第10話 沈黙する担任
岸本澄江──第二桐ヶ丘中学校の元・副担任。
現在は区内の教育委員会に籍を置いているが、対外的な業務には一切出ていない。
湊は、篠崎から得た人事ファイルを手がかりに、彼女の居場所を割り出した。
その日、区役所の教育庁舎。
職員フロアの奥、古びた応接室に案内されると、そこには岸本が待っていた。
「お時間をいただきありがとうございます。風間湊と申します」
「ええ……覚えていますよ。あなた、あの子の件で来たんですよね」
湊の胸が軽く跳ねた。
名を出していないのに、“あの子”と即答した。
それはつまり、岸本がいまだに忘れていない──いや、忘れられなかった証だった。
「三崎結月さんについて、お話を伺いたいんです」
岸本はしばらく目を伏せたまま、言葉を探すように指先を組みかえた。
そして、ポツリと漏らした。
「ほんとうは、言わないつもりだったんです。……私ひとりで、全部しまっておこうって」
「……それでも、お願いします。彼女は、なぜ“記録”から消されたんですか?」
岸本の目に、うっすらと涙が浮かんだ。
「消されたんじゃないんです。……最初から、“なかったことにされた”んです」
—
当時の校内では、三崎結月という名前は“記録上の不備”として処理されていた。
実在した痕跡をもたらす証言やデータは、全て“ミス”として校内処理され、教育委員会にも報告されなかった。
しかし、岸本だけはその不自然さを感じていたという。
「彼女は、確かに教室に“いた”んです。席に座って、ノートを開いて、私の話にうなずいてくれていた。だけど……」
「だけど?」
「ある日を境に、周りの先生も、生徒たちも、誰も彼女のことを話さなくなったんです。まるで──彼女がいなかったことにするルールが、密かに決まったみたいに」
—
「記憶しているのは、私と……一人だけ、もう一人」
「誰ですか」
「当時の美術教師。名前は瀬野環。
彼女は卒業の直前に退職して、いまは……」
岸本は手帳をめくって住所を書き出してくれた。
そこは、都内の住宅街にあるアトリエだった。
「彼女は三崎さんを、最後まで“描いて”いたんです。誰にも理解されなくても、キャンバスの中にだけは“彼女”を残していた」
—
湊は深く一礼した。
岸本の声が背中に届いた。
「風間さん……本当に、“彼女”のことを明らかにしてくれるんですか?」
湊は、即答した。
「必ず。……“記録の奥”に届くまで、止まりません」
美術教師・瀬野環のアトリエは、都内でも古い町並みの残る住宅街にあった。
看板も出ていない、目立たない一軒家。呼び鈴を押すと、しばらくして扉が静かに開いた。
「……どちら様?」
現れたのは、短く切った髪と白いシャツが印象的な女性。
目元に年齢の刻みはあるが、その瞳はまっすぐで濁りがなかった。
「風間湊と申します。三崎結月さんについて、お話を伺いたくて──」
その名を聞いた瞬間、瀬野の手が扉の取っ手からわずかに滑った。
「……あの子の名前を、また誰かが口にするとはね。入って」
中はアトリエというより、個人の静かな避難所のようだった。
壁際には大きなキャンバスがいくつも立てかけられ、匂い立つような油絵の空気が満ちていた。
「私の記憶にしか、もう彼女は残っていないと思っていた。……記録から消されたあとも、私は“彼女の存在”を描き続けたんです」
瀬野はそう言って、一枚のカバーがかけられたキャンバスの前に立った。
布を静かにめくると、そこには──
少女が描かれていた。
黒髪のボブカット、静かな横顔、制服の襟に手を添えているその姿は、どこか幻想めいて、しかし確かに“そこにいた”。
「この絵……三崎結月さん、なんですね」
湊が思わず声をひそめると、瀬野は小さくうなずいた。
「最初はスケッチだった。あの子は、他の生徒とは少し違ってた。教室で話さず、休み時間も本を読んでた。でも、存在感は不思議と強かった」
「学校では、“存在していなかったことになっている”ようですが……」
「そうね。いつからか、生徒も教師も彼女を話題にしなくなった。“触れてはいけない”という無言の圧力が、校内に満ちていった。
私は、それが恐ろしくて。でも、黙ってもいられなかった」
—
瀬野は、アトリエの奥からもう一枚の絵を持ってきた。
それは、卒業式の日の体育館の情景だった。
壇上、拍手する生徒たち。
その中に、誰も見ていない“空席”が描かれていた。
座席にはうっすらと影があり、そこだけに光が当たっている。
「……この席」
「そこが、あの子の“最後にいた場所”よ。
私には見えていた。でも、誰にも伝わらなかった」
湊は、胸の奥に刺さるような感覚を覚えた。
記録も、記憶も、声も届かない。
それでも、誰かが“見ていた”。そして“描いた”。
「絵として残したのは、彼女が“確かにいた”という証明になるから」
瀬野は、少しだけ笑った。
「でも、それを“証拠”として認める人はいない。私も教師を辞めた。……この子と向き合うには、それしかなかった」
—
湊は静かに礼を言い、アトリエをあとにした。
胸の奥に、確かに刻まれた。
この少女は、ただ消されたのではない。
“誰かに見られたまま、記録から外された”のだ。
それは、無関心による消失ではない。
**意図的な“削除”**だ。
記録から、記憶から、世界そのものから。