27 ニディアとヴァリス1
耳に違和感が走るとともに、ギチギチという微かな異音が辺りを満たすのを、ヴァリスはなんとも言えない嫌な予感とともに聞いた。
おとなしく城門まで退いて崩れかけたアーチの下から主塔の方角を窺っていた視線を、毛の逆立った襟足の側に向ける。それは昔どこかで聞いた記憶のある異音だったが、ヴァリスの脳は海馬を探るより“異世界の力が働いている”という直感で肌を泡立たせた。
その気配に異様な危機感を感じたのはヴァリスだけではなかった。傍らで石畳の隙間から旺盛に生えた草を食んでいた馬も、ぶるっと身震いをすると低くいななき、繋がれた手綱に抵抗して後退った。暴れ出しそうな気配に慌てて手綱の結び目を解くと、馬は感謝した様子も見せずに一目散に城内のどこかへと走り去った。
城門から堀を超える跳ね橋を渡り切った辺りに、空気が歪み、景色が揺らぐ場所が現れている。
「なんだ? 丸い、まるで陽炎が凝り固まったような・・・・・・でも、あれ、中に人影が見えてき・・・・・・」
ヴァリスは己の見たものを実況しながら直感に従って走り出した。空気の歪みからなるべく距離を取ろうと――すなわち、馬が去ったのと同じ方向に――駆け出したヴァリスの足元に、白く発光した植物の蔓が絡みついたのは、まだ数歩も足を動かしていないときだ。治りかけの足の小指にまともに体重がかかる形で転び、必要以上の絶叫をこだまさせる。
「うるさい男ねえ。それも自白薬の効果なの?」
背後からかけられた甘ったるい声に地面に頬をつけたまま振り向くと、忽然と艶かしい栗色の髪の女性が現れていた。近づくその姿は、三年ぶりに見るニディアであった――が、しかし、
「老けてる!」
愕然とした叫びをあげたヴァリスの視界いっぱいに、すぐさまニディアの手相が広がった。
「ぎゃあっ!……痛い……」
「久しぶりにあった女性によくもそんなことを言うわね、信じられないわ」
「すみません、思ったことを言ってしまうんです、自白薬のせいなのです」
「だとしたら余計始末に負えないわ」
ぷりぷり怒ったニディアの容色は確かにヴァリスが最後に砦で出会った三年前から順当に年を取っていた。詰め襟型のローブを突き破らんばかりに主張の激しい豊満な体つきや人好きする甘えた顔つきの魅力は衰えていないが、肌には年齢相応の皺やたるみが自然に形成されていた。
「あなたがた一派はすべて年を取らないと思い込んでいたので、驚いてしまいました」
「ロイは『再生の穴』を持っているから若いままなのよ。私のは違うもの」
「あなたは違う『穴』を持っている、と……あ、いえ、これは言葉の綾で、その、変な意味はないですよ」
ゲホンゲホンと咳払いをしてからヴァリスは続けた。
「確かに、魔道士協会の支部長という肩書を持ったあなたが年を重ねなかったら周りから怪しまれますしね。ところで――今の空気に歪みを作るのが、あなたの『穴』……あ、いや“人工のよりしろ”としての力ですか?」
「ふうん、ロイにそこまで聞いているのね。で、彼はどこ?」
「今彼は取り込み中です」
「そう――レアラードが来ているのね」
眇められたニディアの瞳は、これまでに見たことが無いほど冷たく、滴るような怒りを秘めていた。
「あの『よりしろ』の女が来ているなら、ロイの手助けに行かないとね」
「いやあ、どうでしょう、私もあちらがどうなっているかわからないですから……ここで二人で待つというのはどうですか? あなたのその“人工のよりしろ”の能力について、私、研究職としてすごく興味がありますからお話でもしましょうよ」
「邪魔するなら、まずはあなたを始末するわ」
「それはやめ……」
青年の言葉を待たず、ニディアは空中に魔方陣を描き出す。描いた紋様はそのまま宙を走ってヴァリスの足元に向かっていき、
「!?」
ドンッと派手な爆発音と共に、土煙が舞い上がった。
間一髪大きく後ろに跳んで離れたヴァリスだったが、初めの攻撃をかわした喜びを感じている暇はなかった。
耳にあのギチギチという空気が歪む音が聞こえる。
言い知れぬ悪寒がして、地面に着地ざま後退さろうとして足元の石に躓き、背中から仰向けに倒れると、一瞬前まで自分の頭のあったところに陽炎ができた。驚いて手に触れた小石をがむしゃらに陽炎に投げつけると、小石はジッという音と共に瞬時に消失する。洒落にならない攻撃を受けていると知り、ヴァリスの顔は一気に青ざめた。
体を地面に横回転して移動させ陽炎のないところで体を起こしながら、使い魔を作り出す。そこを狙ってまたニディアが描いた魔方陣を走らせる。魔方陣はヴァリスの足元に着いたとたんに爆発した。
「っ!」
出来上がったばかりの白狐の使い魔は、この爆発できっちり主人の盾になり、一瞬で霧散する。
そしてまた、ギチギチという異音。
「陽炎と爆発と、わざわざ2種類の攻撃をしかけるなんて、この痩せこけた負傷者になんという厳しい女性だ!」
神経を研ぎ澄まし、空気の歪みができる場所を感覚だけで掴む。しかし、陽炎の出現する場所を探し当てることに集中するために、魔法が使えないというのは大きな痛手だった。陽炎がどこに現れるかの目星がついてから動かなければ体に大きめの風穴が開くことになるのだ。薬の影響でどうしても言葉を紡いでしまう自分自身も呪いたいほど鬱陶しいが、なるべく声を落として周囲の気配を探る。もし読み違えたら、たぶん陽炎に重なった部分は切り取られて異世界へ持っていかれる――それが、ヴァリスの見解であった。
「人工だと言っても『よりしろ』と戦うことになるなんて……」
右足の小指の痛みで全力で走れないのも辛かった。さらに、もともと研究職たる自分の体力のなさをヴァリスは胸を張って万人の前で長広舌をふるえるほど自信を持っている。
すべてが彼にとって逆境であった。




