5月
……里……万里……万里
「ああもう、うるさいな!」
時計を見れば夜中の三時を廻った頃だった。
しわがれた女の声に起こされたのは何度目だろうか。それは突然夢の中で聞こえはじめて、あの薄気味悪い、ドンドン、ドンドン、という音と共に蘇ってくる。
耳を塞いでも聞こえてくる。万里は布団の中に深くもぐりこみ丸くなった。ひたすら朝が来ますようにと願いながら。
「ねぇ君、魍魎って信じる?」
そう聞いてきたのは幸田である。万里はぴしゃりと言った。
「新興宗教なら入りませんよ?」
「いやだから、単純に心の中に住み着いている何か、みたいなの」
「その定義は広辞苑からですか?」
「いや、なんとなく」
「またどうして?」
「君の目が何かに悲しんでいる。とりつかれているのかと思ったくらいだ」
万里は天を仰いだ。しばらくしてから
「それは七年前から住み着いているんだと思います。でも取り払っちゃいけないものなんです。私の一部みたいなものだから」
「晴れることはないんだね?」
「ええ、たぶん一生」
幸田はしばし考えたようでカウンタのウイスキーを飲んだ。
万里はそこではたと気づいた。おかしい、自分は出版社へ向かっていたはずだ。
落ち着け。迷ったのだとしても隣に幸田がいる。送ってくれるはずだ。
「先生、私いったいどうしたの? なんでここにいるの?」
「ここは僕の行き着けのバー。君はね、出版社の前でしゃがみこんでいたんだよ? 目がちょっとおかしくて、往来においておくわけにもいかず、出版社の人と相談して、家の近い僕が連れ帰ったんだ」
「ちょっと幸田先生と家が近いなんて私知らない! しゃがみこんでたって長井さんは?」
「知ってるよ」
「うわああん、もう!」
長い黒髪を振り乱して万里は声をあげた。 店内が空いているのがせめての救いだ。そのあといきなり顔をがば、と上げると言った。
「原稿、原稿は?」
「長井さんが持っていった」
「そして私は幸田先生がお持ち帰りされたと。男同士仲がよろしくて素晴らしいわ!」
「いや、送っていくつもりだったけど?」
「幸田先生の家も見せてください。それで対等だ」
「君さあ、九時以降に男の部屋に入る危険性をもうちょっと……」
「その危険性とやらも幸田先生以外に誰かやらかすんですか?」
「いや、やんないけれども。わかったよ、連れて行くよ」
幸田はため息をついて勘定を払うと階段をあがっていった。
「え? ここが先生の家なんですか?」
バーの真上に構えたテナントのような家に万里がびっくりする。幸田は笑って
「ほら、すぐお酒飲めるだろう?」
扉の向こう側は綺麗に整頓されていた。万里は真ん中のソファに腰掛けると言った。
「パンプティングとホットワインをお願いします」
「君、風邪治ったじゃあないか。材料もそろってないし」
「一人暮らしの男性のようだ」
「一人暮らしの男だよ」
「じゃあお酒、お酒ください」
「ビールでいいならば」
「三本くらい飲みますよ?」
「太るよ、君。よくそんなに折れそうな体支えてられるね」
冷やしたビールを冷蔵庫から出して缶の蓋をあける小さい音。ぐびっと一気に呷って口元の泡を親指で拭う。
「あー、お酒万歳」
意外と意識ははっきりしている。下のバーではぐでんぐでんになるまで酔っていなかったようだ。幸田がビールをちびちび飲みながら言った。
「実は魍魎ってのはね……君が言ったんだ」
「私が?」
万里が眉をひそめる。
「しゃがみこんで、『魍魎が来る』って、小さな声だったから長井さんくらいしか聞いてないと思うけど」
「長井さんしかしらないことを幸田先生が知っているってことはチクリやがったんですね? 長井さん」
「長井さんは口軽いよね。それで、立てるかどうかたしかめて、タクシー拾ってアトリエ日高まで行ったんだけどみんな留守で、ひとり置いていけないし、しかたがないから僕のバーで君が反応する言葉を色々ためしてみた。ばか、あほ、すっとこどっこい、夕食ですよー、ケーキですよー、マリアージュフルールの紅茶がこんなところに、バナナ……」
「なんですか? そのバナナって」
「反応するかなって思って。反応少しだけしたよ」
「バナナジュース好きなんですよ! ちくしょうどんどん持ち札が暴かれていく」
「ジャングルにも反応したらどうしようかと思った」
「何の漫画の影響ですか! それはともかく、魍魎という言葉に反応して私は我に返ったわけですね?」
幸田は軽くうなずいて
「だからそっちのほうから情報ひっぱっり出せないか考えて色々聞いたんだけど、七年前何があったの?」
「たいしたことなんて何もないですよ。同じ目にあっている人なんてたくさんいる」
吐き捨てるように万里は言った。幸田は不思議なように聞いた。
「同じ目に遭っている人が悲しんではいけない理由があるの?」
「……泣きたい」
万里がぼろっと口にした。
「泣いて発散して忘れられたらなあといつも思う。でもそれはできない」
泣こうとしても涙が出てこない。幸田は何も言わずに万里の頭をやさしく撫でた。それがきっかけで大粒の涙が出てきた。近くにあったティッシュ箱の中身を全部使い切るまでひたすら泣いた。
◆◇◆◇
しばらくして泣きつかれた万里をベッドへ運ぶと、今晩は徹夜で仕事でもしようかなと思い体を起こしたところで万里が幸田の腕をひっぱった。
「今日誘惑してものらないよ? 君は今弱っているだけだから」
「誰がそんなこと言った。勘違い大先生」
さっきまで泣いていた女が今はもうこうである。万里が懐から一枚のディスクを出した。
「フロッピーディスクとかいう古いものはあなたのパソは受け付けますか?」
「たぶん読み込めると思う」
「私が生まれて初めて物書きになろうかと思って書いた文章がそれです。言いたいこともまとまってないし、第一面白くない」
「ジャンルは何?」
「エッセイです」
「あー、面白くなさそうだね」
「はっきり言いやがったな大先生。あんたにそのフロッピーあげます」
「つまり読めってこと?」
「あげたってことは相手に選択を託すということですよ」
「そうか。じゃあ読んでおくから君はもう寝なさい」
「はい。おやすみ」
それっきりぷつりと糸が切れたように寝込んでしまった万里を置いて幸田はパソコンを立ち上げた。
ディスクをいれて読み込むと小説家になれるとはとうてい思えない、支離滅裂な文章が書かれていた。書きたいことを全部順序だてずに書くとこうなるのだろう。
しかし幸田は我慢強くそれを読んで幾つかのことを知った。
万里には妹がふたりいること。ひとりは千里と言って解離性同一性障害であること、もうひとりは百里と言って高校に上がってすぐに引きこもったこと、ボケた祖母が家にいたこと。
時は遡り万里が二十歳の頃の話だった。
万里は生まれつき虚弱体質なほうで、運動も苦手だったため体が弱かった。
定時の仕事ができないために、父親がもらってくるデータ入力などの在宅ワークをやりながら家のことをしていた。
父も母もよく働いていたが、万里の家にはそれ以上に病院代がかかった。
保険に入る暇も金もなかった。
いつも家にいるのは万里と祖母だけ。ボケた祖母はいつも杖で壁を叩きながらしわがれた声で万里を呼ぶ。
すぐに行っても遅いと言われ、あれが足りないこれが足りない、お前はできの悪い子だ、と既に万里が自分の子供なのか孫なのかの区別すらついていない状態の祖母を見て、ボケとは恐ろしいものだ。こうなる前に死んでしまいたいと万里はいつも思っていた。
ある日万里が仮眠をとっていたところ、いつものように祖母が壁を激しく杖で叩いて「万里、万里」と呼ぶ声が聞こえた。
しかし自分の全身は鉛をつけたかのように重く、体を起こすのに少しの時間を要した。いや、それは言い訳なのかもしれない。つまりいつものようにすぐには駆けつけなかった。
そして祖母は死んだ。脳梗塞だったらしい。
どうしてあの時に限って万里はすぐに駆けつけなかったのだろう。親戚はいつも家にいた万里の監督不行き届きに立腹したが、家族は万里のことを責めなかった。
だが、万里は知っている。自分が殺したのだと。
祖母が憎かったわけではない。むしろ愛していた。愛していたのになぜ……
そこで文章は途切れていた。
きっと書きたいことがいっぱいで書く順序も書いてはいけないこともまったくわからなくなってしまったのだろう。
幸田はファイルを閉じると、デスクトップからメモ帳を開いた。
◆◇◆◇
昼下がりに目覚めた万里は寝乱れた自分の着物を正すと櫛を直して幸田の姿を探した。
既に出かけてしまったあとのようでどこにもいない。
「こんなに寝乱れて酔った女に手を出さないって余程律儀か私に魅力がないかのどっちかよね!」
ふとパソコンの電源がついたままのようなので、電源を切ろうと思いモニタのスイッチをいれたところメモ帳が開かれたまま、次のような言葉が書かれていた。
我々はどこから生まれてきたか。
愛から。
我々は如何にして滅ぶか。
愛なきため。
我々は何によって自己に打ち克つか。
愛によって。
我々も愛を見出し得るか。
愛によって。
長い間泣かずに済むのは何によるか。
愛による。
我々をたえず結びつけるのは何か。
愛である。
「ゲーテを引用するあたりが先生らしいや」
長い間泣かずに耐えられたのはなぜか……愛ゆえである。
この時ほんのりと思った。
幸田といっしょにいれば素直に泣いたり、笑ったり、できるようになるかもしれないと。
どうすればいっしょにいられるだろうかと。
人をたえず結びつけるものは何か……愛である。
「あっさがーえり! あっさがーえり!」
アトリエ日高のそんな拍子で万里は迎えられた。
「ついに男ができたと思いますがどう思いますか? 千里さん」
「徹夜で飲んでへべれけになって誰かに一晩迷惑かけたんじゃねーの?」
「どうでもいいですがメールはまったくこなかったですね。『芥川万里を与かった。返して欲しけりゃ千ウォン用意しろ』とか」
「なぜにウォン……銀行も困るだろ?」
万里は電源をオフにしていた携帯の電源をいれた。千里からのメールがずら、と並んでいる。
――姉貴、どこにいる?
――姉貴、連絡いれろ
――姉貴、バナナジュースいっしょに飲もうぜ
「だからどうしてバナナなんだ!?」
「完熟バナナだぜ? 親父とお袋もバナナのことで喧嘩してただろ? 『これは完熟なんだ』『いいや腐ってるようにしか見えない』って」
「ああ……バナナひとつであそこまで喧嘩する夫婦も珍しいよな」
万里は疲れたように呟いた。
「千ちゃんバナナオレ一杯つくってください」
「朝帰りの人の分はねぇよ。ほらみんなで飲んじまったもんねー」
「「ねー」」
彩子と唯が口をそろえて言う。太一がひとり
「すみません。俺のバナナジュースを残しておけばこんなことには」
と反省したように呟く。
「変色してすごいことになるよ? 太一くん」
「そ、そうなんですけど……すみません。今すぐバナナ買ってきます。傷んでそうなの!」
「きれいなの買ってこいよバーカ!」
千里がげらげら笑いながら太一を見送る。万里は不思議そうに千里を見た。
「バナナ、もう一束なかったっけ?」
「あーあったかも」
「だとしたらそっちは完熟とおりこしてるかもしれませんね」
「見てみようか」
直射日光を避けたバスケットの下のほうにあるバナナを見て三人の声がハモった。
「「うわ……」」
じゃんけんでバナナを誰が捨てるか決めようとしたが、みんな必死なためにあいこが何度も続いた。
最後に万里があとだししただのなんだので揉めてその間に静かに帰ってきた太一が腐ったバナナを捨てた。なぜか太一がいつも貧乏くじをひく。
そんな数日後、打ち合わせの電話を受けて万里はいつもどおり出版社に向かった。
せわしく原稿の行き来する出版社の中で長井とふたりで頭を抱える。ネタがない。
「私も頭打ちだったのかなあ」
限界にきてぽつりと万里が言葉を漏らした。
「いい? 五分後にネタを思いついたら「はい」って手をあげるのよ? わかったわね、長井さん」
「はい、わかりました。……ってそれ五分と制限時間を設ける必要性は?」
「緊張感です」
「緊張感ですか」
「では、始め!」
しかし5分経っても手をあげる人はいなかった。
「やっぱ……ダメですね」
鞄を手にとぼとぼと万里は長井の前を通り過ぎ、階段を降りかけた。降りかけて思いついた。
「ねーねー! 長井さん、思いつきました!」
急いで体を捻ったので階段から落ちそうなところをどん、と誰かが支えてくれた。
「軽い体だね。うらやましいや」
そう笑ったのは幸田だった。
まず何から書き始めようか……ずっと決めていた題材があったじゃあないか。千里だ。
――名前すら残らない殺人
ネーミングセンスは相変わらず悪いと自分でも思う。
いつからなのかさえ分からないけれども、千里が千里を演じ始めるようになった。いくつも分かれた人格のひとつひとつが千里で、全部で千里だ。
今日消えるかわからない命よ、明日消えているかもしれない命よ
不安ではないのか。
何もわからないままのほうがいいのか。
それでもみんな千里で、千里が昨日生まれ、今日死んでいく。
ある日千里が私に言った。
「おねえちゃん、私はあと何人自分を殺せばいいの!」
苦しいだろう妹よ。きっと私のこの胸の苦しみ以上に苦しいだろう。
「すべてが終わったら消えた千里たちにお花をあげようね」
と千里は言った。
存在の意味にこころが揺れる。
「……重いですね」
「『こころ』と『心』どっちがいいと思いますか?」
「うーん。とりあえず原稿を持っていきますね」
「はい。よろしくお願いします」
「心、漢字にしたほうがいいよ」
唐突に口を挟んだのは幸田だった。
「そのほうが締まる」
「絞まっちゃ揺れないんじゃあないでしょうかね?」
逆に聞き返したのは万里だ。幸田は胸を叩いて
「君のこころの絞まり具合だろ? きゅん、と絞まったかぎゅーっと絞まったか」
「ずん、ときた」
「よし、漢字で心だ。長井さん修正してよろしく。芥川さんと僕はもう帰るから」
「はい。お疲れ様です」
しばらくいっしょに歩き続ける。それで相手がソワソワしはじめたところでぼそりと言った。
「胸、触ったな?」
「懐紙が邪魔で触れなかった」
「同じだ。幸ちゃんのすけべー」
「すけべとは何事だ。大体今なんて言った、幸田大先生に幸ちゃんとは何事だ」
「あんたなんて幸ちゃんだ。可愛いでしょ、幸ちゃん」
「うん、可愛いけど……って納得していいところなのここって!?」
そんな会話を続けながらいっしょに歩く。非常に楽しい。
「こうやってずっと歩き続けたいな……幸ちゃんといっしょに」
「不思議だね。僕もそうなんだ」
手なんて繋ぐ年頃じゃあないけれど、自然とふたりで手を握った。
結局アトリエまで歩いて帰ってしまい、折角だからお茶でも……と幸田を誘ったところ、いきなり唯が飛び出してきて幸田に抱きついた。
「パパー!」
「ぇえ!?」
いきなり自分より少し若い男に抱きつかれて幸田が硬直する。
「唯ちゃん。パパじゃなくて幸ちゃんだよ」
「おお!」
「知ってるの?」
「本だけなら本屋行けばたくさんならんでるしツライダナオヤ」
「辛いじゃなくて幸せだ!」
適応能力が早いのか、早くもアトリエ住人最凶の唯と親睦を深めている幸田を置いて万里はキッチンへ向かった。
夕食の準備をしている彩子が「おかえり」と言ってくれた。
お茶をいれたところで戻ってみるとソファに座った幸田と、そのサイドをとった唯の姿があった。まあ席なんて隣でも斜め横でもいっしょだが。と思い直し、座ろうとしたとき、唯が突然幸田に質問した。
「あんたら付き合ってんの?」
思わず盆をひっくり返しそうになりながらお向かいの席に座った。
幸田は苦笑いしながらこう言った。
「そうだといいな」
「万ちゃんは好きなんだよねー?」
「なんで!?」
「眼が語っているから」
そのとき遅まきながら気づいた。自分は幸田が好きで、幸田もそうだということ。
万里の作品は(千里の名前は仮名にされたが)本屋で平積みされるようになった。それからの作品もそこそこ売れた。
幸田の作品はあいも変わらず馬鹿売れだったが、でしゃばった真似をしたのは万里のときだけで、他のときにはそっけないものだった。
新しい才能を持った誰かが幸田に原稿を見せたとしても、自分のほうを見ていてくれる眼がかわったりはしない。そう信じて今日も万里は黙々と文章を書き続ける。