の腰に添えられて、ぐいっと引き寄せられた。バランスがとれなくなった私はいつの間にやら皇子の腕の中。ベッドの上で、腕枕をしてくれている皇子。これはさすがにまずいんじゃないかと身をよじるけど、皇子は離してはくれなかった。
「…くくっ」
笑いをかみ殺している男を睨むように見上げれば顔を寄せてくる。
「…そんなに可愛い顔しても、離さない」
「…皇子のそばには、もっと可愛くて美人な人なんていっぱいいるでしょ」
憎まれ口を叩いても、彼はただ可笑しそうに笑うだけ。
「お前が一番可愛いよ」
コツンとおでこを合わせると、優しく微笑む。
その温かい体温と、髪を撫でる柔らかな手つきになんだか安心して、どんどんと眠りの世界へとのめり込んでいった。