F1216号室 けいちゃん>>何だろねワタシ
「『帰ってえええ』はないんじゃないの?」
私はまだ談話室にいる。ゴシゴシゴシゴシ。タオル、顔面を何往復したかな。
「けいちゃーん。聞いてるの?」
「聞いてる……」
「たまたま私と林さんがいたから良かったけどね。それよりさ、」
「何?」
「……行かないの?」
私は顔を上げた。
「何処に?」
「カフェ。さっきも言ったじゃない。『カフェで待ってて下さい』って言っておいたよ、って」
確かにさっちゃん、タケチに何か言ってたな。待っててって言ったんだ。……ん?待ってて?おお?!
「さっちゃん、初めてのカフェだね」
「寝ぼけてるの?!」
「寝ぼけてると言うか展開についていけないと言うか」
「もーぅ、けいちゃん。しっかりし、て!」
再びタオルに顔を埋めた私にさっちゃんが溜息をついた。呆れてるんだろうな。でもしょーがないじゃない。自分でも考えがまとまらない。この、プリンとオレンジジュースと凍ったチーズケーキの混ざったような感覚が何なのか。分からない以前に考えたくない。
そうだ、これだけぐちゃぐちゃなんだからいっそのことゼリーも入れてしまえば良いや。うん、入れよう。ガッツリと。迅速に。おそらく今回もオープンしたての限定品、さっちゃんのお裾分け!そう思って少しだけタオルを離してみた。あれ?無い。
「ゼリーは林さんにあげました」
……酷いよさっちゃん。
私はウルウルになった目でさっちゃんに訴えた。さっちゃんは笑っている。
その笑顔は楽しそう、と言うよりも、何処か遠くを見ているような、何か物欲しげな子供のようで。不甲斐ない事に、何故そんな顔?と訊く言葉を私は出せなかった。
「ゴメンねけいちゃん。……代わりにケーキ食べて来て。ねっ?!」
私は無言で頷いた。
◇◇◇◇◇
それもこれもあれもどれも、全部タケチのせいだ。
徐々に上がってくるエレベーターの、停止階の数字を凝視したまま。他に誰もいない空間で私は一人、理不尽な怒りを感じていた。
何だろねアイツ。今まで面会のタグなんてもらって来た事なかったのに。下で会えるんだから、手間かけて病棟まで来る手続きをする必要は無いって言ってたよね?うん、言った。確かに言った。でも……そう言い出したのってタケチだったっけ?そもそもタケチがそんな事知ってる訳ないよね?じゃあ誰。誰が言い出した。ってバカか私。そんなの簡単じゃない。タケチじゃなかったら私しかいないじゃん。
チン。扉が開く。いつも以上に大股で乗り込んで、一人を良い事に乱暴にボタンを押した。
それに何だ。さっきのタケチ、やたら人の顔ジロジロ見て。そうですよ。寝起きでしたよすみませんね。テカテカで悪かったですよ。それよりも何よりも、アイツ手ぶらだったよね?え、今更お見舞い品なんてノーサンキューだけど、あれは?あれはどーした?あの、分厚いバッグ。初任給で買ったって言ってた、良い感じに燻りつつある皮のバッグだよ。それにアンタの仕事一式詰まってるんだよね?いつも持って来てたよね?今日に限って何で無いのよ?
エレベーターの中一人、急降下する体とともに、心も落ち着いて来る。なのに顔も、体も熱い。きゅ、と唇を噛んだ。
今までずっともしかしたら、って思い続けていた可能性。無理矢理無視し続けていたそれが、思考の奥の奥からじわじわと耳元に上って来る。それと同時に思い出したのは、さっちゃんの言葉。『彼氏なんだよね?』
……………………
「それを聞いたら最後だっつーの……」
そう。最後だ。分かってる。分かってるから、聞けなかった。
全てが。私の入院から始まったおよそ一ヶ月。その全てが、アイツにとってただの『仕事』だったら。その可能性が完全に捨て切れなかったから、私からは聞けなかった。もし本当に単純にそれだけだったら、一人で勘違いして舞い上がってる私が余りにも滑稽で。その滑稽なのを、なんだよ、と軽く笑いにできないくらいのダメージを負う事も分かっていたから。
例えばアイツが仕事の欠片も無いメールを一つでもくれていたら。それ以前に、仕事以外での付き合いの一つでも有ったら。そうだったらもっと違っていただろうけど、アイツからはそんなメールも、個人的な誘いも一度も無かった。今考えたら仕事しか出来ない人間の何を誘ってくれと訴えていたのだろう。こっちの方がよっぽど滑稽に思える。
だけど。だからこそ、敢えて触れなかった。カフェに来ている時間が、残業でなくプライベートタイムだったとしても。仕事を切らさないでいてくれる事で、私を会社に必要な人間としてくれている事も。それなのに、復帰は何時になるのかとか、病状についてあれこれ詮索する事はなかった。それはアイツなりの精一杯の優しさだったのかもしれない。いきなり資料を印刷してこなくなったのも、アイツ知ってたんだ。その前に会った時、私が資料で指をほんの少しだけ切ったのを。点滴が効いているからすぐに血は止まったけれど、今考えたらあの時のタケチは私のグチに全く噛み付いてこなかった。うわの空になる位、容体を案じてくれていたんだ。私がエレベーターに乗るのも、帰らずにいつも見てくれていた。毎回毎回毎回毎回。コーヒーのツケも、一度もおごれ、とは言わない。
「……何だろねワタシ」
アイツにとって、私は何なのだろう。
扉が開く。カフェまではあと少しだ。頬の熱さを取り除くようにペチペチと叩く。
そのまま一歩。私はまだ、迷ってる。
会った途端に小言爆烈なんじゃないの?……だろうな。帰れ!って暴言の後じゃ私だってそうなるよ。
もう一歩。無意識のうちに深呼吸していた。
このまま聞いて良いものなの?……そもそも聞いて素直に答えるタマかよアイツ。
勢い余って三歩。ハッと我に返る。
本当に勘違いでないの?……むしろまだ、勘違いの可能性を持って臨めよ、わたし!
腹を括って前進。ひたすら前進。
そいやアイツ、ツケは何時返すんだ?……返す気があるなら、私の退院後だよね。それはつまり、
待ってる、で合っているのだろうか。
その先の答えに進むには、やっぱり足が震える。ダメだ。ダメダメダメ。フツーで行こう。フツーに謝る。真摯に。テーブルに額をつける勢いで。
それなら、額は痛むかもしれないけど、心は痛まない。
視線を伸ばした先に、タケチの背中が見えた。どくん、と体の中心部が上下する。
いつもの頬杖とは違ってやたらと神妙じゃないか。近寄りがたいよちょっと。つけ入る隙を見つけないと。
瞳を巡らせると、テーブルの上のケーキが目に入った。何なんだアイツ、断りもなくペナルティ開始ってこと?!
「あのやろう……」
買うなら私の分も買っとけよ!!
今までのモヤモヤした気持ちがぎゅっと凝り固まって、エレベーターに乗る前の感情が舞い戻って来た。アイツの気持ちがどうとか真摯に謝ろうとか、一切撤回!何だっけあの技。チョークスリーパーだっけ?このまま背後から首を絞めてやる。今日を始めとした今までの文句、全部乗せてやる!待ってろよ、タケチ!!
熱くて仕方ない体に、沸騰した思考回路。タケチが気がつかない事を良いことに、そのまま真っ直ぐ近寄った。凄い勢いで。
◇◇◇◇◇