表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/39

4 回想1:二ディアとロイ

 五人の中で年齢も階級も最も上らしい軍人は、何年ぶりかの見知らぬ訪問者に驚いて動けずにいる私の目の前までずかずかと歩み寄ると、一枚の紙を広げた。


「上級魔道士、ヴァリス・ターヴァレイドだな。軍からの命令書だ」


 男は愛想のない顔で私を見ると、白い顎髭と胸をそびやかして紙の端に刻印された国軍の印を指で示す。

 内容を読み上げないのは、もとより私の側にその命令に従わないという選択肢はないということなのだろう。ただ、私はあまりに久しぶりに人と会話をすることに動揺し、彼の傲岸な態度に苛立つという感情すら忘れていた。


「あ、あの……あなたは……」


 久しぶりに魔法に必要な古代語以外を口にする緊張で、私の声は震えてかすれた。人と目を合わせるのが気恥ずかしく、目深に被ったフードをさらに前に引っ張り下げて俯く。残念ながら私の背丈はその場にいる誰よりも高かったので、この行為はあまり意味がなかったが。


「申し遅れた。ヨクシャ国軍第五師団中隊長、グランだ」


 遠慮のないグランは、わざわざフードの下から覗き込んで視線を合わせてくる。老年の割に厚みのある体躯の彼に覗き込まれて、私はただ蛇に睨まれた蛙のように固まった。しかも彼の顔は穏やかな翁然とはしておらず、どう好意的に見ようとも疑いのこもった目をしているのである。もともと魔道士が嫌いな性質なのかもしれない。古い軍人にはそういう人間が多いと師匠が言っていた。


 共に住んでいた師匠が亡くなってからは、研究に必要な文献の調達くらいでしか塔を出ず、生活必要物資の買出しすら月毎にやってくる馴染みの行商人を頼っていた私にとっては髭の老軍人と視線を絡ませるなんて恐怖でしかない。

 せめて森に迷い込んだ小鹿のような可憐な少女であれば人づきあいのリハビリにもなっただろうに、まさか歴戦を重ねているであろうごつい軍人と対応しなければならない日が来るとは誤算であった。


 助けを求めるように他の人間に視線を走らせるが、手前にいる残りの軍人二人は明らかにグランよりも立場の弱い若者で、上司のする無礼講を咎めるほどのマナー美人ではなかった。彼らは直立不動を保ちながらも、私のような生粋の研究畑の魔道士の住まいが珍しいらしく、視線だけは興味津々で左右を行き来している。


 塔の最上階にあるこの実験部屋は師匠の“魔道士は怪しげであるべし”という教えのままに、得体の知れない動物の頭蓋骨やら自然界には無い色味の液体を入れた容器やら粘度の高いスープをぐつぐつと煮たてた鍋やらを並べてあるので、素人には見ごたえがある。

 ぱっと見では毒物や呪いの品を製造している禍々しい雰囲気を漂わせつつも、実は主に古代神話と大陸史の研究をしている、というギャップの自己演出をここぞと語りたい気持ちが頭をもたげるが、初見の軍人に私の個人的なこだわりの聞き役を願うのは間違っているだろう。人間関係への知識が希薄な私でもそれくらいはわかる。第一そんなに流暢に話せる自信が私にはない。


「あの……ぐ、軍章の下に……魔道士協会の紋章があるのは、いったい……」


 命令書の内容に目を通すよりも先に、会話慣れしていない私は焦って目に付いた疑問を口にしてしまう。グランが「ああ?」と気の抜けた声を出して命令書を自分へ向けて反転させるが、彼が紋章を確認するより前に別の声が答えをくれた。


「その紋章はこの国の魔道士協会があなたをその任に推薦した印よ」


 軍人の後ろに控えた細身のローブ姿がフードを後ろにずらし、前に進み出た。

 優しい声に視線を上げると、その人物は女性であった。私より一回りは年上で、優しげな瞳をしている。


「魔道士協会ヨクシャ国支部長をしているニディアよ。長年研究ばかりしていたから、人と話すのは慣れなくて辛いでしょう。ゆっくりと話すから、徐々に飲み込んでくれたらいいわ」


 ニディアはにっこりと微笑むと、もう一歩踏み込み私の手をとった。安心させるように両手で私の手を包み込むと、赤子を寝かしつける母親のようにぽんぽんと手の甲を叩く。

 彼女のまとった詰め襟型のローブの暗緑色の落ち着いた色味と相まって、一見修道女的な清楚さを感じさせる。主張の激しい胸の膨らみの前には、その形を浮き上がらせるように魔道士協会の鑑札と魔法の護符が下げられており、驚くほどに細い腰に緩やかにまかれたチェーンの先にも魔道士協会を示す五芒星の飾りが付けられている。

 それは何年も人と近い交わりをしてこなかった私にとって、同じ魔道士なんだと実感し安心するには十分の効果があった。


 しかし、こんなに若くてどうしたって胸元ばかりに目が行ってしまうような魅力溢れる女性がこの国の魔道士協会支部長をしているとは……知っていたら、私だってもう少し積極的に支部に顔出しに行ったのに。

 数年前に必要な手続きで行ったときには、よぼよぼの爺さんが支部長だったから油断していた。これからは、多少の研究の行き詰まり、体の悩み、将来への不安、失せ物・探し物など、どんな些細なことでも支部への報告を密にしていこうと決めた。


 そうして警戒心が解けると、私はニディアのほっそりとした女性らしい手の感触に改めて気づいて慌てた。冷静を装おうとするほどに、絞った袖口から覗く白い手の甲に青く刻印された刺青のなまめかしさや、彼女から香るいい匂い、暗緑色のローブから飛び出すように主張した豊満な胸先の突起、唇の赤色のぬめるような光沢に気づき、自然と頬が紅潮する。


「まあ、あなたって本当に研究の虫なのね。外に全然出てないんでしょ? 腕がこんなに白くて細いわ」


 ニディアは柔らかくて冷たい手を、私の袖をたくし上げながら手首からさらに腕へと滑らせた。ひやっとした気持ちの良い感触が柔らかな内側の肉に触れ、私の脳に得も言われぬ快感を走らせる。

 困った……非常にありがたいことだが、女性慣れしていない私にこれは刺激が強すぎる……ああ、どうか早鐘のごとく鳴る心臓の音が彼女に伝わりませんように! 意識していると知られたらカッコ悪い。女性を前に、そう思われるのだけは避けたいところだ。


 彼女の容貌は、かつて私が接点を持った数少ない女性の中でも群を抜いて華やかであった。化粧の力がずいぶん助力しているというのは女性に免疫のない私にもなんとなくわかったが、それでも睫の長い切れ長の瞳や緩やかに癖のある豊かな栗毛は、久しぶりに女性と対面した私でなくても虜になる魅力を備え、かつ惜しみなく私の心をたぶらかした。


 彼女は年上らしい包容力でとにかく私を気遣う言葉をいろいろかけ、徐々に私の心を解きほぐそうとしてくれていた。

 だが、私としては急に女性と接触し、顔を覗き込まれ、果ては私の食事のことまで気遣う言葉をかけられては、彼女が私に一目惚れをしたのであろうという思い込みを抱き、これから二人で暮らす甘い生活に思いを馳せないわけにはいかなかった。


 姉さん女房だなんてかつて私の未来予想図には出てこなかったけれど、いろいろリードしてもらえるし世間知らずの私にはちょうどいいかもしれない。

 私の心がそう羽ばたきかける中、


「ニディア、手を解いてあげなよ。余計緊張してるって」


 くくっ、と笑い声が聞こえたかと思うと、もう一人のローブ姿が軍人たちの後ろから顔を覗かせた。

 軍人の胸のあたりまでしか背丈のない、せいぜいが十二、三歳に見える少年であった。

 金糸の縁取りのあるフードを浅く被った中に覗いているのは、灰色の髪と瞳で、人を食ったような笑いが口元に張り付いている生意気そうな子供の顔である。


「紹介が遅れたわね。彼はロイ、今日からあなたの助手として働く魔道士よ」


 自然に離したニディアの手を名残惜しく目で追った後でやっと彼女の言葉を理解して私はぎょっとした。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ