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第20話 もう一つの名簿

その夜、風間湊は一人、警察署の資料室にいた。




 昼間の瑞季とのやりとりを、何度も反芻していた。


 彼女の語った記憶は、証拠も記録もない。だが、それらは確かに「生きた声」だった。


 そして今、風間の前にはもう一つの声が差し出されようとしている。




 「“もう一つの名簿”……って、どういう意味なんですか?」




 風間がそう問うと、通話の向こうから落ち着いた男の声が返ってきた。




 「この世の中には、“公式には存在しない名簿”ってのがあるんだよ。


 記録されていないのに、存在していた子どもたち。


 その名簿は、ある時期にこの学園で作られていた。理由は言えない。だが事実だ」




 男の名は佐久間。篠崎透のかつての上司であり、公安の一線からは引退した人物だった。


 篠崎の死後、その意志を引き継いだ者のひとりだという。




 「篠崎が最後に君のことを口にしたのは、“あいつならやりきれる”って言葉だった。


 俺は最初、あいつの理想論に付き合うつもりはなかったが……今は違う。


 お前の後ろに“名前を持たない者たち”の声があるなら、俺はそれを繋ぐ」




 風間は電話を持つ手に力を込めた。




 「それ、受け取らせてください。


 俺は、篠崎さんのことを……全部知らなかった。でも今なら、彼の残したものに触れられる気がする」




 佐久間は小さく笑った。




 「名簿の原本、そしてそれを手に入れた経緯の記録。それらは“ある場所”に保管されてる。


 だが、それにアクセスするには少し条件がある」




 「条件?」




 「君が、ある“ひとりの人物”に会うこと。


 彼女は、その名簿が作られた当時に唯一関わっていた教師だ。今は名前を変えて隠れている」




 「……会えますか?」




 「この番号に連絡すれば、向こうから指定してくる。注意しろ、あまり話を進めすぎると逆に閉じられる可能性もある。


 だが風間、お前はここまで来た。進め」




 通話が終わり、署の廊下を歩き出すと、外はもう深夜になっていた。


 月の光がぼんやりと事務棟の窓を照らしていた。




 風間は小さく息を吐いた。




 「篠崎さん。……あなたが見ていたのは、こういう景色だったんですね」




 手帳を取り出し、空いたページを一枚めくる。


 そこにはまだ何も書かれていない。




 だが、これから記されていく。




 “公式には存在しない真実”を、“消された者たち”の記録を。


待ち合わせ場所は、東京郊外のとある古びた喫茶店だった。


 指定された時間より少し早く着いた風間は、入り口のステンドグラス越しに店内を見渡した。


 数人の客が静かにコーヒーを啜っている。


 その一番奥、陽の当たらない席に、ひとりの女性が座っていた。




 長い黒髪をゆるく後ろで束ね、薄いグレーのカーディガンを羽織っている。


 歳は五十代後半から六十代前半。落ち着いた佇まいだが、目の奥には強い警戒が宿っている。




 風間が近づくと、彼女は視線だけを向け、言った。




 「……篠崎さんの、後輩さん?」




 「はい。風間湊といいます」




 彼女はわずかにうなずいた。




 「……椿沢、と名乗っているけれど、本名じゃない。


 あなたが知りたいのは、“消された名簿”のことね」




 風間は、胸ポケットからメモを取り出し、テーブルに置いた。


 「僕は、ある生徒の証言を聞きました。“名簿にない生徒がいた”と。


 そして、篠崎さんの上司だった方から、あなたが関わっていたと」




 椿沢は一瞬、遠くを見るように目を伏せた。




 「……私はあの学園で、十数年間、生活指導の教員をしていたの。


 ある時期、突然“特殊な指導対象”として、複数の生徒が転入してきた。


 名前は仮名。戸籍も記録も追えない。


 その子たちは、週に数回、深夜に“特別教室”へ連れていかれていた」




 風間の表情が強張る。




 「目的は?」




 「わからなかった。いや、誰も教えてくれなかった。


 ただ、ある日“その教室から戻ってこなかった子”がいた。


 私は……そのとき、ようやく気づいたの。


 あの子たちは、“教育”を受けに来ていたんじゃない。“実験”されてた」




 言葉にした瞬間、椿沢の目が細く震えた。




 「私がそのことを他の教師に漏らしたとき、すぐに異動を命じられた。


 その後、篠崎さんがひそかに私に接触してきて、“あの子たちの名簿”を探している、と」




 「その名簿、今も……?」




 椿沢は小さな手提げバッグから、厚紙に包まれたファイルを取り出した。




 「これが、私が持ち出したコピー。原本はもう処分されたかもしれないけれど……


 この中に、仮名の記録、教室の割り当て、夜間の指導記録が断片的に残ってる」




 風間は震える手でファイルを受け取った。


 紙の端に、にじんだインクが残る。誰かの名だ。誰かの履歴だ。


 「……この名簿の子たち、全員が“今はもう存在しない”ってことですか?」




 椿沢は、静かに首を振った。




 「わからない。けれど――もし、生き残っている子がいたら、


 いまも“記録されていない人生”を歩まされている」




 その言葉は、風間の胸に重くのしかかった。




 「僕は、この名簿を証拠に、正式に捜査を進めたい。


 でも、これを提出すれば、あなたも巻き込まれる可能性がある」




 「構わないわ。あの子たちが消されていった理由を、ずっと知りたかった。


 だから、風間さん。あなたにすべて託す」




 椿沢はそう言い残し、立ち上がった。


 去っていく背中は、長年の重荷から解放されたように、どこか静かだった。




 風間は席に残り、ファイルをじっと見つめた。




 ――これが、“もう一つの名簿”。




 記録からも、記憶からも消されようとした子どもたちの存在証明。




 それを携えて、風間はようやく本当の“事件の扉”の前に立ったのだった。


 写真に写る男の顔は、妙に整いすぎていた。――作られた顔。整形ではない。記録上、何もかもが「整っている」という意味での“整いすぎ”だ。




 名前も、経歴も、顔写真すら。


 この人物のすべてが、学校という「制度」に最も適したテンプレートで構成されているように見えた。




 ――それなのに、どこにも“彼”を覚えている人がいない。




 風間は手元の写真に指を沿わせながら、小さく息をついた。


 ふと、ある場面が脳裏に浮かぶ。




 以前、篠崎がぽつりと言っていた。




「記録に残るものって、誰が書いたかより、“何のために書かれたか”のほうが重要なんです。時々、目的が歪んでる記録がある。……あえてそうされてるやつ」




 その時は、何気ない言葉として聞き流していた。


 けれど今なら、彼女が何を言いたかったのか、少しだけわかる気がする。




 記録されること。


 記録から外れること。


 ――その線引きを、誰が決めているのか。




 静かに、写真をファイルに戻す。




 いずれこの資料は、篠崎にも見せるつもりだった。


 けれど今はまだ、もう少しだけ、自分の中でこの“違和感”の輪郭を確かめておきたかった。

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