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6月


 原稿が燃えたくらいだったらこんなに動揺しなかったんじゃあないかって気がする。


「姉貴、姉貴」

 アトリエ日高はクリエイターの集う雑居地帯である。千里が姉の万里を呼んだ。

 手元を見るとそこには綺麗な千代紙の折り紙が置いてある。

「これに肩が凝ったとかお願い事書いてくれねぇか?」

 筆を渡されたので「センスのいい文章が書きたい」と書き、言われるがままに鶴を折った。

 それを持っていくと千里は皿の上で火をつけてめらめらと鶴を燃やし始めた。

「何やってるの?」

「お焚き上げ。みんなの悪いところをこれで飛ばすんだよ」

「は? 私『センスのいい文章が書きたい』って書いたけど?」

「あーじゃあ、明日から文章浮かばないかもしれねぇな。そうしたらがんばれ」


 ということで、起きてみれば頭の中が真っ白だったのだ。

 思考停止という言葉が相応しいくらい真っ白な状態になっていたが、とりあえず原稿は一昨日のうちに編集者の長井さんに渡してあったので問題はなかった。来月までに能力が戻ってくるのであれば……。

 とりあえず髪を梳かして鬢を結うと、小紋を着て出かける準備をした。

 今日は幸田直哉とのデートの日だった。このデートという響きが万里にはいまだに慣れず、デートデートと口にするたびに口がへの字に曲がるものだから幸田は最近この言葉を口にはしなくなった。

 そんなふたりが付き合い始めて、明確に付き合い始めた日が決っているわけではないのだが、まだ一ヶ月経ったくらいだろうか。もともと同じ出版社の先輩と後輩なので会話をする数は多かったほうだし、つきあい始めてからもその延長上といった感じである。

 だから思い切って聞いてみたのだ。

「お焚き上げで思考が停止することってあると思う?」

 と。幸田は少し考えこんでから、次に長く考えこんでから、こう答えた。

「それさ、その命題だけじゃあ答えは出ない問題じゃあないかな?」

「いやね、話すと長くなるんだけどさ……」

 と昨日の経緯と、今日起きたら頭の中が綺麗さっぱり真っ白になっていたことの説明をした。

「ふうん、そんなことってあるんだね」

「いや私も信じていなかったけれどもさ。いや信じているんだけれどもね、非科学的なことはできるだけ信じたくないという気持ちも裏腹にはあるわけでして」

「そういうわけで君は複雑なんですね」

「そういうことなんですよ、幸ちゃん」

「でもさ、そもそも思考ってけっこう曖昧なもんだと僕は思うんだよ。形象どられてないというのかなあ。ともかく、形のないものは不確かだと思うんだ」

「デカルトとは反対のこと言ってますね」

「デカルトは嫌いだから」

 常々デカルトは嫌いだと言っている幸田が肩を竦めてそう言った。

「じゃあ幸ちゃんは普段小説を書くときにどういうことを題材に使って小説を書くんですか?」

「身近でないことを題材にする」

「ほう、身近でないことを」

 万里は普段身近なことを題材に小説を書くことが多いためにこれは意外な話だった。

「なんだっていいよ? 高校生とか、オヤジとか、SFとか、ともかく遠いものを題材にして書くんだ」

「それに拘りとかは特にあるんですか? 大先生」

「拘りってほどじゃあないけれども、第一に身近なものを題材にするのは女流作家が充分やってくれるからわざわざ男の僕がやる必要はないかなって思うんだよね」

「はあ……」

 その女流作家が身近な題材で行き詰っていて何か題材をくれと先輩にせがんでいるのを知ってか知らずか、幸田はのらりくらりと言った。

「小説を書いている間だけが僕が僕でない瞬間なんだ。それは小説を書いている僕だけでなく、読者だっていっしょだと思う。小説を読んでいる間だけね、その主人公になりきるわけだ。だから、身近な何かになったってしょうがないと僕は考えるんだけれどもそれは別に君の作風を馬鹿にしているわけじゃあないからね?」

「じゃあ次に書くときは暗殺者でも題材に書いてみようかなあ……?」

「何? 君暗殺者になりたいの?」

「なったらどんな感じかなあって」

「君は一流のスナイパー。距離にして300m以内にあるものならばすべて的を外すことのないベテランである日依頼が舞い込んできたんだけれども、その依頼はなんと……」

「なんと?」

「そこからは小説家の君が作る仕事じゃあないのかな?」

「うう、くそっ」

 本当に思考が停止しているらしく何も考えられぬ頭。とりあえず甘いものでも追加しようと思ってわらび餅を注文した。抹茶ミルクのドリンクバーを何杯もチェーンしながら幸田がくれた幾つかのアイデアを元に小説が書けないかさっそく実践してみることにした。



 家に帰ったら太一がぎょっとした顔をして千里がこちらを指差して爆笑した。お米まで笑い始めるのでなんだろうと思ったら彩子が鏡を貸してくれた。アイメイクの色がごちゃごちゃに混ざっている。さっき目にゴミ入っちゃったかもと思って擦ったのが間違いだった。

 メイク落とし用のウェットティッシュで目元をごしごしとしながら万里は言った。

「千ちゃん、あのお焚き上げよく効いたよ。全部の思考が一切合財停止してしまったさ」

「……マジで?」

「うん、本当。今日幸ちゃんから幾つかアイデア貰ってきたのに全然インスピレーションが働かないの」

「だって万里さんって普段ちょっと何か言うだけでインスピレーションがんがん湧いてがんがん書くよね?」

 ちょっと信じられないという顔をした太一と彩子が顔を見合わせる。

「また彩子が何かアイディア出してあげましょうか?」

「アイデアだけだったら幸ちゃんからけっこう貰ったんだよ。それでも書けないとなるとちょっとねぇ……。まあ、原稿は来月までに何か一本書ければOKだからがんばってみ――」

 言いかけたところで携帯が鳴りはじめた。確認すると長井さんからだった。

「はい、榎島かしまですが?」

 榎島というのはペンネームとして使っている名前である。電話に出ると長井さんが裏返った声で言った。

――先生! 先生の原稿まだパソコンの中にバックアップありますか?

「え? ああ、あるけど?」

――出版社で小火ぼやが発生しちゃったんですよ。今から取りに行きますから。

「小火がこんなタイミングで」

 厄は立て続けにやってくるというのは自分の母親の口癖だったが。

 ぷしゃー……

 変な音を立てて上のスプリンクラーが回ったかと思ったら水が飛び始めた。

「んな!? 何が起こった」

「なんでしょう!?」

 万里と彩子が動揺すると向こうのほうで太一と千里たちが

「だから俺に任せておけって言っただろ!」

「ショートするショート!」

「お米ショートケーキ食べたい!」

 などと叫んでいる。どうやら照明器具をいじっていたようだ。そういえばアトリエのメインルームの電球の数を増やすとか千里と太一が言っていた。

「千ちゃん千ちゃん」

「ぁ? なんだ、今忙しい」

「階段から落ちてきてくれませんか!」

「うわー! 万里さん落ち着いてください」

「バンバン何怒ってるのー?」

 アトリエの中にあるすべてのパソコンがイカレタのはわかっていた。万里はバックアップをとっているパソコンの外付けHDDを取り外そうとしたが……そこにない。

「しまった! バックアップとってない」

「そんなこと言うな! 太一なんて明日提出のプログラムが全部とんだんだぞ! 俺だって明後日提出のCGが!」

「死ねよ! お前らどうせ学校だろ。こっちは仕事なんだよ。お米、タクシー呼んで!」

「わかった。どこに?」

「ここにだよ! 幸ちゃんのところで仕事してくる」


 久々に訪ねた幸田の家は相変わらずバーの上にある生活臭のしないシンプルな部屋だった。

 人には花を贈ったりするくせに自分の部屋には飾りやしないんだからと思いながら上がり込むと、本人は風呂上りにポカリスエットを飲みながら甚平姿で出て来た。

 こうやって見るとヤーさんにすら見えるくらい柄の悪い男だなあと改めて思う。実際は人を殴ったことすらないだろうというくらい大人しい男だというのに。

「どうしたの?」

「スプリンクラーが発動してアトリエ全部のパソコンがやられた上に法螺貝出版社で小火が発生した」

「ああ、それは狩野さんから聞いた。何、今から原稿書くつもり? 徹夜するの?」

「するよ! 吹螺みたいなちいさな出版社が一回出版物ダメにしたら潰れるじゃないか!」

「僕も何か書こうか?」

「代稿の用意もいちおうお願いします。って偉そうだな私! 大先生に代稿頼むなんて」

 幸田が笑いながらノートパソコンをこちらに渡してきて、自分もデスクトップの前に座った。黙々とパソコンをぱちぱち打つ音だけがしばらく聞こえていた。

 沈黙に堪えきれずポカリスエットを勝手におかわりするついでに万里は口を開いた。

「どんな話書いてるの?」

「えーとねぇ、三審制の導入について、裁判員の票を買いますという交渉をしはじめる人が現れて法廷が揺れるって話」

 面白そうだ。しかし横から読んでいる場合ではない。幸田がポテトチップスを食べながら「そっちは?」と聞いてきた。

「哲学者猫って話」

「何それ?」

 ものすごく素っ頓狂な声を幸田があげたので万里は冒頭の部分を読んでやった。

「猫。これほどまでに人に愛されながら人に屈しない生き物というのも珍しい。彼ら(もしくは彼女ら)が何を考え何にひたむきになっているのかというのは今だ解明されていないが……」

「なんかつまらなさそう」

「大先生から見ればつまらないかもしれないけどさぁ、猫って何考えてるかわかんないよねって話でね、偏屈なおじいさんが猫を飼っていて猫にだけ本音を話すって話」

「つまりその偏屈なおじいさんの本音は君の本音なんだね」

 図星なところを突かれてうぐぐ、と呻くと幸田は調子づいて言ってきた。

「何書いたの?」

「なんかね、人と付き合うのって面倒じゃない? 情緒ってそんなに大事なの? 自分のぶちまけたい本音を押さえつけて付き合うわけじゃんさ。ひとりの場合はぶちまけたい本音もなんもないってのにひとりからふたりになるだけで大違いだよ」

「僕にも黙っている本音とかある?」

「そう聞いてくるのがめんどっちいって私は言ってるんだ」

「違いない」

 幸田は何がおかしいのか苦笑しながら言った。

「面倒くさいと思うことが僕はおもしろいけれども?」

「私は大先生ほど老成してないんです」

「老成って言うのかなあ、それ。まああれだよ、ちっぽけなことで悩むこともそのうち楽しくなる」

「絶対なんない」

「大人と子供は絶対交わらない生き物だねぇ」

 何か悟りきったように幸田は呟くと「哲学者猫さん」と言ってきた。

「猫さんは結局どういう哲学を開くんですか?」

「猫は人と交わらないからわからないって結論を出します。膝の上でごろごろ言いつつ」

「うわーあ、ひでえ」

 幸田はけらけら笑うとエンターキーを押した。同時に万里もエンターキーを押す。

 協奏曲の最後のような締めくくりでふたりの小説家は同時に小説を書き終えた。


「小火なんてもう出さないでくださいよ!」

 長井さんに小説を渡し終えると。そのまま「疲れた」と言って朝日の差し込む幸田のベッドに倒れこんだ。

 そういえばまだ小紋を着たままだったことを思い出したが、押し寄せてくるような眠気の中で万里は哲学者猫に出会っていた。

「猫さん、結局書くってことはどんなことなんでしょうね?」

「君の書くはそもそもフラストレーションの消化でしかなく、世の中への疑問をすべて小説で代弁させているのにすぎないのだよ、万里くん」

 これは絶対幸田の魂の乗り移った哲学者だと眉間に皺を寄せながら万里は眠る。


◆◇◆◇

 幸田は万里の肩に布団をかけて、ダブルベッドの隣に転がって自分もむにゃむにゃと惰眠を貪りはじめた。

 幸田が起きたのは午後の四時を過ぎた頃で、鏡を見たら猫のような六本のヒゲが油性ペンで書かれていた。

 思わず笑ってしまったが、そのあと明日打ち合わせがあるのにこの顔で行くのかと考えたら青ざめた。

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