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短編ホラー

十一月の壕

作者: 川浪 オクタ
掲載日:2026/02/08

 ねむれ ねむれ 儚く降る雪は 花のかわりに

 ねむれ ねむれ 穏やかに積もる雪は 母のかわりに


 雪はとけ 花が消えても あなたは 雪が みまもってくれるだろう

 雪がとけ 花が咲いても あなたは けして ひとりじゃない


 ねむれ ねむれ 儚く降る雪は 母のかわりに

 ねむれ ねむれ 穏やかに育つ草木は 父のかわりに


 雪はとけ 花が舞っても 心は あなたのそばに



 幼い頃両親が歌った子守唄

 

 懐かしい……


 それにしても、現実なのに、まだ夢の続きみたいに揺らされているのなんでだろう……


 肩を軽く叩かれて、


「美咲、起きて。次のバス停で降りるからね!」

「もう、車でくれば良かったかも。転職中なのにごめんね」


「……あやの?」


「いやいや、結構まだ雪残ってるって」

「俺だったら、この山道むり。いくら冬タイヤでもキツい。」


「……雄大」


 4月の山は、冬の顔をまだ捨てきれていなかった。

 雪解け水の音がどこかで流れているのに、道の脇には汚れた雪が固まりのまま残っている。

 白いはずのものが、土と灰を吸って鈍い色になっていた。


「……ここ、ほんとにバス通るんだね」


 あやのは降りる拍子に腹のあたりへ手を添え、すぐに離した。


 私は降りた停留所の標識を見上げた。錆びた鉄板に、かすれた地名が残っている。地図から消えた村の名前だ。


 子どもの頃この村の話題になると親が黙った記憶がある。


「この時期は気ぃつけてね。春の方が崩れるから」


 運転手の男は、私たち3人に向けてそう言い放つとバスの乗車ドアを閉めた。


「崩れる……雪崩のことかな?」

「まさか」


「ふふ。大丈夫だと思うけど、気をつけましょ」


 隣で笑ったのは、私の父の兄の長女、佐藤 あやのだった。私より1つ上で、教師をしている。

 父親も教師で、昔から「戻るな」「巻き込まれるな」と言い続けてきたらしい。

 けれど祖父母が亡くなった以上、家の始末だけは誰かがしなければならない。


  荷物を持ってスマホの地図で祖父母の家の位置を確認しているのは、私の母の弟の息子、佐藤 雄大。

 私より5つ上で、看護師をしている。確か小児科だったかな。

 子どもに好かれるうらやましいタイプだ。


 私たちは幼い頃から仲が良かった。夏休みに集まって川で遊び、正月には一緒に凧を揚げた。血の濃さとか薄さとか、そういうものを意識したことはない。


 だから私が養子だということも、3人とも知ってはいるのに、普段は忘れている。


「美咲、荷物それだけ? 寒いよ」


「平気。4月だし」

 転職の手続きでスマホが鳴り続けていたが、今日は電源を切った。


「4月でもここは別だって。今日中に帰る予定だけど」


 祖父母の家の片付けを、私たち3人で。親世代には詳しく言わずにやることになった。


 あやのは「遺品整理を手伝ってほしい」とだけ言った。私も、次の職場に移るまでの「間」だった。雄大も「体を動かしたい」と言った。どれも、嘘ではない。けれど、どこか肝心な部分が欠けている気がした。


 村は、思ったより静かだった。


 人がいないのに、誰かがついさっき歩いたような気配だけが残っていた。


 家が並ぶはずの場所は空き地になり、朽ちた電柱が斜めに突っ立っている。

 人の匂いがしない。けれど、完全に自然に飲まれたわけでもない。

 誰かが、最後まで「形」だけは残そうとしたように見えた。


 ほとんどの家には大きな家具だけが残されていた。


「……おじいちゃん達、最後までここにいたんだよね」


 あやのが言った。


「うん。連絡もほとんど取ってなかったって」


 冬の話題になると、親たちは決まって同じ顔をした。


 怒っているわけでも、悲しんでいるわけでもない。


 ただ、何かを思い出さないようにしている顔。



 祖父母の家は、外から見ると普通だった。

 雪囲いの板が片付けられ、玄関先の雪かき道具は整列している。

 住む人がいなくなった家はすぐに荒れるのに、ここは、まだ「暮らし」の形を保っていた。


「中、暖房つけられるかな」


 あやのが鍵を回す。古い戸が重く鳴って開いた。冷気が押し出される。鼻の奥がツンとした。


 居間の畳は乾いている。仏壇はきちんと閉じられ、埃が少ない。私はその「きちんとさ」に、逆に落ち着かなかった。


「……変だな」


 雄大が小さく言った。


「何が?」


「誰かが……片付けてるみたいだ」


 確かに。老人2人だけで暮らしていたなら、もっと生活の乱れが出るはずだ。けれど、この家は「役目」として整えられているように見える。


 私たちは分担して片付けを始めた。衣類、台所、納戸。古いアルバム、封筒の束。美咲は手際がいい。教師らしく、紙類を分類し、付箋を貼っていく。


 そのとき、納屋の床板の一部が、妙に新しいことに気づいた。


「ここだけ……張り替えてある」


 あやのは「祖父が直したんじゃない?」と言い、目を逸らした。雄大が近づいて、床板を叩く。鈍い音。下に空間がある。


「……外してもいいのかな?」


「中にも何かあるかもしれないだろ?」


「そうだね……取れそう?」


「道具とかあれば良いけど……ここは最後にしても良いかもな」


「うん……思ったより物も少ないし今日中に終わりそうだしね」


 今は11時ちょうどで、最終バスまで5時間くらい。


「あやの。何回かここに来てる?意外と整理されている感じなんだけど」


「うーん。私は去年の11月のおばあちゃんの葬儀以来だから」


「もしかしたら、おじさん達が時々来ているかもね」


「そうね。ここの鍵は3つしかないはずだから」


「俺らがするのは、残すものと捨てるものを分けてまとめて置いておくだけで良いのか?」


「そう言ってた。」


「じゃあ続けよっか」


 元々、ものが必要最低限しかない祖父母宅だったようで、そんなに大変というところはなかった。


 貴重品はとっくに親たちが持っていっている。


 あまり祖父母宅である実家には帰りたくないみたいで、片付けも進んでいなかった。


 2人は迷いなく仕分けを進めていく。さすがに手慣れていた。


 私はこういうのが苦手だ。だから、掃除などで終わった箇所を綺麗にしていく。


 それにしても、なんでこんなに物が少ないんだろう。


 ホテルみたいな、合宿所みたいな。


 もしくは、いついなくなっても良いように整理されているようにも見える。


 途中、バスに乗る前に買ったコンビニの昼食を食べ、15時少し前に片付けは終わった。


「3人いるから早く終わったね!ありがとう」


「ううん。お母さんの小さい時の写真も見れたり、昔の雑誌とか見れて面白かったよ」


「俺、あのレコード持って帰りたい」


「お父さんに聞いてみるね」


 その時、歌のような、誰かに訴えるような微かな声が聞こえた気がした。


 一瞬で、懐かしい 涙が出そうな 胸が苦しくなるような


 気のせいかと思い、掃除道具を片付けようとした瞬間、やはり遠くから聞こえる。


 あやのがメッセージアプリを使って確認をとっている間、音の発生箇所を探すことにした。

 私の行動に気づいた雄大は何事かと不安な顔をして近づいてくる。


「美咲、腹減ったのか?チョコ食うか?」


「うん!じゃなくて、何か聞こえない?」


「何か……?」


「歌声みたいな」


「え?」


「……いや……聞こえないな。……だけど、どこからか風を感じる。」


「風?」


 祖父母宅は古いけれど、メンテナンスはしていたようで、壁も、天井も床も、とても綺麗にしてある。


「窓からの隙間風じゃない?」


「今日はそんなに風強くないし、ここの窓は全部二重窓だったはずだから風なんてないと思うんだけど……」


「ここかな」

「ここだ」


 同時に2人が指をさす。

 音と風が流れ出る箇所。


 ここだけ床が綺麗な場所。


「そうだった。ここ忘れてたね」


 突然、あやのが2人の間に割って入った。


「おじさんから返事きた?」


「仕事中かも。きたら教えるね」


「ここの床外しても良さげか?」


「うーん。どうだろう。何もなければまた戻せば良いんじゃないかな。この後も誰も住まないと思うし。」


「そうか……どうする?」


「開けてみようか。気になるし」


「気になる?」


「歌かな……さっきから聞こえるんだよね」


「え……?」


 ガコッ


 雄大が床の一枚のタイルに手を引っ掛けると、思ったより簡単に外せた。


 突風が吹いた。


 3人とも風を感じた。

 ヒヤリとした真冬の匂いが、足元から吹き上がった。


 突然だったので、目を瞑ってしまったけれど、タイルを外した床の下には、地下に続く、石の階段があった。


 懐中電灯の光が、下へ落ちていく。階段を降りた後には壁に沿って、狭い通路があるようだ。


「……地下?」


 あやのが小さく頷く。


「降りる?」


 私が言うと、雄大が先に降り始めた。躊躇がないのが、逆に怖かった。まるで、最初から知っていたみたいだ。


 階段は滑りやすいかと思ったけれど、大丈夫だった。ただ、空気の冷たさが肌に刺さる。足を下ろすたびに、どこかで石がきしむ音がした。


 あやのは匂いに顔をしかめる。



「壕」という言葉が頭に浮かんだ。戦時中の防空壕。そういう類のものだろう。けれど、ここは村の中心から外れた場所で、わざわざ床下に繋げる意味が分からない。


 壁を見た瞬間、言葉が浮かんだ。


 ——口を、塞がないと。



 正面は崩落で塞がっていた。土砂が押し固められて、奥へは進めない。


 なのに右手だけ、壁沿いに空間が残っていて、石の台がまるで供え物のために整えて置かれていた。


 そして、濡れても形を保った古い帳面が、台の上に置かれていた。


 帳面の近くに、詩のようなものが書かれた紙の断片がある。

 帳面の古さと違い、紙の断片はまだ新しそうだった。


「……これ」


 私が手を伸ばすより先に、雄大が帳面を取った。ページをめくる手が震えている。


 文字は達筆ではない。けれど、何十年も続けてきた筆跡の癖がある。年の欄。月の欄。名前。

 同じ言葉が、何度も何度も繰り返されていた。



 十一月 納



「納って……何?」


 あやのが言った。


 雄大は返事をしない。ページをめくり続ける。急に息が浅くなっていくのが分かった。


 私は別の束を見つけた。紙がしわしわに波打っている。天候の記録。雪崩の記録。家の倒壊、けが人、行方不明。淡々と書かれている。


「……天候、雪崩とか記載あるから、村の記録かなぁ。」


 あれ?行方不明者が毎年いる。

 最後は27年前かな。


「納……納める、って意味か」

「……人の名前がある。これ、なんだよ」


 雄大が呟く。誰に言ったのでもない、確認するように、声に出したようだ。


 雄大の指が、ある行で止まった。

 爪が紙に食い込むほど強く押しつけられている。


「……姉ちゃん」


 声というより、空気が漏れた音だった。


 私は覗き込む。

 そこにあったのは、知っているはずの名前。

 けれど、家族の誰も口にしなかった名前。


 横に、黒々とした一文字。


 納


 その下に、筆圧の強い、乱れた一文字。


 済


 雄大の肩が震えた。

 泣いているのか怒っているのか、判別できない震え方だった。


「……病死じゃ、なかったのか」


 雄大が言った。誰に聞いているわけでもなく。


 あやのが口元を押さえた。「私、知らない。ほんとに、聞いてない」


 私は帳面の別の部分に目を走らせた。月の欄が、妙に偏っている。5月、6月、7月、8月、9月、10月。そこだけ、何かの印が多い。赤い点。線。


「……出生月の印?」


 私は言った。帳面の端に、小さくメモがある。



 十一月 納


 五月〜十月 該当


 外 除



「外……」


 あやのが呟く。


 喉が乾いた。私は、自分が7月生まれだと知っている。制度的には該当する。でも



   外  除




 ページの片隅に、私の生年の近くで、薄い印が消されているのが見えた。いったん何かを書いて、上から押さえた跡。別の名前に置き換えた跡。


 胸の奥が冷たくなった。


 私の生母は、この村の人間ではない。村とは無関係の外部の人だ。私は1歳で養子に出され、祖父母の次男夫婦に育てられた。


 それは制度の外に出されたというより、そもそも制度に入れてもらえなかった、ということなのか。


「……これ、誰が」


 あやのの声が震えた。


 雄大は帳面を閉じないまま、唇を噛んだ。


「じいちゃん達だろ」


 吐き捨てるような声だった。


 私は雪害記録の束をめくった。生贄の「納」がある年も、雪崩は起きている。家は潰れ、けが人が出て、行方不明者もある。なら何が守られたというのか。


 だけど、記録の端に、別のメモがある。



 この程度で済んだ


 納のおかげ


 今年も怠るな



 その言い方が、妙に人間くさかった。神の言葉ではない。村の言葉だ。恐怖を押さえ込むための、言い訳の言葉だ。


 私は理解してしまった。


 雪は、止まらない。止まったことなどない。けれど、人は止めたと思いたい。意味を作って、罪を抱えてでも、安心したい。


 だから、やめられなくなる。


「……あやの」


 私は言った。


「なに」


「これ、誰かに見つかったら、また始まるかも」


 あやのの目がわずかに揺れた。


「通報……する?」


 教師らしい言い方だった。正しさを探す声。


 雄大が笑った。笑いとも呼べない音だった。


「誰を裁くんだよ。じいちゃん達は死んでる。村もない。姉ちゃんも……」


 言葉が詰まり、雄大は顔を背けた。


 私は帳面に手を置いた。紙は冷たい。


 この壕は、もう壊れている。けれど、「思想」は壊れていない。


「……塞ごう」


 私は言った。


 あやのが目を見開く。


「塞ぐって……」


「壕の口。入口。ここを、見つからないように」


 雄大が私を見た。その目には、怒りと、恐怖と、頼りなさが混ざっている。


「証拠、消すのかよ」


 胸の奥で何かが軋んだ。


 これは正義じゃない。たぶん私たちの都合だ。


 それでも私は、この場所を残したくなかった。


「次に、誰かの子が「納」になるのを防ぐ方が、私は大事」


 あやのが息を呑んだ。彼女の顔に、父親の言葉が重なっているのが分かった。


「……もし、自分の子が同じ立場になったら」


 あやのが言った。


「私は無理。絶対、許せない」


 雄大は目を閉じて、しばらく黙った。それから、帳面を抱えたまま、低い声で言った。


「……やろう。もう、終わらせよう」


 土を運ぶたび、音が吸い込まれていく。

 壕の中は、もう息をしていないみたいだった。


 雄大は一度だけ、スコップを落とした。

 金属音が響くと、三人とも同時に顔を上げた。

 誰も何も言わない。

 言葉を出したら、戻れなくなる気がした。


 あやのの手は震えていた。

 寒さではない。

 私も分かっていた。

 これは祈りじゃない。

 ただの作業でもない。


 自分たちのために塞いでいる


 その事実だけが、重く積もっていく。


 誰も口をきかなかった。

 途中で美咲が何度か嘔吐しそうになり、壁に手をついた。雄大は一度だけ、声を殺して泣いた。私は、泣かなかった。泣くと、意味づけをしてしまいそうだった。


 全部を終えて床板を戻したとき、私は息を吐いた。


「……終わったね」


 あやのが小さく言った。


 私は頷く。


 村のしきたりはこれで終わった。神がどうとかではない。人間の側が、終わらせた。そう決めた。もう、ここに意味を与えない。


 外に出ると、空は薄い灰色だった。雪がちらついている。四月の雪は軽く、風に舞う。


 時間は4時を過ぎていた。


 バスはきっと遅れているだろう。でも、


「急ごう」


 あやのが言った。「暗くなる前に下りたい」


 私たちは村を離れ、バス停へ向かった。背中に、家の気配が貼りついてくる。振り返らなかった。


 微かな振動と音を感じていることにも気付かずに。


 風が止まり、雪は桜のように舞っていた。


 バスが来た。運転手は私たちを見て、何か言いたげに口を動かしたが、結局は何も言わなかった。私たちは黙って座席に座る。


 山道を下り始めたとき、窓の外の雪は少し強くなった。雨ではない。風に乗る粒が、ガラスに当たっては消える。


 運転手が、また独り言みたいに言った。


「春はね……」


 その先は聞こえなかった。


 車体が、わずかに揺れた。次の瞬間、山が鳴った。


 低い音。地面の奥から響く音。雪ではない、もっと重い何かが滑る音。


「……!」


 運転手がブレーキを踏む。バスが減速する。前方の視界が白く霞む。雪煙。


 雄大が立ち上がりかけ、あやのが私の腕を掴んだ。


「美咲!」


 白い壁が、バスの側面にぶつかった。


 世界が横に倒れた。次の瞬間、私はここで意識を失った。


 どこかで、またあの歌が流れた。




 ねむれ ねむれ 儚く降る雪は 花のかわりに

 ねむれ ねむれ 穏やかに積もる雪は 母のかわりに


 雪はとけ 花が消えても あなたは 雪が みまもってくれるだろう

 雪がとけ 花が咲いても あなたは けして ひとりじゃない


 ねむれ ねむれ 儚く降る雪は 母のかわりに

 ねむれ ねむれ 穏やかに育つ草木は 父のかわりに


 雪はとけ 花が舞っても 心は あなたのそばに



 カーテンの向こうは静かだった。規則正しい電子音が、眠りを刻んでいた。


 あれは子守唄じゃない。息が苦しくなってくる。



 目が覚めたとき、天井は白かった。消毒液の匂い。点滴の管。隣のベッドのカーテン。


 私は腕を動かそうとして、鈍い痛みに顔をしかめた。


「……起きた?」


 あやのの声がした。少し離れたベッドから、彼女が顔を覗かせる。額に小さな傷。目の下に濃い影。


「雄大は」


「……別の部屋。大丈夫、生きてる」


 あやのは言って、唇を噛んだ。


「……あの運転手さん、軽傷だったって。奇跡だって」


 奇跡。私はその言葉に、反射的に拒否感を覚えた。


 雪は降る。崩れるときは崩れる。


 それだけだ。


 でも胸の奥のどこかが、まだ揺れている。


 美咲が視線を落とした。手を握りしめている。


「……私、ね」


「うん」


「……妊娠してたみたい。気づいてなかった」


 声が細くなった。


「……もともと不安定だったみたい」


 あやのは宝物のように優しく愛おしそうに、お腹に手をあてる。


 私は息を止めた。あやのは生きている。けれど、失われたものがある。


 雄大の姉の名前が、帳面の中で冷たく光った。私たちが塞いだ壕。土の重さ。春の雪。崩れる斜面。


 何かが「返ってきた」と感じてしまう自分がいる。私はそれを、強く否定した。


「違う」


 自分でも驚くほどはっきりした声だった。


 ゆっくり起き上がり、あやのの手をにぎる。


 握った手が震えていた。どちらの震えかは分からなかった。


「罰じゃない。神でもない。山だよ。ずっと、こうなんだ」


 言い切った瞬間、胸の奥がひりついた。

 言葉が正しいかどうかなんて、分からない。

 ただ、そう言わなければ、何かに飲まれそうだった。


 窓の外で、雪がひとつ落ちた。

 音はしないのに、壕の冷気を思い出した。


 それでも、私は視線を逸らさなかった。

 あやのは、しばらく黙ってから、かすかに頷いた。


「……うん」


   涙声だった。


 病室の窓の外に、灰色の空。遠くの山の稜線が薄く見えた。あの村は、もう見えない。


 私はベッド脇の荷物に手を伸ばした。封筒が一つ入っている。新しい名刺。次の職場の案内。弁護士会の登録変更の書類。


 あやのは気づかずに言った。


「美咲、仕事……どうするの。しばらく休めるの?」


 私は封筒を握りしめたまま、答えた。


「……大丈夫。」


 そして、思った。


 これでもう村のしきたりは行われない。

 雪は降る。

 それでも、埋めたのは正しかった。


 正しいことが分からなくなる場所を、もう誰にも残さないと、私は決めた。

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