さらばヤンキー!
80年代ハンチク青春譚
ディスチャージ・デイズ
こんにちは。フリーライターの奈良崎コロスケです。
映画や漫画、ギャンブルの原稿を書いて糊口をしのぐ日々です。僕がフリーライターになったのは27歳と遅く、それまではニート同然のボンクラライフを送っていました。
大学には進学しましたが、一度も就職をしたくことなく、よくもまぁ、46歳にもなるまで暮らせてこれたと思っています。
そんな私めが執筆するのは自堕落な10代・20代の日々。こんなものが面白いかわかりませんが、よかったらご一読くださいませ。なお本作は当時の出来事をベースにしたフィクションです!
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1976年(昭和51年)。俺は小学校2年生に進級するタイミングで豊島区の雑司が谷から東京郊外の立川に移り住むことになった。立川には母方の祖母が住んでおり、ひとり暮らしで何かあったら困ると心配になった母親の主張で引っ越すことになったのだ。
おかげで俺は多感な時期をヤンキー臭漂う80年代の三多摩地区で過ごしてしまうことに。まんまとハンチクな不良になっていたバカ(当時の立川の雰囲気については、4つ上の先輩、ゲッツ板谷さんの小説『ワルボロ』をご参照ください)。
もともとホンモノのパープリンだったため、高校も青梅線周辺の偏差値40台の公立高校に行けりゃいいかと思っていた。なにせ受験が間近に迫った中学3年のときに新聞配達のバイトを始める始末。どうしてもゲーセンで遊ぶ小遣いが欲しかったのだ。受験勉強しろよ!
そんな感じだったので親がぶちキレて学習塾に叩き込まれた。できたばかりのT進スクール立川校。当時のT進は中学受験専門の新進塾で、吉祥寺を起点に中央線界隈にバンバン進出している最中。とんでもないスパルタが売りだったが、おかげで学力は上がった。
いちど塾の帰りに深夜の2時までゲーセンで遊んでいたことが発覚したときは、翌日、塾の事務所に正座させられ、殴る蹴るの暴行を受けた。今だったら訴訟モノだったが、当時はこれが普通だった。
でもって、いざ高校受験となったのだが、公立の第一志望だった都立砂川高校は当然のように落ちたものの、記念受験的に受けた私立のNS高校に補欠で合格しちゃったのだ。
これにはおったまげまた。なにせこの高校を受けた理由が、親戚の兄ちゃんが通っていて、万が一合格した場合、カバンとか教科書とか諸々お古をもらえるという両親のセコい思惑が絡まっていたからだ。
かくして7年間にわたる三多摩一辺倒生活から花の都(立川の人間は吉祥寺以東に出ることを「東京へ行く」と言います)へ通学する日々が始まった。
暴力塾のT進スクールよありがとう。拝島高校に行っていたら、地元の大バカと遊び続けて大学などにはいかず、19歳くらいでヤンキー女と出来ちゃった結婚して、適当な工場とかで働きながら、パチスロに明け暮れる日々。気が付いたら46歳で、もう孫がいた可能性もあると思うよ!