明日の私達
「じゃあ、まずはどういった系統の劇にするのか決めます」
水性ペンのキャップを外しながら、月嶋先輩はそう言って私たち全員に視線を送る。どんどんアイデアを出してくれと言わんばかりの空気の中私の肩に手を置いて前かがみに立っている凛ちゃんは手を挙げて「はーい」とやるせない声をあげた。
「今回は既存の物語を……アレンジ?したりした方がいいと思いまーす」
挑発的なわざとらしいハキハキしたその言葉に私と透子は嫌な顔を浮かべるが……月嶋先輩は言葉の内容にしか注目していなかったようで「なるほど……たしかに」なんて顎に手を当てながら呟く。
そんな月嶋先輩の無反応に「チッ」と舌打ちをする凛ちゃんを、私は見逃さなかった。……え、凛ちゃんって月嶋先輩のこと、好きなんだよね……?あっ構ってもらえなくて怒ってるのか……そう納得しよう。
「じゃあ……そうだね、みんな何かやりたい物語とか本とかある?」
その言葉に、私達一年生は三人とも「うーん」と唸り頭を悩ませる。ふと陽向先輩の方を見ると、手元に置いてあったペットボトルのほうじ茶を慣れた手つきで僅かに飲み、手首をクイックイッとさせキャップを閉めながら月嶋先輩の方へと視線を送り答えた。
「んっ……やりたいって程ではないけれど、そうね……精神病棟のミステリー小説?の、地獄外道祭文の話。あれなんて読み応えがあったわ」
その言葉を聞いて凛ちゃんがビクッと身体を揺らす。
「あー……それ私も読みました。けど、あれ劇にするですか?先輩は馬鹿なんですか?長いしダルいし、頭空っぽな人達ばかりのここじゃあ誰も理解できません」
そんな礼儀なんて微塵も感じられない凛ちゃんの失礼極まりない暴言に、陽向先輩はムッとして凛ちゃんを下から睨みつけるようにして口を開く。
「やりたいって程ではないと言ったでしょう?」
「あーはいはい、そうですねそうですね」
「あーもぅ、喧嘩しない喧嘩しない!」
いがみ合ってバチバチしている二人の間に割って入る月嶋先輩が目を閉じながら呆れ返ったような声でそう引き離した。姿勢を改めて正す陽向先輩は「コホン」と咳払いをし、冷静を取り戻す。その一方で真顔になった凛ちゃんは透子の膝の上へと当たり前のように座り、透子は「おい」と顔をしかめて反応した。驚くような早さ、二秒もしないうちにこの状況を受け入れた透子は、上の空を見つめながら一人呟くように告げる。
「アタシは……有名だけど、坊ちゃんかな」
「……みんな日本の作品っていうか、純文学が好きなんだね」
困った顔をしながらそう言う月嶋先輩から、私はすぐにジャンルが偏っているから決めにくいんだと言うことに気がつき、この二作品から離れたところに視線を向ける。
「……福音書」
「ん?今、なんて言ったの?」
私がふと頭に思いついた事を口走ると、透子以外の三人が揃い揃って一斉に私の方を見る。月嶋先輩の自然に溢れるこの笑顔の圧、その様子にギョッとして私は小さく手を振りながら誤魔化すように答えた。
「いや……聖書の話とかって思ったんですけど、あんまりよろしく……は、ないですよねぇー」
発案者だと言うにも関わらずに、あたかも不採用にしてくれと言わんばかりのよそよそしい話し方でそう告げる私に陽向先輩は顎に手を置き、本格的に頭を悩ませた。いつも素っ気ない態度をとる陽向先輩がこんなにも私たちの意見を聞き入れてくれているのだから、今はかなり追い詰められた状況なのだろう。凛ちゃん含め、今はみんなの顔つきがいつもと違い、場の雰囲気は空気中でピリピリと静電気をおこしているみたいに真面目で埋め尽くされている。
「……まぁ、日本の有名な文学者も聖書から物語を引用している例もあるし……やる価値は十分にあると思うわよ」
「……え」
陽向先輩が視線を落として頭を回らせながらそう告げ、私はそんな反応に情けない声を漏らして目を見開く。すると続いて月嶋先輩が指を立てて提案するよう笑顔で言葉を足す。
「そうだね、多少のアレンジは加わるかもしれないけれど……全体のプロットとしては、かなり面白くなりそうで良いね」
「……は、はぁ」
まさかの先輩方両者とも肯定的な反応に対し、私は戸惑いを隠せない。それに、プロットって何?私の頭の中は重大な事からどうでもいい些細な事まで同時に脳内を飛び交い、頭が少しグルグルとした。ふと左から肩に手を置かれたかと思い、私がそっちへ顔を向けると透子の顔がすぐそこにあって「大丈夫か?」と私の目を見つめながら深刻な顔をして尋ねてきた。私は「あはは……」と苦笑いを浮かべて、心配そうな透子に大丈夫だと言わんばかりに右手を左右に振った。
「明音ちゃんがそう言うなら、私もそれでいいです」
相変わらず透子の上に座ったままの凛ちゃんは机に突っ伏しながら片手を高く上に掲げて伸びた声をあげる。
「じゃあ方向性は決まりだね!それで、どこのお話を私たちでやろっか」
○
正午に比べて淡くなった空色の窓に、壁にかかった時計の長針はすでに頂点に達して午後五時を知らせる。何となくどんな話をやるのかを決定した私たちは既に帰る支度をある程度すませ、部屋に残っているのは私と恵美、そして……星乃さん。本棚に本を戻している星乃さんに向けて、少し離れた距離から恵美は普段見せないような……女らしい?甘い声をかける。
「明音、一緒に帰ろう?」
そんな様子を扉の前で一瞥している私。生憎横に姿見が置いてあったせいで、今浮かべている自分自身の顔を見ることになった。そこに映っていたのは瞳の奥をドス黒い何かで揺らめかせ、静かに怒りを浮かべた醜いもの。私はハッとして、いつも通りの冷静でいて……尚且つ他人には興味を示さないその無愛想な表情を浮かべようと一度目を瞑り深く呼吸をする。
「はい、今日も帰りましょうか」
その私の心臓を握り潰すかのような、甲高く聞こえる星乃さんの声が私の中にある心に似た何かを「ガシャンッ」と勢いよく粉々にした。
頭から血の気が引いていくのを感じ、姿見を改めて確認せずとも凍てつくような青白さになっていることは何となく頭では理解していた。私はこちらに背中を向けていて私の気配に気がついていない恵美へ止まることを知らない脚が切羽詰まったようかなりの速度で徐々に近づく。手が届く場所まで来た私は、恵美の腕に手を伸ばしながら不機嫌さを言葉に目一杯絡ませて怒鳴るように吐き捨てた。
「恵美ちょっといいかしら」
身体の向きを傾けながら恵美が「え?」と驚いているところを本人の顔も確認せず強引に手を引く。その際、方向を変えるタイミングで星乃さんと目が会った。彼女は……恵美に対してではなく、私に対して視線を向けていた。それは驚いてはいるけれど、それより深い所で心配しているような優しいの代名詞のような慈愛に満ちた瞳。
だから、私にとってあの子は余計に腹立たしかった。
「どうしたの雫、顔が怖いよ……?」
演劇室の中、何のセットも置かれていないため何もなく伽藍堂の教室らしき空間に淡い光がレースカーテンで更に光量を抑えられてチラチラと床に空の影を映し出す。そんな神聖さを感じさせる部屋の中に黒髪の美しいマリアと、それと対になる位置に佇んでいるクリーム色の髪を結って肩にかけたお嬢様。まるで鐘の音が響き渡っているように、雑音が全くない完璧な無音。
いかにも気まずそうに、私の顔を伺いながらそういう恵美の言葉に、私は後ろでギュッと握っている手の平を肩が震える程まで思いっきり握る。
「……なに、やってんのよ」
下を俯きながら小さくそういう私に、恵美は疑問のあまり目を見開いた後、微かに見える震えた私の口元を凝視していた。私はついに心のダムが崩れ落ち、バッと顔を上げて涙を流して歪めた顔を恵美へと見せつけ、自分でも何が混ざっているのか分からないほどの複雑な感情を込めた言葉を、下の階にも聞こえるほどの大声で怒鳴った。
「また、苦しむだけじゃないの!」
「……雫」
私が涙をポロポロと零している姿を見ながら、恵美は心配するように、不安な表情を浮かべて悲しそうな瞳を覗かせる。そんな恵美に、私は涙を拭わずに弱くてすぐにでも息を途絶えてしまいそうな声で訴えるように告げた。
「あの時、恵美は何も悪くなかったのに……あの先輩共で学んだでしょう?……もう、二度とあんな風に苦しんでほしくないのよ」
「……勝手に人を好きになっておいて、全て私のせいだと押し付けていく……そうだね、苦しかった」
そう言って頭だけを窓の方へと向ける恵美。意味深に手の平を窓の方へとかざし、手のシルエットを愛おしそうに眺めた。私はそんな恵美に愁いに満ちた顔を浮かべて涙と止め、黒いものを涙と共に流し出した澄んだ瞳で見つめて耳を傾ける。
「でもね……私、今幸せなんだ」
「……なんで」
私の精一杯をこの一言に乗せて瞼が力み、下顎が小刻みに揺れるのを感じた……蛇口を閉めたように止まった涙が、自身の言葉で更に込上がってくるかのような感覚に襲われる。込み上げてくる涙を必死に飲み込もうとする最中、恵美はかざしていた手を軽く握りしめて空中に浮かぶ見えない何かを満足そうに掴み、優しく私へ囁くように告げてニコッと私に無垢な笑顔を向けた。
「うーん……私よりも、雫の方がよくわかってるんじゃないかな……私たちの仲でしょ?」
「違う!そうじゃなくて……なんで星乃さんなの」
そんな私の質問に恵美は一瞬驚愕したような表情を浮かべ、すぐに考える動作へと切り替えて身体の前で指先を弄らせる。この部屋にあるものは、ただ天井に三つ連なるシーリングライトのみで時計すら設置されていない。鬱陶しいと感じるあの秒針の音でさえもここにはないのだ。それは、時間の経過する体感速度を不規則に掻き乱しており一体入室してからどれくらいの時間がたったのか検討もつかない。そんな中、恵美が確信を持たないような……カタコトな喋り方をした。
「……んー、嘘をつき続けている私に、手を……差し伸べてくれた……から?」
「そ、それだったら……私でもいいじゃないの!」
……部屋の中に沈黙が流れた。
私のその泣き言のような台詞に、恵美は何の反応も示さない。それどころか目を伏せてしまい表情を読み取ることもできなくなってしまった……私もつられて目線を下げ全ての気力を無くしたかのように手をブランと身体の横で脱力し、最後の想いを振り絞って言葉の続かない口を無造作に無理やり動かして、息をするように……虫の呼吸の如く、弱々しく吐き出した。
「ねぇ、私が守ってあげるから……だから、どこにも行かないで……恵美」
「雫……」
――ごめんね。
○
「あっよーやく来た。私たちのこと待たせすぎです先ぱ……ん?」
「どいて」
「「うわっ!」」
勢いよく玄関を飛び出てきた陽向先輩に、玄関前で先輩達を待ちながら駄弁っていた私と透子は肩をぶつけられて左右によろめく。凛ちゃんはいち早く陽向先輩の様子に気がついていたらしく、不思議そうな顔をしながらサッと躱していた。さっきまで和気あいあいと話していた私たち三人は一歩一歩が大袈裟な陽向先輩の背中を見つめたまま何も言わない。
「ごめん、みんな……おまたせ!」
鍵を持った月嶋先輩がそう何事も無かったかのように自然な笑顔を浮かべてガチャリと扉から出てくる。凛ちゃん以外はそんな月嶋先輩へ唖然とした表情を浮かべて向き直り、一体何があったのかと言わんばかりの視線を送る……が、その後も月嶋先輩は何も答えず悪魔でも「何もなかった」を貫き通した。
「フンフフ〜ン……」
――夜。
時刻は既に九時を過ぎている。灰色の大きくイカついヘッドホンを耳に当て、手をスカートのポケットに突っ込み身体を揺らしながら一人この街を彷徨っていた。
「ゲーセンはもう十分遊んだし、カラオケも飽きたしなぁ……でも帰るのは癪」
この前三人できた駅の東口、私は特に理由もなくフラフラと歩き回る。耳元、最大音量で機械音声の音楽プレイリストをかけっぱなしにしてこの信号も今日既に七回は通った。それでも私は「家に帰る」なんて退屈な選択は取らなかった……ウチ放任主義だし。
「それにしてもさぁーあ?昼間のアレはホント傑作だね」
クスクスと口元に手を当てて嘲笑しながら、誰もいない私の隣に向かって語りかける。返事は求めていない、私が言葉にして語ることによって意味が生まれるんだ。
「ホーント、陽向先輩が勝手に動いてくれるからさぁ?……私は何もしなくても良さそうだよ」
カラオケに居酒屋、キャバクラ……そんな「醜い」もの、退屈な人々の集まるようなつまらない娯楽施設の看板が私の左右に立ち並び、道を包み込むように五月蝿い光で満ち溢れていた。そして一人の高校生がその中央を堂々として歩く。
「もし、先輩の戦略が上手くいってくれれば……私もきっと……明音ちゃんを手放さずに済む」
ホテルの正面、線路を仕切る高い落書きだらけの壁の前で私は無慈悲で埋め尽くされた闇夜を見上げて音を止めたヘッドホンをスライドさせるよう首にかける。雲はひとつも出ていないのに星がひとつも姿を見せない。
三日月が私に向かってニヤける。それに私は手をパーにして伸ばして月光へと翳した。
「……明音ちゃん、絶対に月嶋先輩の物にはさせない」
人ならざるモノのように、私は口元をニッと持ち上げて、薄気味悪い笑みを浮かべる。瞳の奥にはいつもの鮮やかなグリーンとは相反し、今の空を映し出すような黒一色だった。
「なーにしてんの?お嬢ちゃん」
ふいに肩に手を置かれ、まだ声変わりしきっていないような低音ボイスに私はゆっくり振り返る。
「……何?」
「こーんな時間にホテルの前で何してんのかなぁーってさぁ?……どう、一緒にお兄さん達と休憩しない?」
私の後ろには身長が百七十センチ位の高校生らしきチャラチャラしたファッションの四人組が突っ立っていた。
「うーん……お兄さんたちダッッサイから、いや」
手を後ろに組み満面の笑みを浮かべて挑発するようにそう言うと、私へと声をかけてきたリーダーらしき人物の眉がピクついたのを確認する。
「……へー、そっかそっかぁ……おい、状況わかってんのか?来いよ、チビ」
そういって私の腕を掴もうと右手を素早く伸ばしてきた。私はその直前に動いた肩を見逃さず、全体の重心をスっと腰下まで落とし身体を屈める。
「ほら行くガッ、い……いってえぇぇえ!」
相手の身体の左へと身を入れ、伸びた手に対して私の身体をてこのように使い、本来曲がってはいけない方向へと物凄い勢いと力を込めて重心を乗せてねじ込んだ……その時間、一秒以内。
何が起きたのか理解できないまま、ゴキっと腕の関節を鳴らしたその不良が曲がってしまった腕を半泣きで抑えて蹲る。そんな様子をゾッとした顔で見下している後ろの三人、そのうちの一番体格のいい男が真っ先に声を上げた。
「……て、テメェ!」
残りの三人が一斉に私の方へと拳を握りながら駆け寄ってくるのを、私は面倒くさそうな表情から陰った顔の中に目を光らせて、足から肩まで力をフルで込めた。
「もう……やめて、くれ……俺らが悪かった……から、うっ」
人通りの少ない場所だったため、私たちがやり合っている間の二分間、私を邪魔する者……彼らを助けてくれる人は誰一人として現れなかった。
顔の原形を止めていない地面に転がった四つのゴミを、ポケットに手を入れ直して上から死んだ虫を見つめるかのように無心で見下す。……顎を殴った時にコイツらのせいで少し拳を痛め、無性にイライラしたから一番近くにあった俯いている頭……耳あたりを、気が済むまで悲痛な叫びを無視し思いっきりつま先で蹴り続けた。
○
「うーっと……今日も授業おわり!」
ショートホームルームが終わり、席の上で背を伸ばしながら小さく呟く私、透子と凛ちゃんはそんな私の元へと何も持たずに歩み寄ってきた。
「アタシ、喉渇いたのに体育のせいで水筒空だわ」
そう言って自分の机の上に一つポツンと置かれた水筒を指さす透子は、無意味にアハハと声を出して談笑した。そんな様子を凛ちゃんが憐れむような目で見つめ「買いなよ」とド正論をかます。
机を囲むように集まってそんな無駄話をする私たちに、「天宮さん達ー!」と教卓側の扉からクラスメイトの子が私たちの事を呼び、それに一斉に目を向ける。
「……あ、先輩」
クラスメイトの子の後ろには、いつもより一層真剣な顔つきをした月嶋先輩が姿勢を正して立っていた。何か重要な事が起こっているような、私を避けていた頃とはまた違った真剣さを纏っている。こちらから目を逸らさない先輩を見ながら、私と透子は同時に首を傾げた。
「……なんで先輩が一年フロアに?」
「さぁー、なんだろーね」
そんなことを数秒言い合いふと我に返った私は、一番前をソサクサと机の合間をぬって先輩の元へと急いで向かう。先輩は私よりも身長が高い……だから透子以外は少し見上げるような形で先輩と対面し、後ろに手を組む先輩に私が声のトーンを上げながら尋ねる。
「先輩、どうしたんですか?」
「その……実はね、雫の事なんだけれど」
「雫……あぁ、陽向先輩か。先輩がどうしたんすか?」
ゴニョニョと籠った声で告げる先輩に、透子は言葉を急かすように追い打ちをかける。先輩は後ろに組んでいた手を前に回して私たちの顔を個々に見つめたあと、長すぎる間を破るようにようやく口を開いた。
「昨日一昨日の部活に来なかったじゃない?」
視線を左下へと徐々にズラしながらそう言う先輩に、凛ちゃんが小さく「そーですね」といい、だから何と言わんばかりの圧を言葉にかけていた。その言葉は先輩が言おうとしていた事を突っ返させ、また先輩の声は細くなってしまった。
「……その、今日も……来ていないんだけれど……ね?」
「はぁ……そうなんですか」
私も先輩が何を言いたいのか理解ができずに気の抜けた返事を返す。だって、人が連日休んでいる……それだけ聞けば別になんてことは無い。「お大事に」で終わる話だ。なのにこんな顔をするくらいなんだから、きっと何か大変な事が起こっているんだろう。
私がそんな想像をしていると、先輩は一度大きく深呼吸をし、ゆっくりと……そしてはっきりと言葉を出した。
「……全く、連絡がとれないの」
場所を変えて学校近くのファストフード店、先輩と透子が向かいに並んで座っている。凛ちゃんが「何も買わないのはアレだから」と気を使ってくれて、凛ちゃんの手元にだけシェイクが一つ置かれていた。
「それで……連絡が取れないって」
「うん、えっとね……それで大丈夫なのか様子を見に行きたいんだけど……その、ね」
そう言って気まずそうに目を逸らす先輩の様子は、まるで喧嘩して仲直りしたいのにも関わらず謝ることができない子供のような……そんな可愛らしいものじゃないけど、まぁそういう類のものだと思う。
私と同様に、この前の陽向先輩の様子などから状況を察知した凛ちゃんは「はぁ……」と大きく息を吐き出し、面倒くさそうな顔をして目線を落とし、シェイクを口元へと運んだ。
「……ん。それで、代わりに行ってほしいと?」
「うん、そういうこと!……なんだけどさ?」
「え、まだ何かあるんすか?」
また申し訳なさそうな顔をしてモジモジとする先輩に、透子は疑問を投げかける。先輩は、恐る恐るゆっくりと口を開いて望みを私たちへと伝えた。
「……その、明音一人で行ってくれないかな……?」
「……はい?」
唐突に告げられるその言葉に、私は混乱して目を見開き理解が追いつかない。……なぜ、私?喧嘩してるんだったら、本人が行くべきなのでは?
「なーんで明音ちゃんなんですか?」
私の疑問を凛ちゃんが代弁してくれた。しかし、その凛ちゃんの顔はとても嫌悪に満ちていて、少なくとも何かを疑問に思っている時にする顔では無い。
そう言われた月嶋先輩は、わざとらしく満面の笑みを浮かべ、明るい声で私たち全員に聞こえるようはっきりと告げた。
「……行けばわかる、かな?」
「ここら辺……だよね?」
演劇部が今日は活動しなかったため今の時刻はまだ四時を少し過ぎただけ、いつもの下校時よりも空が青っぽい。結局月嶋先輩の笑顔という圧に負け、陽向先輩の住所を打ち込んでもらったナビアプリを頼りに一人車一台分の幅の道を歩いていた。高い塀が私の視界のほとんどを埋めつくしていて、所々にあるカーブミラーや道路標識、そして規則的に並んでいる電柱。地面には白い文字で大きく「止まれ」と書かれていた形跡があり色あせた地面などが見受けられる。私の家の周辺とはまた少し違った住宅地、汚れているわけではない、荒れているわけでもない……だが、どうも一つ一つの建造物からはプレッシャーを強く感じるような空間だった。自分の周りを一瞥した後、ふとスマホの画面に視線を落とす。すると目的地は私のすぐ左だと表示されていて、私はハッとしてその方向に目をやる。
「え……まさか、ここ?」
私の目の前には、木の柱を組んでその間に白いコンクリートを流して作ったような……車さえも飲み込んでしまいそうなほどの大きな和風の門が聳えていた。
「……このインターホン、鳴らしていいのかな?」
一応インターホンがついてはいるものの、奥から怖い人とか出てきたらどうしよう……陽向先輩、お願いだから先輩が出て。
――ピーンポーンッ!
鳥のさえずりさえ聞こえない住宅の中、甲高い音が辺りに聞こえるくらい大きな音で鳴り響く。……私に怖い思いをさせた月嶋先輩、絶対後で文句言ってやる。
ふと門の遥か向こう……屋敷の玄関から扉がビシッと閉まる音がして、私は肩をビクつかせて身を正す。コツンコツンと石が音を立て、それは次第に大きくなって私へと近づいていることを知らせる。
「……あっ先輩!」
「恵美かと思ったら、星乃さん……何しに来たのよ」
面倒だと言わんばかりの目付きをした陽向先輩の顔を見て、私は安堵と喜びが入り交じった複雑な感情になった。
○
「なんで星乃さんを……いや、あえての星乃さん?……ううん、恵美は本当に困った人ね」
一人ブツブツと私には聞き取れないくらい小さく呟く陽向先輩は、顎を手において難しそうな顔をしていた。
「……あの、先輩?」
「ん?……あぁ、とりあえずあがりましょう」
その先輩の言葉に、私は目を見開いた。いや、家にあがらせてもらうのはよくある事なんだけれど……この家にあがるって、身が震える。陽向先輩が腕を組んで屋敷の方へと歩んでいく姿を数秒じっと見つめて我に返り急いで後ろをついて行く。先輩はかつての私のように全くコチラを振り返らない……ただ当たり前のように慣れた足取りで石のタイルの上を音を立てながら進んでいる、私はキョロキョロと庭……というか庭園とも呼べるそれを「すごいなぁ」なんて呆気に取られながら見回す。
「……さん、星乃さん?」
「あっはい!なんですか」
情けない声をあげて驚いた私に、振り返った陽向先輩は私を見下すような目をしてため息を小さく零した。周りに注意を取られていて気が付かなかったこと、今私はもう玄関の目前まで来ていた。
「言いそびれていたわね……いらっしゃい」
「失礼しまーす……わぁ、すごい量の本ですね」
「ちょっと待っていてちょうだい」
そう言って陽向先輩は私を私室へと案内すると、そのまま扉をしめて足音が遠ざかっていく。その部屋は二階まで筒抜けのような作りになっていて、壁は窓のついている面以外全て本棚となりビッシリと詰まった洋書和書がズラリと天井まで伸びていた。私の目線にある所にある本を見てみると、全て頭文字がTから始まっていることに気がつき、この本全てが規則的に並んでいるということに勘づいた。……流石陽向先輩と言うべきだろうか、誰も見ていない部分……プライベートでもしっかりしているんだなぁ。本以外にも、窓の上についたランタンのような見た目の電気に一人用の紺色ソファ、膝上ぐらいの高さの旅館にあるような机。地面は畳で大きな窓からは光がいっぱいに入ってきており部屋はとても明るかった。強いて言うのならこの高い梯子、私は怖くて使う気にはならない、きっと落ちたら重症だ。
「おまたせ」
先輩は何かやりきった感を出しながらお膳に緑茶らしきものを持ってきてくれ、私は「ありがとうございます」と身を低くして言い机の窓側……上座?の方らしきところに正座する。
「あの……どうして学校こないんですか?みんな心配していますよ?」
本来お見舞いに来た私がそう正座した陽向先輩に言うと、先輩はお茶を飲もうと口元へ持ってきた手をピタッと止めて再びお膳へと……コップ?を戻して俯いてしまった。私は純粋な疑問として質問しただけなので、このような反応は意図しておらず……なんだか、申し訳ない気持ちになった。何故だかわからないけれど、膝の上で拳をギュッと強く握る。そんな私の様子を先輩は見逃さなかった。ため息混じりの深呼吸をし、観念したような声でそっぽを向きながら告げる。
「後輩にも心配をかけてしまっていたのね……明日から学校行くわよ、今までごめんなさいね」
そう言い終わると、先輩はニコッと不思議な笑顔を浮かべた。顔に力は全く入っていない、特に何も意味を感じとれない……なのに何故か恐怖に近い圧がかけられているような気分だ。
「いえ、来てくれるならよかった……で、す?」
ふと、何かとてつもない違和感を感じた。騙されているかのような、胸の当たりがモヤモヤする嫌な感じ。私は手のひらを顔の前に持ってきてじっと眺め、その姿に陽向先輩はギクッと肩をふるわせた。
「一体何が……あぁ、そっか!なんで学校に来ないのか聞いていたのに……上手く話の方向性を変えられたんだ」
よくよく考えると、なぜ私はこんな簡単なことを見逃したのかと自分を疑ってしまう。陽向先輩が凄くダルそうな顔を一瞬していたのを私は見逃さない、複雑な気持ちになって片目をピクつかせる。
「はぁ……そうね、どの道言うべきなのよ」
ゆっくりと右足から立ち上がった陽向先輩は、私の横を通りソファに腰掛けたかと思うと、ゆっくりとあの日に何があったのか、全てありのままを話し始めた。
「そんな事が……」
驚いた、陽向先輩が私に今までそんな思いを抱えていたなんて……正直少し嫌な気分にはなる。けれど、先輩にも先輩なりの事情があるんだ、私一人の好き嫌いで動く訳にもいかない。私は目をキリッとさせて先輩の方へと改めて意識をむけなおす。陽向先輩は淡々とその時の会話を伝えた後、侘しそうな顔をして口惜しく続けた。
「あの日、恵美は私じゃなくて星乃さんじゃないといけないと言った……今まで、恵美が辛い思いをしないように告白とか踏み込もうとする人達から避けさせてきたのに……どうしてなのよ」
そういう先輩は、哀しいを通り越して自分への悔しさが満ちに満ちていた。目元がユラユラとしているのは、瞳の奥に溜まっている涙のせいだろう、肩が震えてるのは自分への劣等感のせい、全て負の感情。私はそんな先輩に対して、自分が思ったことをそのまま、何も包み隠さずに天井を見上げながら伝える。
「でも、月嶋先輩にその大切にしているという思いは届いていると思いますよ」
そう言ってお膳に置かれた、もう湯気のあがっていないお茶をそっと手に取り、口元へとゆっくり近寄せる。
「それに、月嶋先輩だって陽向先輩の事を何よりも大切にしているじゃないですか」
私が何気なくそう言い目を閉じてお茶を口に含むと同時に、陽向先輩はバッと私の方に勢いよく頭をあげる。瞳がチラチラと眩い光を反射して映し出す陽向先輩は、「あぁ……そうか」と言わんばかりの顔をして微笑を浮かべた。お膳にお茶を戻した私が不思議そうに首を傾げて先輩を見つめていると、先輩は笑顔のまま言葉を足した。
「私は助けたい、守ると言葉では言っているものの……自分の価値観や想いを無意識に押し付けていた。自分の望みが加わっている、こうなって欲しいと思っているのよ」
もの悲しげな顔をし、お茶を膝の上で持っている。ほろ苦い緑茶を飲み進めながら、陽向先輩はさらに言葉を並べ続ける。
「それに比べて……星乃さんは自分の思いなんて一切含めず、相手の事だけを見つめて……考えてあげられる優しさを持っている」
先輩は私へと真っ直ぐな視線を向けて瞳の奥に光を宿しながら、私に微笑みかけるように捨て台詞の如くポロッと零した。
「そう……今までごめんなさいね」
正直先輩が何を言っているのか、何故最後に謝ったのか理解できずに混乱している私の頭にあるモヤを手で払い、先輩に向けてニコッととりあえず合わせて表情を崩す。そんな私をみた陽向先輩は私のことを鼻で笑うようにフッと強く呼吸音を出し、やれやれと言わんばかりの表情で語りかけるよう優しく提案した。
「……トランプでも、やりましょうか」
「……あ」
まだ時間も早く人が少ないクラス内、ふと教室の扉が開かれたかと思うとそこには中学からの見慣れた友人がこちらを見つめていて、目が合ったかと思うと力強く徐々に私の元へ一直線に近寄ってきた。
「恵美、その……」
私の隣に立ち尽くす雫はもどかしそうにして顔を顰めて必死に声を出そうとする、そんな様子を見て私は小さく笑みを浮かべて小さく口を開いた。
「……いいよ、雫だもの」
そう言って雫に対しニコッと微笑む。すると雫は驚いたように目を少し見開いたかと思うと、緊張が抜けるように笑みへと表情を変えた。
最後に口元がゆっくりと開いたのを私は確かに捉え、雫の言葉を心で拒まずにただ聞き入れた。
雫は言った。
――やっぱりあの子、カナわないわよ。
「表題は私に咲く」の一巻が無事に幕を閉じました!いやー、彼女達のことを書いていると、本当にどこかに住んでいるような、生活しているような気持ちになります。そういえば、最近物語の途中にでてきている例の橋、そこに直接足を運んだんですけれど、手すりが丸くて明音はここに乗っていたのかと思うと背筋が凍りつきましたね。さて、まだ高校生という青春を謳歌すべき若葉の年齢、そんな彼女たちの物語を是非エンドロールまで見て頂けると幸いです!次の巻では遂に一年生は初の人前での演劇!きっと輝くんだろうなぁ......おっと、もうこんな時間ですね。それでは、いずれ訪れる女の子達のハッピーエンドでお会いしましょう。adios!
明音「なんで勝てないの......!」
雫 「顔に出過ぎなのよ」