11月
「今度うちの両親に挨拶に行かないか」
そう幸田に言われたのは今日の昼、あいつのアパートまでラーメンを作りに行ったときだった。
万里は作りかけのとんこつラーメンにもやしを突っ込みながら
「まだ付き合って一年も経ってないのにご挨拶?」
と聞いた。
「別に付き合った女性全部をいちいち両親に見せるほどのファミコンじゃあないけど、僕っていちおう今年三十歳なわけ。わかる? この意味」
「さっぱり」
万里はラーメンと格闘しながら肩を竦めた。
別に見えていたわけではないが、なんとなく背後で幸田がため息をついているような気がした。
「いちおうね、遊びで付き合う時期は過ぎたってこと。少しは将来見越して、可能性のある人はいきなり親に見せるんじゃあなく、前々から見せておいたほうがいいかなって思ったの。OK?」
「うん、OKだけど……そういや幸ちゃんの家族の話、まったく聞いてなかったね」
「君の家族の話は妹のことばっかで親が出てこないよね」
どんぶりにラーメンを盛り付けて、箸といっしょに幸田の元に持って行く。顔を対わせるような形でテーブルにこしかけ、ふたりで同時に「いただきます」と言ってから箸を手にとった。
「幸ちゃんの家族ってどんな家族?」
「少なくとも君の家族に比べればインパクトで負けるかな。つまり普通の家族。オタクでBL小説読むのが趣味な三十四の姉と、少女漫画が大好きな年齢不詳の母親と、姉と母の本をたまーに読む父親」
「つまりお父さんは少女漫画もBLもいける人ってわけですね?」
「取り方によっちゃそうとれるかもね」
肩を竦めて、ラーメンを啜る幸田。万里もずるずるとラーメンを啜る。
「職業は? 作家とか、そういうクリエイター系?」
「父は営業サラリーマンで、母はスーパーのパート。姉はえーと……彼女すぐに働き先変わるんだけど、今はたぶんビデオ屋さんでバイトしているんじゃあないかな」
「なるほど。そういう紹介だと普通の家に聞こえる。変わった紹介のしかたをすると?」
「ないよそんなの。強いて言うならTLとBLが家のどの部屋にもあるってことくらいで、どこにでもある普通の家だ」
「まあそこは普通かどうかはともかくとして、幸ちゃんは少女漫画とBLに囲まれて育ったわけですね」
「小学生の頃、男は普通両方いけるもんだと思っていた。ってそんな話じゃあないでしょ。うちの家族と会わせたいって言ってるだけなんだし」
この時点で幸田の小学生時代の話をほじくり出してみたくもなったが、それは彼にとって消したい過去かもしれないのでやめておくことにした。
「なんでいきなりそんな話になったわけ?」
「いきなりじゃあないよ。いきなり言うと君のことだから『オオオオオ!』とか慄きそうだったから、今のうちに言ったんだよ」
「言った? 『オオオオオ!』って」
「一回目にしたとき、服脱がせるまでそのシチュエーションに気づかず、そして手をかけた瞬間『オオオオオ!』って言ったじゃない。僕が驚いたよ」
そんなこともあったなあ、と思いながら万里はラーメンをずずず、と啜った。
「いつご挨拶に?」
「来週は〆切があるから、再来週あたりどう? そっち〆切ある?」
「早めに片付けておくよう心がけます」
「よろしい」
あまり噛まずに食べる幸田は先にラーメンを食べ終わると、スープを半分だけ飲んでから残りを流しに捨ててパソコンのほうに行ってしまった。
万里はラーメンをのろのろと食べながら、とんこつスープは好きだから飲まないならば欲しかったと考えていた。
アトリエ日高に戻り、仕事を片付けている最中にふと先ほどの幸田の内容を思い出した。
再来週には幸田のご両親と会うことになりそうだ。幸田のご両親ということは、当然苗字は幸田だろう。幸ちゃんと呼ぶよりは直哉さんと呼んだほうがいいのだろうか。
そんなことをぐるぐると考え始めたら、もう小説が手につかなくなったのでいったん手を休めて一階に晩御飯を食べにいった。
「馬刺し?」
サシの入った美味しそうな馬刺しがテーブルの上に並んでいる。
「千ちゃんと万ちゃんのパパから送られてきたんですよ」
彩子が嬉しそうにそう言う。そういえばクール宅急便が夕方頃来ていたような気がする。
「お父さんから馬刺しが? また九州に行ったんだ」
「お礼の電話は千ちゃんがさっきしていました」
「ふうん」
緑茶を用意しながら千里に話を聞こうとすると、千里は缶ビールを飲みながら全員が斉うのを待っていた。
千里の隣の席に座ると、彼女はこちらをちらりと見て言った。
「じいちゃん、容態悪いみたい」
「じゃあいよいよな感じ?」
「ばあちゃんもがんばったからなあ……」
母方の祖父母のところに父親が頻繁に顔を出すのには理由がある。それはお金を貸してもらうという、ごく単純な理由だ。
父はいい人だったが、あまりお金の管理が上手ではない。父方の祖父母はもう他界しており、金に困ったらとりあえず母方を頼るというのが父のやり方だった。
「この馬刺し、おばあちゃんのお金かな」
「じゃねぇの? こんな高そうな馬刺し、親父が買うか?」
「買うかもよ。食べたいものは遠慮なく買う人だし」
「まあそりゃそうだね……」
誰の金で買ったかはとりあえず口に入るときにはどうでもよくなっていた。しかし食べながら気にしていたことは、自分は果たして幸田と結婚するのに見合うだけの女なのだろうかということだった。
仕事はいちおうしている。料理も普通に作れる。しかし薬を大量に飲んでいる身だから子供もつくれなければ、あまりまだ好ましいと思われていない青い手帳(精神障害者手帳)を持つ身だ。
比べて幸田はどうだろう。売れっ子の小説家で、身辺自立ができており、よく出来た人格者でもある。
とても釣り合いがとれている気がしないのは、今でもそうだ。
「姉貴の馬刺しもーらい」
隣から千里が馬刺しを攫っていく。
「こら、千里。それは万里さんのだろ」
太一がお向かいから注意をする。こいつらはうまくいきそうな気がするのだが。
姉馬鹿な万里から見れば千里は可愛い妹で、誰に嫁にやったって恥ずかしくないと思うわけだが、いかんせん癖のある妹なので貰ってくれる男性はあまりいそうもない。
「アタシは太一の馬刺しもーらい」
と、唯が太一の馬刺しを掻っ攫う。この男もいずれは誰かと所帯を持つだろう。もっともオカマなので、相手は男の可能性もあるが。
「じゃあ私は唯ちゃんのお豆腐をいただきです」
「お米は唯ちゃんのビールをいただき!」
彩子とお米が手を伸ばして、唯の冷やっことビールを可攫っていく。こうしていると本当に、実の家族よりもあたたかい食卓だよなあと思わずにはいられない。
本物の家族で最後に食卓を囲んだのはいつだろう。たしかあの頃は祖母も生きていたと思う。母親は料理が上手だったし、家族も定時に揃う環境だったため、みんなで食卓を囲んでいた。
いつだったか、祖母が不思議そうにこう言った。
「万里は二十一歳なのに、どうして働きに行っていないんだろうね?」
当時十三歳だった千里は、首を傾げて
「姉貴が仕事していないと困ることあるの? ばあちゃん」
と聞いた。祖母は「困りはしないけど……」と口ごもった。
「だけど、世間様が働いているときに、家にいるというのもおかしいじゃあないか」
「お義母さん、万里は家でSOHOの仕事をしているんですよ。昔で言う、内職です」
母親がそうフォローした。ボケた祖母は納得がいかん様子でさらに続ける。
「でも万里は家にばかりいたら、嫁の貰い手もないだろうに」
そのとき父親がおかしそうに笑って、祖母に言った。
「お袋、その心配はいらないよ。万里はどうせ結婚しない。貰い手なんているはずがないんだ」
「そうなのかい?」
「うん。普通の男だったら手に負えないよ」
「ならば仕方がないね」
そう言って祖母は漬物をくちゃくちゃと食べた。万里はその会話を黙って聞いて、自分も豆腐を啜った。
それからしばらくして、医者の元に行ったとき、障害者枠の仕事は何があるかと聞いた。
医者は「あなたはまだ働けるレベルではない」とぴしゃっと言って、万里は仕方なくそれからもこっそりとSOHOの仕事を続けた。
社会不適応かどうかではない。純粋に脳がクラッシュするような痛みに襲われているときは、仕事どころではないのだ。
精神病と聞くとだいたいの人は心の病気と思いがちだが、幻覚や妄想だけと戦えば済むのであればこれ幸いである。薬を飲まなければ脳は傷むし、薬を飲んでもそれによって別の細胞が腐った臭いを放つ。
麻薬の一歩手前の薬を使い続けるということはそういうことだ。しかしそうでもしない限り、自我を維持することすらできず、下手すれば命そのものだって危なくなるのだ。
決して心の病気なんて可愛らしいもので済まされるわけがない。
「悔しいなあ……」
万里は呟いた。あともうちょっと症状が軽くなればなあ。健康だったらなあ。そう考える。
そんなとき、ふと、ちいさい頃のことを思い出した。祖父が死んでしばらくした日、父親が万里を膝に抱いたままこう言った。
「お袋が反対しているけどね、親父の金で事業を起そうと思っているんだ。いい条件があってさ、三十万円あればできそうな気がするんだけどね……」
父親は夢のように「三十万円あればなあ……」と何度も呟いた。万里は、そのときうちの両親にはたった三十万円の貯金すらないことを知った。それすらないのに事業を起そうっていうのか……と思いながら、「三十万円あれば何買いたいー?」と父親に聞くような小学生だった。
父親と万里は何度ももし三十万円あれば何が買いたいかという話をした。欲しいゲーム、新しい服、チョコレート。クラスメイトがあっさり手に入れているものが欲しくてたまらなかった。
だけど大人になれば、自分でお金を稼げるようになれば、全部手に入ると思っていたのだ。
賞味期限の切れた牛乳と卵をフレンチトーストにして無理やり食べるようなこともないのだろうと思っていた。
だけどそんな頑張り屋に限って、体を壊す。ついでに精神も壊した。万里はこれでも回復したほうなのだ。もっと働けない障害者はいっぱいいる。破壊的なことをしたり、言ったりする人間もいっぱいいる。
万里自身だって、精一杯がんばっても、やっぱり破壊的になる瞬間がある。だけどそれは障害のせいというより、人間ならば誰しもがそうなる瞬間があるのだと思う。
「三十万円あればなあ」とか、「健康があればなあ」とか、内容は変わっても、言っていることは同じだ。
夢を描いているだけ。普通の人が当たり前に手に入るものを手に入れられたときのことを夢想するだけにすぎない。
「万里はどうせ結婚しない。貰い手なんているはずがないんだ」
父親の言葉が頭の中で木霊した。自分の貰い手なんているはずがないと、どこかで思っていた。今もどこかで思っている。
たまらなく不安だった。不幸になるときより、幸せになろうとしている瞬間のほうが怖くて仕方がない。この幸せの代わりに、どでかいしっぺ返しが来るのではないだろうかという気すらしてくるのだ。
「失礼しまーす」
扉を開けて入ってきたのは彩子だった。
「万里さん、仕事中断してもらって平気ですか?」
「ああ、どうぞ」
彩子が持ってきた夜食の卵雑炊を啜りながら、万里は「で?」と彼女を促す。
「漫画を描いたんですけど、テーマが重すぎて少女漫画には向かないって言われてしまったんです。見てもらっていいですか?」
「ああうん、いいよ」
彩子の描く話は女子高生がこれを描いたのか? と疑いたくなるような軍記モノが多い。ところが、今回テーマにしてあるのは違う作品だった。
――幼稚園生のとき、先生が「みんなでスキップしましょう」と言った。
みんなが楽しそうにスキップした。私は何が楽しいのか、全然わからなかった。
いきなりスタートが冷めた幼稚園児だな、と思いながら続きを読んだ。
――小学生のとき、母親が乳がんで入院した。私はそんなときに初潮になった。病室のベッドの上で、母が平らになった胸を見て泣いていた。
私は母親に、自分が女になったことを言うことができなかった。
その日初めて私はブラジャーと生理用品を万引きした。悪いことだとはわかっていたけれども、後悔はしていない。
「へヴィだ」
思わず呟き、さらにページをめくる。
――中学生になったとき、気に入らなかったクラスメイトをいじめた。普通いじめっ子が怒られるはずなのに、「あの子は家の事情が可哀想だから」と先生はいじめられっ子に我慢するように言った。
私は調子に乗って、その子が転校するまでいじめ続けた。
「…………」
暗い話だが、不思議と世界観がある。万里はどこまでこのストーリーは続くのだろうかと思って続きを読んだ。
――高校生になったとき、家族がバラバラになった。弟は母親についていくと言った。
父親は「お前はいらないから、母親についていきなさい」と言った。私は母親も父親もいらなかったから、ひとりぼっちを選んだ。
私は捨てられる前に捨てたのだ。
万里は無言でページをめくった。
――なんとなくの気分で男と寝たら、妊娠してしまった。
「うわあ……」
ここまでくるとどうすればいいのかわからない。救いがあるストーリーなのだろうな? と思いながら続きを読む。
――相手は、元クラスメイトの高校生だった。
私は言った。
「あんたは頭いいんだし、大学行くんでしょ? いいよ、堕ろす金だけくれれば」
男は笑ってこう言った。
「そんなこと心配してたの? 子供、産もうよ。俺もがんばるし、お前もいい母親になるよ」
この男は馬鹿か? と思った。
――男はヨシヲという名前だった。あいつが名乗ってくるまで、名前も知らなかった。
すぐに高校を停学し、今までバイトしていたコンビニをフルタイムで働き始めた。
私はこりゃーいい金づるが手に入ったわと思い、あいつの金でご飯を食べて暮らした。
当然、ヨシヲの両親は私のことが大嫌いだった。
――ヨシヲはよく働いた。そして私のことをよく褒めてくれた。
「この味噌汁美味いな」
インスタントのアサゲだった。
「お前、スタイルすごくいいよ」
妊娠八ヶ月目で言われると複雑な気分だ。
「へえ、昔は痩せていたんだな」
子供を産んだあとにこの台詞はいかなるものか。そりゃ中学生と比べたら太ったが。
ヨシヲはともかく、褒める部分がトンチンカンである。
――子供がよちよち歩きをするようになった頃、私は不意に不安になった。
この子はヨシヲに似るのだろうか、私に似るのだろうか。どうか私には似ないでほしい。愛される子に育ってほしい。
――残念ながら、娘はヨシヲに似ず、私のような子に育った。ヨシヲは娘の体たらくぶりを叱り飛ばす。娘は叱らない私によく懐いた。
私は娘を叱る資格がないだけだというのに。
「なんでうちの父さんと結婚したの?」
と娘にヨシヲを馬鹿にされたとき、私は悲しくなった。そうして金づるだと思って結婚したと伝えるのが苦しくて
「愛していたからよ」
と言った。私は嘘つきだ。
「お父さんは私のこと嫌いなんだよ」
娘はそう言った。馬鹿な娘、お前の父親ほど、お前のことを考えている人などいないのに。
「お母さんはね」
娘に言わなくちゃいけなかった。
「お父さんと会って、初めてやさしさを学んだのよ」
「お父さんと会って? その前は?」
「今のあなた以上のクソガキだった」
「…………」
「クソガキって自覚あるんだ?」
「あるよ」
「でもお父さんはいい男だったのよ? 頭も良かったし、性格もよかったし、運動音痴だけど」
「へーえ」
「でもまあ、ぶっちゃけ、あんたがお父さんのこと嫌いでもいいのよ」
「いいんだ?」
「お父さんには私がいるもの。それより、あんたはあんたの愛する男を見つけなさい」
「いるの? 私を貰ってくれるような奴」
「いるよ。こんだけ人口いるんだもの。カス男からいい男までごまんと」
「でも、いい男がそうそう引っかかるかな?」
「それはあなた次第ね」
「お父さんをどうやって落としたの?」
「え? セックスで」
「うわっ、聞きたくねえ」
「でもね、あなたが生れたときに、お母さんとても嬉しかったのよ?」
「本当?」
「うん」
「幸せになる手前ってね、すごく怖いの。だけどそれを越えたら、すごく幸せなのよ」
「私みたいな娘がいても?」
「そりゃもう。当然」
「だからあんたも、お父さんの悪口を言ってばかりでなく、悔しかったらヨシヲ以上のいい男を連れてくるのよ?」
「わかった」
――娘は少し嬉しそうに笑うと、寝室へ消えていった。私はヨシヲが帰宅してくるまで少し待っている。
あの人は、最近不倫をしているようだ。だけど私は、あの人に裏切られたという気がしない。私があの人を裏切り続けた気すら、するのだ。
――この結末がハッピーエンドではないって? ならば聞くわ、私のどこが幸せじゃあないというの?
私にとって家族がいる幸せ。
ずっと望んでいても手に入らなかったものが今はここにある。
――何度でも言うわ。
私はこの結末に、満足しているの。(了)
「重い! 少女漫画には重すぎるよ、彩子ちゃん」
万里は思わず原稿を握ったままそう叫んだ。
彩子は不思議そうに首を傾げて
「でも、どんな家庭でもそんなものでしょう?」
と聞いてきた。
「少女漫画は夢売らなきゃ。美少年と美少女のキラキラした恋愛とか書かないの?」
「ヨシヲは超美少年ですよ。そして主人公の女の子も超可愛い絵でしょう!」
「やー、そうだけど」
イラストだけはキラキラした絵柄になっている。普段ゴルゴのような絵調の彩子にしてはがんばったのだろうと思った。
「じゃあ万里さん、このお話に相応しいハッピーエンドとか思いつきますか?」
「どうだろうなあ。普通にヨシヲが寿司とか持って帰ってくるじゃあだめなの?」
「不倫中の男は優しくなるというあれですね?」
「いや違って、普通にアットホームな家庭をイメージしてだね……」
なんだか小説ならこれもアリだって気がするのだが、三十二ページ読みきりでこれはきつすぎるということをどう伝えようか迷った。
「彩子ちゃんは、どんな結婚をしたいの?」
「私ですか? 可愛いプリンセス型のウェディングドレス着たいです」
「結婚式でなく、その後ね。どんなのを理想としているの? こういう生活を理想としている?」
「私は、漫画を描く環境を保障してくれる旦那さんであれば、ある程度妥協します」
ある意味思い切りはいいな、と思った。
「万里さんはどんな結婚を描いているんですか?」
言われて、自分の中に結婚したあとのビジョンがまったくないことに気づいた。そもそも結婚できるとも思っていなかったからだ。
「子供はいらないなあ。私、身体弱いし」
「じゃあ幸田さんだけでいいんですか?」
「うーん。妹もいるとなおいいけど」
「新婚生活に千ちゃん連れて行くつもりですか!?」
「駄目かな?」
「幸田さんがいいって言ってもやめたほうがいいと思います」
万里と彩子、どっちが常識的なのかわからなくなってきた。自分も少しこのシスコンはどうにかしたほうがいいと思っている。
「そもそも、幸ちゃんは私と結婚したいと思っていると思う? こんなに不健康な奥さん欲しいのかな」
最後は女子高生相手に自虐的なことを言ってしまった。
彩子は目をまんまるくして、言った。
「万里さん、健康で性悪な女と、不健康だけどいい女だったら、絶対に不健康でいい女を選びますよ!」
「私は性悪で健康な男と、いい人だけど不健康な男だったら、性悪で健康な男を選ぶけどね」
「どうしてですか?」
「いい人なんて、碌なもんじゃあないから」
父親はいい人だった。だけどいい人だからって、いいとばかりは限らない。
「幸田さんは悪い人なんですか?」
「あいつはどうしようもなく勿体無いくらいいい男だよ?」
「じゃあ性悪で健康な男より、性格よくて健康な男がいいじゃあないですか」
「そうなんだけどさ……なんか自分には勿体無いなあ、って」
何を言っているのだ、自分は。万里は内心舌打ちする。彩子が困っているではないか。
「ええと、万里さんがこの先、幸田さん以外の人とおつきあいすることになったとしても、彩子は気にしません」
彩子はおろおろしながらそう言った。
「だけど、幸田さんといっしょにいるときの万里さんは、とても幸せそうです」
万里は黙った。
「そう?」
「はい! 彩子もいい男をゲットするぞ、と思います」
「ああうん、彩子ちゃんは料理上手だし、器量もいいからいい男見つかるよ」
「万里さんと幸田さんはお似合いだと思います。だから遠慮なく、幸せになってください!」
彩子が熱の篭った言葉でそう言った。万里は気おされたように
「わかったよ」
と頷いた。
彩子は原稿を貰うと
「相談に乗っていただきありがとうございました」
と言って姿を消した。
相談に乗ってもらったのはどちらなのだろうと思った。
幸田の家は横浜の旭区にあるらしい。車を走らせる幸田の隣で、万里は終わっていない原稿をばちばちと打った。
「よっしゃ、終わった」
メールで出版社に送信したところで、ノートパソコンを閉じる。
「お疲れさん。なんとかギリギリ終わったみたいだね」
「やー。途中で風邪ひいたのが間違いだったね」
「仕方ないよ。風邪は誰でもひくものだし」
幸田は車を走らせながら、「そういえば……」と言った。
「心の準備はできましたか? 万里さん」
「どういうこと?」
「君のことだから、結婚を意識するまでにも普通の人よりも時間がかかるでしょう。牛歩だし」
「ああうん……」
ノートパソコンの上で手を重ねて、万里はうーんと唸った。
「いまだに私が、幸ちゃんに相応しい相手かどうかはわからない」
「……まだそんなこと考えてたの?」
「だけど、私に幸ちゃん以上に素晴らしい相手が見つかるとは思えない」
幸田はその言葉にククク、と笑った。
「ありがとう。相応しいどころか素晴らしいって」
ツボにはまったらしく、しばらく笑っていた。何か面白いことを言っただろうか、と万里は考える。
「じゃあ僕も君にお返しで言うよ」
赤信号で止まったときに、幸田が言った。
「僕以上に素晴らしい相手が君に見つかるとは思えない。そして僕は、君以上に自分に相応しいと思う相手を知らない」
万里は目をぱちくりとさせて「本当?」と聞き返した。
「いいじゃない? 素晴らしい僕と、それに相応しい君で」
「いいのかなあ……」
「いいのいいの」
何か上機嫌になった幸田が青信号と共にアクセルを踏んだ。
「『お前にうちの息子はやらん!』って言われたらどうしよう」
「そのときは僕が『娘さんを僕にください!』って額づきに君の家まで行くよ。君の苗字が幸田に変わるだけだ」
「そういう意味じゃあないんだけど」
ぼそぼそと呟く。
「私も『直哉さんをお婿にください!』って額づくべき?」
真顔でそう聞いたら、幸田が堪えられないとばかりに爆笑しはじめた。
「彼女が遊びにくるっていうだけのつもりが、いきなりそんな展開になったらうちの両親驚くだろうなあ。いいよ、うん。それやって頂戴」
「ええ。やるの?」
「うん。やると言ったら、やってね」
幸田が意地悪そうに笑ってそう言った。なんだかんだいい性格をしている。
結局、幸田の両親は性格のよさそうな人たちだった。姉にあたる人も人当たりのよい人だった。
幸田が「やれ、やれ」と小突いてくるので額づいて
「お薄一服差し上げます!」
とお辞儀したら
「まあ、裏と表、どっち?」
と流派を聞かれた。高校のときちょっとやっただけだというのに、裏千家と答えておいた。
案外無難に話をし、夕食まで食べさせてもらって帰ってきた。
結婚するとしたらどんな家庭が欲しいのかと言ったら、たぶん万里はこう答えると思う。世界にひとつしかない、自分の家族。と。
普通でも異常でもどっちでもいい。自分にとって大切な家族が欲しい。
そのとき万里は、彩子の漫画の主人公の女と同じことを言うだろう。
私はこのお話の結末に満足している。と。
(了)