第11話 記録係の遺言
篠崎透が最後に遺した“記録”は、湊にとって重すぎる沈黙だった。
警察庁の資料室。誰にも告げず、夜の残業を装って湊はそこにいた。
許可された端末を超え、彼が閲覧していたのは「非開示扱い」の記録フォルダだった。
篠崎透──かつて公安課の記録係だった男。その職責は、“現場で起きたが公開されなかった事件”の蓄積であり、かつ“公式の歴史には書かれない真実”だった。
湊はその最奥に、ファイル名すらつけられていないログファイルを見つける。
./記録係_遺留_ファイル_μ/19.txt
開いた瞬間、思わず息を呑んだ。
【記録係:篠崎透|起案:警視庁公安課】
対象記録番号:第十九号案件/仮称「空白の生徒」
概要:
本件は“記録から消えた存在”に関する初期事例とされる。
被対象者:三崎結月(当時14歳)
初動観測地点:第二桐ヶ丘中学校
異常点:氏名・戸籍・履歴・指紋・視覚記録の全てが「後日、無効化」された。
関連教職員、在校生、保護者らの記憶共有は極端に分断され、
一部証言者においては“記憶そのものが再構成”されている兆候あり。
本件は“観測されていたはずの存在”が、“物理的・行政的・心理的領域”のすべてから
順次消去されていった過程を含む、重大異常事例である。
湊の手のひらに、汗が滲んでいた。
これは、いま自分が追っている事件と完全に一致する。
だが、次の行に続く記述が、さらに決定的だった。
【参考人】元・記録係職員 藤村圭介(失踪扱い)
【参考人】元・公安課技術分析班 鷺沼透(殉職)
【参考人】元・警察庁事務統括 菅原晃一(自殺)
ページの余白に、手書きでこう記されていた。
「私は“空白”に殺される。だが、私は最後まで記録を選ぶ」──S.T.
“空白に殺される”。
それは隠喩でも誇張でもなかった。
この記録の中には、彼が“記録係”として、どのように自分の正気を保てなくなったかの経緯が克明に記されていた。
———
【第七観測週:症例報告】
・三崎結月の存在に触れた者に、記憶の曖昧化/周囲の反発/抑制的感情の高まりが顕著に見られる。
・自宅PCに保存した彼女の写真は、翌日にはファイル破損のエラーが発生。メモリ検査結果は「正常」。
・口頭証言を記録した録音ファイルは再生不可。波形情報はあるが、再生時に“無音”のみが流れる。
・関係者の一部に“彼女の存在を信じ続けようとする行動”が確認されたが、後日すべて翻意。
理由は「そんな子はいなかった」「思い違いだった」など。
———
【第九観測週:個人的報告】
・私は夢に彼女を見るようになった。姿は見えない。声も、表情も。
・ただ「気配」として現れる。ベッドの下に。ファイルの間に。会議中の誰かの背後に。
・“それはまだ見ている”と、私は確信している。
・だが、それを他人に話すことはできない。話そうとすると、なぜか喉が震えて、言葉にならない。
・私は、この記録の最後の読者になるかもしれない。
———
湊は、画面を見つめたまま椅子から立ち上がれなかった。
この事件は、ただの未解決失踪や記録不備ではない。
これは、何者かによって記録を殺されていった人間たちの物語だ。
そしてそれを最後まで“文字にした”人間が、篠崎だった。
鷺沼──いや、篠崎透。
湊がその名前を、再び胸の中でつぶやいたとき、ふいに記録ファイルがフリーズした。
画面のログイン画面がリセットされ、強制ログアウトされる。
湊は身をすくめながら、PCからそっと目を離した。
後ろに、誰かの気配がした──。
背後には誰もいなかった。
だが、湊の神経は研ぎ澄まされていた。
視線の気配だけが、そこにあった。
誰かがこの記録の存在を“見ている”。
あるいは、“見られた”ことそのものが、この記録を起動させたのか。
強制ログアウト後、再ログインは不可能だった。
ファイルは存在しなかったかのように消え、検索にもひっかからない。
直前のアクセスログさえも、システムから自動削除されていた。
湊は、冷や汗をかいたまま背筋を伸ばし、立ち去った。
廊下に出ると、資料室の扉の隅に黒いインクのような染みがあった。
誰かがつけた靴底の跡のようにも見えたが、すぐに人が通ると消えていった。
「……やっぱり、あれは“記録”じゃない。これは、呪いだ」
湊は、鞄の中からノートを取り出した。
篠崎透が遺した手書きのメモの写し──それだけが、唯一残された痕跡だった。
—
翌朝、公安の内部端末に異変が報告された。
ごく一部の記録係にしか閲覧権のないログファイル群が、一夜にして書き換えられていたというのだ。
一部の記録は「空白」に置き換えられ、事件名・証言者・観測日がすべて“空欄”になっていた。
中には、湊自身が一度も見たことのないファイル名も含まれていた。
──「あの生徒は、最初から存在しなかった」
そのファイルのひとつには、そう記されていた。
—
湊は改めて、鞄の中にある篠崎のノートを見直す。
そこに記されていたのは、彼の死の直前、最後に手書きで綴られたと思しき一文だった。
「記録されないものは、存在しない」
「存在しないものは、罪にもならない」
「それが、あの子の選んだ終わりだとしたら──」
ならば私は、
記録係として、彼女の物語を“始めなければならない”。
—
その夜、湊は初めて、ひとつの記録ファイルを新たに作成した。
署名欄には、あえてこう記した。
「記録係代理:風間湊」
その横に、震える手でひとつの事件名を打ち込む。
「名簿にない生徒」
そして、静かに保存ボタンを押した。
—
どこかで、誰かが泣いているような気がした。
それが風の音なのか、記憶の残響なのか。
湊には、もう分からなかった。
ただひとつ分かるのは──
この記録が、いつか彼女の「存在」を証明する唯一の証になるということ。
—
篠崎透の遺した仕事は、
いま、風間湊の指先から、新たに始まった。