青い星、青くない街、青い空
青く晴れた空が窓から光を送る、昼前の教室。
(……うう、辛い)
その教室で一人の少女が静かに葛藤していた。
肩の上ほどまでで切った髪が左右にはねる少女の名前は、中津 泳浬。彼女は今、自身の強い欲求と闘っていた。
(……でも、こんな人前で"する"わけにもいかない)
(先月も、しようとして先生に注意されたばかりだし……)
彼女は頭を振る。そうでもしないと抑えが効かなくなりそうだった。
いつもなら我慢できていた。そうだ、いつもなら夜、一人浴槽で少し満足すれば、翌日一日は我慢できた。
昨日、"今日はちょっと我慢しよう"などと思わなければ、学校で、ましてや授業中の教室で、こんなに欲求を抑えて苦しむ必要などなかったのに。
(それに、先生が今日に限ってあんな本読み出すから……)
彼女の欲求の箍を外そうとしているものはもう一つ。
それは現在受けている現代文の授業。今日から読み進めていくと先生が配った小説は、まるで彼女にその行為を唆すような内容だった。この小説を、先生がわざわざ選んで授業に使ったことを考えると、彼女は自分の欲求を見透かされているようで、変な気持ちになった。
(……早くこの制服を脱いでしまいたい)
思わず制服の裾を掴んでいた右手を必死に左手で制止する。こんなところで脱ぎ出そうものならば、私は終わりだ。そう自分に言い聞かせるも、彼女の身体は溢れんばかりの欲求に、徐々に、だが確実に侵されていく。羞恥も常識も、全てが欲求に呑み込まれ、塗り潰されていく。
(……もう、我慢出来ない……!!)
そしてついに彼女は理性を手放した。
彼女は立ち上がり、ボタンを外して学制服を脱ぐと、スカートを腰から落とした。彼女の突然の奇行に唖然とする教室の視線には目もくれず、脱いだ服を足蹴にした彼女は、
「番号02、中津 泳浬!!いっきまーっす!!」
そう叫ぶと、水着で窓の外に飛び込んだ。
「……先生、中津さんが空で泳いでます」
「やはり水泳が題材の小説は地雷でしたか……」
教師は額に手を当てて溜息を吐いた後、彼女の空を泳ぐ姿をしばし眺めた。
数分後、何事もなかったかのように、授業は再開された。
門戸さん
#5 青い星、青くない街、青い空
「どうにかしてください……彼女を」
「何ですか藪から棒に」
放課後。
クマと帰り支度をしていたところを、阪先生に捕まった。先生は少し疲れた顔をして、両手で私の肩を掴んで軽く揺すった。
「……サカ先生、ナカっちゃんのアレは仕方ないよ。言っちゃえば病気みたいなものだもん」
机に座っていたクマが、足を前後に揺らして言った。
「私も別に彼女に"泳ぐな"とは言いたくないですよ……でも、彼女が授業中に泳いだら怒られるのは私なんです……」
先生が一層疲れた顔をして項垂れた。掴まれた肩から、先生の疲労困憊が移りそうだったので、とりあえず私は自分の肩から先生の両手を退かした。
「怒られたの?」
「……ええ、陽山先生には"グラウンドの生徒が見惚れて授業にならない"、今津先生には"せめて服着て泳がせてください"と」
「……至極妥当な意見ね」
中津さんは結構スタイルが良い。クマもよく羨ましいと指を咥えている。そんな彼女がスクール水着で目の前の空を遊泳しているとなれば、好意の的として注目されるのは必至である。たとえ好意が無くても目には入る。目に入れば、自然と追う。少なくとも、集中は出来ないだろう。
「……そもそも、水泳が題材の小説なんか選ばなければ良かったんじゃないの」
「彼女が最近泳げていないのは知ってましたから……せめて授業で題材として扱ってあげようとしたんですが……」
「完全に裏目に出たわけだね!」
中津さんは夏の間、まさに水を得た魚のように、プールでの授業に勤しんでいた。雨の日も風の日も。秋になってからも、彼女は一日の四分ほどを水と共に過ごした。だが、寒くなってくると話は変わってくる。水を抜かれ、プールは硬い箱へと姿を変えた。彼女は水を絶たれたのだ。
「とは言っても、ナカっちゃんは空泳げるのに、何で泳ぐの我慢してたのかな?」
「ああ……彼女、水着じゃないと泳げないんですよ」
クマが何となく呟いた問いに、先生が項垂れていた頭をゆっくりと持ち上げて答えた。
確かにクマの言うとおり、彼女は空を泳げるのに、我慢の限界が来るまで泳がなかった。それは私も不思議に思っていた。
「どういうこと?」
「……彼女は"大気"を"水"として認識することで泳いでいます。だから、普通の服を着たままだと泳ぎにくくて沈んでしまうんですよ」
あくまでも彼女は空を"泳いでいる"のであり、空を"飛んでいる"のではないということか。三宮さんが聞いたら興味を持ちそうな話だと思った。
「でも、中に水着着てたってことは、我慢する気あんまりなかったんじゃない?」
「……逆でしょ。我慢するつもりだったから、我慢できなかった時の為に保険をかけたのよ」
危うく彼女の裸体が白昼に堂々と晒されるところだったと思うと、少しばかり肌寒くなった。彼女の空を泳ぐ姿を忘れてくれるのは、この学校の外の人間だけだ。
「……その件について二人からも中津さんと少し、話をしてみてくれませんか。他力本願なのは重々承知しているのですが……」
続きを言い淀み、阪先生が露骨に目を逸らす。
「どうしたの?」
「……何か中津さんに問題でも?」
私とクマは先生の両側からその理由を尋ねた。
「いえ……ただ先生ちょっと、すぐ人前で脱いだりする子って苦手なんですよ……」
沈黙が教室を包む。むしろそんな子が得意な人の方が如何わしい気がするが、普段から生徒には優しい阪先生が、彼女を"どうにかしてほしい"と私たちに頼む理由が、何となく分かった気がした。
…… ……
「……成り行きで引き受けてしまったものの、中津さんはよく我慢してる方だと思うんだけど」
「ナカっちゃん普段は真面目だもんねー」
私とクマは、夕日を背に浴びながらいつもの帰路に着いていた。
空中遊泳の欲求に駆られていないときの彼女は至って真面目で凛々しいため、私も彼女が初めて宙を泳ぎ出した時には目を疑った。
「陽山先生たちはああ言うけど、学校の中ではナカっちゃんの空中遊泳ショーを楽しみにしてる人、結構いると思うし」
「……はぁ」
まあ、そうなのだろう。髪の長い人魚、とまではいかないが、心底楽しそうに空を泳ぐ中津さんの姿は、集中力の強奪以外においては見ていて損な気持ちにはならない。
「……クマは最近我慢してる?」
「我慢してるよ!って言いたいけど、びみょーかな。寒くなってくると乾燥するしね」
クマはそう答えて頭を掻いた。
彼女も寒くなってくると、自分の身体に火を点けることに躊躇がなくなり、すぐに火を点けたくなるらしい。
逆に数週間一度も点けずにいると、油を頭から被ってでも自分に火を点けたくなるらしく、私もそれを聞いた時は少し慄いた。
このクラスにいる人間は皆、一様にそういった欲求を、三大欲求に近い範囲で持っている。夙川さんが早朝にだけ学校で姿を見せるのも、梅田さんが他人を放っておけないのも、三宮さんが他人への理解に執着するのも、全てこれが理由らしい。
「……カドは、大丈夫そうだね」
「……うん、普通。大丈夫だよ」
少し思案に耽っていると、クマが言葉の中身とは裏腹に心配そうな顔をして聞いてきた。私は出来るだけ穏やかな声で答えた。嘘ではない。無理はしていない。おそらく。
「カンナちゃん、こういう話好きそうだよね」
「カンナ……三宮さんのこと?ああ、うん、好きそう」
私は大丈夫だろうか。
その後も別れるまで色々な話を振ってくれたクマに、私はただ生返事を返すだけになった。
…… ……
翌週。
「中津 泳浬!!いっきまーっす!!」
教室に声が響く。彼女は窓から勢いよく大気の海に飛び込んだ。
結局解決策は見つからなかった。というより、先生の依頼の件を双方なあなあにして忘れていたため、中津さんには話すらしていない。
一応三宮さんに話を聞いたところ、新作の"花隈さん三号"を膝上で撫でながら、
「確かに興味深いよね!」
と同意を求めるように返され、私は縦にも横にも首を振れなかった。その後は何故かスクール水着の話に移ったので、私はクマを贄に化学準備室を脱出した。
「……」
面食らった先生が私とクマの方を少し恨めしそうに見る。私とクマは笑顔で泳ぐ彼女と、苦い顔をする先生の間くらいの表情で、顔を見合わせた。
私は少し、彼女が羨ましいと思った。
#5 青い星、青くない街、青い空 終
中津さん 出席番号 02
・水空両用スイマー。
・常識 ≦泳欲
・風呂場でするのは潜水ごっこ。