パリの守護聖女ジュヌヴィエーヴ
パリの守護聖人にはサン・ドニとサント・ジュヌヴィエーヴが挙げられよう。本稿では特に聖女ジュヌヴィエ―ヴに焦点を当てて紹介したいと思う。
「トゥール・ダルジャン」という古いレストランがパリ5区のトゥルネル河岸通りにあり、鴨料理が有名で、私も半世紀前この鴨を美味しく味わった。このトゥ―ル・ダルジャンの目の前にはトゥルネル橋がある。そこには大きな白い彫像がある。聖女ジュヌヴィエ―ヴ像である。
トゥルネル橋の聖女ジュヌヴィエ―ヴ像
また、カルチエラタン最大の名所とも言えるパンテオンの裏を歩くと、まるで中世の世界に迷い込んだように見えて来る。ここに聖女ジュヌヴィエーヴに捧げられたサント・エティエンヌ・デュモン教会がある。教会内には聖女ジュヌヴィエーヴの聖遺物箱が安置され、その箱には彼女の唯一の遺品である指が納められていると言われている。
サント・エティエンヌ・デュモン教会
聖女ジュヌヴィエーヴは実在の人物である。後代の伝説によれば幼くして羊飼いとなる。彼女は、420年頃にパリ郊外のナンテールで生まれ、502年から512年の間にパリで没した。裕福なガロ・ローマ貴族の家系に一人娘として生まれ、洗礼を受けた彼女は、幼い頃から神に身を捧げ、伝説によれば、430年頃、ナンテールを通過していた聖ジェルマン・ド・オーセールと聖ルー・ド・トロワに注目された。おそらく16歳の頃から禁欲的な生活を送っていて、18歳か20歳の時、両親が亡くなると、ナンテールを離れパリの中心部、シテ島で暮らすようになった。彼女は、父親の町議会議員の職を受け継いだと言われている。この職は、最初はナンテールで、パリに定住した後は、パリで市貴族の10人の主要メンバーの一人として務めた。
5世紀前半に、フン族*の王アッティラは中部ヨーロッパを手中にし、その容赦のない暴虐ぶりから、ローマ帝政末期に広がっていたキリスト教の信者からは「神の災い」「神の鞭」と呼ばれ恐れられた。そのアッティラが、451年ライン川を超えてガリア**に侵入。たちまちトレーヴ***、メス、ランスを攻略した。ランスでは、司教ニカシウスが教会の祭壇で虐殺された。
アッティラの軍勢がパリに迫ったとの知らせが届くと市民たちは恐怖におののく。パリ市民の主だった連中は、安全な場所へ逃亡するため、家財道具をまとめ始める。それをジュヌヴィエーヴは押し留めようとする、キリストのお守りがあるなら、パリは必ず救われるのだから、と。人々の反対の声が大きくなり、彼女をにせ預言者とののしり、石で打とうとする者、井戸の底へ投げ込めと叫ぶ者まで出てきた。この時、知らせを受けてオセールの町から司教代理がかけつける。亡き聖なる司教ジェルマン(「オセールの聖ジェルマン」)が、ジュヌヴィエーヴを神に選ばれた女と認めていたことを告げる。興奮していたパリの人々も少しずつ落ち着きを取り戻し、すべてをジュヌヴィエーヴの祈りに託することとなる。
アッティラはそのまま西進せず、南に折れて、オルレアンをうかがい、再び北方へ退いて行った。このように、彼女の祈りによってフン族の軍勢をパリから遠くへと迂回させ、パリは救われたとされている。
*フン族(フンはHun) アジア系の騎馬遊牧民。中央アジアのステップ地帯で活躍。四世紀後半に西進して、民族大移動の端を開いた。五世紀半ばのアッティラ王のとき黄金時代を迎え、ヨーロッパ各地を含む帝国をつくったが彼の死後瓦解。匈奴と同一かどうかは不明。 (出典 精選版 日本国語大辞典)
**ガリア 古典ラテン語:Galliaとは、ガリア人(ケルト人の一派)が居住した地域の古代ローマ人による呼称。具体的には、現在のフランス・ベルギー・スイスおよびオランダとドイツの一部などにわたる。近代にはフランスの雅称として使われるようになる。 (ウィキペディアから一部引用)
***トレ―ヴ(ドイツ語でトリアー)はドイツ連邦共和国ラインラント=プファルツ州の都市。ドイツ西部のモーゼル川沿いに位置する。(仏語版ウィキペディアの一部を和訳)