7 回想4:区切り
「なんだ、やっぱり失敗したか。まあ二対一だからな、もう少し俺が引きつけておいても同じだったかな」
慌てることなくゆっくりと階段を降りてきたグランは、逃亡に荷担したと疑われかねないようなことを平気で口にした。魔道士を嫌っているようだが、私のことは哀れな子羊と情を持って考えてくれているのだろう。
私の脳裏にある思いつきが芽生えたのは、その時だった。
「あ! あの、グランさん、私は自白薬の開発命令を拝命します!」
「な、なんだ急に」
グランは自分の動揺を隠すように、硬い顎髭をじょりりと手で撫でた。
「ただし、拝命するのに条件が! どうかグランさんの昔のお友達に掛け合ってほしいんです。三年……そう、この命令に三年の期限をつけていただきたいと。開発できてもできなくても、三年が経ったら解放する、という条件でしたら、私も何とか耐えます」
突然のお願いにたじろいだのはニディアだった。
「何を勝手なことを」
しかし、私は間髪入れず、
「たしか魔道士協会の規定にもあったはずです。宮廷魔道士以外が国や宗教団体などに公正を欠いて与することの無いよう、一定の団体や個人から魔道士への協力要請には期限を区切ること、と」
「それが“望ましい”ってだけだわ」
「でもニディアさん、私はあなたを見て知ってしまったんです」
ここで私は少しだけ恥じらいを捨てることにした。真剣な顔つきでニディアの前に跪くと、恭しくその手を取って押し頂く。
「こんなに美しくて素敵な存在が世の中にはいるんだってことを! 私は幼少時代にこの塔に来てから、女性と接することなく育ってきました。それに、こんな変わった目の色をしているから、人に気味悪がられるのじゃないかって怖くて……そんな私にとって、あなたは女神だ! 太陽だ! 神秘の泉だ! 黄金郷だ! 宝石箱や! 美の集大成だ! 童貞にとっての河原のエロ本だ! 山々に響け私の恋の鼓動!」
「まあ……なんて素直な子なの」
とろりと、存外に簡単にニディアの瞳が蕩ける。
“魔道士は怪しげであるべし”という教えの下で育ち、瞳の色に劣等感を持った私に「怪しさ」以外の種目での容姿の自信などはあるはずもなかったが、それでも自分の進退のかかった芝居とあって、自然と「情熱」だけは眼差しに宿すことができた。
私のようなガリガリに痩せ細って顔色の悪い見てくれであっても、年下の若い男からの真摯な褒め言葉と剥き出しの欲望に傾くほど実は男日照りだったのか、ニディアは潤んだ唇を怪しく半開きにしながら、困ったように空いた方の手の人差し指を白い歯で挟んだ。
「んんーでも、自白薬は何年かかったとしてもどうしても欲しいのよ、強力なやつをね」
「だからって私の胸を女性への――あなたへの憧れに永遠に焦がれさせて研究の虜囚にするなんてあんまりです。あなたがいかに美しくても!」
「うんうん、そうよねー」
「確かに神官じゃあるまい、女を知らずに一生を終えるのは可哀相だな」
グランがささやきになっていない声で納得すると、二人の若い軍人も「そりゃあ惨い」「酷いよな」と、みるみる同情票が集まる。私は畳み掛けるように握った手に力をこめた。
「ニディアさん、永遠ではなく三年という区切りをつけることは、魔道士協会の規定にも適ううえに、何とかその期間内で成果をあげようという研究への意欲を増すはずです! どうかあなたの素晴らしい豊満な胸をどんと叩いていただけませんか?」
「よし!」
グランはニディアの代わりに自分の厚い胸をどんと叩くと、私とニディアの手をさらに上から押し包んだ。その双眸には“熱い男気”が宿っている。
「その件は請合おう。若い身空の兄ちゃんを軟禁状態にするなんて、虫唾が走る思いだったんだが、時間の区切りができるとなれば多少は気持ちが晴れるってもんだ。俺は軍にかけあうから、姉ちゃんは魔道士協会の支部長として承諾してくれ。魔道士教会の承認があれば、軍の方も認めやすいだろう」
「仕方ないわね……私が女の素晴らしさを教えちゃったんだものね。美しいっていうのも罪だわ」
癖のある豊かな栗毛を大きな動作でかき上げると、ニディアは婉然と微笑んで一同を見渡した。ローブ越しにでもわかるS字の体つきに、若い軍人二人が思わず頬を染める。
ニディアは満足気にそれを確認すると「足りない物があったら、届けさせるわ」と言い置いて、素早い動きで馬の繋がれた場所まで歩み始めた。
グランも私の肩を励ますように力強く何度も叩くと、大股でニディアのあとに続く。
若い二人の軍人は唐突にまとめられた話に戸惑いながらも、自分たちだけで毒沼の吐き出す瘴気を潜り抜ける自信はないようで慌てて上司に続いてその場を後にした。
後に残された二人の若い魔道士は、しばらく馬上の人となった四人の後姿を見送っていたが、やがて木々の間に見えなくなると互いを見合わざるをえなくなった。
「……やるじゃん、ヴァリスさん。ずっと引きこもっていた魔道士のわりには」
「感情こもってないね、ロイ君」
風がロイの灰色の髪を揺らす。山間の涼しい風だ。
「思惑通りにことが運んだなんて自惚れないでね。三年の区切りをつけても、こっちは別に困りはしないんだ。必ず期間内に研究を完成してもらう」
「なんですかそれ、だったら一年にしておけばよかった」
「一年だったら話はこう上手く進まないよ。まあそういう打算が当然あって三年って言い出したんだろうけど」
こいつ、見抜いてる……。それなりに研究の成果があげられそうな説得力のある期間を言い出さないと話が転がらないだろうという思惑は確かに念頭にあった。
それにしても――私はまだ幼さが抜けきらないロイの横顔を複雑な思いで見つめた。
「ロイ、君からさらに期間短縮の願いを出さなくていいのですか? 私よりさらに若い君こそずっと男二人で寝起きする青春なんて嫌でしょう?」
「その手には乗らないよ。僕にとって三年なんてそんなに気にならないし」
「青春の足の速さをなんだと思っているんだ。正直に言えば私は師匠と二人の山中生活で女の子と知り合うこともできなかったこの半生を悔やんでいるんです。それを踏まえて君に助言しているというのに」
「僕の青春はもう過ぎ去ってるよ」
ぼそっと聞こえないくらいの音量で言うロイの瞳はここではない世界を見るように煙っていた。私は一瞬陳腐な台詞をからかおうとして、しかしあまりに虚飾を感じない少年の様子に言葉を飲み込んだ。
改めて考えると得体の知れない少年である。見た目からすると、私より一回りとはいかないまでもずいぶん年下だろう。奔放に見せてどことなく気品も漂っているから、貴族の出かもしれない。貴族の嫡子以外が魔道士に預けられて、下級魔道士程度の素養だけを身につけて宮廷魔道士として地位を保つことがあると聞いたことがある。が、先ほど少しだけ見せた彼の魔法は明らかに下級魔道士のそれではなかった。滑らかで手馴れており、この魔道士不作と言われる時代において特異な存在である。
(まさか、こいつもニディアさんと同じような能力が……?)
不可解な力で空間を移動したニディアの言う「上級魔道士以上の存在」という言葉が、私の心に言いようのないささくれを残していた。
(仲良くなるつもりはないが、おいおいそのあたりのことを聞けるのだろうか……)
ロイは金糸の縫い取りのある上等なローブの裾を風にはためかせながら、何を思っているのか塔を見上げている。私は目の前の少年のことを考えるのをやめて、同じように塔を見上げた。
人生のほとんどを育ての親である師匠と過ごしたこの塔で、今からは、この少年と暮らさなければならない。しかし、心苦しい研究の荷担は無制限ではなく、三年に区切られた。まだ正式な通達があったわけではないが、グランならきっと上層部を説得してくれるだろう。愚直な、だからこそ信頼に値する老軍人であった。
(自白薬の開発を成功させるわけにはいかない。研究を引き伸ばしつつ、成果も残さずに三年をやりすごさなければ……)
私は上り慣れた塔の階段に向かい、いつもの癖でフードを深く被り直した。