たくさんの星
『月読の光を待ちて帰りませ山路は栗のいがの多きに(良寛和尚)』
「ええっと、月の…」
口語訳しなさい。白い紙に印刷された命令文に、従って、加奈子は口に出しながら問題の和歌の、横の括弧に文字を書いて行く。
『月の光が指すのを待ってからお帰りなさい』
「山道は…」
「「栗のいがが多くて」」
自分の声に重なった声の主を探して、加奈子は振り向く。
「暗いと危ないですから」
そんな加奈子には構わず、訳の続きを言って、その男は笑った。
「勝手に入ってくるなよ」
加奈子は呆れた声で言い、男を睨んだ。
「水城…」
言われて男は頬を膨らます。
「勝手じゃねえよ」
「はあ?」
加奈子が不機嫌に睨むと、水城は空中をノックする真似をした。
「ちゃんとノックしたのに、お前、気付かなかったんだよ」
「返事がないのに入ってきたら、勝手って言うんだよ」
加奈子の言葉に水城は笑う。
「あ、そ。でもいいじゃん。お隣さんだし」
「関係ないよ」
そう言う加奈子を無視して水城は彼の机の上に目をやる。
「しっかし、最近は小学生も和歌を習うんだな」
加奈子の本当の歳を知っていながらわざわざ言う水城に加奈子は額に青筋を浮かべる。
「中3だってば!このモウロクジジイ!!あんただって去年この和歌習ってるでしょ?」
加奈子がムキになって言い返すのを、水城は面白そうに見る。
「ほう、加奈子はもうそんなに大きくなったのか…その割には背が低いな」
「うるさい!」
笑いながら水城は窓に近寄る。
「なあ」
空を見上げて言われた言葉に、加奈子はもう無視を決め込む。しかし水城は気にせず続けた。
「今夜は新月だ」
そして笑いながら加奈子に近付く。
「こんな、月のない夜はどうすれば傷つかずに帰れるんだろうな?」
至近距離でそう問われて、加奈子は興味なさそうに言う。
「懐中電灯でも持って歩けば?」
水城はわざとらしく溜め息を吐く。
「夢のない」
「じゃあ、あんたはどう思うんだよ?」
気分を害したように言う加奈子に、水城は微笑む。
「うん?」
少し考えて、にっこりと笑う。自信満々で、
「俺は俺自身が輝いてるから大丈夫だ」
「…夢見てんの?」
加奈子は呆れた。
「あ、大丈夫だぞ。お前の足元も俺が照らすからな」
「そういうキザったらしいことは彼女に言いな」
溜め息交じりに言われ、水城は微笑った。
「またそんなこと言う。かわいい顔が台無しだぞ」
加奈子は眉間にしわを刻む。
「何がかわいいんだよ!?」
ふと考え、小首を傾げて水城は答える。
「おおきさ?」
「顔じゃないじゃん」
もう怒る気にもならない加奈子が力無く言った。
「あー、でも今日は月がない分、星がいっぱいだぞ」
「ふーん」
つれない相槌にも水城はめげない。
「昔の人って月のことは歌に詠んだりするけど、星のこと詠んでる歌はあんまりないよな…」
「星は占うものだからじゃない?」
「ああ、じゃあ星に無関心だったわけじゃないんだ…」
水城は窓から空を見上げたまま言う。
加奈子はそれをちらりと見やり、またテキストに目をやる。
「それでも、昔は今よりもっとたくさんの星が見えてたはずなのに、詠んでみようとは思わなかったんだな…」
水城は更に窓に近付く。
「こんなにたくさんあるのになぁ…」
加奈子は少し笑う。
「…だからあたしは、1人で歩けるよ。月がなくても、星があるから…」
水城は加奈子の方を見た。
「ふーん?そういや家、誰もいなかったけど、おばさんは?」
「ママさんバレーの合宿」
「へえ、おばさん、若いな。じゃあ、今夜一人?」
「そうだけど…」
嫌な予感に加奈子は顔を歪め、言葉も歯切れが悪い。
そんな加奈子に、水城は満面の笑みを向ける。
「一緒に寝てやろうか?加奈ちゃん」
「懐かしいあだ名で呼ぶな。帰れ」
加奈子は鳥肌のたった腕を擦りながら言う。
「冷たいなぁ。昔はよく一緒に寝たのに」
言いながら、また窓の側に寄り、水城はベランダの引き戸を開ける。
「いつの話だ。早く帰んな。1人で大丈夫って言っただろ?」
そう言う加奈子の声はやはりどこか幼くて、一緒に寝てたのはそんなに昔のことじゃないように思いつつ、水城は何も言わないでベランダに出た。
そして隣家のベランダに乗り移る。水城の部屋のベランダだ。
「玄関から帰りなよ」
溜め息混じりに言いながら加奈子は立ち上がって、面倒臭そうに窓に近寄る。
向かいのベランダから水城が、窓に手を掛けた加奈子の方へ手を伸ばした。
加奈子もベランダに出なければ、水城の長い手でも彼女までは届かない。
加奈子はついと上を見上げ、星を確認すると、黙って戸を閉め、鍵を掛けてカーテンを引いた。
それを見て水城は肩を竦め、空を仰ぐ。
月の無い、たくさんの星が瞬く夜だ。
E
短い話ですみません。
その上、なんかまたしても無理やりお題に絡めた感が否なめませんが。