第1話 名簿の空白
最初の違和感に気づいたのは、職員室だった。古びたスチール棚の隅に、端がわずかに折れたA4のファイル。机に置かれた出席簿のコピー。その一枚に、風間湊の視線が止まる。
「ここ、ひとつ空いてますね。──三年B組、出席番号十九番」
若手刑事の湊は、その空欄を指差して呟いた。
「十九番? ああ……」
応対していた教務主任が、曖昧に目を逸らした。
「欠番ですか?」
「いや、最初から……いなかったことになってるんですよ」
主任の言葉には、どこか釈然としない含みがあった。
それ以上、彼は語らなかった。まるで、そこに何もなかったことを前提に話すような──そんな態度で。
けれど、湊は見逃さなかった。教務主任の机の端に置かれていた旧年度の名簿には、かすれた文字で「十九番」の名前が記されていたのだ。
──そこには、誰の名前があった?
風間湊の脳裏に、いまは亡き記録係・鷺沼透の言葉が蘇る。
「記録っていうのはな、嘘をつかない。でも……消されることはある」
名簿の空白。それは、ただの欠番ではない。存在していたはずの“何か”が、意図的に“なかったこと”にされている──。学園の静かな日常に、ひびが入った瞬間だった。
「ここ最近、学園内で不審な出来事が続いていまして──」
副校長の芝田は、言葉を選びながら口を開いた。
「器物破損、匿名の投書、意味不明な落書き……決定的な被害はないんですが、妙に生徒たちの間にざわつきがありましてね」
芝田は机の上に数枚の紙を並べた。落書きのコピー、封筒の写真、生徒指導記録の抜粋。
風間湊は一通の投書に目をとめた。中学生の字のような、拙い筆跡だった。
“消された十九番を返せ”
“また誰かがいなくなる”
「これ、何かのイタズラじゃ……?」
湊が問いかけると、芝田はすぐに首を振った。
「最初はそう思いました。ですが……生徒の間で“十九番の呪い”と呼ばれる噂が立っているようなんです」
「呪い?」
「はい。“十九番”になった者は必ず姿を消す、という内容です。実際、ここ数年のうちに、三件の転校や長期欠席が十九番の出席番号に集中している」
「偶然では?」
「そう思いたいのですが……今年の名簿では、その十九番が“欠番”扱いにされていた。まるで、最初からいなかったかのように」
芝田は苦笑いを浮かべた。
「しかし我々職員の記録には、別の“事実”が残っている」
芝田は、机の引き出しから1冊の冊子を取り出した。入学式当日の資料。出席簿には、確かに十九番の名があった。名前は──
「朝比奈 遼」
それは湊にとって、まったく聞き覚えのない名前だった。
「失踪届は?」
「出ていません。保護者とも連絡が取れない状態が続いています。そもそもこの生徒が……本当に在籍していたのかどうかも、怪しいと言われはじめていて」
芝田の言葉に、湊は口を閉じた。
記録がある。だが、記憶がない。
存在が記され、同時に消されている──
これがただの偶然であるなら、そんな奇妙な“痕跡”は、残らない。
ふと、湊はポケットの中で指先を動かした。
そこに入っているのは、もう使われていない古い警察手帳──かつて警視庁の記録係として知られ、数多の異端事件を追っていた篠崎透の遺品だった。
「記録っていうのはな、嘘をつかない。でも……消されることはある」
篠崎が生前、口癖のように繰り返していた言葉が、今になって現実味を帯びる。
湊は手帳をそっと握り締め、職員室の窓越しに校舎を見つめた。
──この学園の中に、「名簿にない生徒」がいる。
それはただの都市伝説ではない。
記録の空白が、事件のはじまりを告げていた。