夢日記
その夢は、小さな頃によく見ていた。
なにか嫌なことがあったときや、とても悲しい気持ちで眠りについたときは、いつもその夢を見ることができた。
その夢で、私はいつも、知らない男の人に手を引かれ歩いていた。真っ暗で、何もない世界。私とその人だけが存在していた。
何故だかわからないけど、その人はとても懐かしい感じがした。
どこに行くのかも知らないで、いつでもその人と歩いていた。しばらく歩けば、光が見えてくる。だが、何故だかその夢は、いつでもそこで終わってしまう。
その男の人は、いつでも同じ服。上から下まで真っ黒。髪の毛は肩につくかつかないか程度で、顔は真っ白だった。それこそ、この人は本当に生きてるのか、と疑ってしまうほど。
彼はだれかに似ている気がしたけど、それが誰なのかは、いまでもわからない。
私は何度か彼に話しかけたが、彼が言っている言葉を、理解できたことはまだ一度もない。
なにもかもが真っ暗な世界で、彼と私以外、何も存在してはいなかった。彼も、真っ黒な服で、ときどき闇と同化してしまっているように見えた。
私は、寂しくなるといつも眠っていた。
夢の中なら彼と会える。ただ手をつないで歩いているだけだったけど、その時間は何故か、とても貴重で、幸せな時間だと思えた。
私は、彼との時間を忘れたくない、と思った。
そう思ったのがきっかけで、夢日記をつけはじめた。
夢日記というのは、その日見た夢を、何かに書き留めるというもの。夢の記憶は、目覚めてから十分しか覚えてないというから、私は朝目覚めると、いつも急いでノートに夢のことを書き留めた。
でも、目覚めてしまうと、彼の顔は絶対に思い出せなかった。
いつからだろうか。あの夢をまったく見なくなったのは。
最初は寂しかった。いつも心を穏やかにしてくれたあの夢が、なくなってしまったのだから。
でも、そのうち、あんなに大切だった夢は、思い出すこともしなくなった。いったい彼はだれなのか、どうして闇の中を歩いているのか。私は何も理解できないまま、夢のことをすっかりと忘れてしまった。
「あーあ、今日はすごく疲れたなぁ……。」
今日やることを全て終え、私は体を投げ出した。
今日は嫌なことの連発だった。
授業はほとんどが嫌いな教科。わからない問題はあてられるし、居眠りしているのが今日にかぎってみつかった。いつもなら見つからないのに。おまけに、とても小さいころから仲が良かった、大親友とも喧嘩してしまった。
思う。こんな一日に悪いことが集中しなくてもいいじゃないか。
こんなことでも、考えているとだんだんとまぶたが重くなってくる。私は素直に目を閉じた。明日は、ちゃんと謝ろう。ちゃんと仲直りをしよう。
次に気がついたのは闇の世界だった。
何もかもが真っ暗で、目立ったものなどなにもない。そして、私は知らない男の人に、手を引かれて歩いていた。
何がなんだかわからない。私はどこにいるんだろう。こんなところにいて、いいのだろうか。
見たことがない、だけど、何故だか懐かしい気がした。
私よりも少し前で歩いている、その男に目を移す。
その人は、私より十五センチくらいは背が高いように見えた。
――それって、結構、高身長よね?私って百六十五センチはあるの。でも、女の子はもっと小さいほうがいいよね。人それぞれだけど、私はそう思う。
ただ、彼に手を引かれ、歩くだけ。見知らぬ男と手をつなぐなんて、普段ならそんな大胆なことはしないけど、この人は特別で大丈夫、そんな気がしていた。
しばらく、歩くと、光が見えてきた。ただただ真っ暗なこの世界で、光があるのに少しだけ驚いた。てっきり、このままずっと真っ暗なんだと思ってた。何か、この男の人は反応を示さないのだろうか。後ろから彼を見るが、特に変わった様子はなかった。
つまらない。
つまらなくとも、しょうがない。反応がないのだから。彼はなんとも思っていないのかもしれない。
そんなことを考えてるうちに、その光は、すぐ目の前にきていた。それは、扉の形をしていた。
この光は、どこに繋がっているんだろう。
私はそう思った。この光の向こうに、行きたい。何故だかわからないけど、行きたい、行きたいとだけ、思った。それが、好奇心なのか、それともこの闇からさっさと抜け出したいと思っているのかはわからないけど。
私は彼の手を握ったまま、光へと踏み込もうとした、が。
「きゃぁっ?!」
彼によって阻まれた。私はその場にしりもちをつく。彼に突き飛ばされたのだ。まったく、女の子を突き飛ばすなんて、どんな神経をしているのだろう。
私は彼を睨み付けた。
「いきなり何するのよ!」
私は凄んでそう怒鳴りつけたが、彼は気にした様子もなく、無表情のまま私を見た。彼の顔は、真っ白だった。
「■■■■■■■■■」
彼が何かを言う。だが、まるで聞き取れなかった。
「?何言ってるのよ。」
私が聞くと。彼は困ったように手を広げた。口は動いているが、彼の声は、やはり聞き取れなかった。声が小さいし、彼が何かを言うと、何故だか私の頭にノイズが響き渡るのだ。
私は立ち上がった。
「私ね、そっちの光の方に行きたいの。通してよ。」
彼の肩をつかんで、無理やり横にどかせる。彼はとても細く、女みたいな華奢な体つきだった。
「■■■■■■■■■■■■」
彼が何かを叫ぶ。私の腕をつかむと、無理やりに光から遠ざけた。
「だから、何するのよ。そんなに私を通らせたくないの?」
彼は頷いて見せた。そして、次に上を指差した。勿論、上だって暗闇で、青空なんてものは存在しない。
意味が分からない。でも、彼が私をこの光の向こうに行かせたくないっていうのはわかった。
私はため息をついた。
「そんなに行かせたくないなら、もういいや。」
その言葉を聞くと、彼の表情が少しだけ優しくなったような気がした。……やはり無表情だが。
私は光から後ずさり、十メートルほどの距離をあけた。
「ほら、もう行かないよ。」
すると、彼は私に向かって手を振った。声が届くことはないが、やはり何か言っているようだった。でも、聞こえないからしょうがない。
私が手を振り返すと、今度こそ彼が笑い、光の中へと消えていった。
「あれ?わたし……」
次に見えたのは、真っ白な天井だった。それは、自分の部屋じゃない。体を起こせば、体中に鋭い痛みがはしった。
「あ、目がさめましたか?って、まだ起きないでください!大変だったんですから!」
すぐそこにいたのは看護婦さんだ。私は、現状がまるで理解できなかった。
「あのぅ、おかしいとは思いますが、私、現状がまるで理解できないのですが……なにが、あったんですか?」
私の言葉を聞いて、看護婦さんはにこりと笑った。
「別におかしくなんてありませんよ。交通事故に遭ったんですから。」
私はフリーズした。
交通事故?私が?
「えっと、それは本当に?」
「えぇ。信号で、飲酒運転の車に撥ねられたんです。危なかったんですよ。病院に運ばれるのが少しでも遅かったら、出血多量で死んでいたかもしれません。」
呆然だった。私は、まるで記憶がない。あるのは、親友と喧嘩して、一人で怒りながら学校を出たところまでだ。全然実感できない。私がもう少しで死にそうだったなんて。
確かに、自分の体を見れば、あちこちに包帯が巻かれているし、少しでも動くと、体中を鋭い痛みが駆け抜ける。これは、信じるしかなかった。
「あ、そうそう。」
看護婦さんが、何かを思い出したかのように言った。
「どうしたんですか?」
看護婦さんは、自らの制服のポケットから、一枚の紙を取り出した。恐らくは、写真だろう。
「これを。貴方の上着のポケットに入ってたんです。この写真は、汚れずにすみましたよ。」
看護婦さんが私に写真を渡してくる。私はそれを受け取ると、ぼぅっと眺めた。
「こちらの女の子は貴方ですよね。こちらは、お兄さんですか?」
「はい。小さい頃に、撮った写真なんです。」
私の兄は、私が小さい頃に病気で死んでしまった。兄は、生まれたときから大きな病気を持っていた。私は兄が大好きで、死んでしまったときはかなりショックだった。
兄の顔を眺める。優しい顔。真っ白な肌に、肩につくかつかないか程度の髪。
あれ?
私は、その人を、ついこのあいだ、見た。
私は、あの夢にいた、彼を思い出した。いまなら、顔もしっかりと思い出せた。
あれは、兄だった。どこからどうみても、私の大好きな、兄だった。
そして、全てを思い出した。
あぁ、あの夢は、小さな頃からずっと見ていたものだった。
どうしていままで、気づかなかったんだろう。
彼のことを懐かしいと感じたのも、そのせいだった。
「お兄ちゃんが、私を助けてくれたんだ……。」
あの光の向こうに、何があるのかはわからないけど、あっちにいってしまったら、きっともう、戻れなかったんだ。
私の目からは、涙が溢れていた。
「お兄ちゃんは、死んでからも私のことを見ててくれたんだ……。」
私は写真を握り締めた。