純愛
月明かりが銀に見える頃、1人の女性が笛を吹いていた。
その音は優しく、流れるようなもので、聞いている者の心を鷲掴みにする。
しかし女性は気にせず、気持ち良さそうに吹いていく。
それと合唱するように、夏の虫達が賑やかさを求めてやって来る。
虫だけでなく、植物も女性の柔らかな音にひかれ、花を咲かそうとする。
まるで女性を太陽の光と間違えているようで、彼女は神に等しい存在に思えた。
「ーいい笛の音だ」
突然、拍手が聞こえてきて、女性は慌てて笛を口から放す。
見れば、堂々とした男性であり、女性の主人でもあった。
「よい、続けよ、緑珠」
「は、はい。しかし…」
「他の者の声は無視せよ。私が笛を吹けと言ったら、吹け」
「畏まりました」
緑珠と呼ばれた女性は、再び笛を吹き始める。
すると月光が彼女に集中し、天女と間違うかのごとく、美しく照らされる。それを主人ー石崇がほうと息を吐き、見惚れる。
緑珠は何千もいる妓女の中で、一番可愛がられている女性だった。
ーありがたいことですわ。
緑珠は笛を吹きつつ、石崇をちらりと窺う。
その姿は引き締まっており、武にも力を入れているのが分かる。
そもそも石崇は商人であり、大富豪だった。
しかし怒鳴ったり、けなしたりすることはなく、いい主人であった。
ー私を得るために、大量の真珠と交換したとか。
真珠の珠の字は、出身が真珠の産地てあることから、つけられたといわれている。
「素晴らしい。とても、とても心に響く」
「ありがたき幸せ」
緑珠が頭を下げると、石崇が手招きする。
緑珠は無駄な動きなく進むと、いきなり抱きしめられる。
ふうと耳に息を吹きかけられ、つい熱い息を吐いてしまう。
「石崇様、私の笛はいかがだったでしょうか?」
「素晴らしいと言っただろう? 自信を持て。そうでなければ、私はお前を愛さない」
「失礼いたしました。あなた様に褒められたことを心に留め、自信を持とうと思います」
「その通りだ」
そう言うと、石崇は緑珠の細い身体を強く抱きしめる。
緑珠は石崇の胸に耳を当てると、くすりと笑う。
「どうした? 何が面白い?」
「いいえ。石崇様でも緊張することがあるのだと思いまして」
「それはそうだ。真珠よりも、いや、月の天女よりも美しい女が目の前にいるのだから。私の想いを受け取れ」
え、と思っていると、顎を取られ、口づけられる。
それは情熱的で、緑珠の手から笛が落ちる。
二人はしばらく抱き合ったまま、自分達の世界に浸る。
満天の星も輝きを引っ込め、月のみが見守っているのだった。
「ー緑珠、床へ行こう」
「あの、その、それもいいのですけれど…」
緑珠は身体を少し離すと、石崇を見上げる。
「私としばらく穏やかな時を過ごしませんか?」
「ほう。穏やかな時を過ごしたいか。なるほどな」
石崇は緑珠から手を放したので、少し淋しさを感じつつ、落とした笛を拾う。
汚れを払うと、大事そうに胸に入れ、石崇に言う。
「一つ舞いましょうか?」
「お、いいな。それ、早くせよ」
「はい」
緑珠は礼をすると、月明かりを確認し、静かに舞い始める。
それは風を巻き起こし、緑珠を中心に良い香りが広がる。
緑珠は楽しくなり、手の先まで注意しながら、舞い続ける。
襦裙がふわりと静かに動き、石崇が魅入ってくるのが伝わってくる。
ー自然を受け入れて舞うこと。そうすれば、石崇様の心に残り、満足してくれるはず。
虫の音に合わせて、軽く歌うと、くるりと回転する。
「よい。もうよい、緑珠」
「はい。失礼いたしました」
緑珠は動きを止め、落ち着くと、ようやく暑さを感じる。
汗はかいていないが、こんなにも暑かったのかと、ようやく意識したのだった。
しかし、それよりも熱いのは石崇だった。
強い視線を感じ、緑珠は頬を赤らめる。全身を透き通って見られているようで、もじもじする。
緑珠の心を知ってか、石崇は拍手をし、ふと残念そうに言う。
「しまった。酒を用意させれば良かったか」
「あ、では私が…」
「緑珠は私から離れるな。分かったな?」
有無を言わせない迫力に、緑珠は素直にうなずく。
「良い気分だ。今度、新しい襦裙を買ってやろう」
「え、いえ、その、たくさん買っていただいておりますから」
「遠慮するな、緑珠。それとも不満か?」
「い、いいえ!! そうではなく、石崇様に寵愛されているだけで、私は十分でございます」
「…ほう。私の愛で十分と言うか」
「はい。それに一人だけ可愛がられていますと、周りの者達が羨ましく思いますので」
「確かにそうだな。しかし、私の中でお前が一番なんだよ」
「まあ。ありがとうございます」
緑珠が袖で顔を隠そうとすると、石崇が厳しく言ってくる。
「顔を見せろ、緑珠。お前の瞳に映っているのが、私だけなのか、それとも他に浮気相手が…」
「いません!! 石崇様だけですわ!!」
はっきり言うと、背中を見せる。
石崇の意地悪な言葉が気に食わず、視線を避けたのだった。
殺されてもしょうがないのだが、緑珠は自身の潔白を訴えたかった。
「分かった、分かった。私が謝る。緑珠には私だけか?」
「当たり前でございます!! その…初めて恋をしたのも、あなた様だけでございます」
「そうか、そうか。それは嬉しい」
石崇が緑珠を背後から抱きしめてくる。
髪に口づけられたり、耳を齧られたりして、緑珠の身体がますます熱くなっていく。
「せ、石崇様…!! ここでは、その、それくらいで!!」
「じゃあ、もう怒っていないな?」
「はい。主人に対して怒るなんて、失礼な振る舞いをいたしました」
「いや、いい。緑珠を愛していいのは、私だけだ。そうだな?」
「そうですわ。私に触れていいのも、石崇様だけですもの」
ようやく石崇の腕に手をそっと合わせると、頬と頬を重ね合わされる。
髭の感触が心地よく、くすりと笑うと、石崇が熱い息を吐きながら言ってくる。
「ああ、癒される…。私の周りは敵ばかりだからな」
「大変ですの? その、商売は」
「それは聞くな。今は私を癒やせ」
「はい。畏まりました」
そう答えると、緑珠は心配から石崇の手に口づける。
その感触は花びらよりも軽やかで、石崇が上機嫌となる。
「もう少しこのままでいるか?」
「駄目ですわよ。月が見ております」
「月なんかどうでもいい。私とどちらが大事だ?」
「それは石崇様に決まっていますわ。どうか月のように隠れないでくださいませ」
「そうか、月のようにか。面白い女だ、緑珠は」
「そうですの? それなら良かった」
石崇の手を癒やすように擦ると、石崇が肩に顎を乗せてくる。
ー私を心配させないように、何も言わないんですわ。だったら、私がたっぷり癒やしてあげませんと。
心を決めると、ゆっくりと振り返り、石崇の両頬を手で包み込む。
それから軽く口づけると、放そうとした唇が奪われる。
それは長い、長いもので、放された時には、緑珠は倒れるかと思うくらいだった。
「どうだ、私の愛は?」
「最高ですわ。とても、とても、胸に響きましたわ。私の負けです」
「そうか。緑珠の負けか。あはは」
石崇は豪快に笑うと、緑珠の肩を引き寄せる。
緑珠は拒むことなく、部屋の中へ入っていくのだった。




