薔薇の影
アヴェントン公爵家の次女たるアーシェの人生は、あまり恵まれたものではなかった。
強欲かつ享楽的な両親は、自らの意に沿わないアーシェを顧みない。そんな両親の期待の下育った兄も、着飾ることにしか興味のない姉も、そうだ。アーシェは度々罵声を浴びせられたり、いないものとして扱われたりしていた。常に孤独を強いられる日々ではあったが、生憎と彼女はその程度のことに心を痛めるほど繊細な精神の持ち主ではなかった。
それでも、家族はアーシェを手放そうとしなかった。醜悪な家族を切り捨てて新しい生活を送ろうと、婚約者を探そうとしたが、家族の妨害に遭ってあえなく失敗に終わった。年頃の未婚の貴公子はそれ以来、アーシェに近づこうとしない。
アーシェには膨大な量の魔力があった。いずれ爵位を継ぐ兄すら凌ぐ量だ。魔力は魔術を扱う力の源であり、生来の素質だ。貴族は連綿とその素質を血筋と共に受け継いでいる。魔力の強さや、魔術師としての格の差は、ある意味では爵位以上に貴族達の身分を格付けする。だからこそアーシェを他家に嫁がせるのが気に食わないのだ。
服もアクセサリーも本も、何もかもが勝手に持ち出されて、貴族令嬢のものとは思えない空っぽな部屋の中、アーシェは不意に思った。
――出ていこう、こんな家。
今までに何度も考えては取りやめていた考えだが、とうとう決心した彼女は、手早く旅支度をまとめていく。お忍びで街を歩くことが趣味の彼女は貴族令嬢といっても世慣れているし、膨大な魔力を扱う術に秀でている彼女にとってはならず者など敵ですらない。
お忍びに利用する粗末な男物の服を纏い、フード付のマントを目深に被って身と顔を隠す。そして彼女は夜、家人が寝静まった頃を見計らい、易々と旅立っていった。
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「オールドローズ」
「――お呼びでしょうか、殿下」
旅立ってから三年後、なぜかアーシェは自国の王太子であるレヴィネイスに仕える影となっていた。公的に存在の認められない、王太子の私的な部下である。
レヴィネイスは部下の出自にこだわらない。特に後ろ暗い過去を抱えていることの多い影には、名前すら聞かないのだ。そのため、彼は影に適当な名前をつける。それは瞳の色だったり、髪の色だったり、花の名だったり、大抵はすぐに偽名とわかる名前だ。
オールドローズは、その瞳の色から与えられたアーシェの名前だ。そして影は、名を呼ばれたら即座に主の下へ馳せ参じなければならない。だからこそ、オールドローズという名前を呼ばれた瞬間、徒歩にして三日ほどかかる距離を、一瞬にして移動した。呪術で繋がれた契約関係によって、どれだけ離れていても影は主に名を呼ばれたらわかるのだ。
姿を認めた途端、レヴィネイスはその端正な顔に甘い微笑みを浮かべる。少女的な夢を詰め込んだ恋愛小説に登場しそうな王子様だが、彼女の心は動かない。その微笑みに騙されればろくなことにならないと、彼女はこの主に仕えてからの一年間で理解している。
「君にどうしても頼みたいことがあってね」
席を立ち、なぜか距離を詰め、恋人に囁くかのような甘い声で告げる主に、アーシェは表情こそ変えなかったが、嫌な予感を覚えた。
「人を探してほしいんだ。白金の髪に、君と同じオールドローズの瞳をした少女だ」
嫌な予感はますます強まる。身に覚えのある色彩の組み合わせだった。今でこそ変装のために黒く染めているが、元々は白金の髪だ。オールドローズの瞳はそのまま変えていない。
「アヴェントン公爵家が次女、アーシェ・ファレス。三年前に失踪したご令嬢だよ」
「人探しでしたら、恐らく私ではお役に立てないかと」
嫌な予感が的中したが、アーシェは努めて無反応を装う。しゃあしゃあと告げた言葉は、自分こそがその探し人だと気づかれたくない一心で吐き出した言葉だが、本音でもある。人を探す魔術は存在するが、他者に対して興味関心を持てない性分のせいか、アーシェはその魔術が苦手だった。いかに魔力があろうと、得意不得意は個人の資質に左右される。魔力は魔術を行使するためのエネルギーでしかない。
「そうかい? けれど、君ならできるよね?」
「人探しでしたら、アクアマリンの方が向いているかと」
「アクアマリンには既に頼んで失敗に終わったさ。本人が探されることを望んでいないらしい」
人探しの魔術は、探されることを望まない相手には効果が出にくい。だが、術者の才によってはその意志すら物ともせずに行方を辿ることができる。同僚であるアクアマリンは、人探しの魔術に長けた魔術師だ。彼以上にその魔術に長けた者など世界中にもそうそういないとアーシェは思っていた。その彼をもってしても見つからない自分という存在は、それだけ異質な生き物なのだろう。
「彼にできないのでしたら、そのアーシェとやらを探せる者はいないでしょう」
そろそろ苦しくなってきたが、アーシェはおくびにも出さない。契約の呪で、主への嘘は禁止されている。口八丁で何とか凌いでいる状態だ。
嘘を言わずに他人を騙す方法はいくらでもある。問題はこの主が騙されてくれるかどうか。それだけだ。
「…そう。無理なら仕方ないね」
小さい吐息を零し、レヴィネイスは踵を返して長椅子に腰を下ろす。
「けれどね、オールドローズ、私は絶対に諦めないよ」
「左様ですか。ご自由になさればよろしいのでは」
レヴィネイスは全て知っているのではないかと不意に思う。自分こそが探し人であるアーシェ・ファレスだと、確信しているのか、半信半疑で鎌を掛けているのか、それとも何も気づいていないのか。判断しかねて、アーシェは考えるのをやめた。
「必ず探し出してみせるよ――薔薇にかけて、ね」
薔薇は、王家の紋章に使われた特別な花だ。王太子たる彼がその花にかけて誓いを立てるのは、王族としての威信をかけたも同然だ。
アーシェはそれ以上何も言わなかった。踵を返し、転移魔術で元いた場所に帰る。
だから、聞き逃した。
「諦めがつく程度の軽々しさで、オールドローズという名を与えた覚えはない」
正妃の生んだ唯一の王子だからこそ王太子の称号を得たレヴィネイスは、国王の第五子――それも末子だ。四人の兄は野心的で、常に末弟を排そうとした。対して、当のレヴィネイスは王位に興味などなかった。兄達の形振り構わない無様な姿を傍観し、つまらない日々を過ごしていた。その彼に心変わりを齎したのは、一輪の薔薇だった。
アヴェントン公爵家に生まれた、薔薇色の瞳を持つ美しい少女。その薔薇を手折った者こそ栄光の玉座を得るのだという下らない噂は、王位争いに揺れる王家に嵐を起こし、斜に構えた少年の幼い心に刃を突き立てた。
薔薇の妖精が人前に姿を現したような、美しくも気高い麗姿に心を奪われた。この少女が下らない政争のために、人格を無視され飾られるだけのお人形にされるのが、我慢ならなかった。王冠を望まない思いは今も変わらない。だが、この少女を守れるのなら、茨の王冠だろうとこの頭上に戴くのだと決意した。
三年前に彼女が失踪してからは消極的になったが、それも束の間のことだ。偶然彼女と出会い、自らの管理下に置けたのは僥倖だった。結局、影として彼女を利用する形になってしまったが、そうでもしなければ彼女とは二度と会うことも叶わなかっただろう。
恋い焦がれた薔薇姫に薔薇の名を与えたのは、決して手放さないという意思表示だ。不敵に微笑み、既に部屋から消え失せた姿を脳裏に思い描く。それなのに像を結ぶのは、かつて見かけた幼い姿だった。
●補足
アーシェに未婚男性が近づかないのは家族の影響もあるけれど、王族の圧力もあったため。本人は気付いていない。
久々投稿で文章になっている気がしませんが、ここまで読んでくださった方、ありがとうございます。
アーシェがレヴィネイスの影になった経緯は一応考えているので、気が向いたら書こうかなと思っています。