第26話 罪を映す教室
資料室の奥に、仮設教室D組の記録資料が眠っていた。
旧校舎の一角に一時的に設けられたその教室は、現在では使われておらず、正式な配置図からも削除されている。
だが、水島教諭の証言によれば、朝倉心音は確かにそこにいた。
「三月五日、最後に彼女が姿を見せたのはD組の教室だった。あの日、あの場所で何かが起きた」
水島の言葉が、風間の中で響き続けていた。
翌朝、風間は旧校舎へ向かった。
錆びた階段、薄く剥がれた壁紙、色褪せた標語――
どれも今では使われていないその空間に、かつて生徒たちの声があったとは思えなかった。
だが、扉の前に立ったとき、不意に胸の奥がざわついた。
「……ここか」
D組と記されたプレートはすでに剥がされていたが、扉の木目にはうっすらと跡が残っていた。
風間はゆっくりとドアを開けた。
中には、使い古された机と椅子が十数脚、ほこりをかぶったまま整然と並んでいた。
カーテンは閉じられ、わずかに差し込む光が教室全体を灰色に染めている。
その一角、教卓の真横にある席に、風間の視線が吸い寄せられた。
机の天板に、何かが彫られている。
「わたしはここにいる」
その文字は浅く、ナイフのような細い刃で刻まれていた。
年月が経ったせいで傷は黒ずみ、文字の輪郭は曖昧だった。
だが、確かに“残そうとした痕跡”だった。
風間は思わず、手帳を開き、彼女のノートに書かれていた文と照らし合わせた。
「私はいなかったことにされる。でも、わたしがいたことを、きっと誰かが残してくれる」
――“わたしはここにいる”。
それは、確かに“誰か”に向けられた声だった。
消されていく自分を、誰かに見つけてほしかった、少女の最後の祈り。
風間はその場にしゃがみこみ、机の裏や足元に目を凝らした。
すると、椅子の背もたれの裏側に、小さな紙片が貼りつけられているのを見つけた。
セロハンテープが乾いてはがれかけていたが、手に取ると、そこには小さな走り書きが残されていた。
「ごめんね」
たった、それだけだった。
けれど、それは――“加害者側の声”だった。
紙片に書かれた「ごめんね」という言葉。
それは、匿名の謝罪か、それとも別れの一言か。
筆跡は崩れており、筆圧も弱く、まるで震える手で書かれたように見えた。
風間は椅子の裏側を確認しながら、そっと小声で呟いた。
「これは――“誰かが罪を自覚していた”証拠だ」
その言葉に、静かな教室の空気がわずかに揺れるような錯覚を覚えた。
沈黙は、何も語らないわけではない。
語らないことでしか、言えないこともある。
だからこそ、少女は“存在の証”を刻み、誰かは“許されぬ言葉”を遺したのだ。
風間は携帯を取り出し、かつてD組に所属していた生徒たちのリストを開いた。
名簿上では“在籍記録が残っていない”D組。
だが、篠崎の手配で集められた仮名簿には、十名の生徒が記されていた。
その中に、同じ中学出身の生徒が二人いる。
そして、そのうちの一人――**“椎名柚月”**という生徒は、心音のことを“知っていた可能性が高い”と、水島からも指摘されていた。
「……話を聞こう。彼女が、何を見て、何を黙っているのか」
風間はその場を後にし、旧校舎の廊下を歩きながら、椎名柚月の在籍するクラス――2年B組の教室へ向かった。
D組の再編後、彼女はそこに“編入”された形になっていた。
同じ空気を吸いながら、違う名前で日常を続けている生徒。
教室のドアの前で足を止めると、中では数人の生徒が談笑していた。
風間は担任に声をかけ、椎名柚月を呼び出してもらう。
数分後、教室から出てきた女子生徒は、風間を見るなりわずかに表情をこわばらせた。
「……警察の人、ですよね」
風間はうなずいた。
「少し、話を聞かせてくれますか。あなたがかつていた“D組”のこと、そして――朝倉心音さんのことです」
椎名は一度、目を伏せた。
そして、小さく、こう言った。
「……心音ちゃんは、何も悪くなかったんです。
ただ、いるだけだったのに……」
その一言に、風間は確信した。
この少女は、知っている。
心音が“いなかったことにされた”理由を。
風間は校舎裏のベンチへ椎名を案内した。
人気のない場所を選んだのは、彼女が語りやすいようにするためだ。
椎名はしばらく黙っていたが、やがて、ぽつりぽつりと言葉を紡ぎ始めた。
「心音ちゃんは、最初から少し……浮いてたんです。
でもそれは、本人が原因じゃなくて、周りが……変な空気を作ってた」
新設されたD組は、問題を起こした生徒や家庭事情のある生徒など、いわゆる“扱いづらい”とされた者たちが集められていた。
それぞれが壁を作り、他人と関わろうとしなかった。
心音も、その中に混ざっていた。ただ、彼女は誰よりも“普通であろうとした”。
「最初は、みんな戸惑ってた。でも、少しずつ打ち解けて……心音ちゃんは、いつの間にか“中心”みたいになってたんです」
それが崩れたのは、三月の頭。
一人の男子生徒が、心音に対して悪質な言葉を投げた。
「“お前、本当にこの学校の生徒か?”って」
心音はその言葉に、強く動揺していたという。
名簿にも、成績表にも、写真にも――“自分の名前がない”ことに、彼女自身も気づいていたのだ。
「彼女、笑ってごまかそうとしたんです。
でも、あの空気の中でそれをされたら……逆に“怖い”って感じた子もいた」
その日から、D組の中で“見えない空気”が流れ始めた。
誰もが彼女に話しかけなくなり、気づけば“教室にいない存在”として扱われていた。
「わたし、怖かったんです。
なにがどうなってるのかもわからないし、でも、あのとき手を差し伸べたら、自分まで……」
風間は、静かに彼女の言葉を受け止めた。
「あなたが、“ごめんね”と書いたの?」
椎名は驚いたように目を見開き、そして、ゆっくりと頷いた。
「……あのとき、心音ちゃんは教室の隅で泣いてた。声もなく、ただ震えてて……。
なのに、わたし、ただ見てることしかできなかった。
だからせめて、何か残そうと思って……」
その声には、後悔と苦しみがにじんでいた。
風間は手帳を閉じ、ゆっくりと立ち上がった。
「ありがとう。あなたが話してくれたことも、彼女の“記録”になる」
椎名は、涙をこぼさずにうなずいた。
それが、彼女なりの“償い”だった。




