4月
「あ、あづい……」
万里はよろめきながら近くの電柱に凭れかかった。
「ただ出版社に行くだけだというのに訪問着なんて着るんじゃあなかった。普通にスカートとか、ジーンズとか、あ、ジーンズはラフすぎる。でも昨今パンツといわれるものをズボンと言っていいものなのだろうか。ださくないか? パンツはいてないとかいうとノーパンっぽいし……」
ぶつぶつ言いながら封筒の中の原稿を改めて見た。そこには生まれて初めて持って行く原稿があった。電話でアポをとったときはすごくドキドキしたのに、いざ持って行く時はただ持って行くだけだし、と開き直りも少しあった。
「吹螺出版社……いいのか? ここで」
ビルの前でこの建物で合っているだろうな? と確認していると、隣から声をかけられた。
「君、ここに用事があるんじゃあないの?」
振り返るとそこには黒ずくめの、この暑い中、汗ひとつかいていない男が立っていた。
世の中すべてを斜に構えて見ているような根暗の垂れ目、その双眸が奥の奥まで見渡すようで、万里は瞬時に次の言葉が出てこなかった。
「ああ、はい。ここに用が」
よっこい、と鞄を背負い直すとその男の後ろを万里はのろのろとついていった。
「君はさ……」
その時万里は自分が呼ばれたことに瞬時には気づけなかった。
やがて"君"と指すのが自分だとわかって顔をあげた。
「持ち込みに来る前に、投稿とか、したことないの?」
なんとなくこの人が出版関係で、もしや下読みとかする人じゃあなかろうかと思ったが、それにしても暗い、暗い、暗い。
「投稿はしたことがありません。自分が没になった理由が何かわからないまま返されても次に出す意欲って湧きますか?」
「佳作をとれば意見はかえってくるよ?」
「そこまでいい文章が書けるとも自分を過信していませんから」
「でも小説家にはなりたいと?」
「……こっそり、そうなればいいなあと願ってはいます」
その言葉に男は笑って原稿を持って立ち上がった。
「編集長、これは売れそうですよ」
それが、つまり大手作家、最終審査官の幸田直哉が認めたという折り紙つきで芥川万里は小説家デビューという世界に立つことができた。幸運なことである。
幸田直哉という男について説明しておこう。
ベストセラーを出し続けている若手の作家だ。たしかなんとか賞とかもとっていたと思う。
ベストセラーを出し続ける以上に凄いのは彼がえらく速筆なことだ。
「締め切りを守るのは作家として当然だよね?」
と幸田が言ったと何かのインタビューに書いてあった。まあ、マリィ・アントワネットの
「パンがないならお菓子を食べればいいじゃない」
に匹敵するライターの悪意みたいなものが働いていそうな気もするが。
アトリエ日高は、日高唯というネットの友達が無料で雑居を許してくれている大きな建造物だ。
現在、一番年上が万里、その次が唯、そしてメイクアーティストの米倉磨玲奈……通称お米、万里の妹の千里、千里と同い年のプログラマの卵の金城太一、最後に漫画家志望の料理上手な酒井彩子が住んでいる。
玉という字から何を連想するだろう。
一階に置いてある掲示板には置き書きをするはずなのだが、万里の妹にあたる千里はひたすら玉と書き連ねていた。
「玉玉玉玉いやらしいわね、千里」
「玉で何想像したんだオカマ」
唯と千里のやりとりである。そっくりな顔の二人を見分ける方法は簡単だ。スカートをはいているほうが唯、オカマのほうだ。
千里は女に生まれたが、男になりたかった女だ。唯はどっちでもいいと考えているオカマだ。
険悪なムードになりかけたところを千里に無理やり彼氏にさせられた太一が割って入る。
「結局その玉ってなんなんだ?」
「俺が一日にぷっつんした回数だよ」
「千ちゃんそれブチ切れすぎだろう!」
「ぶっつんじゃねーよ、ぷっつん、プチ切れ。ほらあれだよ、パソコンで言うとあのぷきゅぅぅんってやつ。切れるものは切れるんだからしょうがねぇだろ! ほら太一、お前もこのアトリエを出ようかと思った回数を記せばもう少しみんな大人しくなるかもだぞ?」
千里に言われて太一が正の字の一本目を書き始めた。
そんな様子を見ながら万里はダイエット用のバナナと豆乳をミキサーにかけたセーキを飲んでいた。
「千里……」
「あ?」
玉の数を数えている千里が万里の声に振り向く。
「薬飲むの忘れるなよ?」
「わかってるって」
千里と万里は体が弱い。もともと虚弱だったわけではない。ある日突然虚弱になった。
万里は障害者手帳を持っているし年金も入ってきている。何の障害者なのかは誰も聞かなかった。聞いたところで自分が手助けできることがあると思うのは過信である。万里は自分にできることをひとつずつやっていくだけだし、自立の支援など本人が助けを呼んだ時だけすればいいのだ。
特に万里たちの場合は精神科の病気だからよりいっそう、したり顔の偽善者たちは嫌いだった。
二十七歳になるまで職にもつかず、入院もせず、デイケアにも通わず、ひたすら小説だけを書き続け、しかも投稿をまるっきりする気配ではない万里を親はいつもモラトリアムの延長線上だと批判した。万里はそのたびにこう言った。
「長生きする気はない。記させてくれ、私に書ける何かを」
その何かが見つかったか見つからなかったかはまだわからないが、とりあえず初めての持込でデビューが決まったことは幸福なことだった。
千里のほうはといえば、これまた絵一筋で育ってきて、十九歳になるまでひたすら絵を描き続けてきた。しかし絵が認められれば認められるだけ、千里の中で異変が起きていた。
解離性同一性障害。
千里の中にはたくさんの千里がいる。それはAB型の二重人格どころではない。
激しく、無尽蔵に、増えては消えていく人格たち。
昨日まで描いていた絵で、何をここに描こうとしていたのか忘れて新しいものを描く……この繰り返しでアイデアが無尽蔵に出てくる一種の天才と呼ばれるようになっていた。
しかし一日の終わりに玉を(お分かりだと思うが玉は五画である)消している千里の姿を見ていると、今日もあれだけ増えてあれだけ消えていくのだなと思い万里は複雑な気持ちになる。
「だってまるで戦争のようじゃあないか。減ったぶんだけ足されていくなんて」
ぽつりと呟いた言葉は誰にも聞き取られることはなかったようである。
担当の編集者は長井さんという若い新米編集者だった。
右も左もわからずにふたりであれこれと試行錯誤してみる。
「だからこの人物邪魔ですよね」
「殺してみてはいかがでしょう?」
「殺すと盛り上がりますか?」
「そうでもないですね」
「最初からいてもいなくてもいい人だったわけですね」
そう言って没と印をつけたりしながら長井とだらだらとしゃべる。校正されたゲラがあがってくると自分の文章がいかに拙いかを知って万里は悶えた。きっと変な人に思われたに違いない。
「じゃあそんなに肩に力を入れないでがんばってくださいね」
「いえ、そこそこ気合を入れてがんばります」
「そこそこ気合でなくしっかり気合いれてくださいよ」
今、この口で肩に力を入れるなと言わなかったか?
よくわからないやり取りをしたあとに長井と別れると万里は水筒をとりだした。猫舌だけれども淹れたてのお茶が好きな万里は至福とばかりにお茶を楽しんだ。
「幸せそうな顔をしているね、君」
君と呼ばれて今度はそれが自分だとわかった。声をかけてきたのは幸田である。
「いりますか? お茶」
「緑茶?」
「中国茶です。アリサンキンセン」
「アリサンキンセンいれてきたの? お茶が好きなの?」
「幸田先生はお茶はお嫌いですか?」
「実はすごく好きなんだ。一杯飲ませてもらっていいかな?」
万里は頷くとカップを渡し、なみなみと注いだ。
幸田はそれをくいっと一気に飲むと驚いたような顔をした。
「君はお茶をいれるのが上手みたいだね」
「葉っぱがいいだけですよ」
「いやいや葉っぱがいいだけじゃあないって。茶葉がたいした事がなくても美味しく煎れられる人はいるもんだ。そういう人、いるだろう?」
「逆なら知っていますけどね」
「逆?」
幸田から返してもらったカップにお茶を注ぎながら万里は言った。
「私が買っておいた高い茶葉でまず~いお茶をいれる奴がいるんです。フォションもだめ、トワイニングもだめ、フォートナムメイソンもだめ。全部不味くはいるんです」
「へぇ。誰だい? ただの知り合いって感じでもなさそうだけど」
万里はにっこりと笑って「妹です」と答えた。
「妹がかわいいんだね?」
「妹はかわいいものですよ。肉親ですから」
「どんな妹?」
どんな妹と言われて万里は悩んだ。どの妹を紹介するべきなのだろう。実は千里の他に、まだ実家にもう一人いるのだが、この場合は話の流れ上千里のことを紹介するべきなのだろう。
「複雑な妹です」
「複雑な?」
「あるときは一緒に『パフェを食べに行こう』と言って、レストランでは『パフェは嫌いだ』と言って、でも注文したパフェはがつがつ食べて、最後に『生クリームは嫌いだから食べられない』と言うような妹です」
「なるほど、複雑だ。和菓子ヴァージョンとかはないの?」
「団子をくれました。串だけ三本」
「君、団子じゃあないよ。それは」
冗談で言っているのか本気で言っているのかわからない万里の口ぶりに幸田が笑った。
「食べ物の話ばかりしていたら腹が減ってきたな。君、腹は減ってないか?」
「交通費しか持ってきていません」
「いいよ、僕といるときは財布の心配しなくても」
これでも稼いでいるんだ、と余裕の表情を見せてくれた。お言葉に甘えて近くのケーキ屋にいっしょに入った。
この幸田という男は、甘党のようで、お約束のようにパフェを頼んで、万里は珈琲を頼んだ。
「君も何か珈琲以外に頼めば?」
「奢られ慣れてないんですよ。妹にたかられるのは慣れているんですけれど」
「苦労しているね。じゃあ僕のパフェを半分分けてあげよう。ここのパフェは大きいんだ」
たしかに暫くして出てきたパフェは、フルーツ、生クリーム、シリアル、生クリーム、そしてチーズケーキがどん、と乗った大きなパフェだった。
万里はおそるおそる聞いた。
「パフェ、もらっていいんですか?」
「どうぞ」
「すみませーん、取り皿ください」
「カフェに取り皿なんてないよ! すみません、レストランと間違えているんです」
幸田は動揺したウェイトレスに頭を下げて万里にフォークを渡した。
渡されたフォークで上のほうから崩して食べていく姿を見ている幸田に万里は言った。
「私、食べ汚いですよ?」
「うん。そのうち服汚すんじゃあないかって思いながら見ている」
「このパフェ美味しいですね」
「どんな味?」
「パフェの味がします。先生もどうぞ食べてください」
生クリームをフォークで掬って幸田の口に持っていった。幸田はちょっと人の目を気にしたようだったが、それでもそれをぱくりと食べて、
「どんな味がしましたか?」
「フルーツと生クリームの味。なるほど、パフェの味だね」
もう一方の方向からフォークを上手に使って幸田が苺を食べる。万里が言った。
「なんかこういう光景ってバカップルっぽくて恥ずかしいですね」
「そう? 人はいないもんだと思えば?」
もう人の目にも慣れたのか幸田は余裕綽々である。
最後に食べたキウイフルーツはまだ熟してなくてすっぱかった。
アトリエに帰ってくるとお米だけが家に残っていた。人の気配があまりない空間をひととおり見渡して万里は聞く。
「お米ちゃん、みんなは?」
「熊と幽霊が出る森に唯ちゃんを素っ裸で吊り下げるって青森まで行った」
「あ、そう」
万里はソファの上でぐったりした。
ぐったりしたところで携帯にメールが届いているのに気づく。携帯を持ち歩く習慣がまだ身についていない万里は家に携帯を置きっぱなしにしていってしまったのだ。
メールは彩子からのものだった。
――万里さん、今こちらはすごい状態になっています。青森まで助けにきてください。
革ベルトをSM女王の如く構えている千里と素っ裸で挑発している唯の間に、太一がはさまれている写メールを見て……見なかったことにして万里は寝所に入った。
芥川万里という人間をどんな人間かと聞かれれば、一言で言えばシスコンである。
ことあるごとに妹の話題が出てきて、そしてその話題に出てくる妹の千里という少女も変わっている。
話は戻って万里だが、容姿は異国じみた顔立ちと答えるだろう。季節を選ばずやや浅黒い肌にすらりとのびた首と彫りの深いうりざね顔、何より目が印象的だと人は言うと思う。
万里は感情を表に出す女ではないが、その長い睫毛に隠れた奥二重の向こうにある、暗い色を湛えた瞳はすべてを語る。彼女の過去に何があったか知っている人なんて誰もいないけれども、あの瞳を持つ人の人生とはいかなるものか……そう考えさせられる深い瞳なのだ。
「君の眼はとても不思議だね」
そう言ったのは幸田だった。
何度か出版社で顔をつきあわせているうちにお互いにお茶とお菓子を持ち込んで雑談をするようになった。
幸田が何を言おうとしているのか一生懸命に考えていると言葉が追加された。
「魔法がかかっているみたいだ」
恥ずかしげもなくそう言う幸田に万里は力が抜けるような感じがした。
「幸田先生、あなたは何歳なんですか?」
「今年三十歳かな」
「ああ、三十歳」
「いや、まだ二十九歳だけど」
「二十九歳が恥ずかしげもなくそんな言葉言うものじゃあありません。だいたい、私は親から普通の目をもらってきて生まれたってのに何がそんなに不思議なんですか?」
「感情をすべて目が語っている。君自身は感情を表に現さないのにね」
言われて万里は沈黙した。自分の感情を抑止したことはないと思う。たとえば我慢とか、そんなことをしたとは自分では認識していない。
しかし感情が豊かかと聞かれれば未熟としかいえないだろう。自分に女優は無理だ。そう気づいたのは幼稚園生の演劇のときだった。
「でもこのご時世失礼なことを言われるたびに『その焦げたパンチパーマ羊のように刈るぞこのやろう』なんてこと言えませんよ」
「君、極端な人だね。焦げたパンチパーマって誰のこと? まさか僕じゃないよね。パンチパーマにするとそうされるの? そこまで溜め込んでから吐き出さないで女の子なんだから涙に訴えかければいいのに」
「涙なんてここ数年見たことありませんね」
「どうして?」
そこまできて万里はこう言った。
「妹が泣けなくなるからです」
高感情表出の家庭の子供は病気が治りにくい。どこかの専門書にそう書いてあった。事実、万里がたらたらと病気をひきずっているように。
分裂感情障害という名前を聞くまでは万里はてっきり自分は統合失調症だと思っていた。
母親には
「あなたは統合失調症なんだから仕方ないのよ」
と言われ、何がどう仕方ないのかわからず、またある時の母親は
「なんでそんなにだらだらしているの! あなたは治る病気のはずでしょう」
と叱責してくる。
森田療法だと真夏の炎天下で庭の草むしりをさせられたが、森田療法は鬱の場合に効く療法でしかないと言われて以来ぱたりと止んだり、ともかく十代の終わりから二十代の前半くらいまでは振り回されっぱなしだった。 だから、千里の前では感情を表に出さない、それが続くうちに表情に何層もの仮面をつけるようになった、ただそれだけのことだった。
そういえば、最後に泣いたのはいつだったかしら。
ケーキを焼いてみたら夕食の卵が無くなってしまい、母に怒鳴られたのが最後だと思うので、中学校の頃の話だろうか。あの頃は
「ちくしょう大人になったら山ほど卵使ってどんぶりプリンを作ってやる」
と思っていたが、今の年齢になっても実行していない。
電車にゆられてうつらうつらしながら沼のような闇の中を泳いでいく。ここちよい。
◆◇◆◇
家路につくまでのタクシーの中で唐突に携帯の音楽が鳴り響いた。
幸田は携帯をとるとそこには万里の文字。通話ボタンを押す。
「幸田です」
「幸田先生助けて!」
間違いなく万里の声である。バックに流れる機械のぶつかる音ですぐに電車の中だということがわかる。
「君、電車の中は通話しちゃいけないよ」
「今どこにいるかわかんないんです! 先生、ここどこ!?」
「僕が聞きたいよ」
「右にいっても左にいっても同じ駅につくんですよ? ちょっと怖いじゃあないですか」
「ああ、君……どこにいるかなんとなく見当ついた」
「さすがですね、先生」
◇◆◇◆
「山手線でぐるぐる回ってたらしいぜ、万ちゃん」
家に帰り着いたときは十二時をまわっていた。なのに誰も心配してくれなかった。
晩御飯は彩子が作るし、食べ終わったら各自の部屋へ散ってしまう。もし十二時をすぎても万里が帰ってこなくても誰も気づかないだろう。
めずらしく起きていた唯と千里がこちらを指で指して爆笑する。なんだ、私はそんなに人に笑われるようなことは何もしていないぞ。
万里はふたりを軽く睨みつけて冷えた夕食をがつがつ食べた。途中で子供のようにこぼしたりするものだから千里が
「あらあら万里姉ちゃんだめねぇ、ちゃんと食べなきゃだめでちゅよー」
と茶々をいれる。どうして食べ零すのかわからない。のけぞって食べる癖はいつついたのかわからないし、背筋をのばしても食べ零す。どうしろと言うのだろう。前かがみになるのはたしか犬食いと言った名称がついていたはずだ。
そんなことを考えているうちに夕食は終わった。
次の日は夕暮れ時に起きた。
山手線をぐるぐる回っていたせいだろうか。疲れたのかもしれない。
薬ケースから錠剤を取り出して天然水といっしょに飲みながら襦袢の上から小紋を羽織った。
そのままの格好でディスプレイに向かうとがんがんと小説を書き始めた。いまだに自分のジャンルがわからない。ホラー? サスペンス? 推理モノではないのはたしかだと思う。書きたいものを書いてきた。だから統一性がない作品なんだろう。
この世の絶望が書きたいわけでもないのに暗い話ほど受けがよかったりするのはカタルシスのせいだろうか。自分は好き好んで人の苦労や悲しみを読んだりしたくないけれども。
万里の書く話は比較的万里の身近に起こった話だったりする。もちろん、削ったり飛躍させたり改造したりと色々手を加えることはしているわけだが。
ポーンと最後に小指でエンターキーを押す。少し古びたキーボードはやや重く、電子ピアノの鍵盤を弾いているようで気持ちがいい。
まるで曲の最後の余韻を残すようで「完成したぞ」という余韻にひたるときには、隣にちょうどぬるくなったエスプレッソが欲しい。
ところが自分の手元にはエスプレッソがないではないか。
「エスプレッソー!」
万里は立ち上がって叫んだ。叫んだらもしかして誰か親切な人が自分にエスプレッソを持ってきてくれないだろうかと半ば期待して。
「はぁ~い、エスプレッソですねぇ?」
一階で黒白鍵盤のどの音にもあてはまりそうもない甲高い声が聞こえたので万里は焦った。
「いや、お米ちゃんは作らなくていいから!」
お米の声に急いでキッチンに下りたところ時既に遅し、コーヒー豆をミキサーで砕いてお湯をかけていた。
ゴリゴリと音をたてながら動かなくなっていくミキサーと不思議そうな顔をしているお米がキッチンに佇んでいた。
「あれ~? 溶けないね」
「ねぇお米ちゃんコーヒーミルって知ってる?」
もちろん知らないからこんな真似ができるのだろう。そもそも水溶性の豆というのも聞いたことがない。一端、小紋をちゃんと着てから、ミキサーの中をごしごしと力技で洗っている最中に千里が帰ってきた。
「姉貴たち何やってるの?」
「ミキサーに詰まった豆をとっているの」
「姉貴もそこまで馬鹿になったか。この天才に貸してみろ、たちどころに直してやる」
玄関から日曜大工道具を取り出してきて千里が分解し始めたものだから万里がとめた。いや、正確にはとめようとした。
「千ちゃん、太一くんが帰ってくるまで待っとこうよ」
「いや、これをこうすればたぶん……」
バキ。嫌な音が鳴った。
「だーかーら、俺が帰ってくるまで待てよ。帰宅時間一緒なんだから」
ばらばらの部品と化したミキサーを洗浄しながら太一は言った。組み立て終わったものは新品のように……とはいかないが、いつもどおりの形を取り戻した。終始、千里は
「俺は解体専門なんだ」
とのたまっていた。
次の日は風邪をひいた。
前日も顔の火照りはあったが風邪をひいているとは思わなかったのだ。
「うーうー、千里ちゃん私このまま死んじゃうわ」
「そう言って死んでいったやつを俺は知らない」
「たーまーごーざーけ~」
「酒も禁酒ですよ」
彩子にぴしゃりと言われて万里はベッドにもぐった。まあいい。連中は朝八時には電車の中だ。それから玉子酒を作ろう。
本当は彩子の玉子酒が一番美味しいのだけれども、薬の飲み合わせが悪いときは飲ませてくれないのだ。
「もういい、とっとと学校や会社に行ってくるがいい。帰ってきて冷たくなった私がいても驚くなよ?」
と振り返れば、さっさと各々が出勤やら通学の準備をして階段を駆け下りていくのが見える。
「ちくしょう、覚えてやがれ」
万里は呟いてごろんと転がった。
目が覚めたときはぐっしょりと汗でぬれていた。
一瞬この歳になっておねしょをしてしまったのではないかと思うほどだ。気持ち悪いので寝間着を脱ごうと挙げた手がまた重い。やっとの思いで洗濯機のところまで寝間着を持って行って戻ってきて着替えて、ぐったりしていた。玉子酒を作るどころの話ではない。
と、携帯に一通のメールが届いていた。幸田からだ。
――最近姿見ないけど元気にしている?
「元気ですよ。すこぶるバリバリしゃきんと」
メールを返したらすぐに返信がきた。
――君が元気なんて言われても信じないけどね
メールを打つのもしんどい指でようやく続きを書く。
「じゃあなんなんですか? お見舞いにでも来てくれるんですか?」
――今から行こうと思う。花束持って
風邪なのに花束? 不思議な気分である。たいした病気でもないのに花束なんて貰っていいのだろうか。
ピンポン!
万里はびくりとした。五分も経たないうちに幸田はついたのだろうか。
おそるおそる玄関のほうに向かい少しだけ扉を開けるとそこには花束が見えた。ハッと驚いて扉を閉める。
もう一度ゆっくり扉を開ける。今度こそ幸田の姿がそこにあった。
「よかった。縦半分だけ先生でもう半分が長井さんだったりしないで」
「なんだかよくわからないけれど僕だよ」
少し笑って大きな花束を万里の両腕に置いた。万里は目をまんまるくして幸田を見た。
「このブーケすさまじく大きいんですが。しょぼいのでよかったのに」
「そうすると君が『しょぼいなぁ』と思うだろうから」
「そんなこと思いませんよ。あ、玄関に立ちっぱなしだ。中へどうぞ」
アトリエのダイニングに通して急いでお茶を探した。
「ああもう! トワイニングのプリンスオブウェールズがこんなときにきれてる」
「君は風邪なんだからそんなことしなくていいんだよ。部屋でゆっくり寝ておきなさい」
「先生はその間何をするおつもりですか?」
「パンプティングとホットワイン。嫌い?」
「いえ、大好きです。賞味期限をぶっちぎったパンを刻んで卵でプリンみたいにするやつですよね? 我が家ではよく食べてました」
「それはちょっと食べるとおなか壊しそうだけどともかく寝なさい」
万里は頷き、とりあえず両腕に抱えた花束をアトリエのテーブルに飾ろうとしたら幸田が言った。
「それは君の部屋に飾る用。大きな花を買ってきたのは君が滅入っているんじゃあないかなって思ったから。神様がくれた休暇だと思って花でも眺めていてごらん、少しでも気が晴れたらめっけもんだ」
万里が自分の部屋に花束を飾っている間にパンプティングは出来上がった。
自分が花を飾る時間がそんなに長くかかったとは思えない。なぜこんなにもはやいのかと幸田に聞いてみると
「電子レンジ使ったから」
という不覚の答えが出てきた。
そうか、電子レンジという手があったか。
ふと、気になることがあった。
「幸田先生、どうして私の家がここにあるって知っているんですか?」
「長井さんに聞いた」
「長井め……」
「よくぞ言ったぞ長井。彼のおかげで僕も君も素敵なブランチタイムだ」
なぜその素敵なブランチタイムに自分が含まれているのかは謎だったがパンプティングは美味しかった。
「さて体も温まってきた頃だし、先生もお疲れでしょう。帰ってください」
「なんでそんなに追い出したがるんだい?」
「先生にお片付けさせて明日風邪ひかれたら困るんです。原稿の〆切とかほっぽって来たんじゃあないでしょうね?」
「君と違って僕は速筆だからその心配はないよ」
「余った時間で私にパンプティングを作ってあげたなんて聞いたらファンの人から私にカミソリレターが届くかもしれないじゃないですか」
「それは僕がたまたま君の家でお昼を食べただけじゃあないか」
「あれ、そうなの? って騙されないぞ。明らかに不自然だ」
「まあ、そうかもね」
ホットワインを飲みながら幸田は目を細めて笑った。
「不自然でもいいじゃあないか」
万里は幸田を追い出すのは不可能と諦めた。
いつの間に寝たのだろう。アトリエの住人が戻ってくる時間になっていた。
手近にあったチェストの上には冷めたホットワインと風邪薬。携帯を見ればメールで「おだいじに」とあった。
幸田の空気がまだ空間に漂っているような気がした。
熱は引いていたのでまた汗で湿った服をまた着替え、冷めたホットワインで風邪薬を飲んだ。
アルコールがとんでいるとはいえワインで薬を飲むのは邪道である。
トゥルルルルル……
玄関ホールに置いてある電話が鳴った。
走って階段を下りて受話器をとった。
「おまたせしました。アトリエ日高です」
――あ、姉貴? 俺だよ、俺
なんだ千里か。誰だと期待していたのだろう。幸田だろうか。
「なんだい、どうかしたの?」
――110番しといてくれないかな? 今痴漢連れて行くから
「唯ちゃんはただの女装癖から痴漢に転化したの?」
なんとなく唯が関わっていそうだったからかまをかけてみる。
――ちげぇよ。唯が痴漢に出会ってぼこぼこにしていたところを俺が通りかかっていっしょにぼこぼこにしたんだ。あとからきたお米と彩が応援してくれて、最後に太一が止めに入った。
「太一くんがとどめを刺した?」
「違う。とめに入った」
「ああ、なんだか想像できるわ。その光景」
万里はため息をついた。
「で、なんで交番でなくて自宅に痴漢を連れてくるの?」
――交番の位置知らないし。いいか、お客様だぞ、お茶とお菓子の用意を忘れるな
そこで電話はぷつと切られた。
アトリエ日高に続く道はずっと明かりが煌々としている表通りだ。痴漢が出るとしたら住宅街に入ってすぐのところだろう。
羊羹をスライスして玉露を用意したところで五人は団子のように並んで帰ってきた。
痴漢はまだ若く、三十代前半くらいに見えた。こんな時にまで、幸田と同い年くらいだろうかと失礼なことを考える。
お茶を出すと
「いえ、御気になさらず」
と律儀だったが、この場合痴漢にお茶と、しかも羊羹まで出しているこっちのほうが律儀なのだ。
警官にも来てもらい、詳しい事情を説明したら、警官にはやんわりと、これはやりすぎだと言った。
「厳重に注意しておきます」
と万里が言ってことなきを終える。
「あの痴漢すごかったぜ。俺が全力で走っても全力で追いついてくるんだぞ?」
「でも俺が見た頃には痴漢が全力で逃げてて唯が追いかけていたけどな!」
「いい接戦だったよね」
「えーと……」
万里は口を半開きにしたままこの連中に通じる厳重な注意とやらを考える。
「次から気をつけるように」
何に気をつけるべきかわからなかったがまあいいだろう。相手も「はい」と元気よく返事したし、それでいいと投げやりの万里だった。