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心の中へ紡ぐ糸

作者: 結衣崎早月×なつのさんち

 通い慣れたアパートへの道に、ヒールのコツコツという音が響いている。

 今日の不安なできごとを思い出しそうになって、その気持ちを押し込めるように、もっとずっと素敵な過去を思い出す。

 私があなたと出会ったのは、もう四年も前。大学の合同コンパで隣に座ったのがきっかけだった。ありきたりの出会い方、だけれど一生大切にしたい思い出……。

 落ち込んだ顔はなるべく見せたくないもの。昔の温かな記憶に励まされて、私は明かりが漏れている部屋のドアノブを回した。


「ただいま、俊文としふみさん」

「おかえり、糸華いとか


 いつものように、まず冷蔵庫を開けて冷えた麦茶をコップに注ぐ。ご飯の準備は少し経ってから。

 居間でテレビを見ている俊文さんの姿に、少しだけ心が癒やされる。

 もっと癒やされたくて、さり気なく肩に手を置いて隣に座った。


「お仕事の調子はどう?」

「変わらないな」

「そうなのね、私もいつもと同じ。つまらない仕事ばかりよ」


 麦茶をぐっと呷って、テーブルの上にコップを置く。

 すぐにあなたに甘えたくなってしまって、我慢できずに逞しい肩に頭を預けた。


「どうした? らしくないね」

「今日ね、あなたとのことを母に相談したの……結婚を考えてるって」

「……、そうか。その様子だと、いい感触ではなかったようだね」


 俊文さんは私が不安でいると、いつもよりゆっくりと話してくれる。私はその声が大好きで、だからこそあなたにだけは弱い自分をさらけ出せた。


「そうかも。だけど、あなたの名前と働いている会社の名前を訊かれただけなの」


 お母様はどんな時でも、お父様の意見を聞かないと何も言わない。私には無表情のお母様が、嵐の前の静けさのように感じてしまった。

 私が就職の時に一人暮らしをすると言った時にも、結局は父の望み通りに縁故採用され、セキュリティーのしっかりしたマンションに決めさせられたこともある。


「直接ダメだと言われたわけではないんだろう?」

「ただ、なんとなく嫌な予感がして……。杞憂だったら良いんだけど」

「嫌な予感、か。君は昔から心配症だからな」


 他人事みたいに聞こえるいつもの返事も、みんな考え過ぎる私の為。

 あなたは私を抱き締めて、軽く髪を撫でてくれる。俊文さんが好きだと言ってくれたから、髪のお手入れには気を使っていた。

 あなたのぬくもりに包まれると、魔法をかけられたみたいに私の心は凪いでいく。きっと考え過ぎよね。

 翌朝には不安も落ち着いて、いつも通りの笑顔を俊文さんに見せることができた。


 ……頭の中に、父の怒鳴り声がこびりついている。それを思い出させるのは、頬の痛み。

 深く息を吸うと、俊文さんの匂いがした。いつの間にか、この部屋に帰って来ていたのね……。

 ぼんやりする思考で気づいた時、電灯が瞬いた。


「……!? 帰っていたのか」

「あら、お帰りなさい」


 もう俊文さんが帰って来る時間だったのね。私が首だけを動かして振り向くと、彼は途端に顔を曇らせた。

 左頬の白いガーゼは、怪我を覆ってはくれても隠してはくれない。


「それ、どうしたんだ?」

「この怪我? 父にちょっとね……古い人なの。女が口答えするなですって」


 心配してくれる俊文さんの言葉が、お母様の『自業自得です』というとげで上手く届かない。

 『お前のような愚かな娘は、きちんとした男性を夫に持つべきだ。痴れ者め!』

 また、くらりと目眩がして、怒鳴り声が蘇る。気がつくと、俊文さんが温かいお茶を差し出してくれていた。


「とにかくこれを飲んで落ち着こう、顔色が悪いよ」

「ありがとう。……私、結婚させられるの」


 嗚咽が漏れてしまいそうで、顔を伏せながらそれを飲み込む。

 座布団の端を握りしめて、なんとか泣かずに事情を説明しなければ、と気を取り直した。


「させられる……?」

「あなたは両親が決めたくだらない基準に達していないから、おかしな気を起こさないように“良い人”と結婚しなさいって……笑っちゃうわ。二十も上の男」


 ふふふ、と付け足して、いつもの冗談のように笑ってはみたけれど……。きっとあなたを、ますます心配させてしまった。


「親の愛情ってのは、子供にはなかなか伝わらないと言うが、これは……」


 優しい人……。先輩にムリにお酒を飲まされた私を、優しく介抱してくれた。足早な世間に戸惑っていた私を、ゆっくり導いてくれた人。


「あなたみたいな優しい人には、うちの両親も立派な親に映るのね。違うのよ……皮肉じゃなくて、そうだったなら、どんなに良かったかと……っ」


 涙をこらえる為に、口元を押さえるけれど……溢れる涙を止めることはできなかった。

 そんな私に、あなたはもう一度手ぶりでお茶を勧めてくれる。


「俺は君の家の事情を詳しく知らない。君の生まれた家の事を、教えてくれないか?」


 私の大好きなハーブティーの香りに、今度は温かいお茶を一口だけ含む。美味しい……。

 俊文さんに励まされて、私は震える唇を開いた。憤り、悔しさでわめいてしまわないように強く意識する。

 やっと絞り出した声は、まるで蚊の鳴く音だった。


香芝かしばの家は元は呉服屋でね。家業を大きくしてからは政略結婚でその地位を盤石にした、典型的な一族経営の家よ」

「それはまぁ、昔ならよくあったんだろうね」

「こんな時代に、古臭い考えでしょう? でも私は大学にも行かせてもらえたし、就職もさせてくれた。今更になって政略結婚をさせられるだなんて、露ほども思ってなかったのよ」


 お母様は高校を出てすぐに結婚させられた、香芝の被害者。私はそうなりたくない一心で、進学を希望して……就職できた時には、やっと安心することができた。

 そんな安心感は、たった一言で壊される酷く脆いものだったけれど。


「でももう君は実家から独立している。今更親に結婚相手をあてがわれると言うのは……」

「普通なら、そうよね。けどあの人たちには意味がない話。今はまだ働けているけど、きっと近い内に会社も辞めさせられるわ」


 会社を辞めさせられた後には、きっと実家に連れ戻されて結婚させられる。私の意思なんか、どこにもないんだわ……。


「今度の休みにでも、ご両親へご挨拶に行こう。長く付き合っているのに、一度もご挨拶していない俺にも負はある」


 わずかな焦りと、まだ希望はあるとあなたの表情が語りかけてくれる。

 私はその提案に首を横に振った。


「私が必要ないって言ったのに、俊文さんに悪いところなんかないわ。それに……」


 もっと早く恋人あなたのことを伝えていたら、引き離されるのが早くなっていただけじゃないかしら……そんな風に考えてしまう。


「それに?」

「いいえ、何でもないの。次のお休みね、伝えて置くわ。私の為にわざわざありがとう」


 本当なら家でのんびり過ごしたいはずなのに、私の為に一日を潰してくれると言う彼にお礼を言った。


「すまない、俺は君の話を聞いてあげる事しか出来てないな」


 俊文さんが繊細な手つきで右の頬を撫でてくれると、心の奥深くから温かくなる。……この人が好き。


「それでも、ううん。だからこそ嬉しい、私の大好きな俊文さんらしくて」

「君の大好きな俺、か……」


 両親の話はそれまでにして、私は夕食を作り始める。冷蔵庫の残り物で質素になってしまったのに、あなたは変わらない笑顔で美味しいと感想をくれた。

 その後も俊文さんは翌朝のお仕事が早いのに、私をマンションの部屋まで送ってくれた。恋人になって四年も経つのに、私を大切にしてくれる。

 そんな俊文さんの負担にならないように、私が頑張らないと。

 電話機が光っていたので流してみると、お母様からの伝言が留守電に残っていた。

 内容は気づき次第電話を折り返すようにというもの。私も俊文さんに会って欲しいと話したくて、すぐに受話器を取った。


「もしもし、香芝です」

「お母様、遅くにごめんなさい。留守電聞いたわ。あのね……怒らないで聞いて欲しいのだけど、八日後に私がお付き合いしてる俊文さんと会って欲しいの。一度お父様も含めて四人で話しましょう? 会ってもらえたなら、俊文さんが立派な方だってきっと伝わると思います」

「そう……考えても良いけれど、その前に一度こちらに帰って来なさい。糸華に話したいことがあります」

「考えてくれるのね!? ありがとう、お母様。それじゃあ……五日後の夕方に着くように帰ります。ええ、お休みなさい」


 考えても良い、とおっしゃってくれるなんて。

 もしかしたらお母様も、香芝のやり方には嫌気が差しているのではないかしら? 三人でなら、お父様も説得できるかもしれない。

 私は幾ばくかの希望を抱いて、実家に帰る電車に乗った。

 なんだかここ数日の仕事が妙に忙しくて、まったく俊文さんの部屋に行けなかった。本当はお母様に会う前に勇気をもらいたかったけれど、ここで挫けていたらダメよね。

 意を決して重々しい実家の扉を開けた。


「ただいま帰りました、糸華です」

「やっと帰って来たのか……まったく、社会勉強に就職などさせるんじゃなかった。親不孝に育ちおって」

「お父様……お母様はどちらに?」


 言いたいことを飲み込んで、お母様の居場所を訊ねる。


「あれに会ってどうする。もうお前に選択肢などない。大人しく部屋で反省しろ」

「どういうこと!?」


 私は見張りを付けられ、家に軟禁されてしまった。お母様は私をおびき出す為に『考えても良い』と言っただけで、そんなつもりははなからなかったのだわ。

 これが親が娘にする仕打ちなのね……。

 扉を閉められた瞬間、プツリ、と大切なものが断ち切られてしまった気がした。

 俊文さんに会いに行かなければ……。必要なら嘘を吐いたって構わない。お母様だってしたことだもの。

 ……なんとか隙をついて、家を抜け出すことができた。

 でもお金もない、靴さえ用意できなかった。

 それでも俊文さんの部屋に向かって、裸足のままでひた走る。アパートがなんとか歩ける距離にあることを感謝した。

 今日は二人の休日が重なる日だもの、俊文さんは必ず私を待ってくれているわ。

 毎日のように歩いたアパートまでの道を、必死に気持ちを奮い立たせて踏みしめる。もう夕暮れ時……ずいぶん時間がかかったけれど、やっと会える。


「……はぁ、はぁ……」


 呼び鈴を押して、ドアが開くのをもどかしい気持ちで待つ。そして彼の胸に飛び込んだ。


「糸華!?」

「俊文さん!」


 ぎゅう、と強く抱き締めてくれる手に、緊張が解けていくのを感じた。


「連絡がないから心配で堪らなかった」

「心配させてごめんなさい。家から逃げて来たの……」


 嬉しくて一歩引いて俊文さんの顔を見ると、彼は眉を寄せて私を見下ろしていた。


「大丈夫か?」


 そう言えば酷い格好だわ。髪もボサボサ。

 促されるままに部屋に上がると、あなたはまず濡らしたタオルを持ってきて、傷だらけの足を清めてくれた。


「……こんなことになってしまって、ごめんなさい」

「混乱しているのは分かるけど、きちんと話してくれないか?」

「ええ、順を追って話すわね。……あれから実家に、一度俊文さんと会って欲しいと電話をしたの。突っぱねられると思っていたら、考えるから一度家に帰って来なさいと言われて……」


 喜んで帰った私が馬鹿だった。両親は私が二十も年上の男性と結婚する、と言うまでは家から出さないと言った。立派な犯罪だわ。

 見張りを付けられて、着の身着のまま逃げ出したと告げると、あなたは青い顔で私をいたわってくれる。


「そんな事になっていたなんて……」

「今頃、私の行方を追って方々手を尽くしているでしょうね。ここに誰かが来るのも、時間の問題かもしれないわ」


 俊文さんのことを洗いざらい調べたそうだから、このアパートの場所もわかっているはず。

 徒歩の私を追っているのなら、少しだけ時間には猶予があるかもしれなかった。ほんの少しの猶予は、疲れ果てた私に希望ではなく絶望を抱かせる。


「どこかホテルでも泊まろうか。少し時間が経てば、分かりあえる事もあるかも知れない」

「……わかってくれることなんて、あるのかしら? いっそ勘当してくれたなら、どれだけ楽か……」


 勘当されたなら、貧乏でも俊文さんと二人で暮らして行ける。

 父は絶対に私を政略結婚させるつもりなんだわ……そうなったら、俊文さんへの想いは……。


「ご両親が祝福してくれない未来に、君の笑顔はあるのかな?」

「見透かすみたいに言うのね。それは、私にも両親の期待に応えたい気持ちはあるわ……だけど! 私はあなたと結ばれたいの。私の笑顔があるのは、俊文さんの隣にいる未来にだけよ」


 私の縋るような声に何を思ったのか、俊文さんはサッと立ち上がって、クローゼットからスーツを着始めた。ネクタイを締めて、備え付けの鏡で髪型を気にしている。

 私は呆然として、一連の動作を見守ってしまった。


「ご両親がここへ来られると言うのなら、やはりキチンとした格好じゃないとな」


 私に向けられたあなたの表情は、いつもと変わらない笑顔だった。

 ……そうよね、あなたには想像もつかないのよね。


「両親は来ないわ。あなたの気持ちは、すごく嬉しい。だけど常識が通じる人たちじゃないの! 私を見張っていた父の部下たちが、ただ連れ戻しに来る……それだけなのよっ」


 私たちは終わる……この愛が、終わりを告げる瞬間が目前に迫ってきている。それが嫌で、あなたを見つめた。

 ……不意に沈黙が訪れる。俊文さんは今、何を考えているのかしら?

 別れの言葉? きっとそのはず。……こんな面倒臭い女とはすっぱり別れて、別の女性と結ばれた方が……。


「俺の叔父さんが北海道にいる。しばらくそこで暮らそう。いつまでになるかは分からない。俺がいなくなっても会社は回る、急にいなくなっても問題ないよ。糸華の方は分からないが、こう言う状況だ。何とか出来るか? しばらく向こうで暮らして、ほとぼりが冷めるのを待とうか。ご両親も考え方を変えてくれる日を待とう。こうなる前にご挨拶だけでもしておきたかったが……、今言っても仕方ないよな」


 あなたの優しげな言葉の意味が、半分もわからない。

 『考え方を変えてくれる日を待とう。』きちんと聞こえたのは、それだけ。

 ああ、私はまだあなたに嫌われていない……愛されている? 本当に?

 あなたに愛されなくなる日が来る――それくらいなら。


「……ねぇ、私たちが結ばれない人生に意味なんてないと思わない?」

「そんな事……、考えた事もない。結ばれたいと思う気持ちこそが、今一番大切なんじゃないのか?」

「私も同じ気持ちよ。このままじゃ、どこに行ったって両親は追いかけて来る。そして私は無理やり結婚させられる! ……あなたと誰にも邪魔されずに、あの世で結ばれたい。そう考えるのはおかしいかしら? 私は真実の愛に殉じたいの! お願い、私と一緒に死んで……!!」


 突き動かされる衝動のままに立ち上がり、この思いが伝わるように俊文さんの肩を掴んだ。

 あなたが顔をしかめたのは一瞬で、すぐに私の腕を力づくで剥がす。そうして両腕の上から、痛いくらいに抱き締められた。


「死んで何になる! 真実の愛が何になる! 君が死ぬくらいなら、俺は離れた所から君の幸せを願っている方がマシだ。生きてこそ、生きてこそなんだ……」

「俊文さん……!」


 愛されている。私はこんなにも愛されている!

 ボロボロととめどなく溢れる涙で、スーツの生地が濡れてしまう。

 俊文さんなら、この気持ちを受け止めてくれる。私は彼の胸に顔をうずめて、どうにもならない心の中をさらけ出した。


「私を愛して。怖い、あなたへの愛が……この気持ちが怖い……っ」

「いいか良く聞くんだ糸華、その気持ちだけで十分だ。例え二人結ばれなくても、今この瞬間俺達は確かに愛し合っている。俺はこの瞬間さえあれば生きていける! そして何より、君の幸せを願っている……」


 俊文さんは私の身体をそっと離して、背を向けた。

 私たちの愛には、心だけが繋がっていれば良いと言うのね……。触れ合いも誓いの言葉も、どれだけ重ねたって真実に変わりはないんだわ。

 この怖いくらいの気持ちは、愛しているって叫びは彼の幸せを願えないの? いいえ! 例え彼だけでも幸せになって欲しい。

 私は……間違っていたんだわ……。

 背を向けた俊文さんが、それを教えてくれた。『大丈夫』といつか教えてくれたみたいに……。


「私も……。私が、間違っていたわ。黄泉の国で結ばれたなら、絶対に離れなくて良いと思った。でも、違うのね? 離れていても、私はこんなにも愛されているんだわ」


 私は俊文さんの愛を感じて、湧き上がる熱い感情に思い切り泣き声をあげた。

 彼は涙が落ち着くのを待ってくれていたのか、やがて私が大きく深呼吸をすると、力強い言葉で背中を押してくれる。


「さぁ、行くんだ」

「ええ!」


 私はようやく、いつもと変わらない笑顔をあなたに向けることができた。

 最後に見るのが背中だって構わない。あなたへの気持ちは、今も心の中で紡がれている。二人の思い出は確かに生きているんだから。

 俊文さんを振り返ることなく玄関のドアを掴み、外に出る。ここから私たちの愛は続いて行く……。


 ――終わった……。感情を落ち着ける為に袖で涙を拭って、すぐに部屋の中に戻る。

 そして熱演してくれた名プレイヤーに、感謝の気持ちで頭を下げた。


「……ありがとう、紗丹さたん君。あなたのおかげで、時が戻ったみたいに感じたわ。あの時の愛が、絶望がまざまざと蘇って来た」



 本当にあった過去は変わらない。だけど今日、私は自分のわだかまりを振り絞ることができた。

 もしこうなっていたら……そんな思い残しはきれいさっぱりなくなった。余韻はまだあるけれど……とても心地良い。


「もしかしてこれ、本当にあった事なんですか?」

「実はそうなのよ。私の昔の恋人はね、心中の提案を受け入れてくれたの。『苦痛を与えたくないから、睡眠薬を飲んで眠っている君をあの世に送るよ』なんて言って……全部嘘だったわ」


 今はもう笑い話にするしかない。ここまで付き合ってくれた彼を気落ちさせたくなくて、なるべく軽い調子で言う。


「嘘、ですか……」

「彼は心中を言い出した私に、これ以上巻き込まれるのはごめんだと言ったそうよ。眠る私を実家の追っ手に引き渡して、代わりにお金をもらって音信不通。……それ以来、人を信じられなくなってしまって」


 『お断り屋』の存在を知ったのは、偶然出会った牡丹さんに紹介してもらったからだった。

 いつか、私の踏みにじられた思いを昇華してくれるプレイヤーに会えるかもしれないと願って、色んなプレイヤーとマッチングしてきた。それは再起にはちょうど良いリハビリにもなった。


「それをまだ引きずってらっしゃるんですね……」

「もう“引きずっていた”よ。それにしても、色々と細かいことをお願いしてしまってごめんなさい。普段のお仕事と違ってやりにくかったでしょう」

「いえ、難しくてやりがいのあるプレイでした」


 やりがいのある、なんて言ってくれる彼を選んで本当に良かった。


「優しいのね。二週間の内に三回も予約を入れさせてくれるし……牡丹さんによくお礼を伝えてくれるかしら?」

「分かりました、伝えておきます。珍しく優先的に予約を入れてほしいとお願いされましたよ。ご友人関係ですか?」

「パーティーなんかで時々会う知り合い、かしら。久々に会って痩せた私を心配してくれて、お断り屋スペックスを紹介してくれたのも彼女よ」

「あぁ……、なるほど」


 当時のことは私が弱過ぎた……。そうわかっていても、家族と恋人から同時に糸を切られた私は、人形みたいに無気力なまま。今に至るまで、なかなか社会復帰に踏み切れなかった。


「恋人役がガリガリじゃ気になっちゃうわよね。誰からも裏切られた私は、何もかもを恨んで食事を拒んだの。ずっとお水しか飲まなくて、二週間も経ってから両親が死ぬほど嫌なら縁談はなかったことにすると謝って来た。けど、縁談なんてどうでも良かった……生きる気力が湧かなくて、いつまでも体重が戻らなくて。だけど……」


 生半可なプレイヤーだったら、こんなに入り込めなかったはず。

 一度きり、と決めた過去の再現を、彼は期待以上のプレイで返してくれた。


「生きてこそ、感じられる幸せがあると僕は思いますよ」


 ふっ、と力が抜けて自然に笑っていた。そう、笑うってこんな感じだった。


「今日からは前を向けそうよ。本当にありがとう」

「次回は楽しいお断りが出来るよう、心よりお待ちして申し上げます」

「そうだ。最後に一つだけお願いを聞いてくれない?」

「何でしょうか?」

「注文書で気づいてるかもしれないけど、紗丹君の低い声ってちょっとだけ俊文さんの声に似てるの。だから、その声で絶対にあの人が言わなさそうなセリフをお願い」


 紗丹君は一瞬だけ考えて、私と目を合わせる。


「生きろ、そなたは美しい」

「ふふ……っ! うん、吹っ切れたわ!」


 どこかで聞いたようなセリフ。だけど、それは彼から私へのメッセージのような気もした。

 これで過去への決別は終わり。私の人生は、まだまだこれから!


  †  †  †


 紗丹君とのプレイが終わってから、三カ月あまりが過ぎた。

 あれから私は、社会人たちが集まる小さな劇団に入って稽古をしている。

 決別のプレイをお願いするまでに何度か行った、リハビリ的なお断りプレイ。あのお芝居たちが、私に演技の楽しさを教えてくれたから。


「いただきます」

「香芝さんてたくさん食べるのに細いんですね。羨ましい」


 向かいに座った年下の女の子が、二つのお弁当を並べた私に感心したように呟く。


「うん、最近ご飯が美味しくって。役者は身体が資本だし、しっかり食べないと」

「あの~小耳に挟んだ話では、香芝さんのお家って大きい会社を経営してるとか? なんでもっとしっかりした劇団じゃなく、ここなんですか?」

「そうね~、今は人生を楽しみたいの。上手くなりたい気持ちはあるけど、お仕事にしたい訳じゃない。みんなで楽しく演技がしたいから、かな」

「なんか大人ですねー」


 こうして家のことを訊かれても嫌じゃない。昔はあんなに話したくなかったのに。

 またスペックスに行くのも良いかもしれないわね。

 今度は舞台の台本に合わせたシチュエーションをお願いするの。もちろん指名相手は、紗丹君で。



《おわり》


当方のリクエストから始まった『心の中へ紡ぐ糸』をお読みくださり、ありがとうございました。

なんとこの作品、俊文(紗丹)の「セリフ」は全てなつのさんち様に頂いたものなのです!

本編の『お断り屋』の更新の合間に、こちらにもお時間を頂き完成しました。


その素晴らしい土台に恥じないよう、一本の恋愛小説としても『お断り屋』のコラボ作としても楽しめるよう、力いっぱい努めさせてもらいました。

何より書いている間中、とても楽しかったです。

再三になりますが何度となくメッセージにお付き合いくださり、また、コラボしたいとお声をかけてくださったなつのさんち様に、深く感謝申し上げます。まだ読んでいないという方がもしおりましたら、ぜひ面白くてちょっぴりエッチな『友達の彼女の告白を断ったら、お断り屋にスカウトされました!』もよろしくお願いします!


結衣崎早月


 どうも、なつのと申します。

 女性の心の傷をその時と同じシチュエーションをリプレイする事で、上書きしてしまおう。というコンセプトのコラボ作品でした。

いかがでしたでしょうか?

 基本エロかギャクのあるお断りシチュエーションしか書けない私では生まれなかったこの作品。お楽しみ頂けたのなら幸いです。

 最後になりました。結衣崎早月様、ありがとうございました!非常に楽しかったです。


なつのさんち

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[良い点] 深い情愛とお断り、相克しそうな内容にも関わらず双方が引き立てあう様で非常に面白かった。 [一言] コラボ作品ということで何となく敬遠してしまっていたけど、危うく損するところだった。 コラボ…
[一言] ふと立ち寄って、気づいたら読み終わってました。 こりゃよーできとる。 つぎはぎ感とかは全くないですね。 シナリオも良く出来てて、読後も、ほふぅーという感じ。 良掌編でした! もののけ台詞も…
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