1 悲鳴が聞こえる夕暮れ時
静まり返った森の中で、私はすでに悲鳴がどこから発せられたのかわからなくなっていた。
夕日が山の端にかかると同時に聞こえた悲痛な声は、長く尾を引いた残響すら木々の間に吸い込まれ、いまや巣に帰る鳥たちの叫びと聞き違えたのではないかと思わせる。
しかし、耳に残った高く可憐な声は私の胸をざわめかせたままで、うっすらと続く獣道を行く私の足を速めさせこそすれ止めさせはしなかった。
大丈夫だろうか……。
不安が否応なく頭をもたげる。焦りに呼応するように足がもつれるが、構わずにとにかく駆け続ける。
女性の声だった……。
ほとんど闇に包まれかけた森を進ませる力は、ただそれだけの理由だ。
女性と縁のない自分に降って湧いたこの微かな出会いのチャンスを逃すほど私は臆病ではない。
空はどんどんと暗くなり、あっという間に一番星の瞬きさえ許している。
今、その女性がどのような状況にあるのかわからない。悲鳴をあげた彼女のいる場所を探し当てたとしても、すでに手遅れの状態かもしれない。
野生動物に襲われたのか。
いや、近隣の街でこの森については「盗賊の根城がある」と散々注意喚起されているし、金目のものを持った商隊よりもなぜか女子供を狙うという噂からして、そちらに出会ったと考えたほうがいいだろう。なんにしろ、夕闇せまる時刻に街道沿いとはいえこんな森に入り込んだ人間の自業自得と言えなくもないが……すると、出会ったのではなく攫われてきたのか。
目深に被ったフードを後ろにずらして見上げると、西の空はいよいよ赤みを増し、最期の喘ぎすら感じさせながら勢力を撤退している。
――仕方ない、使うか。
闇が優勢になりつつある森の姿にタイムリミットを感じ、私は焦りを小さなため息にこめた。果たしてここで使っていいのか。少しのためらいはきっと出会う乙女への期待で無理矢理打ち消す。
私は足を止めると、おもむろに人差し指で空中に魔方陣を描き出した。人差し指の通り道はうっすら白い光が跡となって残り、私が宙に描いた魔方陣が空中の見えない板に書き記したかのように浮かんでいる。複雑な絵柄を一気に描き上げると、私は口を開いた。
“使い魔よ、悲鳴の主のところへ導け”
古代語で命じると、魔方陣の中から発光体でできた白い狐がするりと這い出すように現れた。滑らかな動きは本物と区別がつかない美しさだが、もちろん空中から姿を現した白く発光する狐が本物であるはずがない。私の魔法によって作り出された白狐は、チラリと私を振り仰ぐと空中を飛ぶようにして私を先導した。後に従うと、白狐はすぐに獣道をはずれて木々の間を分け入る。
道なき道を行くのか……一気に走りにくくなるな。少しは主人のことに気を回してほしいものだ。
しかし、使い魔は己に課せられた命令に従って最短距離を示してくれているのだから仕方が無い。私は邪魔な枝を振り払い、生い茂った下生えを踏みつけながら、急いで木々の間をすり抜け、使い魔を追った。
本来なら研究職の私がここまで体を張るようなことなど生涯無かったはずなのだ。それどころか、日の当たる時間に外に出ることすら考えたことがなかった。
それがどうだろう、いまや女性を助けようとお気に入りの灰色のローブの端を枝に引っ掛け破き、枝の反発を何度も顔に感じ、髪の毛に小枝の装飾をいくつもぶら下げている。なんというアクティブな姿。これを見て惚れない女はいない。
私は自信に満ち溢れながら、そして出会うべく乙女の姿を夢想しながら――願わくば、それなりに可愛い子でありますように。私の憧れる伝説の救世主美少女魔法戦士・レアラードほどとは言わないが、せめて、せめて初対面で合格点を出せるくらいの美しさと、できうることなら私を全力で愛してくれて、年齢と身長が私より下で、料理上手な髪の長い子だといいのだが――と考えながら、使い魔が木々の切れ目の先へと飛び出すのに続いた。
急激に木の失われた先には丈の低い下生えが少しだけ続き、その先は岩場が始まっている。木々の種子は岩場の手前を境にしてきれいに浸食を諦めている。邪魔するもののないおかげで走りやすくなった私は、こちらを振り返りながら走っていた使い魔を研究職なりの全力で追いかけた。
白狐はすぐ先にそびえている岩山の作る緩やかなカーブに沿って大きく回り込むように駆け、やがて岩壁の一部が窪んで洞窟のようになっている場所まで私を案内した。
走りながら、私の目は洞窟に巣くっているらしい盗賊然とした数人の男達の姿を捉えた。洞窟の入り口から出たすぐのところに、彼らは分散しつつも、大きく距離を取った微妙な半円を描いて一人の少女を囲んでいる。
少女は――生きていた。服に乱れもない。私は半ば覚悟していたいくつかの嫌な予感が裏切られたことに素直に安堵した。
彼女は片膝を地面につきながら、半月刀を片手に炯炯とした目で盗賊たちとにらみ合っている。目尻の上がった美しい瞳と無造作に垂らされた髪は同じ色らしい。ただ今は最後の夕日が赤く彼女を染め上げていて、色味を言及することはできない。
燃え盛る火が彼女自身から噴き出しているような、苛烈なその美しさはまるでこの世のものではなく、絵画か神話の中の風景のように私の目に飛び込んできた。贔屓目に見る必要のない、まごうことなき美少女である。
「今、助ける!」
私は意識して凛とした声を響かせると、走りながら白狐に向かって古代語で命じた。
“使い魔よ、悲鳴の主を守れ”
言うが早いか、白刃がひらめき――
ザンッという剣が獲物を得た音がしたかと思うと、少女の振り下ろした半月刀にその身をぶつけて、白狐が自らを犠牲にして盗賊を守っていた。
………。
………え?