覚醒
わたしが目覚めた時、そこは病室だった。
笑顔の若い看護婦がいて、わたしは病院の敷地内の池の近くで倒れていたことを教えてくれた。
だけどわたしは…自分が何者なのか、記憶を失っていた。
冬なのに裸で、身分を証明するものは何一つ周りに落ちていなかったらしい。
無傷なのが、唯一の救いだろう。
そこの病院の計らいで、わたしは記憶を取り戻すまで、ここで厄介になることになった。
しかし幾日過ぎても、わたしは誰だか思い出せない。
だがある程度の知識はあって、障害者というワケではなかった。
記憶の方はサッパリだが、専門的知識を持っていたので、もしかしたら何か専門職に就いていたのかもしれない。
しかしこの病院はちょっと不気味だ。
どこか覇気がなく、みな、生気も無い。
入院患者は赤ん坊から、中年まで。お年寄りと言える人は全くいないのがおかしい。
普通、病院ならお年寄りが多くて当たり前なのに…。
そしてここにはテレビもラジオもない。
病室はベッドとクローゼットがあるだけで、他は何も無い。
図書室があるのは良いとして、何故患者用の食堂がある?
病院と言うよりは、何か…ホテルとか、会社の寮みたいだ。
…そんなことを考えるんだから、わたしは昔、そういう所にいたんだろうか?
……分からない。
自分がどこにいたのかも、誰なのかも。
デジャブは感じるのに、何故何も思い出せない?
ここには一階にお風呂場があって、個室でおフロが入れる。
ちゃんと浴槽もあって、シャワーも付いている。
鏡も付いていて、シャンプー、リンス、ボディーソープもある。
…やっぱりホテルの風呂場に似ているな。
そう思いながら、わたしは体を洗い始めた。
この、無性体の体を。
わたしは白髪で、アゴの辺りまで髪が伸びていた。
そして黒い切れ長の眼に、真っ白な肌。
ところがこの体は、男性として、女性としての性別を表さない。
…だから捨てられたんだろうか?
この寒空の下に、あんな池の近くで。
記憶を取り戻す為に、病院の敷地内を歩く。
しかし池には近付かないようにと、医者から言われた。
あそこでうっかり落ちる人もいるからだと言う。
でもわたしは毎日通っていた。
何せ自分がいた場所だ。
何か思い出せないものかと、行って見る。
冷たい水面は、冷たい風にふかれて揺れている。
池の中を覗き込んで見ても、青さがどこまでも続いているだけで、ハッキリとした底は見えなかった。
水の中に手を入れようとした。
だが…水面に映る自分の姿を見た途端、頭の中にイメージが浮かんだ。
血の様に赤く染まった満月の夜。
池の中に『何か』を次々と放り込む、医者や看護婦達の様子。
全員無表情で、感情が感じ取られない。
池に入れられた『何か』は池の中に落ち、次々と沈み込んでいく。
「はっ…!」
わたしは慌てて手を離し、池から遠ざかった。
何だ今のイメージ…?
イメージの中に出てきた医者や看護婦達には見覚えがあった。
しかし誰もが笑顔だった。
なのに今のイメージでは、恐ろしいほどの無表情。
何…何なんだ?
満月…。
確かわたしが最初に見たのも、満月だった気がする。
そして1人の青年が、何かを言っていた。
その言葉は…ダメだ。思い出せない。
今日はもう部屋に戻ろう。
そして、夜が来たらまた来よう。