28 二ディアとヴァリス2
陽炎が、ヴァリスがよろよろと走る先の足元を狙うように出現した。
空間の歪みは常に一抱えの大きな楕円体として現れる。楕円体と接した跳ね橋の端が音もなく削ぎ落とされた。
先読みしていたヴァリスは手負いの研究職としての精一杯の跳躍で跳ね橋から飛び下りながら、素早く作り出した大きな梟の使い魔の足につかまって堀に溜まった淀んだ水に着水する前に空高く舞い上がった。
ぐんぐんと高度を上げてから振り向いてニディアを確認すると、地上で親指ほどの大きさとなった彼女は腰に手を当ててゆったりとヴァリスを見上げていた。
空中から見下ろすと、古城の全体像がよく見える。崖と山の急斜面にかこまれた山城は、すでに半分が崩れてうらびれている。まさかこんな山中の廃城で『伝説のよりしろ』と『人工のよりしろ』が揃い踏みしているとは、誰も想像しないであろう。そして、ヴァリスのような平凡でちっぽけな存在がその戦いにしっかり参戦していることも。
ヴァリスはすばやくレアラードのいるであろう方角を確認したが、主塔や崩れ残った塁壁に視界を阻まれてよく見えない。今、助けを求めるとしたらレアラード以外には考えられないが、ロイにとどめを刺しにいったまま戻らないところからすると彼女に何かあったのかもしれない。そちらも気がかりであった。
しかし、気になるからといってニディアに追われた状況のままそちらに向かうのが得策とは思えなかった。目の前の難敵は自分で何とかしてから動くのが筋だ。
「その“何とかする”っていうのが骨なんですけどね」
再びニディアに意識を戻すと、彼女は城門の近くから移動した様子もなく、暗緑色のローブと栗色の波打つ髪を風になびかせていた。ヴァリスは思わず「この景色だけ見ると、まるで空に想いを馳せる健気な女性のようで彼女の胸に飛び込みたくなりますね」と独り言を漏らした。
しかし、当の女性は容赦なく彼を殺そうとしているのだ。そこには三年前の感慨などない。穏やかに、懐かしげに会話しつつも、彼女からは明確な殺意を感じた。殺されなければ殺されるのだ。
「人はそう簡単には変わらないですよね」
上空からニディアを見下ろして、ヴァリスはそれでも攻撃に転じられない自分の不甲斐なさを吐露した。逃げ回っているだけでは、問題は解決しない。レアラードが殺戮に平然とし、人の死に冷淡に思えたのは逃げていなかったからなのかもしれない、と生き死にの世界に巻き込まれた今になってやっとその可能性に思い至った。
「あれは……」
と、ニディアのすぐ背後の地面にきらりと光るなにかを見つけて、ヴァリスは目を凝らす。
だが、それを確認するよりも早く、慌てたふうもないニディアが滑空するヴァリスを見ながら右手を空中にかざし――
ギチギチギチギチ……
異音が響いた。
「こんなところで……」
ヴァリスは唸った。空中では瞬時の動きがきかず、思うように逃げられない。しかし、だからこそ今回はどこに陽炎が出るか先読みができた。今まで二回の経験から陽炎の現れるタイミングを読んで、その直前でヴァリスは自ら使い魔の足を手離し、空中に体を躍らせる。
落下の感覚が身を包んだ直後に、さきほどまで青年の手があった場所に陽炎が出現していた。使い魔の足も球状にごっそり形が抉られ、次の瞬間には淡い光となって霧散する。
空中を落下しつつも、休む暇は与えられない。次の一手に対抗するため、手早く使い魔を仕上げていると、再度聞こえるギチギチという空気の悲鳴のような異音が聞こえた。
「連続ですか!」
ヴァリスは新たに作り出した梟の使い魔に両手でつかまって、今度は落下点に現れた陽炎をやり過ごす。そして、そのまま使い魔にぶら下がって、低空飛行で城壁を大きく回りこみ、ニディアの視界から消えた。
所詮目で自分の位置を追っているのだから、物影に隠れれば攻撃はできまい――という考えがいかに甘かったかを、ヴァリスはすぐに思い知ることになる。
ギチギチギチギチ……
城壁に沿うように角を曲がり、ニディアの場所からはまったく見えない位置に降り立ったところで聞こえてきた異音に、ヴァリスの総毛が立った。急いで城壁を背にして使い魔を頭上に展開させる。
どこに現れるかわからない陽炎の恐怖に全身から汗を噴出させていると、今度の陽炎は思ってもないところ――彼の背にした城壁に現れた。
「っ!」
またも間一髪で身を離すと、陽炎はトーガ風に体に巻きつけたマントの一部と城壁を巻き込んで舌打ちした。
「え? 舌打ち?」
驚いて分厚い石材をきれいに丸く削り取った陽炎を良く見ると、中に人影が見えた。人影は陽炎からするりと這い出す。ニディアであった。
「よく逃げるわね。正直言うとこの攻撃を回避できるとは思っていなかったから、ちょっと感心しちゃったわよ、ヴァリス君」
「……ようやくわかりました……その得体の知れないもやもやした空間は、あなたの“人工のよりしろ”としての力なんですね」
「お利口さんね」
「あれは……何なのですか?」
「何だと思う?」
会話を楽しんでニディアは微笑む。一方会話を楽しむ余裕のないヴァリスは、ただただ体を休める時間稼ぎで妥当な解答を探した。
「まさか――異世界自体?」
「ウフフ、実は私もよくわからないの」
「へ?」
「急に備わった力だから、よくわかってないのよ」
質問しておいて解答が無いなんてひどい詐欺だと、ヴァリスはニディアに聞こえないように口中で呟く。
「私の感覚では、糊、なんだけど」
「糊?」
「そう、この世界のある地点とある地点、二つの空間をくっつける糊」
「うーむ、実に興味深い。できたその通路を通ってみたいようなみたくないような……」
「あら、覚えてないのね。あなた、今朝私の腕に抱かれてこの『歪み』を通ったのに」
「え?」
「ロイと黒焦げのあなたをバルーゼからここまで移動させたのは私。そうじゃなきゃ、あなた回復魔法をすぐにかけられずに死んでいたわよ」
「命の恩人……とは思いませんよ。そもそも黒焦げにしたのがあなたたちなんですから」
「ウフフ、ロイはついやりすぎちゃうのよね。自分に再生能力があるから、加減がわからないんでしょ」
ローブを腰でゆるりとすぼめる細い鎖ベルトをいじりながら、ニディアはいたずらっぽく微笑んだ。
「私と肌を接していれば一緒に『歪み』を通れるわ。だから、あなたが行きたいところへすぐに行けるのよ」
「それはそれは、旅行に行ってみたいものですね」
「でも聞いてるわよ、レアラードに乗り換えたって」
「ロイのやつ……いえ、乗り換えるなんてそんな」
「男の人と旅行なんて、行ってみたいけど……私嫉妬深いから、途中で手を離しちゃうかも。そしたらあなた――この壁と同じよ」
ニディアはすぐ後ろの半球状に穴を穿たれた城壁に背をもたせかけた。陽炎にまるで大きなスプーンで掬ったようにきれいに抉られた城壁は、その内部がゼリーなどではなく分厚く硬い石材であることをまざまざと見せつけていた。
「あ……そうですか、旅行の話は、じゃあなかったことに」




