前編
もちろん、我々はすでに知ってしまっている。
この時点ではまだ、彼女は彼女になってはいないということを。少なくとも、我々が知りたい彼女ではないということを。
この日は六月の初旬。まだそれほど暑くはない日。どうということのない学校生活。いかなるハプニングも起こりそうにない講義。
講義の最中に彼女は、最近自分に起こったいくつかの出来事を思い浮かべる。特に意味はないと思っていた言葉のいくつか。断片的な情報のいくつか。つながっていなかったことが少しずつ、つながってゆく。それらが新しい流れとして認識されてゆく。新しい流れの中に、いくつかのものごとが吸い寄せられてゆく。流れの中に位置づけられるのを待っていたものごと。
彼女は突然、関係が終了したということを完全に理解する。
ふと窓の外を見る。
雨がやんだばかりだ。
日の光が筋になって差し込んでいる。
世界はいつも通り。
自分に起こる変化を、肯定することも否定することもない。
そういうことなのだ。
もう、そのように考えるしかないのだ。
講義はどちらかといえば彼女が個人的に関心を持っている内容ではあった。でも当然ながら、関係性の終焉に思い至ってからは、まったく頭に入ってこなくなる。九十分の講義が終わってからも、彼女は歩きながらしばらくぼんやりと考え続ける。
「あっなゆ!」
彼女は突然、話しかけられる。
二人は一緒に歩く。
歩きながら、相手は一方的に話し続ける。
最近行ったお店のこと。現在の彼氏のこと。まるで何かを一生懸命忘れようとするかのように、その人物は話し続ける。時々スマホを彼女に見せたりしながら。そして話の合間に、遠く離れた誰かにメッセージを素早く返す。
やがて話は、この夏をどう過ごすのかということにもおよぶ。いくつかの他愛もない約束が交わされる。その中にはVRのゴーグルを貸すという約束も含まれる。この日の約束の大部分は忘れ去られ、彼女にVRのゴーグルを貸すことだけが実際に遂行されることになる。
彼女はこの日、何度も自身の関係性の終焉について話そうとした。でもそのタイミングは失われたまま、話しかけてきた相手は去ってしまう。
去ってゆく相手を見つめながら、彼女はゆっくりとスマホを取り出す。これといって重要なメッセージは来ていない。彼女はどれにも返信をしない。でもスマホのマナーモードをオフにして音が鳴るようにする。
その後も彼女は何人かと会う。どうということのない会話をする。関係性が実際に終了したばかりであることを前提としたやり取り。
そのことを前提にはする。でも明言はしない。
聞かれたら、答えよう。
もう別れたのだと。
でも結局、この日は誰も決定的な質問をしてこない。
彼女は久しぶりに、たあくんの家に行こうと決める。
報告をしておきたいわけではない。相談がしたいわけでもない。癒やしてほしいわけでもない。大学に入学してから出会った友人たちに求めるものとは違う何かを彼女は期待する。
マンションの入り口では、ちょうど他の住人が入っていくタイミング。彼女もその住人と一緒に入る。エレベーターでその住人と同乗するが、その住人は二階で降りる。彼女は最上階の八階で降りる。
彼女はまず玄関のドアを黙ってそろりと開けてみる。玄関は空いている。そうであれば、ほぼ間違いない。たあくんが一人で家にいるということである。
彼女は念のため、チャイムも鳴らす。でも返事がある前に勝手に入る。たあくんが起き出してこなくてもいいように。玄関のすぐ近くの部屋がたあくんの部屋。ドアをノックすると眠そうな声で「はーい」という声。
彼女はゆっくり部屋のドアを開ける。
「おっなゆね」
床に寝転がった状態のまま、たあくんがそう応える。相変わらずの部屋の状態であることを彼女は確認する。その乱雑さ。誰かを迎え入れることがまったく想定されていない配置。
なゆねは何かを言おうとしてやめる。
カバンから550mlのペットボトルの水を取り出し、たあくんに渡そうとする。たあくんが受け取ろうとしないので、部屋の中央のローテーブルの上に置く。ローテーブルの上にも、雑多なものが積み上げられている。それらは何も考えずに積まれているように見える。でも同時に、ほんの少しでも何かを変えると全体の意味合いが根本的に変わってしまいそうにも思えてくる。
なゆねは座りながら言う。
「もうお薬のんだ?」
「……まだ」
なゆねはそっと手を伸ばす。そしてたあくんの喉に手をあてる。たあくんは寝転がったまま、しばらく何も反応しない。
やがてたあくんは、ローテーブルの上を見ずに手探りで薬を探す。
探り当てたと同時に上半身を少しずつ起こし始める。なゆねの手が外れそうになる。手が喉を追いかける。たあくんは眠そうな顔で、ペットボトルのキャップを開ける。そのまますぐにペットボトルはローテーブルの上に置く。ぎこちなく薬をとり出して錠剤を口に含む。
それは苦いのだろうか。あるいは甘いのか。
なゆねは未だに知らない。
たあくんは再びペットボトルに手を伸ばし、水を少しだけ飲む。
手をたあくんの喉にあてたまま、なゆねは小さく言う。
「ごっくん」
たあくんはペットボトルのキャップを閉めようとするが、思い直して再び水を飲む。
なゆねは黙って見守る。
たあくんは表情を変えずに言う。
「ごっくんやめろ」
たあくんはさらに何かを言おうとする。でも結局、何も言わない。そして徐々にまた寝転がった姿勢へと移行する。なゆねの手が離れる。たあくんは目をつぶる。
なゆねは部屋を見渡す。
しばらく訪れていなかった部屋だが、ほとんど変わっていない。相変わらずものが多い。でも新しいものは何も増えていない。それは良いことなのか、悪いことなのか。
なゆねは「さくらさくら」をメロディーだけ口ずさむ。たあくんは何も言わない。
なゆねが壁の時計を見ると、ちょうど夕方の五時。
今度は「蛍の光」を口ずさむ。歌詞付き。ほたーるの、ひかーあり……このあとの歌詞ってなんやったっけ? たあくんは何も応えない。しばらくしてから、何かを思い出したのか体の向きを変える。でも何も言わず、また元の姿勢に戻る。なゆねは「かごめかごめ」を口ずさむ。かーごめ、かごめ。かーごのなーかの、とーりーは。知ってた? この歌詞って怖いねんで。んん。らしいな。たあくんがそう応えてから、しばらく二人とも無言。やがてなゆねは再び歌い始める。まーどいーせーんー。これって曲名なんやったっけ。んん。まーどいーせーんー。んん……それ。ドヴォルザーク。作曲は。ほんまに? 間違いない? んん。なゆねはスマホで検索を始める。
ここに来る前、なゆねは確かに何かを話そうと思っていた。でも何を話そうとしていたのだろう。
なるほど曲は確かにドヴォルザークだ。
そして日本語版の歌詞は堀内敬三。
なゆねはスマホを床に置く。
この部屋に新しいものは増えていないようだが、うっすらとした違和感があった。なゆねはその正体にやっと気づく。パソコンだ。パソコンの電源が入っていないのである。
「最近あれなん。パソコンの電源って入れてないん?」
「……そんなことないで」
たあくんは寝転がって目をつぶった状態のまま、手を伸ばしてパソコンの電源を入れようとする。何度か空振りするが、やがてパソコンの位置を探り当て、パソコンに電源が入る。
しばらくしてパソコンのデスクトップが表示される。壁紙は以前と同じ風景写真。なゆねが最後に見た時とまったく変わっていないように見える。
たあくんは寝転がったまま言う。
「でもあれやな。ここ三日ぐらい電源入れてへんかったかも」
「ふーん。デジタルデトックス?」
「まあ……それもある。俺は情報断食という言い方のほうの方が好きやけど」
「そっか。小説は書いてないん?」
「うーん……なんか……構想はあるけど進まん」
「そっか」
なゆねのスマホから通知音。
通知の内容を確認する。
なゆねは顔をしかめる。
「うっコイツマジ……」
何度も文面を確かめ、静かに床にスマホを置く。
関係性の終焉にともなう、面倒な手続き。
一緒に暮らしていたわけでもない。雑多な荷物や高価なものを預かったり預けたりもしていない。何か具体的なプロジェクトに共同で取り組んでいたわけでもない。それでも、一年以上続いた関係の終焉には面倒ごとがつきまとう。
なゆねはスマホをマナーモードにしてから、ゆっくり立ち上がる。
「来たばっかやけど。ちょっともう行くね」
たあくんは寝転がったまま、微動だにしない。
「明日はたぶん来おへんで」
この日彼女は、終わった関係のことについて何もたあくんに話さなかった。何か大きな変化があったということ自体、まったく表に出さなかった。
ある意味では彼女らしいといえるのかもしれない。
それより注目すべきは、この日彼女はVRのゴーグルのことを話さなかったということだろう。この時点では、彼女は重要な約束をしたとは考えていないのである。例の謎めいたテキストファイルの話も出ていない。そもそも、VRのゴーグルを彼女に貸すと宣言し、テキストファイルを彼女に送りつけた、くだんの人物のことをまだ一度もたあくんに話したことがない。
もっとも、我々にとっては、くだんの人物はさほど重要ではない。
我々が知りたいのは、彼女がいったい、いつ彼女になったのかということである。
この時点では彼女のことを才能にあふれた人だと考える者はほとんどいないのは明らかであり、彼女を名探偵だと呼ぶ人も当然いない。
そもそも、この時点ではまだ彼女は小説を書いていない。
もちろん、様々な偶然が重なって彼女は小説を書き始めたのであり、またこの世に「名探偵」など実際には存在していないという観点も重要ではあるのだろう。
ひとまずここでは、翌日のことに注目しよう。
翌日、彼女は学校には行かなかった。
翌日、彼女は文房具屋に行ってスマホの前面のカメラをふさぐシールを購入した。
翌日、彼女は同じ大学の人間とは誰とも会わなかった。
物理的に会ってするような会話はなかったが、面倒ごとに関連していくつかの布石は打った。問題が自分に大きなダメージとならないように。周囲にダメージがおよばないように。
夕方になってから、彼女は今日もたあくんの家に行こうと決める。前日の別れ際には行かないと宣言したし、実際に行かないつもりだった。だが、今日のうちに聞いてみたいという欲求が高まりつつある。
抗いがたい欲求。
謎をぶつけたいという欲求。
たあくんがどんな反応をするのか知りたい。
秘密を話してしまいたい。
もしかして、いきなり謎を解いてしまうことはありうるだろうか。まったく関心を持たないという可能性もあったりするのだろうか。
昨日とは違い、マンションの入り口では都合よくマンションの中に入っていくような住人は見当たらない。仕方なく、ロビーインターホンでたあくんの部屋の番号を押す。母親が出る。いずれにせよ、たあくんの母親と出くわす日だったということだ。エレベーターの中は一人だけ。でも三階と五階では、下りのエレベーターを待つ家族連れが目に入る。
「はーいはい、どうぞどうぞ」
玄関のチャイムを鳴らすと、いつものようにたあくんの母親が迎え入れる。
「こんにちわー、あっすぐ帰るんでおかまいなく」
彼女はそう言いながら靴を脱ぐ。
靴を脱ぎ終わる前に、少し大きめの声で「どうぞ」という眠そうな声が部屋の中から聞こえる。
ノックをせずに部屋のドアを開けると、部屋の状態は昨日とまったく同じ。たあくんは最後に見た時とほとんど同じ姿勢で寝転がっている。もしかして二十四時間近くずっとそのままの姿勢でいたのだろうか、などと考える。でも自分が渡したペットボトルの水が減っていることになゆねは気づく。
「授業ないなった」
「ないなったやめろ」
……うん。まあ、元気そうだね。
それは良いことだ。
やはり謎をぶつけるなら今日か。
「ちょっとなあ、たあくんに見せようと思っとったもんがあってな」
「うーん……」
「詩とか好き?」
「うーん、詩ぃなあ……書いてはいないけど……読むことも……あんまないかなあ……」
「暗号は?」
「暗号……とかも……そんな別に詳しくはないぞ」
「うんうん……うん。なるほどね。これから見せようと思うのは……これは……何を見せようとしているのかというと、やな……」
たあくんは微動だにしない。
現時点ではいかなる意味でも、たあくんの関心を呼び覚ますことには成功していない。
「あっそうや。まずそれを最初の質問にしよっか。今からな、わたしは何を見せると思う?」
「んん……何を見せるって……」
「どういうたぐいのもんやと思う?」
「えっどういうたぐいのもん。どういうたぐいのもん……」
「それを推測してみて」
「推測、なあ……推測……なんかヒントないんか」
ヒント。そうだね。
これだとヒントがなさすぎるかもしれないね。
でも、たあくんの場合はどうだろう。
wikiには何も書かれていないのか。
たあくんには、wikiがあるのではないのか。
そんなことを聞こうとして、なゆねは思いとどまる。
わざわざ心を乱すことはしないほうがいいかもしれない。
やはり、いきなり見せたほうがいいか。
「じゃあ……そうやな……まずは見てもらわんと始まらんな。見てもらおうか」
なゆねはスマホを取り出す。詩のようでもあり、暗号のようでもある文面を画面に表示させる。
たあくんはスマホを覗き込む。
相変わらずスマホの前面のカメラにはシールが貼られ、塞いである。そのシールが変わっていることにたあくんは気づく。
そこには触れずに、たあくんは文面だけに集中する。
「意味は……分からんな」
「分からん? なんも?」
「うーん……なんか……これはちょっと……ノーコメントということにしとこうかな……」
「このな。蛇と椅子ってな。なんで何回も出てくると思う?」
「えっ? うーん……」
たあくんは手を伸ばし、スクロールしようとしたり、拡大しようとしたりする。文量としては一画面におさまる量。そこに、確かに何度も「蛇」や「椅子」が登場する。
まったく見当がつかない、という表情でたあくんは画面を見つめる。
なゆねはたあくんの顔をじっと見ながらたずねる。
「えっ、これってな。あのう……なんていうか。最初にまずどっちをイメージした? 蛇の形をした椅子? 形っていうか、その……椅子の足とか背もたれとか、なんかそういう、椅子を構成する要素っていうか。そういうところに蛇が使われてるっていう、そういうのなのか。それともな、まず普通の椅子があってな、そこに蛇が巻き付いてるみたいな? 椅子は普通の椅子やった?」
「あああ……それは……どっちでもないな。なんか最初から、なんかの暗号とかそういうのんかと思って」
「ああなるほど」
二人はしばらく無言で謎のテキストを眺める。
そうだ、暗号についての話をふってしまったため、暗号という言葉のイメージに引きずられた可能性もあるか。これは暗号とは限らないのに。
「あとは……あれやな。なんか『蛇と椅子』って。小説のタイトルみたいやな」
おっ。ようやく、たあくんの個人的な見解が出てきた。
なるほど小説のタイトルね。
「ああ、うん。うん……なるほどね。タイトルね……でもこのテキストファイルにあるのって、『蛇と椅子』じゃないわけよ。『蛇 椅子』なわけよ。あいだに空白」
「えっ? ああ……まあそうやな」
「問題はな……問題は……これを書いた人っていうのはな、はっきりしてるわけ。作者は」
「うーん……うん」
「だったらな、書いた本人に聞けばええやろって話になんねんけどな……でもな、ここがまさに問題でな……」
なゆねは急に正座をする。
そしてじっとたあくんの目を見つめる。
「あんな、これな。絶対に言わんとってほしいわけ。とにかく。プライバシー。な?」
「ああ……うん」
たあくんは曖昧に応え、目をそらす。
「たあくんがな、口が堅いっていうのはな、わたしは知ってるわけ。でもな、もしかするともしかするからな、厳重な管理っていうかな、なんかその……気をつければそれでええねんっていう話でもなくってな。パソコン上でな、メモを残したりとかな。手書きのメモとか、そういうのもな。一切、避けてほしいわけ」
少し戸惑いながら、たあくんはうなずく。
たあくんは携帯電話のたぐいは持っていない。
こうして話している間も部屋のパソコンの電源は入ったままで、スクリーンセーバーが動いている。昨日なゆねが来た時に電源を入れて、そこからずっと電源が入ったままかもしれない。
たあくんが再び行方不明になったり入院するような事態の時に、この部屋は何者かによって漁られる可能性がある。ただし、入院が再びありうるという可能性を念頭に置いていることは、なゆねは口には出さない。
「あんな、これな……この作者にな、これを見せてもな。なんも分からんっていうわけ。なんも。これ本当に自分が送ったん? とかそういうこと言われたこともあるわけ」
「うん……うんうん」
「でな、でな。作者はな。思い出すことができないっていうわけよ。まったく。完全に。忘れてることは他にもいろいろあって……ほんまはまあ、そっちのほうが重大といえば重大やねんけど、な。ある意味、みんな困ってるっていうか。でもなんで、このテキストファイルのことをな、一緒に忘れてもうてんのかな、それも分からんわけ」
「うん」
「他のもろもろはな、まあ分かるというかな。ある意味な。わたしとしてはな、このテキストファイルをな、どういうつもりで書いたのか、どんな意味を込めたのか、そこがまったく分からんわけやけどな。でも本人は覚えてないと。そういうものを書いたこと自体を覚えてないと」
「存在を忘れてんのか」
「そう。かんっっっぜん、に」
「完全に。うーん……この人は……あれなん。暗号は詳しい人なん」
「あんまりそういう風には見えへん」
「詩とか書いてる人なん」
「そういうタイプでもないなあ。でもどうやろ。これを書いた時期っていうか……本人にとっては、こう……いろいろ。すごい時期やったんかもしれんねん。今にして思うと。だから一時的にそういうモードに入ってたとか、まあ、ありえなくはないわけ。詩を書くっていうことについては。でも仮に詩を書くとしても……なんか。こんな風になるやろか? っていう……あの子が、こういう詩を書くっていうのが……」
「俺はこの最後の……ほら。『笑うなやあ』で終わってんのが気になるな。これはつまり……その、みんなが笑ってるとかそういう、その……被害関係妄想的な……な? あれがあんのかなって」
「ああ、うん。それはわたしも考えた。でもな、わたしはな、直前にやり取りをしてるわけよ。直前にやり取りがあってな、あの……テキストのメッセージでな。メールもそうやし。両方な。それでな、その流れで、そのテキストファイルが送られてきたわけ。まあそもそも、テキストファイルっていうのが不思議といえば不思議やねんけど……とにかくな、あのやり取りが続いたあとにな、なんでこれを送ってくんのかっていうのがな」
「それはまあ直前までは。その。精一杯のっていうか。社交的に振る舞うとかそういう」
「うん、まあなあ。ありえなくはないねんけど。でもなあ……なんか違和感あるわけ。なんつうか、基本的に病んでる要素はない子なわけ」
なゆねの手に振動が伝わる。スマホの通知。
タヌウからのメッセージだ。一週間ぶりくらいか。
このタヌウもまた、『蛇と椅子』のテキストファイルの作者をよく知る人物だ。
そしてタヌウは、記憶が失われているのは演技だと主張していた人物でもある。一時期はタヌウに説得され、なゆねも演技説に傾いたことがある。でもしばらくして、演技であることは絶対にありえないと思うようになった。
タヌウから届いたメッセージは、内容的には今回の件とはまったく関係はない。でもこういうタイミングだったことによって、演技以外の可能性などくれぐれも追究しないようにと釘を刺されているようにも感じる。
なゆねはメッセージに対して絵文字だけのリアクションで返す。そしてもう一度テキストファイルの文面を画面に出す。再び、たあくんからよく見えるような位置にスマホを持っていく。
たあくんはしばらく最後の『笑うなやあ』の部分をじっと見つめる。そして言う。
「このな、最後の『笑うなやあ』もなあ……これもちょっと、関係妄想とかそういうの以外やとな、小説のタイトルとかな。そうゆうん連想したっていうか」
「なに? 『人のセックスを笑うな』?」
「そうそう。それそれ」
「読んだ?」
「俺は読んでない」
「そっか」
二人はまた無言になる。
なゆねはふと、かつて「なゆね」は「なゆねえ」だったことを思い出す。確かに幼少期はずっと、「なゆねえ」だったのだ。いつごろから「なゆね」になったのかは思い出せない。
たあくんは目をつぶって考え始める。
そして目をつぶったまま、スマホのほうを指差す。
「これ……テキストファイルってことはな、テキストファイルやから……ファイル名があるやろ。ファイル名がどうなってんのか」
「ああ、うん。voice1130.txt」
「それは……十一月三十日やったん?」
「そう」
「そうか」
「そう。でな、このファイルもな、そっちに送ってもええかなと思ってんけどな……でもやめとく」
「そうか」
たあくんは無言で宙を見つめる。そしてゆっくりと寝転がる。テキストファイルの文面のことを考えている……ように見える。実際のところは分からない。なゆねはその動き、姿勢、あらゆる要素から何かを読み取ろうとする。
「wikiには……なんも書かれてへん?」
なゆねは少し踏み込んでみることにした。
おそらく、たあくんの精神状態は安定している。
今なら大丈夫だろう。
たあくんは寝転がったまま何か言おうとする。
なゆねからは、たあくんの表情がよく見えない。
「wikiなあ。wikiにはなあ……」
たあくんはボソボソとつぶやく。
なゆねはしばらく、次の言葉を待つ。
「最近はあんまり語りかけてこないっていうか、なあ……」
なゆねは何も答えない。
何度もたあくんの言葉を反芻する。
語りかけてこない。うん。語りかけてこない……
たあくんの次の言葉を待つが、たあくんはそのまま黙ってしまう。
なゆねは壁の時計を見る。
そろそろ、たあくんの母親が「ご飯食べてく?」と聞いてくる可能性のある時間帯になっている。
「もうお薬、のんだ?」
「さっきのんだ」
たあくんの母親には何も告げず、彼女はマンションを出る。ここ一年以上、そのようにすることが多い。
近くの駅に徒歩で向かう。
彼女は自身の空腹に気づく。ほとんど同時に、駅前のベンチの前を通りかかろうとしていることにも気づく。
そうだ。そういえばこんなところにも、椅子。
彼女はそのベンチに座る。
そしてたあくんの部屋には椅子がないということにも気づく。でも自分の一人暮らしの部屋には椅子がある。もう『蛇と椅子』のテキストファイルを受け取って半年以上が経つのに、そういう風に考えたことはなかったな、と彼女は思う。
一分ほど、ぼんやりと人の往来を眺める。最後にこのベンチでたあくんと座って話したのがいつだったのか思い出そうとする。確かにここで話したけど、いつごろだろう。たあくんが入院する前だろうか、あとだろうか。
意外に人は多い。今すぐ電車に乗ったら混雑に巻き込まれるかもしれない。
彼女は立ち上がり、近くの自動販売機で炭酸飲料を購入する。隣の隣の自販機では、五十代あたりのおばさんがお茶を購入している。当たりの音声が鳴り響く。おばさんは驚いて、固まっている。たぶんそれ当たりですよ、もう一個出ますよ、そんな風に話しかけたほうがいいだろうかと彼女は迷う。でもおばさんはしばらく無言で自販機を凝視したあと、そのままもう一度ボタンを押す。同じお茶だった。
彼女はベンチにあらためて座る。買ったばかりの炭酸飲料を飲み始める。
喫煙コーナーでイライラしながらタバコを吸っている人が、消してからすぐにまた新しいタバコに火を付けたことに気づく。この人はあと何本吸うだろうか。
野球部のユニフォームを来た中学生ぐらいの三人組が駅舎から出てくる。部活だろうか。あるいは遠征試合のようなものだろうか。おそらく、たあくんからかなり遠い人種。
母親が子供を叱責する声が響き渡る。彼女は声がしたほうを向く。そして叱責された子供を見つめる。その子供は泣き出すかに見えたが、何度か意味不明な言葉を発し、二回ほど意味不明なジャンプをする。そして笑いながら駅の券売機のほうへと走り出す。
このベンチで確かに、たあくんと話したことがある。でもこれは昔からあったものだろうか。彼女は思い出そうとする。正確なところが分からない。あったとしても、この位置だっただろうか。こんなベンチだっただろうか。あるいは、同じ形状のベンチが同じ位置にあったのだとしても、途中で新しいものに交換されたりしたことがあったのかどうか。
ベンチは一気に交換されたとは限らないことにも気づく。少しずつ部品が交換され続け、最初に設置されていた時の部品が残っていないとすると、それは同じベンチといえるのかどうか。テセウスの船。
あるいは、微妙に違う部品に交換されたりした可能性もあったりするのだろうか。例えば、かつては蛇をモチーフにしたパーツがあった可能性。何者かの意思により、いつの間にか蛇の要素が消し去られた。この街でその事実に気づいている者はほとんどいない。実はあの『蛇と椅子』のテキストファイルは、このベンチのことを題材にした詩ということはないだろうか。
彼女は一時間以上、ベンチに座って考え続ける。ここでこうしていると、自分の親にばったり出くわす可能性があることを思い出す。たあくんの家の最寄り駅は、彼女の実家の最寄り駅でもある。実家とはいっても、彼女はここで幼少期を過ごしたわけではない。親がこの近くにマンションを購入したというだけだ。
実際には、この世界にはヒントがあふれている。
あらゆるところに、これみよがしに転がっている。
もちろん、そのように感じるのも人間の勝手な解釈にすぎない。
ヒントがあると考えるのは解釈にすぎないが、ヒントなど存在しないのだと考えることもまた、解釈にすぎない。
解釈がなければ、世界そのものが消滅する。
三日連続で来てしまった。
彼女はたあくんの家に向かう電車の中でそう思う。
昨日と一昨日のたあくんとのやり取りをよく思い出す。たあくんが発した言葉。表情。しぐさ。
今日の彼女は、少し荷物が多い。
新しい秘密をお届けに参りました、という気分。
自分の親に出くわすと少し面倒なことになるかもしれない。あんた、なに持ってんのそれ。なんでウチには寄らへんの。
彼女の母親とたあくんの母親は仲が良いわけではない。そのことは彼女にとって好都合だった。この駅を頻繁に利用しているのに、実家には立ち寄らないことが多くなっていたからである。この駅で降りるということは、すなわちたあくんの家に行くということを意味するようになっていた。
このことは同じ大学の誰にも話していないことである。
彼女にとって、たあくんの母親はどちらかといえば苦手な存在である。でもおそらく、彼女の最近の行動については、たあくんの母親は意図的に情報をこちらの親に伝えていない可能性が高いと彼女は考えている。推測なので実際のところは分からない。
やがて電車は、たあくんの家の最寄り駅に到着する。駅を出るとすぐ、アコースティックギターのケースを背負っている女性とすれ違う。大学生だろうか。高校生かもしれない。体格がタヌウに似てるな、と彼女は思う。
バンドをやってるタヌウ。美形のタヌウ。ちょっとオタクのタヌウ。本来であれば、タヌウがこの謎を面白がってくれればいいのにと思う。でもわたしの推測は、あまりタヌウの関心を惹くことがない。どう考えてもタヌウのほうが謎の近くにいるのに。『蛇と椅子』のテキストファイルを書いた作者のことも、わたしよりよく知ってるはずなのに。
本当はタヌウは何もかも知ってるんじゃないかとすら思う。演技説についても、わざと的はずれなことを言っているような気がしてくる。
たあくんのマンションの近くまで来ると、自動販売機の前にたあくんがいた。
久々に、屋外で目撃されるたあくん。自販機おでかけか。珍しいね。たまにはコーラもいいね。たまには外出しないとね。
「あっ……今日もきたか」
「今日もきよったなあ」
二人でエレベーターを待つ。かなりレアなシーンだな、と彼女は思う。これだけ長い付き合いで、エレベーターに同乗したことはほとんどない気がする。
たあくんは彼女が手に持っている大きな紙袋の中をのぞきこもうとする。
エレベーターは二人きりではなかった。健康そうな女子高校生がエレベーターに乗り込んできて、三人になる。高校生はたあくんの顔を見て、あっと声をあげそうになる。
高校生は無言で四階のボタンを押す。
そして四階までずっと無言の三人。
エレベーターが四階に着くと、高校生は軽く会釈してからそそくさと降りる。
「ガチ恋かあ。今の、ガチ恋っぽいなあ。こういうところに潜んでるわけか……」
「ガチ恋やめろ」
エレベーターを待っている時にはたあくんの存在に気づかず、乗ってから気づいたように見えた。つまり、たあくんが女性と二人でセットでエレベーターに乗る場面など想定していないという可能性があると彼女は推測する。
エレベーターを降りてから、たあくんは鍵を取り出す。
ああそうか。自分の外出時には、ちゃんと鍵をかけてるのか。まあそうだよね。
たあくんの部屋の中は相変わらずだ。
「さっきの高校生な、いきなり押しかけてきたらどうする?」
「いや、押しかけてって……帰ってもらうやろ」
「どうかなあ」
たあくんはいつもの位置に座る。
なゆねは立ったまま、腕組みをして言う。
「まあ、たぶん、合わへんと思うで」
「なにがやねん」
「住人やろ? このマンションの」
「知らんがな」
「よく見かけるやろ?」
「ああ……まあ」
「毎回、降りるの四階やろ?」
「たぶん」
「なるほどねえ」
もちろん、あの子は入院する直前のたあくんがどんな様子だったかを知らないのだろう。知ったらショックを受けるだろうか。
たあくんは買ってきたばかりの缶を開ける。プシューという音が響く。この部屋の中で聞く音としては、比較的珍しい部類だといえるかもしれない。なゆねがおみやげとして持ち込むものは、たいていペットボトルか紙パックだ。
買ったものはコーラだと思っていたが、それは見間違いのようだ。実際は、りんご紅茶だった。
そういや一時期、よくそれ飲んでたね。
「もうお薬はのんだんや」
「そう。ついさっきのんだ」
やはりそうか、となゆねは思う。
なゆねはしゃがんでから、たあくんの顔をまじまじと見つめる。
「あっちょっと待って!」
なゆねは急に真剣な顔つきになって言う。
ゆっくりと手を伸ばし、たあくんの喉ではなくアゴに人差し指をあてる。人差し指をくいっくいっと動かす。たあくんの顔を左に向けたり、上に向けたり。
「うん。鼻毛の季節やな」
なゆねはいつもの位置にある鼻毛カット用ハサミを取り出す。手早くたあくんの鼻毛をカットしていく。カットし終えると、カバンからアルコールのティッシュを取り出す。自分の手とハサミを素早くティッシュで拭き取る。
「あの子、わたしが鼻毛をカットしてることも知らずに……」
「知らんがな」
鼻毛をカットしても、髪の毛はボサボサのままだ。無精ひげも少し伸びてきている。でもこういうのがいいと思う女性もいるのだろう。実際のところ、顔はいいほうなのだし。ただし、わたしの好みとは大きく違っている。何が起ころうと、たあくんに恋愛感情を抱くことなどありえない。
なゆねは自分の好みをよく分かっている。でもたあくんの好みはいまだによく分からない。
以前は鼻毛を切る時、わたしが気になるから切るだけなんだからね、と毎回のように言っていた。でも最近はもうそういうことも言わなくなった。ごくごく当たり前のことのように鼻毛をカットするようになってしまった。それが良いことなのかどうかは分からない。鼻毛を切ったほうがいいよとしつこく言った時期もある。でも、そういう言葉は侵入的すぎるかもしれないと考えてやめた。アドバイスはやめたが、鼻毛が伸びるスピードが速いことはどうしても気になる。そこでなゆねは、本人の了承を得ずに切るようになった。それをただの日常にし、ごくごく当たり前のことのように振る舞い続けることに決めた。それは現時点ではうまくいっているように見えるが、本当にこれでいいという確証はない。
たあくんの部屋の中では、この鼻毛カット用のハサミこそが、なゆねが継続的に来訪していることを示す唯一の痕跡である。でも通常、そのことに気づく人間は皆無だろう。おそらくたあくんの母親がそれを見ても、なゆねが持ち込んだハサミだとは思わない。もしかしたら、主治医であればその可能性に気づくのかもしれない。
「あんな、これな、昨日の話の続きっていうかな……そうやなあ。どっから話せばええやろ……」
なゆねは紙袋から箱を取り出す。購入時の箱と思われるものに入ったままのVRヘッドセット。
「ちょっとな、まずな、これを解析してほしいわけ」
「なんそれ」
「VRのゴーグル」
「ああ。そういうの全然知らんで。VRとか。全然詳しくない。あとフォレンジックとかそういうのも詳しくない」
「そうなんや。まあ解析っていうかな、解析というより……意見を聞きたいっていうかな。その、たあくんの……あれの。ほら。曇りなき眼で、な」
「えっそれ……そのゴーグルって、昨日の……あの、あれの。『蛇と椅子』のやつと関係あるってことなん?」
「うーん、それもなあ……これはまあ、なんていうか。わたしはぜったいな、関係あると思ってるわけやねんけどな。ていうかもう、関係ないわけないやんっていうか。でもなんかこう、なかなか同意が得られへんっていうか……でな、まずな、あのテキストファイルをな、書いた作者のことについてな。まず話しとかなあかん」
「そうなんや。ちょっとまずトイレ」
たあくんはトイレに向かう。
なゆねは少し前のめりすぎたかもしれないと考える。
何からどう説明すべきだろう。
大きな紙袋は、さっきの高校生からはどう見えていただろう。VRのゴーグルが入っているとはおそらく思わないだろう。
なんとなく、なゆねは部屋に積み上げてある雑誌をチェックする。たあくんは雑誌が好きなんだろうか。コンビニでも買える雑誌が多そうだが、そうではなさそうなものもある。そういえば最近、ほとんど雑誌を買ってないな。
そしてこの山の中にはエロ本らしきものはない。
この部屋でエロマンガらしきものを見かけたこともない。
アセクシャル?
やっぱり、アセクシャルなのかもしれない。なゆねはそう考える。でもパソコンでエロ画像を漁っている可能性もあったりするのだろうか。
持ち主がトイレに行っている間も、パソコンの画面上ではずっとスクリーンセーバーが動き続けている。一分おきにそのスクリーンセーバーの内容は切り替わるが、そのすべてが無難な内容。パソコンの持ち主がどんな人物なのかということを何も語りかけてこない。
ふと、ローテーブルの上の薬が目にとまる。
アセクシャルだとかそういう問題ではないのかもしれない。すべては病気の症状であると捉えるべきなのかもしれない。
たあくんが部屋に戻ってくる。
なゆねはパソコンのディスプレイを見たまま問う。
「このパソコンってな、グラボとか積んでる?」
「グラボ? てグラフィックボード? 積んでへんで」
「えったあくんてUnityとか詳しい?」
「いや全然。Pythonしか分からん」
「えっUnityってな……Unityって、言語? じゃないやんな?」
「Unityはあれやな。C#やな。言語としては。俺はPythonしか知らんぞ」
「そうなんか」
「あんまよう知らんけど、Unityはゲームエンジンであると同時に開発環境であり、フレームワークであり……」
「勉強すればすぐ分かる?」
「いやどうやろ。何をやろうとするかによる」
「まあそりゃそうやわなあ。まあUnityの件は……また微妙に別の話っていうか。関連あるっちゃあんねんけど、たぶんこの謎を解くのにはな、おそらくUnityは必須じゃないねんけどな」
「そうなん。よう分からんけど」
なゆねは箱のフタをそっと開ける。
たあくんは覗き込む。
中には比較的新しい状態のゴーグルが入っている。
「あんな、忘れてもうてるって話をな……したやろ。昨日」
「うん? なにが? あの『蛇と椅子』の作者がってこと?」
「そうそう。あのテキストファイルな。『蛇と椅子』な……あれを忘れてるっていうのもあんねんけどな。同時にな、このVRのゴーグルのこともな、忘れてんねん」
「えっ、あああ……」
たあくんは目を近づけて、じっくり眺める。
なゆねは続ける。
「あの子、な。あの『蛇と椅子』の作者な。あの……基本的にはな、ある一人の人物のことを忘れてるわけ。基本的に忘れてんのはな、そのたった一人の人物なわけ。でもな、厄介なのがな、その人物に関連する周辺のもろもろも一緒にごっそり忘れてんねん。ごっそり。でな、まわりからするとな、どれがその人物に関連してる事柄なんかっていうのがな、分からんわけよ」
「うん。うーん……うん。一人の人物。なるほど?」
「そう。一人の人物。たった一人の人物。でな、その一人の人物っていうのはな、元カレなわけ。その子の。半年ぐらい付き合った彼氏でな。いろいろ話を総合するとな、まあ総合っていうか……わたしの推測でしかないねんけど……別れたタイミングっていうのが、まさに例の、十一月三十日あたりになるわけ。去年の。そこからもうな、半年以上経ってるわけやけどな。もう新しい彼氏とかもできてな。ある意味、問題がこう、ウヤムヤになってきてるというか……なんか、もしかしたらな、もうこのまま放っといたらええんかもしれんけどな。新しい彼氏とうまくいってるから。でもその元カレの存在っていうのはな、もうな、ものすごいゾッコンやったわけ」
「うんうんうん」
「もうそれはそれは、ていう。その子のほうが、彼氏にゾッコンっていう、な。でな、これはな、わたしの主観やけどな。わたしからするとな、あのテキストファイルが送られてくるやろ? まず。十一月三十日に」
「うんうん」
「あれが送られてきてな、こっちは全然もう、意味分からんくってな。何回かな、大丈夫かとか、送るわけ。その子にメッセージ。でも二日か三日ぐらいやったか、その子はまったくメッセージを返してこおへんわけよ。まったく。四日ぐらいしてから、返事できてなくてごめんとかそういうのは来てんけど。そんで一週間ぐらい経って、バッタリ学校で会うわけ。こっちも、アレってなんやったんとか聞いてな。あのテキストファイルのことをな。でも送ったこと自体を覚えてないみたいな感じでな。なんかおかしいなあとは思ってんけど。そん時はな、そんな別に大きな問題じゃないと思ってな。まあわたしも十二月はいろいろ忙しくて……そんでな、年明けてからな、新しいメールアドレスが判明するわけ。とりあえず一月ごろはそれで問題なく、メールでメッセージのやり取りはできるようになってんけどな。まあ時々返事が返ってこないとかそういうのはあんねんけど。しばらく待ってればその新しいメールアドレスのほうからな、メールはいちおう来るっていう」
「へえ。それって……うん。まあいいや。続けて」
「でな、ええっとまず……やっぱ名前やな。えっと、女のほうな。忘れてもうてるほうな。この人はイルビって呼ばれてるわけ。韓国の女優でイ・ルビってのがいるけど由来は全然関係ないらしいねんけどな。でな、このイルビがやな。あの『蛇と椅子』のテキストファイルの作者でもあるわけや。あの日、わたしにテキストファイルを送りつけた人な。十一月三十日にな。これがイルビな。でな、男のほうな。こっちはユッキイと呼ばれてんねん。わたしは一回しか会ったことない。どういう人なのかはよく分からんわけ。同じ大学やけど、工学部」
「そうか。工学部……工学部やから、VRとかも詳しいとか、あんのかな」
「まあ、普通に考えればそう。でも実際のところはよく分からん。とにかく今となっては、イルビはユッキイの存在を完全に忘れてるから。今はもう忘れてるけどな、付き合っとった時っていうのはな、とにかくイルビはユッキイにゾッコンで。でもイルビはな、ユッキイのことだけじゃなくVRに関連したことも全部忘れてるからな。でもな、イルビがVRChatをやってたっていうことは確かやねん。あのほら、VRの、SNSの。なんでそれが分かるかっていうとな、タヌウっていうバンドやってる子がいてな。これも同じ大学のな。これも女な。その子、ゲームとかも好きでな。イルビとタヌウはな、VRChatの中で何回も会ってるわけ。何回も」
「うん。うーん……」
たあくんは腕を組んで考え始める。
なゆねはしばらくたあくんの言葉を待つ。
たあくんが何も言わないので、少し違う角度から質問してみる。
「Python知ってる人間から見て、あの『蛇と椅子』のテキストファイルってどうなん」
「どうなんってなにが」
「いやつまり。Pythonって蛇やろ」
「ああそっち。そっちね。はいはい。まあ確かに。でもまあ、どうなんやろ。由来としては、モンティ・パイソンみたいやけど」
「うん知ってる。でもなんか、Pythonの解説の本とかで、表紙によく蛇の絵が使われてるやろ。だからやっぱり、蛇のイメージっていうか」
「そんなん、よお知ってんな。えっなゆねって。プログラミングの勉強とかしてんの?」
「いや全然」
「まあ、Python……蛇のイメージ……うーん。蛇がPythonを指す可能性……じゃあ椅子は何を指すの? ……ってなるわけやろ……なんやろ、ベンチマーク? いやいや無理あるやろ……うーん……ところでVRChatって俺はよう知らんねんけど。ゲームではないんやんな?」
「いろんなワールドをユーザーが自由にアップロードできるからな、そのワールドの中にはまあ、ゲームっぽいやつもあるみたいやな。でも全体としては、VRSNSということになるんちゃう」
「うーん……」
しばらくたあくんは壁を見つめて考える。
「触ってええよ」
そう言いながら、なゆねはVRヘッドセットの箱をたあくんのすぐ近くに置く。
そしてなゆねはパソコンの前に座って液晶ディスプレイに顔を近づける。
たあくんはゴーグルを取り出して、しばらく眺める。箱の中に戻し、今度はレシートをつまむ。
「十一月八日……このレシートは、あれなん。誰やったっけ。イルビさん? イルビさんが購入した時のやつなん?」
「そう。たぶん。でもイルビは購入した時のことを覚えてへんわけ。もしかすると、ユッキイと一緒に買いに行った可能性ある。そういうのもイルビは忘れてて。もし事件性があるんやったら、警察がその店の防犯カメラの映像とか見ることはできるかもしれんねんけど……あっ、そうや。あのな。昨日な。昨日ここで……わたし、『みんな困ってる』っていう言い方したやろ」
「そやったっけ? 何について?」
「いやつまり。イルビが記憶をな、失ってることがな。『ある意味、みんな困ってる』って。あれはちょっと、ずるい言い方やったかもしれん。もうイルビも新しい彼氏がいて、ほんまは別にもう、誰も困ってへんのかもしれん」
「よお分からんけど」
「えっこれな。このたあくんのパソコンって……VRChatとかできるスペック?」
「えっあああ……どうやろ」
たあくんはしばらく考える。そしてゆっくり立ち上がって言う。
「ちょっとどいて」
なゆねは座ったまま少し位置をずらす。
たあくんはパソコン用ローテーブルの前に座る。そして検索を始める。顔は少し眠そうだが、タイピングは速い。たあくんは黙ってしばらく情報を収集する。
「うーん、まあデスクトップモードやったらいけるかなあ……デスクトップモードっていうのは、つまりそういうVRゴーグルは使わんとな、VRChatをやるっていう。普通のオンラインゲームみたいにやるっていう。この液晶ディスプレイでな。だからまあ、そのゴーグル使ってやるのは無理かもしれんけど……このパソコンやと。グラボ刺さってへんし。まあ刺したらいけるんかなあ。でもちょっと今、そのVRゴーグルを接続して試したりとかはしたくないなあ」
なゆねは自分の部屋にあるパソコンを思い出す。バカデカいケース。あのケースと電源ユニットについてはタヌウからのお下がりだ。気軽に相談できる女性の中では、グラボのことはおそらくタヌウが一番詳しい。タヌウにヒマかどうか聞いてみるのもいいかもしれない。
翌日は日曜日。
タヌウはアコースティックギターのケースをかついで現れた。彼女は十三分前に到着していたが、タヌウのほうは十四分の遅刻。彼女がなんば駅でタヌウと待ち合わせをするのは久々だ。
「なんか練習とかそういうのある日?」
「いや全然。そういうわけではない」
「よかった」
「日曜はな、最近なあ。空けてんねん。なるべく誰とも約束せんと。まあライブとかやる日もあんねんけどな。今日はまあ、ちょっと面白そうやと思ったから来てみてんけどな。だいたい最近の日曜はな、忙しいフリDAYやねん。ほんまは忙しくないことが多い。これトップシークレットな。あれほら。あの。VRは使ってみたん?」
「それがな、まだやねん。だから今日、グラボ買おうと思ってな。タヌウやったら詳しいと思って」
「まあそんな詳しいわけちゃうけどなあ。私も。とりあえず案内はすんで。それにしてもなあ。あのVRゴーグル……結局そうなるかあって感じやけど」
「うん」
タヌウはここ一週間、VRChatを起動していないらしい。
でも確かに去年はVRChat内でイルビと何度も会ったことを、あらためて強調する。そしてユッキイがイルビにVRをすすめたことも間違いないと断言する。
イルビについてはVRChatの中で会ったが、ユッキイについてはそういう機会はなかった。だからユッキイが本当にVRChatユーザーかどうかは分からない。でも通常、VRに詳しいのにVRChatを一度も起動したことがないとは考えにくい。
彼女には、グラボのことについて聞く以外にも目的がある。感触を確かめたいのである。イルビの記憶のことをどう思っているのかということを。タヌウは本当に今でも、イルビが演技をしていると思っているのかということを。
ひとまずそこについては彼女は何も聞かない。予定通りにいくつかのパソコンショップをまわる。グラボのことを質問したりメインメモリの価格について話したりする。AIブームがもたらす需給の変化について議論したりもする。
精神疾患や神経疾患の話になったりもする。『シャイン』や『ビューティフル・マインド』といった伝記映画のディティールについて議論する。タヌウとこういう映画について手応えのある話ができるようになってうれしいと彼女は感じる。タヌウは伝記映画『コントロール』を観たかと問う。これについては彼女は観ていない。
タヌウはアイスの自動販売機の前で立ち止まる。どれにしようか迷いながらたずねる。
「なんでこだわんの?」
「何が?」
「演技じゃないと思ってるわけやろ。今でも。あいつは……イルビは。本当にユッキイのことを忘れたんやと。なんで今になって気になんの? なんかあった?」
「あんな、別れたわけ。わたし。彼氏と」
タヌウはしばらく彼女の目を見つめる。
すぐにまた自動販売機のほうを向く。
そして真面目な顔でつぶやく。
「オゴるで」
彼女はチョコミントを選択する。
我々も知るように、彼女はそれほどチョコミントが好きなわけではない。そしてタヌウのほうは生キャラメルリボンを選択する。こちらはおそらく、素直な選択だろう。
しばらく二人はアイスを食べながら関係性の終焉について話す。
アイスを食べ終わってからも、歩きながらとりとめのないことを話し続ける。大学のこと、音楽のこと、最近のゲームのこと。有名配信者のこと。イルビの高校時代を知る人のこと。タヌウが子供のころに好きだったゲームのこと。最近のアニメのこと。
やがて話題はイルビとユッキイに戻ってくる。
タヌウはVRChatのどのワールドでユッキイに会ったのかを思い出そうとして、そのリストを紙に書く。
今日のところはグラフィックボードなどは購入せず、彼女はこのままお開きにしようとする。でもタヌウは、このあと彼女の家に行きたいと言い出す。二人は恵美須町駅から電車に乗る。電車の中ではタヌウはずっとスマホとにらめっこをする。
彼女の家に到着するなり、タヌウはルーターをチェックし始める。
「えっとな、ちょお待ってや。このルーター……このルーターはWiーFiを飛ばせるはずやねん。WiーFiが飛ぶってことはな、そのゴーグルのな、単騎でいけるかもしれんねん」
「タンキ?」
「そう単騎。パソコンなしでVRヘッドセットだけで。ちょっと自分で……自分で今、検索して調べてみて」
タヌウは何もかも自分が設定してしまうのは避けたほうがいいと考える。だから彼女をパソコンの前に座らせ、調べものをさせる。
このパソコンは、ケースについてはかつての所有者がタヌウだったものだ。マザーボードやCPUについては、タヌウではなく彼女がチョイスして購入したものだ。
彼女はインターネットで調べながら、WiーFiの設定を終える。
崖から落ちないようにタヌウは見守るが、ほとんどは彼女が自分で検索して調べ、自分で設定していく。そしてパソコンのブラウザからVRChatのアカウントを作成したりもする。
彼女はこうしてひとまず、パソコンにはVRゴーグルを接続することなく、単騎でVRChatに入る。
「おおお……おおおお……」
「いけた? まあこうゆう感じで。パソコンなしでも、そのVRゴーグルだけでいけるってわけ。単騎でやるなら、グラボ買う必要ない。そもそもパソコンも必要ない。ただし単騎やと行けるワールドには制限があって。それはそれぞれのワールドの作者が単騎に対応させてるかどうかっていう」
ひとまず動作していることを確認すると、彼女はVRゴーグルを外す。パソコンで調べものを再開する。
タヌウはスマホを取り出して寝転がる。VRとは関係のない調べものを始める。
「あんな、タヌウ。これってもしかして……これってあれちゃうん。タヌウがイルビと会ったことあるワールドってな。これって……パソコンじゃないと入れないワールド多いんちゃうん」
「そうかもね」
「じゃあやっぱりグラボ買う」
「お好きにどうぞ〜」
タヌウはそう言いながら体を起こし、ギターを取り出す。そして親指の腹で控えめに音を出す。そしてもう一度つぶやく。
「お好きにド、ウ、ゾ〜」
彼女は気にせずにパソコンで調べ物を続ける。
「あのう、なゆさん。ここって壁、薄い?」
「もたれたら破れるんちゃうかっていう程度には」
「じゃあやめとく」
タヌウはすぐにギターをしまう。
いつの間にか夜の十一時になっていることに気づき、帰る準備を始める。
帰り際にタヌウは言う。
「あんな、読んでみてん。なゆが言ってた本とか。いろいろ。よお分からんようになった。イルビはほんまに忘れてもうてんのかもしれん。でもほんまに忘れてるんやったらな、もうな、ほじくらんほうがええんかもしれんし。もう分からん」
タヌウが帰ってから、彼女はスマホでメッセージや写真を削除し始める。
どれを消すべきか? 消したらまずいのはどれか?
しばらくして作業に疲れ、スマホを放り投げる。
天井を見つめながら彼女は考える。イルビもおそらく、十二月のどこかの時点でメッセージや写真を削除したのだろうと想像する。おそらくはいくつかのアカウントについても。スマホでしか利用していないものは、アプリだけをアンインストールしてアカウントはそのままになっているものもあるかもしれない。
どれを消す? そしてどれを残す?
それにしてもタヌウは相変わらず、かわいい。
たあくんもタヌウをかわいいと思うだろうか。会わせてみたらどんな反応をするだろうか。タヌウは彼氏をつくりたいと思わないのだろうか。
そして彼女はたあくんの昔のことを思い出す。行方不明になった時のこと。入院のこと。入院の少し前に口走っていたこと。たあくんの言うwikiというのはどのようなものだったのだろう。おそらく、たあくんの頭の中にしかないもの。
たあくんが行方不明になった時も、その旅の記憶はあやふやだったようだ。でもイルビとは違う。たあくんの時系列の把握がおかしかったり、荒唐無稽な意味づけがされたりしているだけで、実際は記憶が残っている可能性が高い。特定の対象に関することだけごっそり記憶が失われたり、そういうことはおそらく起こっていない。
たあくんの症状はイルビのものとは違うのだ。
あの時のたあくんには入院が必要だったし、おそらく今でも薬を必要としている。でもイルビはどうだろう。実際のところ、誰も困っていないのかもしれない。
彼女は木曜日から土曜日にかけて三日連続でたあくんの家を訪れたわけだが、日曜日は行かなかった。
そして月曜日も行かない。
月曜からの数日間、彼女は一人でパソコンショップに行ったり本屋をめぐったりする。久しぶりにパソコンのケースを開け、グラフィックボードを増設したり、メインメモリを増設したりもする。貯金の半分以上が喪失し、無料のアルバイト情報誌を持ち帰ったりもする。彼女は本屋でUnityやPythonの本も立ち読みをする。それらは棚に戻し、HTMLとCSSの本を購入する。
大学の一般教養でHTMLとCSSを勉強したことはある。でもほとんど内容は忘れている。
求人情報誌は部屋に持ち帰られてからはほとんど開かれることがない。HTMLとCSSの本については、まったく開かれることがない。
家にいる時、そして起きている時間のほとんどが、VRChatに関連したことに費やされる。
こうして彼女はVRChatユーザーとなる。
すぐに十人以上のフレンドができる。だからフレンドになろうとタヌウにメッセージを送る。タヌウは「ええどうしよっかなあ」ともったいぶる。タヌウのディスプレイネームは分からないままだ。ディスプレイネームさえ判明すれば、ユーザー検索の機能でプロフィールを表示することができる。そのままフレンド申請も可能となる。
タヌウは、どうでもいいことについてのアドバイスは熱心だ。もちろんVRChatに慣れていないユーザーにとっては、それなりにありがたいアドバイスもある。
彼女が知りたいのは、イルビのことだ。なぜイルビはあのようなメッセージを送ってきたのか。そしてなぜあのメッセージのことを忘れているのか。
タヌウが作成したリストにあったワールドはすべて、何度も何度も訪れた。でも何も分からない。
いったいイルビはどこで何を見たのか。
誰とどんなやり取りをしたのか。
イルビとユッキイの間で、本当は何があったのか。
ユッキイは本当はどんな人物なのか。
なぜ、蛇と椅子なのか。
ワールドの中に椅子があると、彼女は強く反応する。この椅子はもしかして、イルビも見た椅子だろうか。
ほとんどすべてのワールドで何らかのヒントがあるような気がしてくる。でも本当はどこにもヒントなどないようにも思えてくる。
何度もVRChatを起動してワールドをめぐるうちに、こんなことを続けても永遠に真相には到達できないという確信が徐々に強まっていく。
もちろん我々にとっては、この事件の真相はそれほど重要ではない。
また、彼女がこの時、肝心なことを知ることができなかったということを、我々はすでに知ってしまっている。
しかしながら、そのプロセスにおいてはいくつもの興味深い点があるといえる。彼女の探索のあり方、思考のあり方。他者との関わり。
何より、不明なままで終わった点もあれば、判明した点もあるということは重要だろう。知ることができなかった領域に着目するのではなく、知ることができた領域に着目することもまた、それなりに有用といえるはずなのである。失敗のプロセスとしてではなく、成功のプロセスとして解釈することもまた、可能なはずなのである。
金曜日になって、彼女は少しだけイルビと話す。VRゴーグルは無事に動いていること。VRChatを始めたこと。タヌウがディスプレイネームを教えてくれないこと。
珍しく、イルビは聞き役にまわる。
そしてイルビは依然として、VRのことを何も思い出せないという。もしイルビがVRChatをやるとしたらどんなディスプレイネームにしたいかとイルビ本人に聞いても、やはりよく分からないという。
彼女は『蛇と椅子』のテキストファイルをあらためて見せようかと思うが、その話を持ち出すタイミングを失ったまま会話は終わる。
イルビと話したあと、なゆねはたあくんの家に行こうと決める。今週はまだ一度も訪れていない。しばらく雨が続いていたが、今日は晴れている。
たあくんの部屋のドアをノックをすると「はーい」と聞こえる。今日は眠そうな声ではない。
「たいへんご無沙汰しております」
なゆねはドアを開けながらそうつぶやく。
たあくんは真剣な顔でパソコン用ローテーブルの前に座っている。そして何かゲームをプレイしている。ややレアな姿。
「せいがでるねえ。写真撮っていい?」
「なんの?」
「たあくんがゲームやってるとこ」
「えっ……うーん、まあ……ええけど」
なゆねは手帳型ケースを使用している。そのケースにはカメラのための穴がない。背面のカメラを露出するために、そろりそろりとスマホをスライドさせてゆく。
なゆねは三枚ほど写真を撮る。
たあくんは画面を見つめたまま言う。
「VRChatちょっとやってみた。そしたら久々にゲームやりたくなった」
そうか。そうだよね。起動はできたわけだ。デスクトップモードなら、なんとかなるよね。
「なるほどね。あっそうやフレンドなっとこうや。VRChat。Webの画面って、スマホでもログインできるはずやんな……あっていうかそっちからフレンド申請、送ってもらお」
「ああうん。そうやな。ちょっと待って」
たあくんはそう言って、VRChatではないゲームをそのまま続ける。五分ほど無言でプレイを続け、そのゲームはゲームオーバーになる。二人はしばらくゲームオーバーの画面を見つめる。
「あんな、こっちもな。VRつけて……VRChatやってみてん」
なゆねはつぶやく。
たあくんはなゆねのほうを見る。
「そうなんや。どうやった?」
「VRやと、なんか。立体やしな。触れそうで、でも触れへんっていうもん多くて……あとなんか……なんかな、すべてのワールドがな、こう……あの『蛇と椅子』のな、謎とな。あのう……つながってる気がしてくんねん」
「ふふ」
たあくんは嬉しそうに笑う。
いいねその顔。
「水あげる」
なゆねは水を手渡す。
水を受け取りながらたあくんは言う。
「あれな。あのテキストファイル。ずっと考えとってんけどな。あれな。『モック』だけ意味分からんのよな」
「うん? モック?」
「なんかな、単語としてはな。だいたい全部、意味は分かるやろ。でもモックっていう箇所があったはずやねん。あの『モック』だけよく分からん」
「ああ、あったあった。モック。一箇所」
「あれな、プログラミング用語としてはな、モックってよく使うねん。モックアップとかも言ったりすんねんけどな」
「なるほどねえ。お薬のんだ?」
「まだ」
「よーし。のもうのもう。どれ?」
なゆねは部屋の中央のローテーブルから薬を手にとる。そしてたあくんに渡す。
「はい」
たあくんは無言で受け取り、薬をとり出して錠剤を口に含む。ペットボトルのキャップを開ける。
なゆねは喉に手をあてながら言う。
「モック……モックなあ。あれやろ。名詞やと、模造品とか。パチモンとか。そういう意味で。IT関連やと、機能を模倣するとかそういう。実際の機能はまだ完成してなくても、そういう機能があたかもすでに存在してるかのような、そういうやつやろ。そんで……あれやろ。動詞の場合やと、あざ笑うとか。そういう意味にもなるから。だからラストの『笑うなやあ』ともつながってくるっていう」
飲み込む時の感触がなゆねに伝わる。飲み込んでから、たあくんは深く何度もうなずく。言いたいことはほとんど、もうなゆねが言ってくれた。たあくんは続いて、何口か水を飲む。
なゆねは続ける。
「まあそのへんもな、いろいろな。だいたい調べてんけどな……どうなんやろな……」
話しながら、なゆねは思う。今日はたあくん、やたらとおいしそうに水を飲むなあと。ゲームに熱中しすぎて脱水になったか。
たあくんは水を脇に置いて、起動していたゲームを終了する。ゲームオーバーの画面がずっと続いていたが、突如として殺風景なデスクトップの画面に戻る。壁紙は風景写真だ。どこなのかは分からないが、日本ではないだろう。
そしてすぐにたあくんはVRChatをデスクトップモードで起動する。液晶ディスプレイにはVRChatの画面が表示される。デスクトップモードだから、VRゴーグルは不要だ。でもマイクはどうしているのだろう。パソコン用のローテーブルの上にはマイクらしきものは見当たらない。
「マイクって使ってんの?」
たあくんは黙って首をふる。
「ずっと無言勢?」
たあくんは深くうなずく。
やはり無言勢か。まあ、たあくんはタイピングも速いしね。
たあくんはVRChatの中を徘徊し始める。
器用に移動するが、誰ともコミュニケーションはとらない。
なゆねは黙って画面を見つめる。
意図的にそうしているのか、英語で話す人が集まるワールドと、日本語で話す人が集まるワールドを交互に訪れる。
こうして三十分以上、いくつかのワールドをめぐる。ずっと二人とも黙ったまま。そしてある時、なゆねは急に身を乗り出す。
「あっそのワールド……そのワールドってな、どう思う?」
たあくんはマウスから右手を離す。
「どう思うって?」
「つまりな、そこ……あれやねん。あの。タヌウがな、あのう……タヌウっていうバンドやってる子がいてな。その話はしたっけ。同じ大学の。そのタヌウはな、会ってるわけよ。VRChatの中で。イルビと」
「なんか先週そんなこと言ってたな」
「そう。それでな。タヌウはな。リストアップしてくれたわけ。イルビと確実にこのワールドで会ったことがあるっていう。そうゆうワールドのリストをな。そのリストの中にな、そのワールドがあるわけよ。今いるとこの。それ」
なゆねは画面を指差す。
「あああ……そうなんか。じゃあ……あの『蛇と椅子』の作者さんは……イルビさんは、確実にここに来たことはあるわけや」
「そう。イルビはここで、タヌウと会って話したことあるはず。タヌウの記憶が正しければやけど。あとはまあ、タヌウがウソをついてなければ」
突然なゆねが話しかけたおかげで、たあくんはアバターを操作していいものかどうか、分からなくなる。このワールドに来てからは、ずっとスポーン地点で静止したままだ。地下鉄の駅の改札のような場所。改札付近でよく流れている視覚障害者向けの誘導チャイムのサウンドがパソコン用のスピーカーから延々と流れ続けている。
「この画面を……見たわけか」
「うん。まあ、画面っていうか、あれやな。VRゴーグルつけてここに来た可能性高いけどな」
「ああ、うん」
たあくんはマウスとキーボードでアバターの操作を再開する。なゆねが自分で操作したがる可能性を考慮して、しばらくの間マウスやキーボードから手を離していたのかもしれない。
たあくんは階段をのぼる。駅前の広場のような場所に出る。色とりどりのアバター。誘導チャイムの音が少し遠くなる。パソコン全体が少し重くなっているように見える。なゆねの家でこのワールドに来た時と、少し印象が違う。なゆねはVRゴーグルで入ることができるが、デスクトップモードでもこのワールドを何度か訪れている。同じデスクトップモードでも印象が違うのは、パソコンのスペックの違いのせいだろう。
「この中の……誰かが。あれやな。イルビさんの彼氏の。いや元カレか。元カレの……誰やったっけ。ユッキイさんやったけ」
「そう。ユッキイ」
「ユッキイさんの可能性だって、あるわけか」
「そう。そうゆうことになる」
「その……ユッキイさん、どんな声やったとか、覚えてんの?」
「それがなあ。もう全然、覚えてへんのよなあ。顔は覚えてんねんけどな」
「顔だけ覚えててもしゃあないなあ。ここでは」
「そうなんよなあ……」
たあくんは駅前の広場をウロウロし始める。他のユーザーのアバターに近づくと声が大きくなる。遠ざかると声は小さくなる。
たあくんはこのワールドの中で神社を参拝する。お寺にも行く。お寺の中にある鐘に近づいてゆく。これって鳴らせるって知ってる? ああうん。鳴らした鳴らした。こんなやり取りのあと、たあくんは鐘を鳴らす。そして再び駅前に戻ってくる。さっきより人が減っている。
ピアノの音がスピーカーから聞こえる。あれっ、これって誰やろ。この人? ああ違うな。あっこの人か。たあくんは独り言のように言う。広場でピアノの音を聴かせるユーザーに近づいてゆく。すぐ前で静止する。
しばらく二人はピアノの演奏を黙って聴く。
二十分ほどピアノのユーザーは音を出し続ける。
そして「bye」とテキストでメッセージを出してからいなくなる。
たあくんは再びアバターの操作を開始しようとマウスに手を伸ばす。
なゆねはつぶやく。
「あんな、わたしな、彼氏と別れた」
「えっ……そうやったんか」
たあくんはしばらくなゆねの目を見る。
そしてまた液晶ディスプレイのほうを向く。路面電車が目の前を通り過ぎてゆく。何か言葉をかけるべきか、迷っているのだろうか。
突然、パソコンのスピーカーから「ちわーっこんちわーっ」という若い男性の声が聞こえてくる。液晶ディスプレイには、大きくアバターが表示される。
かわいい美少女のアバター。
たあくんは慌てて、テキストで何かを返そうとする。もう一度スピーカーから「こんちわーっ」の声。パソコンが重すぎるのか、ショートカットキーがうまく反応しないようだ。ようやく「こんにちは」と打ち終えた時には、かわいい美少女アバターは去ってしまったあとだった。
「あと三秒待ってほしいと思う時あるなあ」
たあくんはつぶやく。
「ははっ」
なゆねは笑いながらスマホを取り出す。タヌウからメッセージが来ていたことに気づく。
「あっちょお待って、タヌウからなんか画像きた。イルビの写真……ん? イルビの写真? あっこれ……あれやな。VRChatの中で撮った写真っていうことやんな。あのほら、タヌウっていう、ほら。バンドやってる子の……タヌウはイルビと会って……VRChatの中で。何回も。あっこのワールドやって! 間違いないって! これほら!」
たあくんはスマホを覗き込む。
送られてきた二枚の画像は、まさに今たあくんがいるワールドで撮影されたものだ。
タヌウから再びメッセージ。
「ふふ。タヌウ……あんな、タヌウな、こんなことならもっと写真いっぱい撮っときゃよかったって」
「ああ……」
「あんな、これ、話の前提っていうかな……そもそもやねんけど、イルビとはな、学校の中ではな、普通にコミュニケーションとってるわけよ。普通に会って。イルビには新しい彼氏もおって。でもな、元カレとな、その周辺のこととな。そのへんは全部忘れてんねんけどな、他は忘れてへんわけ。誰のことも忘れてへんわけ。だから学校の中でな、ていうか別に中じゃなくてもええねんけどな、普通に写真撮ったりできるわけ。ていうかしてるわけ。イルビとは。でもな、VRに関連したことはな、忘れてるわけ。だからたぶん、この写真をイルビに見せてもな、思い出されへんわけ。たぶんやけど。なんかよお知らんゲームのよお分からんスクショでしかないわけ。この写真の左側のアバターもな、確かにイルビがチョイスしたアバターのはずやねんけどな。でも自分やと思わへん可能性高いわけ」
「うんうん。まあ。それはまあ、そうやろな」
「あんな、これってな……こういう記憶のことって……ていうか、もしかしてたあくん、そういうの詳しい? なんか結構いろいろ読んでなかった?」
「いや……どうやろ。俺はほら。統合失調症の本ばっか読んでたから」
「ああ……うん。なるほどね。まあこれ、わたしはな、読みかじっただけではあんねんけどな……つまりな、普通に考えるとな、強いストレスがあったから忘れてるわけ。何らかの。ものすごく強いストレスが。ということはな、あんまり無理にVRをすすめたりすんのもな、はばかられるっていうか。これつまり、思い出してしまったりとかすると、不安定になる可能性もあるから。やっぱその、な。忘れてるっていうのが、安定状態やから。その安定状態をわざと崩すっていうのがリスキーやから、無理にVRっていうのがな、難しいわけ。なんか思い出してくれるんかもしれんけどな。VRやってみたらな。でもわたしとしてはな、それを強要するのは無理っていう」
たあくんはアバターを操作せず、黙って画面を見つめる。
先ほど通り過ぎた路面電車が一周したのか、再び目の前を通り過ぎてゆく。
「もうイルビには新しい彼氏もおるしな」
「これ……さっき俺に話しかけてきた人だって、ユッキイさんの可能性ってあるわけよな」
「ある。それはある」
「ユッキイさんって、どうなんやろ。マジで。どんな人?」
「それがなあ……イルビが語るユッキイっていうのが……これはつまり、記憶が失われる前やけどな。記憶が失われる前の、その時に語られるユッキイっていうのが、要するにまあ、盲目性っていうか。その盲目的な視点で語られるのって、全然参考にならへんっていうか。『優しい』とかそういうこともよく言っとったけどな。どんな風に優しいのかって、よく分からんしな。まあ、付き合い始めた頃はだいたい誰でも優しいやろうし。まあとにかく、イルビにとっては運命的やったわけ。イルビにとっては、な」
「これ……この写真はあれか。右側のイケメン風の人がタヌウさんってことなんか」
「うん。たぶん。イケメンアバター使ってたって言ってたしな。まあ最近はどうなんか知らんけど。だからまあたぶん、右側がタヌウってことやと思うで。まあいちおう念のため聞いてみるけど。あとあれやで。実物のタヌウって、小柄でボブカットで、全然こんな感じちゃうけどな」
なゆねはスマホを操作してタヌウにメッセージを送る。
たあくんは駅の近くの公園に行き、鏡に自分の姿を映す。鏡に自分の姿が映る位置で静止したまま、次々とアバターを変えてゆく。「お気に入り」に入れておいたアバター。いずれも無料で利用できるアバターだ。アバターを変えながらたあくんはたずねる。
「ユッキイさんはあれなん、状況は知ってるわけ? その、自分の……元カノの状態っていうか。自分のことを忘れてるとかそういう」
「それなあ。どうなんやろ。おそらく知ってるとは思うねんけどな。ちなみにユッキイさん、たぶんSNSやってないねん。ほんまかどうかは分からんねんけどな。まあXのアカウントは分かってんねんけどな。でもこれもな、もう三年以上なんもポストしてへん」
なゆねはスマホを取り出す。ユッキイのアカウントを開いた状態にしてパソコン用のローテーブルの上に置く。たあくんはアバター変更作業を中断し、右手の人差し指でスクロールしていく。意図的なのかは分からないが、人物像がまったく読み取れないポストばかり。ほとんどは一行か二行で、無難な内容。学生らしいところはあるが、明確に「講義」「ゼミ」「レポート」「研究」のような単語が登場したりもしない。自分が訪れた具体的な場所などの記載もない。
たあくんはスマホに顔を近づけながら言う。
「これは……何も……分からんな」
「そう。なんも分からん。これを見てるだけではな」
「これ……こんなに前ってことは、あれやんな。Xがまだほら、Twitterやったころやんな」
「ああそうやね」
そうだね。そういえばそうかもね。そして、たあくんがまだ入院したりする前でもあるかもね。そう言おうとして、なゆねはやめる。
なゆねはユッキイのアカウントの話を続ける。
「まあ……もしVRChatやってるとしたら、VRChat専用のXのアカウントがあるんかもしれんし。ぶいちゃ垢ってやつ。あとその……人物像っていうか。どんな人っていうのは、この人に聞けば分かるかなあとかそうゆう候補はいるけど……あんまりこう、いろんな人に聞いて回ったり、みたいなことすんのもちょっとなあっていう。なるべくこう、歩き回ったり、メッセージを送りまくったりとか、そういうことはしたくないっていう」
「VRChatの中で歩き回るんはええんか」
「そこはなあ。どうなんやろな……あっそうや。見せようかどうか迷ってんけどな……これなあ……まあええわ見せとくわ。ユッキイの写真。ていうかイルビとユッキイがツーショットで写ってる写真」
なゆねはスマホを操作して、イルビとユッキイの二人が写った写真を表示する。VRChatの中で撮影されたものではなく、実写の写真。
「うーん、特別なんか……すごいイケメンとかそういう感じではないんやな」
「そうかもね。イルビのほうは? どういう印象?」
「うーん、これは……どう言ったらええんやろ。確かにその、病んでる感じというか、そういうのからほど遠いんかもしれんな」
「そうやろ」
「どっちかっていうと苦手なタイプかも」
「えっ? そう思った?」
「うーん、苦手っていうのとはまたちゃうかもしれんけど……」
そのまま、たあくんは黙ってしまった。
なゆねはスマホを操作し、他の写真も見せる。
たあくんはずっと黙ったまま、画面を見つめる。
「まあ写真はだいたいそういう感じかな……まああれやな。たあくんも、病気っぽい感じではないな。最近は」
「そんなもんですかねえ」
まったく他人事のようにたあくんは応える。
「そんなもんです」
なゆねはスマホを床に置く。
「実際のところ……実際のところ、どうやと思う? 何があったと思う?」
「何がって?」
「つまり、去年の十一月三十日。あるいはその前後。イルビはな、何か大きなストレスがあったわけ。それは単に、彼氏と別れたっていう、それだけなんやろか?」
「いや、それは……どうなんやろ。まあそりゃ、大きなストレス……うーん……恋愛経験、ないしなあ……」
「わたしはな、自分が別れたばっかりやからな、余計に不思議っていうかな。別れることが? 記憶が失われるほど、ショック? それってありうる?」
「それはでも、あれやで。そうやってなゆねがイルビさんのことについて考えるとかそういうのが。なんかセラピー的なそういう何かの可能性というか。自己治療的というか」
「ああ、そうなる? そう思うんや。専門家の意見として聞いとくわ」
「可能性の話やで。俺がしてんのは」
「うん。まあ……そうやな。ショックが大きすぎると悲しみすら感じないとかゆうしな。だからこそ、あの『蛇と椅子』のテキストファイルがな、謎なんよな。ユッキイと全然関係ないっていうことはな……それはちょっとな。わたしとしては、それってほぼありえんわけ。なんでかっていうとな、あのテキストファイルの存在自体を忘れてるから。イルビは。忘れてるっていうことがもう、ユッキイに関連するっていうこと」
「こう、早めに対策チームっていうか。あれやな。そのユッキイさんの側の、ほら。ユッキイさん側の周辺の人とな、イルビさん側の周辺の人でな、早めに話し合ってな。対策チームとかつくっとくと、よかったんかもしれん。半年も経つとな、人間関係とかがな。変わるわけやし」
「ほうほう。そう思うんや。そうかあ。なるほどなあ」
「まあ、恋愛経験ないし大学行ったこともないけど。入院経験やったらあるから」
「そうやね。まあ、半年も経つっていうことで言うと……そうやなあ。そもそもイルビ、新しい彼氏ができたり……新しい彼氏って、別の大学やったりするしな」
「ああ……うん。半年経ってからやと、対策チームつくっても意味ないな」
「そうやな。あとはまあ、あれやな。イルビが記憶を失ってるということに周囲が気づくのが遅れたっていうのがあるかもな」
「Resoniteとかclusterとかな、そのへんのVRChat以外のなんかをやってた可能性ってないん?」
「それはない。たぶんやけど。イルビがそのへんにも手を出してた可能性は低いと思う。ちなみにタヌウも、VRがらみではVRChatしかやってへん。あっでも、どうやろ。ゲームはやってるかもな……『ハーフライフ』かなんか、そのへんの話をしてたような気もするなあ……でもたぶん、VRSNSといえるのは、タヌウがやってたのもVRChatだけ。で、そのタヌウの証言では、イルビはVRChat以外のVRSNSをまったく知らんということやし」
「もしこれ……もしこれな、イルビさんがな。失恋のあとにVRゴーグルを箱にしまわずに十年以上とかずっとな、そういう単位でずっとVRをやってたらどんな感じやったんやろ? ていうか、そういうのがそもそも可能やったんやろか」
「ああ……うん。それもずっと考えててんけどな。まあたぶんやけど、その場合はVR始めたきっかけだけを忘れるって感じちゃうかなあと。VRChatのアカウントをつくり直すかどうかとか、そのへんによってまた変わってくるかもしれんけどな。あるいはVRChatのフレンドを全員、いったん切るのかどうかとか。なんかな、その……何を忘れてて、何を覚えてるっていうのは……そこは、すぐに定まるとは限らない。らしい。おそらくイルビの場合、しばらく時間をかけて、定まっていって……喪失っていうか奥底に封じ込めるっていうかそういう記憶の分と、残したまんまにしておく記憶の分とな。徐々に定まっていくという。だから、どの記憶が残るのかっていうのが曖昧な時期があってな。しばらく。たぶんやけど。おそらくな、去年の十二月っていうのが、まさにそういう移行っていうか……そのへんが定まる期間というか。そうやったんちゃうかなと。推測やけど。わたしの推測やでこれ。でな、もしな、その時期にな、タヌウとVRで会ったりとかな。あるいはなんか、VRChatで誰かと頻繁に会うような用事があるとかな。なんかVRChat内のイベントとかな、そういうの主催してるとかな。あとはほら、大学でVRについてレポート書かなあかんとかな。なんかイルビに、もしそういうのがあったとしたら……そういうのがあるとな、イルビもVRそのものについては忘れてへん可能性もあったりするなあと」
「イルビは……イルビさんは、あれやな。まだ、VR始めて日が浅かったし、VRがきっかけで広がっていった人間関係とか、そういうなんか、社会的なもんっていうか。そういうのも全然なかったんやろ」
「そうそう。まあ、そういうこと」
「VR歴浅いっていうのがあるがゆえに、VR全体が、元カレの。ユッキイさんの……VRそのものがユッキイさん周辺のこととして処理されたっていうか。もうあれやろ。脳が。脳がVRの存在ごと忘れるのがいいっていう判断を下したっていう感じなんやろ」
「そうそう。VRの存在っていうか……まあその、VRがどういうものなのかっていう、その知識はな。覚えてるわけやけどな。そこは一般的な知識としてな。でも自分がVRやってたっていう、そこをごっそり忘れてるわけ。VRChatのユーザー名とかそういう……あっユーザー名ちゃうわ。ディスプレイネームか。このディスプレイネームとかもな、タヌウは覚えてんのにイルビ本人は覚えてへんっていうな。そういうことらしい。おそらく十二月のどこかで、箱にしまったんやと思う。VRゴーグルとかそういうのは。パソコンからも、VRChatの痕跡とか全部消してな。例えばSteamごと消すとかな。ゴーグル箱にしまったりとか、パソコンからいろいろ消したりとか、そういう作業をしてる最中ではな、ある程度は覚えてるんやろけどな。ある程度は記憶に残ってないと、作業が遂行できへんはずやからな。でもしばらく自分の視界にまったく入らん状態になってからな、そのまま時間が経過してまうとな……時間がだいぶ経ってからVRゴーグルの箱とか見てもな、まったくなんも思い出されへんっていう」




