表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
表題は私に咲く  作者: kurage.kk
第一演目
8/17

決意の行方


「お父さん……私、生徒会長に立候補したの」


 三人、家族揃って夕食をとっている私は声のトーンをあげて、手元の食器を眺めながらお父さんへ生徒会長に立候補したことを告げる。いつも私に素っ気ない態度をとっているお父さんでも、ここまでのことをすれば流石に褒めたり言葉をかけてくれたりするだろう……そんな思いを込めての報告だったのに。

「……そうか、頑張りなさい」

 お父さんの返事は私の期待とは裏腹に、小さく呟くような声で顔さえも合わせず無気力、興味のなさそうなものだった。私は……モヤモヤした。自分でも何を言ってほしかったのかわからないけれど……この反応はとても心にジーンと響き、瞼がピクピクと震え落ち着かない。私は追い討ちをかけるよう焦った口調で説明を加えて必死に反応を求めた。

「それで、お父さんはどう思う?」

「……お前なら、できるだろう……期待してる」

 そう言いながら席を立ち上がって空になった食器を持ちキッチンへと入っていく。その間、やはり一度も目を合わせることはなかった。そんな私たちの様子を見ていたお母さんは、手を膝に置いて俯いた私と無表情に食器を水に浸しているお父さんの顔を交互に見比べて心配そうな顔をし、私へと首を伸ばして小さく声をかけてくれた。

「あの人……あんなふうだけれど、きっと自慢に思ってるわよ」

 そう言って私の頭を熱のある手のひらでそっと撫でた。しかし、そんな気休めの言葉は私の耳に入ってこない。だって……それどころではなかったのだから。私はとある感情を今まで感じたことがないほど体感していて、膝の上に置いていたを握りしめ、肩からフルフルと震えさせていた。その時の伏せた顔の下、私の瞳はキラキラと輝いていたんだ。


――期待してるって言ってくれた。


 あのお父さんが、私に期待してるって言ってくれたんだ。私がどんなことをしようと、何も言わずにただただ私のことを見放していたあのお父さんが……私は心の奥底から本当に、嬉しかったんだ。

 私は歯を食いしばり口角をあげて心の奥にかかっていたモヤが晴れていくのを感じる。たった一言で人は変わってしまうのだということを強く実感できるほど、今の私は自信に満ちている。お父さんが期待してくれれば……できると言ってくれれば何でもできてしまう、そんな気持ちだ。

 一人で高揚している私を見てお母さんは気の毒そうな顔を向けて食事を再開していたが、そんなことを私が知る余地はなかった。


 もしかして、これが……幸せ、なの?


 私のことを見て欲しいと願っていた対象の人が初めて私のことを認知してくれた時に感じる、この胸の奥から興奮が溢れかえってくるかのような、まるで桃色のトロトロした液体が身体から漏れ出すような、心情の変化。このなんでも出来てしまいそうな自信、もう何もいらないと思えるような優越感……なんて表現すればいいんだろう。


――これが……幸せ。


 この時の私……中学二年生の時の私は本当に愚かだったと毎夜毎夜思い返す。私がこんな馬鹿げた思い込みをしなければ……勘違いをしなければ、今のこの苦しみはなかったのかもしれないのに……あの日は確か、雨が降っていた。私の鳴き声をかき消すほどの風の嘲笑と、私の涙を誤魔化す雨粒の下卑た振る舞い……本当に、よく覚えている、世界に見捨てられた日だ。


「いーやーだぁぁ!無理無理、無理ですッ!大事な総会なのにぃぃ!」

「本当にアナタはしつこいわね、ダメよ!三十九度もあるのに……これは早退ね」

 昼休みの保健室、ベッドの上で布団から出ようと必死に暴れ回る私と顔は覚えていない当時の保健室の先生。給食中、突然目眩がして地面へと倒れ込んでここへ来た結果がこれだ。顔を赤くして手足をばたつかせる私と、そんな私の両手を抑える先輩……それはまるで、欲しい物を強請り駄々をこねる幼児を母親が叱りつけているかのような状況だった。そんな中「早退」という言葉を頭で処理して我に返った私は動作を止めてワナワナと先生に救いを求める視線を送る。

「……そ、早退?え……うっ嘘ですよね?」

 心の奥底から必死に訂正を求めたが、先生は目を伏せながら無慈悲に頭を横へ振るだけだった。

 五時間目からは生徒総会……生徒会長を決める、一番の山場だ。そんなものを逃してしまったら問答無用で落とされてしまう……嫌だ、それだけは嫌だ。

 今日の為に一体どれだけの苦労をしたか。絵の上手い子に協力してもらってポスターを作り、演説の動画の撮影は無理を言って納得できるまで何テイクもやった。昨日だって寝る時間を削り今日のスピーチをずーっと考えていたのに……それが、全部無駄になるの?

 いや、それはまだ最悪いい……一番の問題は。

「……お父さん」

 自然と口から震える声で漏れたことに私は気づかない。私の努力が報われないのは構わない、努力は必ず実るわけではないから……でも、体調不良で生徒会長になれなかったと知ったお父さんは……ダメ、そんなこと考えたくもないッ!

「先生ッ!どうにかなりま……ゴフォッ!」

「ほら!言わんこっちゃないじゃない……お家の方に連絡入れるから、迎えに来てもらいなさい」

 噎せて大きく咳をする私に先生はあまりに冷酷な判断を下した。ベッドの上で何度も咳き込み丸く縮こまっている私を一人残して行ってしまうその背に向けて、今出せる限りの力を振り絞って手を伸ばす……しかし咳のせいでまともに声も出せない私のそんな虚しい足掻きは誰にも認識されることなく終わる。

 ……その時すでに、私の幸せとやらは朽ち果てていた。



「ただいま」

 低く家の空気を振動させるようなその声が聞こえると間もなく玄関の扉が閉まる音を聞く。その一連の音を聞いて独りリビングに棒立ちしていた私は肩をビクッと震わせた……あの後、結局病院へ行ったら原因は睡眠不足で免疫が崩れているとの事らしい。私はそれを聞いて今まで夜遅くまで……いや、朝方まで作業していたことが頭によぎった。

 つまりは……「自業自得」

 時計の針が現在の時刻午後八時を指し示す。そう、これが……私の感じた幸せの辿り着く先だったんだね。瞳の辺りがじんわり熱くなるのを感じたが、それを涙だと理解する前に父親は私の前へと姿を現した。私は顔を下げているため視界には灰色の靴下を履いた大きな足とスーツの裾だけしか映らない。

「……お母さんから、聞いたよ」

 その声は私の脳を直接抉るように、ダイレクトに耳が痛くなるような波長。私は恐怖とよく分からない暗くドス黒いものの前に何も出来ず、ただ手先や口元、膝や肩をブルブルと小刻みに揺らして立ち尽くすことしか出来ない。本能に訴えるかのような恐ろしさが全身を蝕む……あまりの恐怖に、私は血の気を引いて気持ちが悪いとまで感じた。

「……お、おとうさん……あのっその」

 現実逃避のつもりだったのか、私は目をギュッと閉じて外の世界から逃げようと抵抗する……が、世界は無慈悲だった。ふと、大きなため息が聞こえたかと思うと同時に正面の関節からパキッと音がして私の中に積もりに積もった恐怖がサァッと砂埃のように姿をくらまし、何もかも無くなったその暗い暗い心の中にはお父さんの言葉が虚しいほど鈍く、私自身の首に手を添えるように絶望と共鳴して心へと直接響いた。


「……ホントに、残念だ」



 耳が聞こえない、目の前が真っ暗だ。低い低い声が私のことを呼びかけている……?どうでもいいなぁ。


 リビングのドアがガチャンと音を立てて閉まる音を鼓膜で跳ね返し、再び部屋の中に独り取り残されたという状況を世界が私へと告げる。それに答えるようにして、私は死んだ魚のような、光のない虚ろな瞳を浮かべながらノタノタと感覚の遮断された脚を窓の方へと歩ませる。


 なんだっけ……あの四字熟語。うーん……思い出せない。私、馬鹿だからわからないや……あっそうそう、奇跡的に思い出せた。

――希死念慮


 換気扇の隣で雨に打たれる中、膝から崩れ落ちて空を見上げたまま現実を直視する。何も感じられない、まるで自分の身体じゃないみたいに動かすことが出来ないし、何にも実感できなかった。

 雨水が顔へと注ぎ続ける中、再び私の目元がじんわりと熱を持つ。今度はそれが一体なんなのかにすぐに理解し、それにつられようにして顔から垂れてくる水の量が増す。


 ……泣いた。我慢していた物が溢れてきた、哀しい、侘しい……独り泣き続けた、呼吸が苦しくなるほど泣いた。瞳の中の灯火が涙で鈍く揺れる。


 ボロボロと止まることを知らずに流れ続ける涙を、私は必死に呑み込もうと声を漏らさないように喉をしめる。けれど「ヒグッ」とどうしても私が泣いていることを誤魔化すことはできない。

 顔に両手のひらを当てると、すぐに手から水が溢れかえってしまい意味をなさない。

 私……は、私は褒められたかった、認められたかったッ!ただただお父さんに喜んでほしかったのに。そう思い返すだけで涙が再び勢いを増して溢れかえってくる。今となっては雨水よりもそれの方が多くなってしまう。

 誰もいないベランダで、今はただただ……泣きたかった。


 それは、慌てたお母さんが私の事を呼び止めるまで何秒も何分も続いた。私にとっては何も感じない、人生で一番短い時間だったと思う。どうやら、私は涙と共に希望や感情までも外へと流してしまったらしい。お母さんへと向き直る私の瞳の中には光なんてものは一切存在せず、深い深い曇りなき闇が満ちに満ちており、死人のような表情を浮かべていた。


 その日以来、父親は今まで以上に私への対応を冷たくした。もう「ただいま」も「おやすみ」も言うことは無い。もう……家族じゃないみたいだった、合わせる顔がない、出来の悪い娘でごめんなさい。

 だから……私は成長した。もう二度と同じ思いをしないように、もう誰も失望させないように……お父さんのために。

 勉強、運動、人間性、特技、趣味、好物、過去、そして……本心。

 全てを皆の望む理想へと書き換える。完璧になる、全てを修正する。全能を装って誰もが望む手作りの偽りの仮面を被る。その仮面がみんなに求められているものだから、私は仮面を被り続けるのだ。


……もう、わかっている。この時既に私は薄々理解していた。私の顔に自分の意思で当てられていた偽りの仮面が、ピアノ線のようなもので頭にグルグルと巻き付けられたということに。みんなの望む「優秀」な私に安寧など無いということに。今となってはもう、剥がそうとしてもビクともしない、完成してしまった完璧な偽物。本心を隠すどころか上書きしてしまったその心。

 今思い返すと、私は生まれてきてしまった所からすでに間違った選択だったのかとも思えてしまう。世界が作り上げた偽物の人間……それが、私だ。全身がみんなの理想という糸で縛り上げられている。もはや私に自由なんて物は存在しない。……もう誰も私に期待しないで、哀しい、苦しい、その思いだけしか感じられない。私は化け物にでもなったのかな、人間じゃないみたい。


――私は、自分自身を見失った。




「ここです、月嶋先輩」

 一人物思いにふけっていてボーッと周りを見ていなかったが、気がつくと斜め前には大きな橋がかかっている。いつもの交差点……私たちの分岐点よりも更に先へと先導されたので、それにただ従ってついて行った。私よりも五メートルくらい前の川沿いの道を歩いていた明音は、ふと身体の向きを九十度右にある川へクルっと回転させ、私がついてきているかなんて一度も確認せずに川にかかった大きな橋へと歩み続ける。

 ……きっと明音は私が必ず後ろをついてくると確信しているんだろう、全く会話もなく足音も聞こえる距離じゃない。それなのについてきてると思える理由はなんだろう……もしかしたら、もう後ろには誰もいないかもしれないじゃない。

 でも、私は今こうして明音について行っている訳で……なんか変な気分。この感じ……あの日の放課後と同じ……明音が私に手を差し伸べてくれた日、明音が私を見つけ出してくれた日……私の特別な日。

 つまり、この感情は……嬉しい?私は今、明音に信じてもらえて嬉しいの……?そっかぁ……そうなのか。

 私は無意識のうちに口角がほんの僅かに上がっていたが、それを知っている人は私含め誰もいない。



 橋の傾斜を登りながらふと顔を撫でる春風に意識を向ける。この風……昨日とは違う、昨日はもっと冷たく誘うような薄気味悪さを持っていた。今日のこの風は、太陽の温かさを秘めているような手で頭を撫でてくれるような優しい風だ。

 もう頂上……っていってもそんなに高いわけでもないけれど、目的地は目前に迫っていた。先輩は、後ろにいるだろうか……いや、いるんだろう。

 なぜだか分からないけれどそう感じる。背中越しに視線を感じるとかそういうものじゃないけれど……直感が私の脳にそう語りかけているんだ。道が真っ直ぐになり一歩一歩に体力を蝕まれていた脚が一気に軽くなるのを感じるけれど、この後の会話を考えると全身が重くなっているような気もする。

 身体の横で拳を握り、細く開いた目でグッと前を見つめてその場に止まり、その一言を口にした。

「……先輩」

 正直不安さもある。でも、それが先輩にバレてはいけない……私は先輩を信じているんだ、だから大丈夫。

 そう自分に言い聞かせて、不安さを誤魔化すように少し大きくはっきりとした声でそう台詞を絞り出す。風と僅かな川の音しか聞こえないこの場所では、それは自分でもうるさいくらいに聞こえた。

「どうしたの?」

 少し間をあけて返ってきたその声を聞き、私はパッと俯き気味だった顔を上げて後ろを勢いよく振り返る。

 そこには、橋の上で姿勢よく佇んでいる先輩が後ろで手を組み、私に向かって微笑みかけている姿があった。

「……やっぱり、笑ってる時の先輩が一番可愛いですよ」

「そ、そうかな……?明音にそう言われると照れちゃう」

 先輩の笑顔に私は身体の緊張が顔から順に解れて地面へ私の肩に積もっていた重りが次々に落ちていくのを感じ、私も微笑を浮かべた。いつもの私に似つかないような感想を素直に先輩へ告げると、先輩はあからさまに動揺して耳を赤くしながらオロオロと答える。さっきまでの緊張や不安が嘘のように吹っ切れた……と同時に、私は自信を持って先輩に話すことが出来る気がした。

 やっぱり……笑顔が素敵だ。これは、本心とか以前の問題に人として感じるもの……だから、私の想いかもしれない。先輩には、いつまでも笑っていて欲しい。

「先輩、この前は……あんなこと言ってすみません。私は、先輩の努力まで否定していた」

 私が真剣な顔付きに戻り、先輩に向き合ってはっきりとそう言う。そんな私の顔には一切の迷いもなく、先輩は私に驚いたように軽く目を開いた。胸の奥深くからは、色を失っていてもなお熱くて美しい炎のようなものが渦巻いているように感じる。私はそっと目を閉じて言葉を続けた。

「でも……私が本当に言いたかったことは、そんなんじゃないんです」

 先輩にどんな言葉をかけようかと、今日までずっと悩んできた。どうすれば先輩の決意を壊すことができるのかと……でも、今日陽向先輩と話して気がついたんだ。

「私、思ったんですよ。別に先輩の決意を破壊する必要なんてないんだって」

 私がうっすらと目を開け、瞳の中で天の川が揺れるような輝きを宿しながら先輩の目の奥を見つめる。

「先輩……あなたは間違ってなんかない」

 私がそういうと先輩は瞳をパッと開かせ、心の奥底にあるその本心という灯火を顔いっぱいに浮かべるような、本当に呆気に取られたような顔を浮かべた。まるで時間が止まっているかのように先輩の髪先がゆっくりと風に靡いて辺り一面を明るく染める。そんな様子を見つめながらも、私は淡々と変わらぬ想いで続けた。

「かといって、私は先輩のその思いを肯定することもできません」

 胸の中で深く呼吸をする。さっきまで小さく響いてた川のせせらぎや風の音も、今となっては耳に入らない。でも……先輩の深く高鳴る呼吸だけは、はっきりと私の耳に入っていて、まるで目の前にいるかのように先輩を感じる。

「私がここで先輩を肯定しても、先輩は苦しくなるだけだから……だから」

 本当に伝えたいこと、私の精一杯をこの一言にこめようと私の中に渦巻く橙色の旋風を晴らし、淡い光の中で静かに波紋を広げる透き通る水。その遥か先に見える小さな桃色の太陽みたいな、優しい光を放つオーブのような物にそっと手を添える。それに触れると同時に辺りには光が包まれ、黄昏色の空を背景に私へと身体を向ける先輩へと意識が戻った。

 胸の辺りがじんわり熱くなる。私の奥深くからこの私たちの温もりさえも届くような心の近さ。


――これが……先輩と私の、距離。


 先輩は未だに驚いた顔をしている……けれど、なんでだろう、嬉しそうだ。先輩の耳の辺りや頬が……桜のように、薄紅色へと染まっているのが垣間見える。

 そんな先輩の煌めく瞳を見つめたまま、私は今までにないくらいの満面の笑みを浮かべて、そっと囁いた。


「先輩は……もっと自分の為に生きて」


「……そんなの。ズルいよ」

 そうはにかむように言う先輩は目を閉じて笑顔を浮かべており、その目からは涙が零れていた。大して強くもないはずの風がやけに涼しく感じて、それは私の好きな匂いを熱と共に私の中へと運んでくる。私がそんなことを思いながら崩れてもいない呼吸を整え直していると、ふと目を開ける先輩はどうやら自分が涙を流していたことに気がついていなかったらしく、アタフタして私へ助けを求める視線を送った。

「あっ……あか、明音」

 混乱しているのを隠しきれない様子で私へとそう言う先輩。そんな先輩の初々しい反応に対して私はクスッと笑を零し、そのまま可笑しそうに先輩へと穏やかな声色で声をかけた。

「先輩……私以外、誰もいませんよ」

 すると先輩はしばらくしてから目をギュッと瞑ってニコッと笑ったかと思うと、次から次へと顔から涙を零してゆく。そんな見たこともない先輩の一面を知った私は……特に何も思わなかった。別に先輩が泣いているのを見て情けないなんて思ったりしなければ、可愛いとも思わない。でも……自然と私は笑顔のままだ。

 私は手を小さく前後に揺らしながら五歩くらい離れたところにいる先輩の元へゆっくりと脚を進め、動揺している先輩はお構い無しに私の顎くらいの高さにある先輩の首へ手を回して身体を寄せ、私から先輩へ抱きつくような体勢になった。身長差が大きいため私は少しつま先立ちになり、顔も先輩の肩に顎を乗せるような場所に位置している。

……あの日は逆だったなぁ、私の想いを初めて話した日。あの時は私が泣いていて、そんな私を先輩が包み込むように抱きしめてくれたんだよね。……私の感じた、心がポカポカするような、あの胸の温かさを先輩にも伝えられたらいいな。

「先輩……よしよし」

 私はそう言って呆気にとられたまま涙を流す先輩の頭を後ろから撫でるように片手をゆっくり、力を込めずに動かす。先輩は涙さえ流しているが……耳元に伝わる呼吸は乱れていないし、身体が痙攣しているわけでもない……けど、鼓動は確かに早かった。

 先輩が私の腰より上、肩より下の辺りに手を回して私たちの身体がより一層強く密着する。急だったから、ちょっとビックリしたけれど……やっぱり嫌じゃない。先輩の呼吸が耳に当たり我に返った私は、真横にある先輩の顔をチラッと見る。


 ……先輩、幸せそう。


 涙を流しながら口角を上げて静かに目を瞑る先輩の頭を撫で続けていると、私まで心が和やかになる気がする。ふと辺りを見ると、私たちが気付かなかっただけで……もうとっくに五時のチャイムも過ぎているらしい、空が黄昏色とは言えないほど暗くなっていた……けど。


 ……そんなことはどうでもいいくらいに、先輩とのこの時間が、心地いい。



「ただいまー」

 家の玄関、私は奥にいるであろうお姉ちゃんとお母さんに聞こえるような大声で帰宅を告げる。家の鍵を三個中一つだけ閉め、段差に座りながら靴を脱ぎ棚へ片付けていと「おかえり」と呟くように言いながらお姉ちゃんがリビングから出てきた。ダボダボの白いパーカーを着てスマホを弄りながら扉を閉めたお姉ちゃんが、私の方へフイッと顔を上げる。すると、お姉ちゃんはとても不思議そうな顔をして私の顔を一瞥したものだから、私も何事かと思い疑問を浮かべる。

「……あかね、外暑かった?」

「……え?別に、温かいけど暑くは無い……よ?」

 お姉ちゃんの言葉の意味がわからずに、私は困惑した表情を浮かべて小さくボソボソとそういう。するとお姉ちゃんは「うーん」と顎にスマホを持ったまま手を当てて唸り、また口を開いた。

「だって……あかね、顔真っ赤だよ?」

 そんなお姉ちゃんの言葉に、私は唖然として身体の動きを止める。しかし、私の顔が赤い理由を理解すると同時に顔を隠しながら「特に耳と……」とか言ってるお姉ちゃんを無視してソサクサと洗面所へ逃げた。


「……やっぱり跡ついてるかぁ」

 洗面所の鏡に映る私の首元には、桃色で楕円の形をした跡のようなものがはっきりと浮かんでいた。

 ……あの後、当たり前のように先輩にキスされたんだけど、わざとやったのかどうなのか……首元にはしっかりと先輩のキスマークを残されて解散した。これ、誰かにバレたら色々まずいよね……どうしよう。とりあえず私は鏡に映したキスマークをスマホで撮影し、メッセージと共にそれを先輩へと送信した。

「しっかりキスマーク残ってるんですけど」

 するとすぐに私の送ったそれは既読と表示され、数秒後に先輩から「うん、上手くできてるね!」というふざけた文章が送られてきたため、私は笑い事じゃないだろうと「何言ってるんですか!バレたらどうするんです」と送信し、スマホをスリープさせ洗濯機の上へと伏せて制服を脱ぎ始めた。


 湯気に包まれた浴室、浴槽に足を伸ばして肩まで深く浸かった私はふぅっと一息つく。……散々今まで悩んでいたそれが今はもうなくなった、無事に終わってくれた。……私の想いは伝わってくれたかな、そうだったらとても嬉しい。私は湯船のお湯を手に掬い、それをチョロチョロと腕につたらせる。肩の荷が降りて軽くなった私の心に、このお湯はじんと熱を送った。

「それにしても……一件落着だ」

 そう口に零しながら鼻下までお湯に潜らせ、髪の毛が湯船へ入ってしまう。ふくらはぎの辺りから疲れと不安が抜けていくように私の身体は徐々に徐々にとリラックスしていき、眠気までも私に付きまとわり始めた。全身でお湯の流れを感じ、身体がホワホワする。……流石に浴槽で眠るのはよろしくないので、しばらくしてから私は湯船からあがった。


――プルルルッ!プルルルッ!プルッ

「もしもし?先輩、聞こまえますか?」

「……あ、うっうん!聞こえるよ」

 時刻は既に夜の十時過ぎ、先輩が突然電話してもいいかと連絡してきて、私も特に断る理由もないからこうして通話している訳だ。

「……それで、なんで通話したいなんて言い出したんですか?」

 私が単なる疑問をそう問いかけると、スマホの向こうからはシュンとなりボソッとした声が返ってくる。

「ごめんね……嫌だった?」

「……まぁ、別に嫌ではないですけど」

 私は照れ隠しのようにブツブツ呟き、その台詞をしっかりと拾ったスマホは先輩へと私の言葉を筒流しにする。先輩が「ならよかった!」なんて明るい声で言っている中、私は恥ずかしくて戒めのつもりか自分の額を軽く叩いた。

「その……ね、明音の声が……聞きたくなっちゃったから」

 スマホから恥ずかしそうに、でもどこか幸せそうな声色でそう言う先輩の声が流れて私は顔の一部が熱く火照っているのを感じる。けれど、それが何なのかは私には知る余地もなかった。

「……別に、明日も話せるじゃないですか。毎日会えるんですから」

 私が何気なくそう言うと、三秒くらいしてから先輩のクスクスという笑い声が聞こえてきた。私はなぜ先輩が笑ったのかを理解できず「なんで笑ってるんですか?」と不思議そうに伝えると、画面の向こうの先輩が「なんでだろ」と言葉を続けた。

「毎日会えるのって……凄いなぁって思ってさ」

 そんな先輩のキラキラした言葉に、私は一瞬キョトンとした後に笑を零して返事をする、精一杯の同情と悦びに近いそれを声に乗せて。

「なんですか、それ」

 明日も会うのに、対して話がある訳でもないのに、こうして電話をしている。毎日会えるのに、もっと一緒にいる時間を求めている……そんな先輩が、私を笑顔にしたんだ。私たちが笑いあっていると、先に落ち着きを取り戻した先輩が、まだ笑みが残っている私に向かって優しく囁くように言葉をかける。

「明音……好きだよ」

 突然の告白に、私は一瞬固まって目を見開くが……よくよく考えれば今更だと感じると同時に困ったような笑顔を浮かべ、先輩に「そうですか」と撫でているかのような優しい音で伝える。そして私はふと、先輩に意地悪しようと思い立って嘲笑するように告げる。

「まぁ……私は先輩の事、別に好きじゃないですけどね」

「それでもいいよ」

 あまりにも真面目なトーンでそう即答する先輩に、私はギョッとして少し後ろめたい気持ちになる。なんか……もっと「えぇー」とか「ひどいなぁ」とか、そういう反応を期待していたのかもしれない、この反応はとても意外だった。そんな私の事を無視するように……まぁ顔が見えていないからしょうがないんだけど。先輩は淡々とした、温もりのある声で私に続ける。

「明音が私の事を好きじゃなくても、私は明音の事が好き……何故かはわからないけれど、それだけで私は幸せなの……かな?よくわかんないや」

 そう言って途中で恥ずかしくなったのか、最後に笑い飛ばす先輩。しかし私にはそんな事、頭に入ってすらいなかった。先輩の口から出た「幸せ」を聞いた私は、何故か一気に心を突き放されたような暗い感情に襲われたのだ。胸の奥深くがジリジリと炙られているような痛覚に似た感情……息苦しいような辛さ。

……けど、そんなものは私が正体を理解する前に私の中から排除された、先輩が「明音ー?」と声をかけてくれたから。

 ……不思議だった。先輩と話していると他の事がどうでもよくなるような、全てが良くなっていくような気持ちになれる。なんだかんだ、恋愛対象として見ていなくても……多少なりと月嶋先輩の事が好きなのかもしれない。

 先輩の包み込んでくれるかのような声に、私はその後も何十分と耳を傾けていて、気がついたら日を跨いでいた。



「それじゃあ、改めて……演劇部の活動を本格的にスタートさせます!」

「「わーわー」」

 午後四時前、いつもの部室にあつまる五人の私たち。月嶋先輩の自信満々な活動宣言に、姿勢が比較的正しい私と透子は、挑発的に大雑把な拍手を送りながら大衆の歓声役をした。

「全く……一ヶ月間の読書はまるで生き地獄でした、スタミナがいくらあっても課金必須です」

 いい加減読書に飽きてきて最近ずっとダラダラしているだけだった凛ちゃんは、私たちのいるダイニングテーブルとは違いソファに一人腰掛けているものの……顔を見る限りやる気はありそうだった。

「それじゃ、まずはどんな劇をやるか決めるわよ」

 月嶋先輩の隣に腰掛けて手を膝の上に置く陽向先輩が私たちにそう呼びかけ、一枚のA4白紙を机に広げた。

「今回は、みんなで案を出して組み合わせたものにしようと思うの。……前回、話の出来はよろしくなかったから」

「うぅ……ごめんね」

 陽向先輩の辛辣なその言葉に月嶋先輩は肩を狭め、愛想笑いをしながらその様子を他人事に眺める。……私的には、別にいい話だと思ったんだけどなぁ……でも、今思い返すとシナリオとか話全体の内容は目を惹くものがあったけれど、テンポが適当というか……いらない会話が多かったり、話の展開が急だったりして中々カオスだったなと思う。


「……あっ、でもあれって三年生の人達の為に作った話ですよね?」


 ふと思い出したように真顔でそう言うと、先輩達は揃い揃って私へ呆気に取られた顔を向ける。静寂を切り開いたのは震える声の月嶋先輩だった。

「……な、なんで……いつから?」

「え?……初めにキャラクターの名前を見た時からですよ……恵美だから恵って。三年生も三人、全員で元々五人だったので登場人物もピッタリですし……」

 私はまるで知っていて当たり前と言わんばかりの口調でそう話すと、呆気に取られたままの月嶋先輩をよそに、陽向先輩はゾッとした顔を浮かべて口を開く。

「星乃さん……変なところで冴えてるわね」

 ……え、これディスられてる?

「んーじゃあ、なんでその劇をアタシ達とやったんすか?」

 頭の後ろで手を組み、ふいにそう言う透子の以外な言葉に私はハッと我に返る。確かに、三年生の先輩とやる為に作った劇を私たちが行う理由がない。すると月嶋先輩が俯きながら、沈んだ声をしながらも無理に笑うように答える。

「三年生……いや、当時の二年生がやめた理由……話しておいた方がいいよね」

 陽向先輩はそんな月嶋先輩の顔を横から覗き込みながら心配した視線を送る……が、月嶋先輩はそれに目もくれずに話始めた。

「三年生の三人の先輩達のうち、二人が私の事を……ようは好きになっちゃったの。喧嘩争いばかりになって……それから、今後お互いに私と干渉しないと言って二人とも退部……残りの一人も、三人の縁を引き裂いた私のことを恨みながら後を追って行った……」

 先輩は心の底から名残惜しそうに、思い口を開いてそう告げる。そしてあからさまに気分が沈んだ月嶋先輩の背中を摩るように陽向先輩が手をかけた。

「……そんな事があったんですね」

「えぇ……それで恵美は仲直りして欲しくて作ったこの台本を、無駄になるくらいならあなた達一年生へと託したのよ」

 たった今、あの台本を読んだ時に感じた違和感の正体がわかった。あの台本には、他人を楽しませようという意志が感じられなかったんだ……話全体の内容が変に不自然だった理由は、物語に込められた本当の想いが特定の人物向けだった為。

「ふーん……で、どんなのやります?」

 さっきまでソファにいた凛ちゃんは、私の肩へと手をポンッと置き、頭の横から覗き込むように白紙を眺めていた。さっきまでの月嶋先輩の話には全く興味は無さそうで、寧ろ鬱陶しがっているように見える。

 ……しかし、月嶋先輩はその言葉を捉えたかと思うと顔をピシッとさせ、僅かな笑みを浮かべて前へと向き直った。

 何かが解決した訳では無いけれど、今はそんな事で止まっている場合ではない……そんな熱意を宿した瞳だ。机の上に転がっていた水性ペンを手に取って大きく深呼吸したのち、先輩は顔をパァッと明るくさせて私たち演劇部員全体へと呼びかけた。


「そうだね……うん、よし!じゃあみんなで考えよう!」

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[良い点] みんなてえてえです。私は凛ちゃんの冴えている強者感がとても好きです! [一言] ちゃんと見てくれている人もいるので連載頑張ってください!
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ