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片想い

作者: 依吹

「おまえって、本当は俺のこと好きじゃないよな」


テーブルを挟んで座っている男が、ぽつりと呟いた。

その言葉にはっとしたわたしが見つめれば、苦笑いを浮かべていて。

瞳の奥に、翳りが見えた。

次に来る言葉はもう、想像するまでもなくわかっていた気がする。

あーあ、と心の中でだけため息をついて、わたしはじっと彼の言葉を待った。


「俺は、ちゃんと俺のことを好きになってくれる子とつきあいたいんだ。だから」

「……さよなら、ってこと?」


彼はわたしの言葉に小さく頷いた。

その表情は決して暗いものではない。もしかしたら、次の『彼女』の存在があるのかもしれない。

とはいえそれを今ここで出したりはしない。

彼は優しい、人だから。

それを裏切っていたのはきっと、わたしのほうなんだ。


「……そっか、わかった」

「ごめんな」

「ううん、こっちこそ……あ」

「ん?なに?」


別れ話だというのに、それでもきちんとわたしの言葉に耳を傾けてくれる。

表情こそ硬いけれど、それは仕方のないことだと思うし。

向けてくれた笑顔をこんな風に変えてしまったのはわたしのせいだから。

それでもわたしは。


「うん。あの……今まで悩ませちゃってごめんね」

「いや、俺にも原因はあると思うよ。きっと」

「でも、一緒にいてくれて嬉しかった。ありがとう」

「……俺も楽しかったよ。おまえと一緒にいるの」


でもごめんな。

そう言って彼は席を立った。

伝票を持って立ち去ろうとして、一瞬だけちらりとわたしを見下ろす。

左手を差し出した彼が握手を求めている。

わたしがそれを握り返すと、きゅっと眉を顰めた。


「じゃあな」

「うん。……ばいばい」


作れる限りの笑顔で、わたしは彼に最後の言葉を告げる。

彼はゆっくりと手を放すと、背中を向けた。

レジに立つ彼を見るのも、今日で最後。

店を出て一緒に並んで歩くことも、もうなくなったんだ。

分かれた後に必ずしていたメールも、もうこない。

それなのに。それが悲しいことだということはわかっているのに。

わたしは泣くこともせず、ただ、彼の背中を見送って。

冷め切ったコーヒーを飲み込んでから、深いため息をついた。

胸の奥が痛かった。

けれどこの痛みが、今目の前で起こった出来事のせいじゃないことも知っていた。

別れたことが痛いわけじゃない。

ただ、彼を。

本当に好きになれなかったことに対する痛みなんだ。


「ごめんなさい」


彼の去った方向に向かって呟いても、もう届くことはない。

ちゃんと好きになれなくて、ごめんね。

ほかに好きな人がいて、ごめんね。

何度も何度も、心の中で繰り返した。

でも、あなたをいちばん好きになりたかった。

その気持ちだけは本当だった。

なのに頑ななわたしの心は、たった一人を見つめたまま。

いつまでもいつまでも、動くことはない。

だから傷つけてしまったんだ。

わたしなんかを、見つめていてくれた人を。

傷つけて、悲しい顔をさせて。

あんなに優しい人に想われているのに、それでも動かなかった、わがままなこころ。




* * * * *




月曜日の朝、学校に向かうのはいくつになっても憂鬱だ。

混みあう電車は最悪だし、周りにいる人たちも憂鬱そうな顔をしているから。

そういうのって伝染するんじゃないかな、と思う。

しかも前日に別れ話なんてしてしまえば、それはいつも以上に強く感じる。

だから多分、わたしの憂鬱も他の人に伝染しているのだろう。

昨日の夜はなんだか、眠れなかった。

別れが悲しかったのは本当。けれど、涙は出ない。

真っ暗な部屋の中、ベッドの上に寝転がって、ずっとずっとこれまでのことを考えていた。

四ヶ月しか一緒にいなかったけれど、とても楽しかった毎日。

彼と過ごしながら、心の奥で別な人を想っていた。

それが『恋』という感情なのかどうか、今となってはもう定かではないけれど。

それでもまだ、心の奥に住み続けている人がいる。

言葉を交わしたことすら、もうおぼろげなのに。


「……あ」


電車の中、ぼんやりと窓の外を見ていたわたしは、滑り込んでいくホームに並ぶ人たちを見て、小さく声を上げた。

同じ制服を着ている人は、ホームにもこの電車の中にもたくさんいる。

それなのに、必ず見つけてしまうたった一人の人の姿。

とくんとくん、と胸の音が弾ける。

今日は同じ電車なんだ……。

会えた偶然が嬉しくて、頬に熱がたまるのを感じた。

「おはよう」って声が、同じ車内で交わされているのが聞こえてくる。

けれどそれはわたしに向けられたものじゃない。

電車の中でいつも会うらしい、友達に向けられたものだ。

うらやましい、と思う。

同じようにわたしもおはようって言ってみたい。

けれどそれはできないんだ。

彼はわたしの存在すら、きっと知らないのだから。

それでも、視界の隅に彼が存在していることが嬉しくて。

わたしは頬が緩むのをとめることが出来ない。

自分にかけられたものじゃなくても、声を聴けたことも。

ここから二駅のあいだ、同じ電車に乗っていることも。

彼は残念ながら、乗った後わたしとは反対の方に友達と向かってしまったけど、

それでも心が浮き立ってしまう。

月曜日の憂鬱が、ほんの少しだけ浮上したような気がした。


「おす」


ぽん、と肩を叩かれて振り返れば、昨日別れたばかりの元彼の姿があった。

昨日の悲しそうな表情とは打って変わってすっきりとした顔で。

わたしは困惑を隠しきれずに、彼を見上げた。


「お、おはよう……」

「どーした?」


きょとんとわたしを見下ろす彼に、わたしは曖昧に笑う。

まさか昨日の今日でこんな風に話しかけてくれるとも思ってなかった。

わたしが彼を傷つけてしまったのに。

けれど心配そうにわたしを覗き込む彼に、これ以上気を使わせるわけにはいかない。

そう思うものの、うまい言葉が思いつかなくて、だからわたしはなんでもないよ、と笑顔を見せた。


「あのさ、稚奈。俺、これからは応援するから」

「えっ?」

「本当はずっと知ってたんだ。おまえが好きなやつのこと……つきあう前から」


彼はほんの少しだけ身をかがめると、小さな小さな声でそう言った。

その言葉に驚いて、わたしは思わず目を瞠る。


「おまえは気づいてなかったみたいだけどな、自分の気持ち」

「う……」

「だからあのとき俺、おまえにつきあおうって言われてマジで驚いたよ」


そう言って、彼は苦く笑う。

わたしは彼の言葉を聞いて情けない気分になりながら、四ヶ月前の自分を思い返した。

友達と行ったカラオケで、彼とその仲間達と会って一緒に遊んだ。

そのとき妙に息があったわたしたちは、帰りにはそういうことになっていたんだ。

言い出したのはわたしの方。

心の隅にあった想いのかけらに、そのときはまったく気づいてはいなかった。

けれどもどこかで、かなうことがないことをわかっていて。

今目の前にいる彼とつきあうようになり、一緒にすごす時間が増えて、そうしてやっと自覚した気持ち。

けれどそれに気づいたときには、当たり前のように彼が隣にいたから。

自分ではどうすることも出来ずに閉じ込めようとした想いだった。

きっと、時間がたてば忘れて。

目の前にいる彼と一緒に幸せになれるんだと、思い込んでいた。

彼にも気持ちがあることを、考えもしなかった自分。

なんてひどい人間なんだろう。

自分の気持ちすらうまく扱えず、あまつさえ自分を大切に想ってくれる人を傷つけて。

なのに、その人はそんな自分を応援する、と笑うなんて。


「克己くん……」

「ま、ほらお互いのことはよくわかってることだし?けっこう力になれると思うぜ」

「え、だめだよ。そんなの……頼めるわけ」

「いいから!な?」


ぽん、とわたしの頭を叩いて、彼は微笑んだ。

ちょうどそのとき電車が降りる駅に到着して、彼はわたしの背中を押してくる。

反論は宙に浮いたままだったけれど、仕方なく一緒に電車を降りた。

克己くんの後について改札を出ると、何人か前のグループにあの人の姿を見つける。

友達と並んで歩いていく後姿は、月曜の朝だっていうのに楽しそうにみえる。

わたしと克己くんは、これといって会話もないままで学校への道を歩いた。


「なぁ、稚奈」

「え?」


校門を入ったところで、克己くんはわたしを振り返った。

歩きながら彼を見上げると、いつもと同じように優しい笑顔を浮かべる。


「がんばれよな」

「……」

「うまくいくかどうかなんかわかんないけどさ。心置きなくやってこい!!」

「……ん。ありがと、克己くん」

「おー。んじゃ、先行くな。また教室で」


ちょっと走って前を歩いていたクラスメイトの肩を叩く克己くんを見送る。

ちらっとこちらを振り返って微笑んだ後、彼はもうわたしを見ることはなかった。

ぎゅっと心臓をつかまれたような感覚を覚えて、わたしは深く深く息を吐く。

優しすぎるひとだと思う。

わたしはあなたを傷つけたのに。

自分の気持ちがはっきりしないままつきあいを望んだりした、最低な人間なのに。

それを知っていた彼はどんな気持ちでわたしと一緒にいたんだろう。

どうしてそんなに優しくしてくれるんだろう。

もうすぐ校舎に入ろうとしている、好きな人。

その少し後ろを友達と歩いていく、昨日までの彼氏。

二つの後姿が、わたしの視界に浮かび上がる。

それを見つめながら歩いているうちに、そのどちらもが滲んでいく。

昨日はちっとも泣けなかったのに。

今ごろになって、涙が溢れて止まらなかった。


「ちーな。おはよ!」


ぽーん、と軽く肩を叩かれて焦った。

朝からこんなところで号泣しているのに気づいたら、驚かせてしまうだろう。

……と思ったけれど、時すでに遅し。

わたしのとなりに立って顔を覗き込んできた歩美は大きな目をさらに見開いた。


「ど、どうしたの?いったい」

「…………お、はよぅ……」

「え、あー、うん。じゃなくてえーっと、稚奈?」

「うー……」


気遣うような歩美の声に止まることを知らないみたいに涙がぼろぼろと零れ落ちる。

何を言ったらいいのかわからないばかりか、足を進めることも出来なくなって。

慌てた歩美が、わたしの肩を抱いてゆっくりと歩き出す。

ごしごしと目元をぬぐいながら、それでも止まらない涙に自分でもびっくりする。

こんな顔で教室になんていけないなぁ、と思っていると、歩美は生徒玄関とは違う方向に向かっていたらしく、気づくと部室棟の前まで来ていた。


「一時間くらいここにいたらいいよ。なんなら保健室に行ってもいいけど」

「ん……ありがと」


部室棟の二階は文学系のクラブが使っているらしい。

もちろん、もうすぐ授業が始まるこの時間にここにいる生徒はない。

歩美は部長だから自分の部室の鍵を持っているから、避難場所を提供してくれるのだろう。

自分でもたまに授業をサボるときは使うって言ってたし。

けれど部外者のわたしにそれを貸してくれるなんて、と思っていると、彼女はにっこりと微笑んだ。


「一緒にいてほしい?」

「ん、大丈夫だよ」

「そう?まぁ、少し一人になったほうが落ち着くかもしれないし、もし保健室に行くようならメール入れてくれればいいからね」

「わかった。ありがと、歩美」


どうしてわたしが泣いているかなんてまったく訊かずに、歩美は背を向ける。

その優しさが嬉しくて、わたしはまた胸が痛くなった。

とにかくはやくなんとか涙を止めて、教室に行かなきゃ。

克己くんだって「教室で」と言っていたのに、こなかったらきっと心配するだろう。

昨日の今日だからこそ、ここはしゃんとしてなければいけないと思う。

わたしのために、別れを切り出した克己くんにこれ以上気遣わせないためにも。

あの人はクラスも違うし、そんなことに気づくことはないだろうけど。

同じクラスになったこともない。

ほとんど言葉を交わしたこともない。

クラブだって委員会だって、共通点はつめの先ほどもないのに。

そんな人を、どうしてわたしはずっと好きなんだろう。

頭の中に、昨日克己くんに言われた言葉がよみがえった。


『本当は好きじゃないよな』


あれは、克己くんの事を指した言葉だ。

克己くんをきちんと見ていないわたしに対して、放たれた言葉だったはずだ。

あの時脳裏に浮かんだのは、ずっと想ってきたあの人の顔。

四ヶ月間、隣にいた人との会話中に浮かんだ、別の顔。

だからこそ、別れを告げられることも仕方ないと思ったし、あのままつきあい続けることが困難になって、いつかそんな日が来ることも知っていた。

頑ななわたしのこころは、一人の人しか見つめられないから。

そのくせ、自分から克己くんにそれを話すことも出来なかった卑怯な人間。

さっきわたしの前を歩いていった二つの後姿を思い出す。

たとえ面と向かったとしても、まともに会話をすることもないひとと、

四ヶ月間となりにいて、ずっとわたしを見つめ、わたしの言葉に耳を傾けてくれていた人。


『本当は好きじゃないよな』


そう、言われた。

自分でもそう思っていた。

けれど今わたしの中では、その言葉にかかる相手が少し違っているような気がしてる。

わたしが本当に好きなのは────。

(……う、そ…………っ!?)

その瞬間、血液がまるで逆流したかのように、鼓動が重く激しくなった。

次々に溢れてくる、四ヶ月間の思い出。

となりにいつもあった克己くんの笑顔ばかり。

いつも聴いていた優しい声が、耳の奥に残っている。

好きだったはずのあの人の顔も、声も、なにも浮かばない。

さっきは確かに、たった一言が聴けただけで心が浮き立ったはずなのに。

どうしよう、どうしよう。

そんな言葉しか、今のわたしの頭の中には浮かばなかった。

今さら、元に戻ることなんてできない。

昨日の今日でもう一度、なんて言えるはずがない。

本当に最低だ。最悪な人間なんだ、わたしは。

自分の心にいるたったひとりの人に気づかなかったなんて、情けなくて涙も引っ込んでしまった。


どのくらいぼんやりしていただろう。

ポケットの中で携帯電話が震えたのに気づいて、取り出してディスプレイを確認してみる。

着信メールは、克己くんと歩美からだった。

教室にいないわたしに驚いたんだろう。気遣いを感じる克己くんの言葉にまたひとつ、涙が落ちた。

(いっぱい傷つけて、ごめんね)

心の中で克己くんに謝って、歩美にも感謝して。

時間を見ればもうすぐ、一限目の終了を告げるチャイムが鳴るころだった。

始業のチャイムもなにも聞こえてなかったけど、結構な時間ここにいたらしい。

一度だけ深呼吸して、部室の窓から白い雲が浮かぶ空をぼんやりと見つめる。

自分のせいで別れてしまったけれど、わたしは克己くんが好きだ。

すぐに告白なんて、もちろんできるはずもないし、するつもりもない。

先に彼を裏切ったのは自分だし、勝手なことを言って克己くんをこれ以上困らせたくもない。

この想いをこのまま持っていて、どうなるかなんてわからないけれど。

とりあえず今は二人にメールを返して、笑顔で教室に戻ろう。

克己くんにちゃんとごめんね、って言って。

たとえ報われなくても、わたしの本当の恋はここから始まるんだ。


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