第15話 沈黙の教室
午後三時を回った校舎は、不気味なほど静まり返っていた。
チャイムはとうに鳴り終わり、部活動の声すら聞こえない。警備員が見回りに来るには、まだ少し早い時間帯だった。
風間は管理棟と教室棟をつなぐガラス張りの渡り廊下を歩いていた。壁際には記録係用の古びた掲示板があり、「今週の予定」と手書きの紙が乱雑に貼られている。だが、その中にひとつだけ、奇妙なメモがあった。
——“〇組の黒板は、動かさないでください。”
風間は足を止めて、その紙をじっと見つめた。
「動かさないでください、って……普通、そんな注意必要か?」
それは、旧校舎側にある旧・二年D組のことを示していた。
件の事件の舞台となった、例の教室だ。
彼は胸ポケットからスマートフォンを取り出し、メモアプリを立ち上げた。すでに幾つかの仮説が箇条書きで並んでいるが、それに「黒板の裏の可能性」と書き加える。
教室に入った瞬間、独特の空気に包まれた。
ホコリの匂い、湿った木材の匂い、そして何より、何かが隠されているような圧迫感——。
風間は慎重に、黒板の端に手をかけた。重たい金具の音を立てながら、黒板がゆっくりと横にスライドする。
——カリッ。
微かな音とともに、床に何かが落ちた。
しゃがみこんで拾い上げると、それは細長い金属製のペンだった。
表面には、かすれた文字でこう記されていた。
「記録者:篠崎」
篠崎。
その名前を目にした瞬間、風間は胸の奥に冷たいものが流れるのを感じた。
警察学校時代、記録係としての理想を体現していた男。誰よりも正確で、誰よりも執着していた。彼の存在が、いまの自分の在り方に少なからず影響していることを、風間は否定できなかった。
ペンを手にしたまま、教室の奥へ目をやる。
黒板の裏には、さらに数枚の古びた紙がガムテープで留められていた。慎重に剥がすと、その一枚に「観察記録」と題された手書きのメモが現れる。
——2021年11月24日 16:17
3年C組、角谷瑞季、教室に一人。
窓際で何かを探している様子。
机の並びを崩し、床下を確認。
その後、何かを見つけたらしく、急いでポケットにしまう。
風間は思わず、記録の時間を二度見した。
この日付は、角谷が失踪する二日前だったはずだ。
そして、彼女が何かを“見つけた”とある。
「この記録が本当なら……彼女は、自分の意思で“何か”を探してたってことか?」
メモをポケットにしまい、もう一度、黒板裏を確認する。
しかしそれ以上の記録は見つからず、教室には、先ほどまでの緊張感とは別の“余白”だけが残されていた。
風間は黒板裏の記録をスマホで撮影し終えると、教室を後にした。
ドアを閉めると、空間の空気が一気に軽くなる。あの教室だけが、別の時空に取り残されているような錯覚すら覚える。
廊下を歩きながら、彼は篠崎という存在について思いを巡らせていた。
かつての上司であり、記録係としての指南役でもあった人物。数年前に突然退職し、消息を絶ったという話しか聞いていない。噂では、最後に手がけていた案件が原因で何かあったのではと囁かれていたが、詳しいことは闇の中だ。
「こんなところで、名前と再会するなんてな……」
風間は小さくつぶやき、職員室へ向かった。校内の聞き込みを進めるには、協力的な教員を見つけるのが先決だ。
幸い、この時間帯なら事務仕事をしている教師がいるはずだった。
扉をノックすると、中から中年の女性教師が顔を出す。
彼女は家庭科を担当しているという浅川という教師だった。
「失礼します、警視庁の風間です。少しお時間よろしいでしょうか」
「ああ、あの件で……。どうぞ、こちらへ」
浅川はデスクの椅子を引きながら、教室内を片づけるようにジェスチャーした。
風間は彼女の向かいの椅子に腰掛け、先ほどの教室で見つけた記録の内容について尋ねた。
「この“観察記録”という文書について、何かご存じでしょうか? 篠崎という名前に、心当たりは?」
浅川は一瞬だけ目を伏せ、そして、ため息をついた。
「その名前……ずっと、口にしてはいけないと思っていました。でも、もう時効でしょうね。……彼は、かつてこの学校に“監視”のために常駐していた人物です。表向きは教育委員会の職員として」
風間は身を乗り出した。
「監視? いったい何を?」
「“存在しない生徒”の記録です。……私が知っている限り、それは“ひとりの女子生徒”に関するものでした」
風間は、すぐには言葉を返せなかった。
“存在しない生徒”という言葉が、あまりにも唐突だったからだ。
だが、それと同時に——まるで失われたピースが音もなく嵌ったような感覚もあった。
「その女子生徒……名前は?」
浅川は小さく首を振る。
「私の口からは言えません。いえ、正確には、言ってはいけないことになっていたのです。口外すれば、こちらにも処分があると通達されていた。それほど、扱いが厳重だった……」
「その“通達”というのは、誰から?」
「区の教育委員会を通じてです。でも、妙だったんです。文書は残ってないし、正式な記録もない。ただ、校長と教頭が“彼”——篠崎さんから直接話を受けて、私たちに口頭で伝えてきた。内容の大半は、“関わるな”“記録に残すな”というものでした」
風間は手帳に要点を走り書きしながら、尋ねた。
「その生徒は、実際には存在していたんですね?」
「ええ、確かに在籍していました。制服も着ていたし、教室にも座っていた。でも……」
浅川はそこで言葉を止め、ためらうように声を低めた。
「誰ひとり、その子の“入学”や“転校”の記録を見たことがないんです。出席簿にも、職員名簿にも、学籍番号にも——その名前はどこにもありませんでした」
教室に、時計の針の音が響く。
風間は言いようのない背筋の冷たさを感じていた。
角谷瑞季の失踪。観察記録。篠崎。そして——“名簿にない生徒”。
「その生徒の姿を、見たことがありますか?」
浅川は、ゆっくりと頷いた。
「ええ。一度だけ……でも、それきりです。まるで——最初から存在していなかったみたいに」
そのとき、廊下の向こうから誰かの足音が近づいてきた。
職員室のドアがノックされる。
「失礼します、校長先生が風間さんにお話があるそうです」
風間は浅川に軽く頭を下げると、椅子を引いて立ち上がった。
胸の奥に渦巻くざわめきは、もはや疑念ではなかった。
これは“異常”だ。
制度も、記録も、常識すらも受けつけない“空白”が、この学校には存在している。
廊下へ出ると、案内役の事務職員が無言で先を歩く。
放課後のざわめきがまだ校舎のどこかに残っていた。だが、それすらも風間には遠いもののように感じられた。
校長室は、旧校舎の一角にあった。
案内されたドアの前でノックし、中に入るよう促される。
「失礼します、警視庁の風間です」
応接椅子に座っていたのは、白髪交じりの初老の男性。
表情には笑みを浮かべていたが、その奥の目だけが妙に冷めていた。
「ようこそ。校長の黒瀬です」
風間は名刺を差し出し、腰をかけた。
開口一番、黒瀬は柔らかい口調で切り出した。
「正直なところ、警察の方がここまで本気で来られるとは思っていませんでしたよ」
「角谷瑞季さんの件は、現在も未解決の失踪事件です。学校での最後の足取りを調べるのは当然のことです」
黒瀬は、どこか愉快そうに小さく笑った。
「そうでしょうね。しかし、風間さん——“記録”だけでは、この学校では何も掴めませんよ。ここでは、“記憶”の方がよほど正確です」
「……それはどういう意味ですか?」
校長はゆっくりと、机の上に手を置いた。
「あなたは“篠崎”のことをご存じですか?」
風間は一瞬、言葉を失った。
篠崎。
教員でもなく、警察関係者でもなく、それでいてこの学園に深く関与していた人物。
記録係の先駆けでありながら、その存在はどこにも記録されていない。
いま校長の口から、その名が自然に出たことに、風間は静かに身構えた。
「……彼をご存じなんですね?」
黒瀬は、まるで懐かしむように、遠くを見ながら頷いた。
「ああ。よく知っていましたよ。私がこの学園に赴任してきたのと、彼がここに“来た”のは、ほぼ同時期でした。正式な肩書きなど、今でもわかりません。教育委員会の派遣という話でしたが……どうにも、あの人は何者でもないようで、何者でもありました」
風間は手帳を閉じて、まっすぐに尋ねた。
「その“存在しない生徒”について、話していただけませんか?
角谷瑞季さんの失踪と、何か関係があるかもしれない」
校長は苦い笑みを浮かべ、応接のテーブルに並べられたティーカップを手に取った。
ひと口すすると、まるでその味に何か確かめるように、しばらく沈黙が続いた。
「……話しましょう。ただし、これは“個人的な記憶”として受け取っていただきたい。記録には残っていないし、証拠もありません。ですが——彼女は、確かにここに存在していました。私も目にしました。朝のホームルームに、制服を着て、誰とも言葉を交わさずに席に着いていた。その様子が、異様なまでに静かで……どこか“実在感”がなかったのです」
「名前は?」
黒瀬はゆっくりと首を横に振った。
「それが……わからないのです。いや、思い出せないと言った方が正しいのかもしれません。教師たちも彼女を話題にしようとしなかったし、生徒たちも彼女のことになると話をそらした。まるで、“見ること”が許されていないかのようでした」
風間の中で、過去に篠崎から聞いた言葉が不意に蘇る。
——“記録に残せない事象は、記録係にしか拾えない。”
校長の沈黙が重く垂れこめるなか、風間はこの事件の核心が、
“記録されなかった存在”のなかにあることを、ようやく確信しはじめていた。
黒瀬は、深く息を吐いた。
「あなたがた警察は、“記録”を追います。それは当然の職務でしょう。だが、この学園では、“記録されなかったこと”のほうがずっと多く、そして——重要なのです」
「それは……角谷瑞季さんも、ということですか」
黒瀬はうなずくでも否定するでもなく、静かに目を伏せた。
「瑞季さんについて、私が知っていることはほとんどありません。ただ、ある時期から彼女が“見えなくなった”——そんな印象だけが残っている。出欠簿には毎日丸がつけられていたし、先生たちも何も言わなかった。けれど、ある日、私が廊下ですれ違ったとき、彼女の姿はなかった。周囲の生徒たちは彼女の話をしなくなり、担任もまるで彼女が“いたことがなかった”ように話す。篠崎さんがいた頃なら、何か記録を残していたのかもしれませんが……」
名前を聞いた瞬間、風間の中で何かが繋がった。
——“篠崎さんがいた頃なら。”
つまり、校長が“篠崎”の存在を認識していたということだ。
そして、篠崎がこの学園で何をしていたのか——それを、黒瀬は知っている。
「校長、あなたは篠崎さんがこの学校で何をしていたのか、本当は知っていたんですね?」
黒瀬は、静かにティーカップを置いた。
「……彼は“記録係”ではなく、“記録の掃除人”でした。あらゆる記録の隙間に入り込み、消えかけた記憶を拾い、あるいは逆に、記録されてはならないものを闇に沈める。そういう存在だったと、私は思っています」
“記録の掃除人”。
風間は、重くなる思考を振り払うように席を立った。
「ありがとうございます。今日伺ったお話は、必ず事件解決に活かします。
そして——記録に残せない何かを、僕なりの方法で拾ってみます」
黒瀬は立ち上がり、少し寂しげに微笑んだ。
「彼がいなくなってから、ここはずっと静かすぎるんです。どうか、もう一度、音を戻してください」




