9 マジで恋する5秒前
「逃亡? 何、おまえ薬が完成したことで開放されたわけじゃないのか?」
「フフフ、見くびってもらっては困りますね。自白薬の開発に必要な情報すべてを相手に渡してしまえば、当然彼らはこの恐ろしいほど強力な自白薬を作り放題、悪用し放題になってしまうでしょう? それではいったいどんな悲劇が起こるかわかったもんじゃない。世の中に良い嘘だってあるように、隠しておいてこその幸せがたくさんあります。隠し財産のありか、一夜だけの浮気、そんなものならばれたところで同情しがたいですが、例えば余命をあっさり言ってしまう医者、人々から聞いた懺悔の内容を街中に話してしまう司祭……ううん、これでもまだ被害は少ないですね。私が善人であるゆえに悪どい使用例が思い浮かばないのですが……そう、例えば――神話に出てくる“滅亡の箱”の開け方を知っている人がいたとして、それが自白薬によって不用意に開けられたら困るでしょう? そこにはどんな悲劇が待っていることか。それにどんなに些細な事柄でも、胸に秘めてそっと大事にしたかった思いを口に上らせれば、それだけで崩れてしまうものがあるはずです。それを言うか言わないかの選択をさせない、というのはまったく当人にとって地獄以外の何物でもありません。私だって言いたくない恥ずかしきことが、おっと、がっ、ぐぐ……ぐえっ……あ、ダメだ、考えるな……そう、そうだ……今ここでバラして何のメリットもないだろ……他のことを考え……あー、あー、この森の木は大半がカーツというこの地域独特の曲がりくねった柔らかい広葉樹です。極度に粘り気のある樹液から一部の鳥にも倦厭されるほどで、燃えると大量の黒煙を出すために建築資材や薪にも適さないためにきこりも伐採せず、ただただ無用の木として知られています。育成に適した気候であれば驚くほどの繁殖力を見せるため、よく手入れされていない土地にはそこそこの大きさの森を形成しますが、この木の存在が発見されたのは意外に最近でああーあーららら~ら~ら~……ぐむっ、ダメ、考えないようにすると余計……らら……ぎぎ……ね、“眠りよ来たれ”」
古代語の短い詠唱に続いてバタンッという大きな音とともに、ヴァリスの体が突然真横に倒れた。原因は明らかに自分で自分にかけた魔法によるもので、ヴァリスが目にも留まらぬ早業で描いた魔方陣がうっすらとした残光を空中に残している。
青年魔道士の体は縄の拘束からは解放されていたが、魔法で訪れた急激な眠気に受け身をとることもできずに頭から地面に倒れていた。しかし、勝手に一人で葛藤しだしたと思ったら歌いだし、さらに自分に睡眠魔法をかけるような奇異な人間にさしのべる手を持っていないと言わんばかりに、少女は微動だにせず、目の前の青年の苦しそうな寝顔を少しだけ困った様子で見下ろし続けた。
すでに十分に焦げた肉の香りとたき火のたてるぱちぱちという音だけが辺りを包む。が、いくらもせぬうちにぶつぶつとまた青年魔道士の唇は動き始めた。
「むにゃ……絶対にダメだ、私が……救世主乙女・レアラードの絵に毎日……しているのだけは……そんな……こと……考えない……これは秘密に……でなければ完全に……せっかく知り合った……女の子……嫌われたくな……」
一呼吸おいて少女の手がたき火の中から焼けた小枝を取り出し、横倒しの青年のうなじにぽいと投げられた。その顔はあくまで美しく冴えわたり続けていたが、たき火のせいだけではない朱を纏っていた。
「……ん? んん、ぎゃっ! あつっ! あつつっ! なななな、なんですか! え? ええ、火?」
「寝言まで実況するな、変態」
「え……あ……もしかして……もしかして私、しゃべってました? 気絶しながらも口からつい出ちゃってました? なんということだ! せっかく自分でできる唯一の自白への防衛策だったのに! あー……その……ゴホン、ええ、まあ男の子ってのはそんなもんですよ、ハハハ。ええ、もうそちらを向くことはできませんよ私は。恥ずかしいですからね。もうずっとこっちの明後日の方向を向いて話しますけどね、とにかくそんなことでして、また考えると口にしていまいますので、ここは平静を装って、装った方の自分へ意識を集中して話し続けてますけどね。ええ、人は考え事を二つ以上できるものなんです。集中さえすれば少しの間なら口に出す部分と思考する部分を平行しながらやりすごせるものなんですよ、最終的に意識を口に出す部分だけに切り替えて、もう一方の思考を忘れたらいいのです。そうすれば言いたくないことも実は言わなくて済むという抜け道がこの薬にはあるのですよ。ええと、それでなんでしたっけ、伝説の美少女魔法剣士レアラード、いや違う違う! そうじゃなくて! そうそう、自白薬! 自白薬の使用でしたね。やっと満足のいくものが出来上がったとき、私は自らを治験者にしました。実を言えば、治験というのは私にとっては慣れたものなんです。師匠の製薬研究の際の治験は常に私の役目でしたから、抵抗感はそんなになかったわけで。治験のために孤児の私は買われたので、まあ言わば治験のプロと言ってもいいかもしれません。表向きは養子縁組ですし、ちゃんと育てていただいて魔道士になる教育を施してもらえましたから、師匠を恨んだりしていませんけど。まあ副作用で一時期肘から草が生えたりお尻に顔ができたり髪が上に向かって伸びる様になったり、いろいろ辛いこともありましたねえ」
自分の思い出を語る青年があまりにも楽しそうだったためか、少女はごく自然に「その左目も副作用か?」と尋ねた。しかし、自分の劣等感に直接触れられた途端にヴァリスは身を硬くする。
「あ……はい、これも、そうですね、薬の副作用なんですが……。他の随分と出鱈目な副作用でも師匠は治すことができたのに、これだけは元に戻せなくて……気味が悪いですよね? すみません、隠しますんで、すみません」
瞳を逃げ込ませるようにしてフードを目深に被り直す青年に、少女は首を傾げた。
「誰かに言われたのか? 気味が悪いって」
「吸血鬼伝説はご存知でしょう、瞳が紫だという。もちろん実際に吸血鬼が確認されたことはありませんが、私の左目は当然それを彷彿とさせますし……それと師匠が、それは人に見せるものじゃないって。人間は自分たちの大多数と違うものを嫌悪するから、と。言葉通り、どの町でもみんなが振り返ったり覗き込んで来ますし」
「綺麗だからだろ」
「え?…………え?」
「綺麗だから見るんだ。当たり前だろう」
「あ……えっと……」
「価値がないものをわざわざ覗き込むほど、人の寿命は長くない」
一瞬の息継ぎのあと、ヴァリスは怒涛の勢いで言葉を紡いだ。弾丸のような速さで延々と続いたそれは、要約すると「ありがとう」という五文字で済む内容であった。




