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私はごく普通の女子高生だった。最上沙良。それが私の名前。
日本という豊かな国で生まれ、裕福な家庭と言うわけではなかったが貧しいと言うほどでもない。本当に、普通の家庭で育った。私自身も特に秀でた才能があるわけでもない。
さほど有名でもない高校へすんなり進学し、成績は中の上。部活には入らなかったが、飲食店でアルバイトに精を出す日々。友だちだって少なくはなかったし恋愛だって人並みにしてきた。
それは決して面白いものではなかった。だけど、何不自由なく過ごせる平穏な毎日は幸せなものだったんだと今となっては思う。
イヤホンから流れる音楽。心地よい風が顔に掛かる髪を流してくれる。
月曜日という憂鬱な一週間の始まりに、ため息をつきながら通学路を進む。昨日は雨だったからか、増水し濁った川を横目に小さな橋を渡った。
何気なく、下を見れば何かが水の中でもがいている。目を凝らすとそれは子犬のようだ。
「え……」
慌てて河川敷に下りてみれば、今にも溺れて沈んでしまいそうだった。
……そう、今となっては──。
助けなければ、あの平穏を崩されることもなかったと思う。
もっと非情になれたなら。見捨てることができたなら……。
きっと私は、ごく平凡な毎日を過ごして
ごく平凡な結婚をして
ごく平凡な家庭を築いて
ごく平凡に、その一生を終えることができたのだ。
何も考えずに飛び込んだ川の流れは思ったよりも速く、子犬を抱きしめたものの自分ごと流されてしまったのだからお笑い草だ。
……ああ、私死ぬんだ。
そう思った。
朦朧とした意識の中、大きくて温かい手が私を包んだ気がしたが、それを確認する間もなくそのまま気を失った。
──そして。
次に目を開けた時、私は後悔することになる。
もう、あの平穏には戻ることもできなくなってしまったのだから。
──目を開けたら私はまだ水の中だった。
首だけを動かして周りを見てみれば、ここはどうやら木が生い茂った森のようだ。川を下って、どこまで流されてしまったのだろうとよく見てみれば自分の浮かんでいるここは川ではなく、湖のように広い。そして静寂が包むこの辺りは暗く空は星が綺麗に輝いていて、どれほどの時間が経ってしまったのかと目を疑った。
びしょびしょに濡れてしまった髪を掻きあげて、地上へ上がろうとする。しかし岩の陰からばしゃっと水が跳ねる音がして、誰かがいるのかと慌てて再び身を沈め、水をかき分けて進む。
岩に手を掛け、少しだけ顔を覗かせればそこには眩いばかりの金髪が目に入る。
人だと認識すると同時に、その逞しい背中が露わになっているのに気付き慌てて身を翻した。
その動きに反応した水が岩に跳ね返ってピシャッと音をたててしまう。
あっと声を上げる前に──。
「誰だ」
そう、鋭く刺さるような声が私を貫いた。
びくっと身体が震え、そのまま固まってしまう。先ほどの声の主がこちらへ近づいてくる気配がするが、彼に背を向けている私はそれを感じ取ることしかできない。
彼の纏う空気が酷く冷たくて、背中からでもピリピリと緊張感が伝わってきてガタガタと身体が震える。
「──娘、か」
低い声がすぐ傍で聞こえて肩を掴まれた。
また、ビクッと肩が上がる。掴まれた肩をぐっと引かれて振り向かされた。
すぐ目に入ったのは、月明かりに照らされた少し長めの金髪。形の良い唇、高い鼻筋に大きく見開かれた目は綺麗なアーモンド型。その瞳は青みがかっている。堀の深い顔立ちと色素の薄さは明らかに日本人ではないだろう。まるでどこかの国の王子のようだ。
このひどく美しい男性は私と目が合うと、冷たさを帯びていた目を細めてフッと笑った。
「……これはこれは……」
私の濡れた頬を撫でる大きな手。見惚れてしまうほど綺麗な顔立ちの男に、私の目は釘付けになる。
「……あ、の……」
水浴びでもしていたのか、全裸の男。それに気づけば目のやり場に困った。きょろきょろと瞳を動かしているとくすっと笑われる。
「……そんなに珍しいか?」
私の顎を掬ってそう言うから彼との距離が縮み、顔が熱くなる。
「人間か……?」
そう問われ、眉をひそめた。
……当り前だ。その質問は必要なの?
だが私が口を開く前にバタバタと近づいてくる足音に身を固くする私。それに対して目の前の彼は、そんな私を抱き上げる。
「ちょっと……っ」
「ノア様!!」
私が文句を言う前に遮られた。
それはこの、目の前の男を指す名であろうことがわかる。
「なんだ?」
私を抱き上げたまま、姿を現した頭からつま先まで真っ黒な男に問いかけた。
「……それは……?」
“それ”とは、きっと私のことだろう。
「“これ”か……?今、拾ったんだ。可愛いだろう?」
にっこり笑って私に頬ずりするから引っぱたいてやろうかと思ったけれど、
「……今は私に話を合わせておいた方が得策だぞ。死にたくなければな」
そう、耳元で囁いたから大人しくされるがままになっていた。
「……ですが……“それ”は人間では……?」
怪訝そうな顔をする真っ黒な男。彼もノアという男には及ばないが、タイプの違う整った顔立ちをしている。
「ああ、だが問題はないだろう。ただの玩具だ」
──よくもまあ、本人の目の前で堂々と。だが先ほどのノアの言葉が脳裏を掠めて、その言葉もぐっと飲み込んだ。
「……お戯れも、ほどほどになさいませ。水浴びの時刻はとうに過ぎております」
そう窘めるように言った黒い男。ノアという男は軽くため息をつくと「わかったわかった」と手で彼を追い払う真似をする。
「下がれ、エヴァン」
ぺこりと一礼したエヴァンと呼ばれた男は踵を返し去っていった。