日常の変化
「まーた私の勝ち」
「うぅ……もうここまで来るとなんかズルしてんだろ」
私達一年組は大宮駅のゲームセンターに来ていた。土曜日だから日曜日よりも比較的空いていて、見かけた人の大体が中高生だと思う。
「透子は先が見えてないんだよ、目の前の敵を倒すだけじゃなくて、もっと深い深い……」
凛ちゃんは二人プレイ用のシューティングゲームで透子と先にやられたら負けというゲームに勝ち、二人用の難易度を一人で平然とこなす。片手をポケットに入れて何の苦の顔も浮かべずに湧いてくる敵を華麗に倒しながら透子のやり方に指摘をいれてる。
「核心をつかないと」
凛ちゃんがそう言うと同時に最後の図体のでかいボスらしきモンスターは倒れ、画面には英語でクリアの表記が浮かびキラキラした演出が始まった。
「透子と明音ちゃん、シューティングもレースも音ゲーも駄目とか……普段ゲーセン来てないんだ?」
凛ちゃんは少し残念そうな表情を浮かべて前かがみになり決定ボタンを凄まじいスピードで連打する。
「週三でゲーセンもどうかと思うけど……」
凛ちゃんは背中をグイッと伸ばすと、銃を台の横に慣れた手つきでしまいプレイヤーの名前を入力する画面のままクレーンゲームの方へと歩いていく。
……これ迷惑なのでは?……でも、とりあえず順番待ちしてる人はいないから時間経過で消えてくれるだろう。負けて悔しかったのか、ブツブツ言いながら透子も当たり前のように凛ちゃんについて行っちゃったし……私も逃げよう!うん、そもそも今回は私やってないし。
私は何も見なかったことにしてクレーンゲームが沢山並んでいるエリアの凛ちゃん達がいる所へと急ぎ足で向かった。ゲームセンターは中学の頃四人でよく来てたけれど、それ以外ではほとんど行っていない。一回遊ぶ事にお金払うなら家で別のゲームした方がいいと思えてしまうのだ。今回は凛ちゃんが三人で行こうと誘ってくれたからついてきたけれど……まぁ、来たらきたで楽しいから全然いいんだよ。
私がひょいっと凛ちゃんの元につくと、もうプレイし始めていて、なんか……よくわからない餅みたいなのに顔がついている大きめのクッションに標的を合わせて透子と熱中している。
「クレーンゲームかぁ……」
私は今月なかなか金銭的に苦しいから参加するのは断念し、それを見守る事にした。
「あぁ!……アームよっわ」
凛ちゃんが自分の髪をガシャガシャと掻き乱し少し上の方向に頭を向ける。
「……ったく、これじゃ取れないなぁ……別のにすっか」
「無理嫌不可拒否」
この様子を見て取れないと判断した透子が腰に片手をあてて、揺れが止まっているクレーンを見つめながら凛ちゃんにそう言うと、凛ちゃんは顔に嫌悪を浮かべてクレーンを下から睨み全面否定する。凛ちゃんのレバーを握る拳に血管が浮き出ていて、少し小刻みにぎこちなく震えているのが私にはわかった。たかがクレーンゲームにそんな怒んなくても……。
私と透子は一度目を見合せた後、凛ちゃんのそんな様子を「やれやれ」といった仕草を手でとり、目線を凛ちゃんから再びクレーンへと戻す。三本のアームがこの大きな餅を掴もうと必死に抱えるが、餅はいとも簡単に隙間からすり抜けたり持ち上がらなかったりと必死にその場に留まろうと抵抗する。
「……これ、何のキャラだ?」
「……え?」
透子のふとした疑問に対して、凛ちゃんは驚きのあまり目を丸くしレバーを奥方向へ倒したまま透子の顔をじっと見つめる。倒されたままのレバーはもうこれ以上進むことのできないクレーンをまだまだ奥へと押し込もうと無力な努力を続けていた。凛ちゃんのこんな顔、初めて部室に凛ちゃんが来た時依頼だなぁ……なんだか、もう懐かしく感じる。私がフフっと一人笑うと同時に凛ちゃんは我に返って透子に真剣な顔でゆっくり話しかける。
「ほんとーに……知らないの?」
「うん、知らね」
「……信じらんない」
無垢な笑顔をニコッと浮かべる透子に対して、凛ちゃんは目を伏せながら嫌味をいい、大きくため息をしながら深々と項垂れた。透子がそんなに?って顔をしながら凛ちゃんを見ていると「まぁ透子は知らない、か」と私たちに聞こえない声で呟き顔を上げる。
「今流行ってる白餅アザラシだよ?ね、明音ちゃん……明音ちゃん?」
まさか明音ちゃんもなんて言わせないでねと言わんばかりの鋭い視線を目元に感じて、私は冷や汗をかきながら目線を左下へとずらし「ごめん」と一言放った。
私の言葉を聞いて俯いた凛ちゃんが悲しそうに小さな声で「裏切り者」ってボソッと呟いた気がするけど、これは私の聞き間違いだってことにしよう。私と凛ちゃんはお互い目線を逸らしたまま沈黙を作っていたが、透子はその白餅アザラシが流行っていると知り、少しテンションがおかしくなったらしい。目をキラキラとさせながら、やけにうるさい声で凛ちゃんにフォローを入れる。
「じゃあ……流行ってんなら、とらなきゃな!」
透子が凛ちゃんの顔を横から覗き込むように見つめ、白い歯をニッと見せて笑いかける。そんな透子を見た凛ちゃんは数秒ほど残念そうな顔のまま見つめていたが、やれやれと言っているかのようにフッと表情を崩して背を伸ばし透子に向き直る。透子と六センチ差の凛ちゃんが並ぶと、かなり差が激しくてお互いの大小が目立つ。まぁ、私の方も百六十ないんだけどね。……そして何を思ったか、凛ちゃんはニコッと笑顔を浮かべクレーンゲーム内の白餅アザラシを指さして透子に語りかける。
「……透子、これ可愛いよね?」
「うーん……可愛くはねぇわ」
○
ピロンッ!
「ん……あ、先輩からだ」
人混みの駅の中、二人が横に並んでさっきのクレーンゲームに関する苦情を流れるように語り合い、その後ろを歩いていた私のスマホが振動したため何の通知かなと思ってポケットから取り出すと、そこには「恵美」と書かれた連絡先からメッセージがきていた。
連絡先を交換して以来は毎日のように夜な夜な無駄話をしているけれど、わざわざ昼間におくってくることはなかったので少し驚いた。それと同時に、なんだか胸の中がポカポカするのを感じて手の平を胸にそっと当てる。
いや、そんなことしてる場合じゃないか……一体なんの用だろう?多分大切な話とか面倒事とかじゃないとは思うんだけど。
まだ二人は……というか、もう凛ちゃんだけが、周りの人に聞こえるくらいの大声で嫌味や苛立ち、ストレスを口から外へぶちまけている。私は通知をタップした後パスワードのところに自分の誕生日を入力する。表示されたトーク欄には先輩から「明音、おつかれ!」というメッセージと写真が一枚送られてきていた。私はその写真をチラッと見たあと、驚きのあまり目を見開き「えっ?」と声を漏らしてもう一度見直す。
「……ここって」
この写真に写っている場所……間違いない、西口の大きなビルの屋上だよね。おくられてきた月嶋先輩と陽向先輩のツーショット写真、その後ろには青く澄んだ雲ひとつない今日の空をどこか高いところから見下ろしているかのような写真。そして先輩達のフェンスの後ろには大宮と書かれた、横に大きい建物がしっかりと写っていて、やはり先輩達がここら辺にいるという情報が必要以上にわかった。
「あ……」
私がひらいていたトーク欄に「今大宮にいるんだ!明音の家の近くだね!」というメーセージが送られてきた。私は先輩に「知ってますよ」と打って送信する……前に、その文頭に「後ろに書いてあるんですから」と付け足してから送信した。送信した私のメッセージにすぐ既読がついたから、先輩も今トーク欄を開いているんだろう。同じ場所にいるのにメッセージを送るなんて……私はスマホの画面をおでこに当ててクスッと笑った。こんなに近くにいるのに……先輩は気づいていないのか、変なの。まぁ、伝えるのはやめておこう。先輩の事だし合流しようとしてくる可能性も高い……先輩に会いたくない訳じゃない、別に嫌いじゃないし……面白そうだし。でも、こんな謎のキャラクターが印刷されたパーカーといいラインパンツといい、私の持ってる服の中でも、こんなに変な格好を先輩には見せたくなかった。
「私たちがいるのに歩きスマホなーんて……誰と連絡してんのかな?」
ふいに目の前で立ち止まり私の方を振り返った凛ちゃんが嫌そうな顔で私の顔を見ながらそう言うと、透子もつられて私の方に振り返る。私は咄嗟に声をかけられたのでビクッと肩を揺らした。
「……歩きスマホは危ないぞ」
「うぅ……全くその通りです……」
透子にも怒られるような形で指摘されてしまい、私はスマホを片手に持ったまま、ただ謝って丸く縮こまるしかなかった。そんな私の死角から回り込むようにして凛ちゃんは後ろからスマホの画面を覗き込み「恵美……」と連絡先を読み上げた。
「え、恵美って……月嶋先輩じゃなかったか?」
透子が私にそう聞いてきて、私がそれに答える前に凛ちゃんは私の正面に回って頭を一度頷かせる。すると凛ちゃんは私の顔を下から睨みつけるようにネタッとした表情で見つめながら通路の縁、ゆっくりと口を開かせる。
うっ……空気が重い、全身にまとわりついてくる。まるでドロドロした液体の中に沈んでしまっているかのような、この空気。流れる、私と凛ちゃんの間にだけ。
「なーんで、明音ちゃんが連絡先持ってんのかなぁ」
凛ちゃんのその声は、深かった。心の奥底に閉ざしていた何かにひっかかってしまったような、人の底から溢れ出てくるような黒い液体。妬みと怨みを混ぜ合わせた物を今すぐにでも解き放ってしまいそうな不安定な感情。私は、いつもの親近感でそれをすぐに察した。
「……ん?どうしたん?」
凛ちゃんの背中と私の顔しか見えていない透子には、この状況が理解できないのだろう。じっと動かない凛ちゃんに、それを見つめて固まっている私。……でも、そこにいた方がいい、凛ちゃんの後ろのままでいた方がいい。
今の凛ちゃんの目は、簡単に人を殺めるだろう。透子は、こんな物、こんな感情を知らなくていい。
「まぁさ、とりあえず落ち着けって。な?」
直前までの私の思惑に反して、透子は凛ちゃんの後ろから素早く回ってくると私たちの間に介入して手を突っ張り、凛ちゃんと私の距離を引き離した。その力はかなり強く、私も凛ちゃんもフラッと後ろ方向によろけてお互いのことが視界に映らなくなる。
沈黙。……何が原因でこうなった?
「……ごめん、透子」
そう言ったのは私ではなく凛ちゃんだった。ふと我に返り自分の感情に後悔した凛ちゃんは、目を伏せて悲しそう……悔しそうに地面を見つめて手を横で握りしめる。そんな凛ちゃんをじっとさっきから見つめている透子は、一言も声をかけなかった。私の角度からは透子の顔が見れない……今、どんな想いで透子は黙っているのだろう。私はそんな二人のことをいつのまにか客観視していて、何か言い訳を言わないといけないなんて事を考えもしなかった。自分がこの問題に関わっているなんて思えなかった、いつもあんなに三人一緒で仲良かったのに。だから透子が私に視線を移した時、私ははっとしてようやく口を開く。
「この前月嶋先輩と演劇部のグループを作ろうって話してさ、それでみんなを招待するために私たちは連絡先交換したんだよ!」
普段より少し滑舌悪くそう言い、私の咄嗟に出た言い訳を聞いた凛ちゃんはしばらくして顔を上げた。そこにはいつもの自由気ままな凛ちゃんの顔がある。それを見た私と透子は揃って安堵の息を零し、顔をいつものように明るくさせ仲のいい三人組が戻った。
すると、ふいに私たちは何してんだろってみんなで声を出して笑いあった。誰も悪くない、だから誰も謝らなくていい。
なんか……これも青春を感じるなぁ。友達と喧嘩して笑いあって……素敵だ。……ん?これ「も」?他に何があるんだろう……あぁ、赤点かな。私は自問自答を脳内で行い、他のみんなと同様に今はもう笑うのをやめて微笑みあっている。
そんな中、まず初めに透子が身体をクルッと回転させて前へと歩き出したから、つられて私と凛ちゃんもお互い目を見合せ歩きだした。……うん、いつも通りだ。
「あっちょっと待って!」
突然立ち止まった凛ちゃんがそう言うと私のスマホを勢いをつけずに取り上げていじり出す。私は「勝手に触らないで」なんて気も起きず、透子と一緒になんだろうと疑問だけを浮かべて立ち止まっていた。五秒ほどして凛ちゃんは私たちの方へ駆け寄ってきてスマホを持った手を私たちの正面へ伸ばす。その画面はインカメになっていて、壁の前に並ぶ楽しそうな顔をした私たち三人を表示していた。
……カシャッ!
ピースをしている凛ちゃんと微笑んでいる私と透子の三人は、写真という形になって残った。それは、この先何があってもお互いの事を思い出させてくれるもの。きっと、これからも……いつまでも一緒にいられるような気がする。
凛ちゃんにスマホを返してもらった私は、スマホの画面を見つめながら今日一番の笑顔を浮かべた。そんな笑う私に、凛ちゃんも信じられないくらいニコッと笑顔を浮かべて後ろで手を組み、身体を少し横に傾けて私を見つめてくる。
この写真は先輩に送信されていて既読がついていた……私のダサい服装は結局、守りきることができなかったのだった。
○
「なんで教えてくれなかったの!言ってくれたら明音たちの所まで行ったのに」
「だから言わなかったんですよ」
「……え、明音って?」
月曜日の放課後、部室のリビングにていつも通り椅子に座って各々机で本を読んでいる。私は向かいに座っている月嶋先輩に、この前私たちも同じ駅にいたと伝えたら案の定そんな事を言い出したから、予想が的中して少し嬉しい。私は何かに勝ったような優越感をえた。
一方で、黙々と読書していた陽向先輩が私たちの方を見つめながらキョトンとしている。本を読んでいた手を机に置き、何か考え込むように「明音」と何度もブツブツ呟いていた。それと同じく凛ちゃんも私の名前を呼びながら本に視線を向けていて、なんだか気難しそうにしている。
もしかして、月嶋先輩が私の事を「星乃さん」じゃなくて「明音」って言ったことに反応しているのかな?別に……先輩が後輩を名前で呼ぶなんて中学の頃では普通だったけど……まぁ、突然呼び方変わったら何かあったのかとも思うか。透子は椅子に座りながら、片手で有名な欧米の昔話を黙々と読んでいる。その姿は普段の透子からは想像もできないほど優雅で、落ち着いている……絵になるような姿だった。そんな姿に見えるようになるまで読み耽るなんて……透子は意外と読書とか好きなのかな?普段運動のイメージが根強いから意外だな。
いつものメンバーが、いつものように揃って連日同じ事を繰り返している。改めて考えてみると、なんだか凄い話だ。
「んんー……」
壁にかけられた時計の秒針がうるさいくらいに鳴り響く部屋の中、声を漏らしながら目を瞑り身体を伸ばす凛ちゃん。一呼吸おき、微動だにしない真顔のまま改めて読んでいるその日本文学の名作に顔を戻す。……そういえば今日一日、凛ちゃんがとても大人しかった気がする。……やっぱり、一昨日の事が関係しているのかな。
一昨日の帰った後、凛ちゃんがどうしてあんなに感情的になったのかずっと考えていて一つの答えが導き出された。それは……
凛ちゃんは、月嶋先輩が好き。
私が月嶋先輩の連絡先を持っていることに対して嫌悪感を抱いていたから、恐らくそういう事なんだろう。今も凛ちゃんは、本を読みながらチラチラと先輩の顔を覗き見ては何事もないように振る舞う。私といる時の先輩みたいに耳は赤くなっていない、口元もにやけていない。そのドライアイスのような冷めた瞳で、対象的に太陽のように温かい月嶋先輩の瞳を覗いている。この姿を見ると、凛ちゃんが月嶋先輩に気があるだなんて信じられないけれど……恋は人それぞれなんだし、こういったアピールや反応があってもおかしくはないのかな。三角関係っていうのだろうか、でもそのトライアングルの中、私だけ誰も恋愛対象として好きじゃない。
なんだか、自分だけ恋を知らないみたいで……嫌だな。仲間はずれにされて、孤独な私。
「明音、そこの本取ってくれ」
独り落ち込んでいて目が虚ろだった私に対して、透子はテレビ台を指さしながら温かい声で私に語りかける。そうだよ、透子も恋愛とか興味無さそうだし、陽向先輩だってきっと……うん、私は独りじゃない。
透子に頼まれた「下」と表示に書かれた分厚めの本を届けると、透子はただ「サンキュ」といって私に笑ってみせた。私はそれに対してニコッと微笑み返し、自分の席へと戻ってくる。なんとなく本を読み直す気分にもなれず、私は片手を支えにして頭を置き月嶋先輩の読書している姿をじーっと見つめた。
先輩って垂れ目だなぁ……髪の毛もストレートで綺麗、羨ましい……肌白い……口元。
「ん、どうかしたの?」
先輩が不思議そうに私の顔を見てきて目が合う。私は咄嗟に目を伏せて背筋を伸ばし、手を机の下の膝の上へガタンッとうるさく潜らせた。部員全員、四人の視線を全身で突き刺されるように感じ、私はその場で空気の抜けた風船のように小さくなった。
○
「先輩って、告白とかよくされるんですか?」
道路の脇に落ちていた小石を軽くつま先で蹴り進めながら、のんびりと二人で家の方向へと向かっていた。私は先輩には目線を向けずに石をボーッと見つめながら、何気ない口ぶりで自然にそう問う。すると先輩は、別に驚く様子もなく、口元に指を当てて空を見つめながら答えた。
「うーん……高校に入ったばかりの時とかはよくされてたけど、今は大体……雫が処理してくれているからなぁ」
「……え、処理ですか?」
当たり前のような口ぶりで先輩がなんだか怪しい言葉を放ったから、私は少しギョッとして先輩の顔を見ながら口元を歪ませる。そんな私を軽く視界に捉えた先輩は「そんな怖いことじゃないよ」と言って可笑しそうに笑った。そんな反応に私は少しムッとして注目を石に戻すと、先輩は笑ってはいるけど焦ったような口調で言葉を続ける。
「私はずっと好きな人とか出来ないと思ってたし、恋愛なんて……この『いい子の仮面』を阻害するから邪魔だったしね」
先輩は肩にかかっている黒い綺麗な髪を指で弄りながらそう言ったかと思うと、今度は後ろに手を組んで明るく目を開かせて正面を向く。
「今は……違うけどさ」
そう言って私に向き直り、笑顔を浮かべる先輩。私はその言葉の意味がわからずに「なんですか」と顔に浮かべてそのまま足を進めた。
そうか……陽向先輩が告白しようとする人達に口を挟んで月嶋先輩を守ってきたんだ。この前陽向先輩にも月嶋先輩の過去を話したって言っていたし、そんな話をされたら守ってあげたり気を使ってあげようとするのは簡単に予想できる。陽向先輩優しそうだしなぁ……ちょっと近づきにくいオーラは出てるけど。
まだ夕陽とは言えないくらいの位置と明るさを持つ太陽に照らされる中、私は一つあることに気がついた。
つまり、仮に凛ちゃんが月嶋先輩へ告白しようとしても陽向先輩に阻まれる……のか。
自分でもなぜだか分からないけど、少しホッとして胸を撫で下ろす。そんな私の動作を見ていた月嶋先輩は不思議そうな顔で「どうしたの?」と私の顔を覗き込みながら聞いてくるから、私は「なんでもないですよ」とだけ返して段々と速度が落ちていた足を元のスピードに戻した。
別に凛ちゃんが誰のことを好きになろうと構わないし、私に口出しする権利は無い……けど、でもなんか胸のこの辺がモヤモヤする。
……強いて言うなら、三人で遊べる時間が減るかもしれないのは嫌だな。でも……きっとそれだけだ、それ以外に理由なんてないんだろう。
その後はとくにお互い何も話さず、少し重い空気のまま歩き続ける。何か話題はないかな……そんな事を考えながら下を俯き、横に並んだ自分と先輩の靴を見下ろしている。
「そういえば、先輩ってなんでそんな演劇の活動に熱心なんです?」
私がそう言うと先輩はふと足を止めて、私の視界から先輩の足が消える。片足を引いて身体を横向きにし、頭だけを後ろを振り向かせると、そこには上の空を見つめて少し口角を上げて風になびかれている先輩がいた。綺麗な黒髪が春風にのってその影を波のように動かす。
「……私、将来は役者になりたいの」
その声は、入部する時に演劇を終えたあとの決意と同じものだった。まるで押し付けられているかのような決意、私はそれを先輩から感じた。顔は笑っている、それなのに……とても哀しそうに感じるのは何故だろう。私はそんな先輩に対して、寄り添うというよりもその考え方を否定するかのように、口調を強めて真剣な顔で語りかける。
「それ、本当に先輩のやりたい事ですか?」
「当たり前でしょ」
初めて、先輩から怒りを感じた。私の言葉に対して少しの迷いもなく即答する先輩は、まるで首を強く締め付けられているかのような切羽詰まった声で答える。答えると同時に顔を俯かせてしまったため先輩の顔は見えず、ただ拳が強く握られている事だけがわかった。
「誰も失望させない為に、役者を目指すんですか?」
「違うよ」
「そんなの、他人に押し付けられただけの決意じゃないんですか?」
「違う、違う違う違う……」
私が睨みつけるように先輩へ追い討ちをかけていると、先輩は頭を抱えて身体を震わせながらうずくまっていく。私がさらに声を出そうとすると同時に、先輩は勢いよく顔を私の方に向けて、恐怖に溺れて叫ぶように怒鳴った。
「私はやりたいからやってるの!」
風が空を切る音がやけに耳の奥、鼓膜で響いている。先輩の瞳には、涙が溜まっていた。あと少しでも増えれば、それが零れてしまいそうなほどに。私はそんな先輩を見ていると胸が締め付けられるような息苦しさを感じる。先輩の叫びを最後に、私たちはお互い何も喋らずその場に佇んだ。黒く濁った空気がねっとりと全身にまとわりついているようだ、ずっと心臓が緊張しているようでいて、頭の何処かではこんな先輩が間違っていると訴えかけていた。
私は、今踏み込んでいる。
他人には口を出してほしくない、誰もが持つその心の内。私は間の静寂によって我に返り、不意にその責任の壁に押しつぶされそうで口先が震える。なんでこんなこと言ってしまったのだろう、なんでもっとよく考えなかったんだろう。この言葉が先輩を傷つける事だということは分かりきっていたはずなのに。
私は、先輩の今までの演劇に対する努力やその夢、目標を疑ったんだ。……いけないことをした、私の事を好きと言ってくれた人に酷い仕打ちだ。謝ろう、これ以上探りを入れるのは辞めよう。そう思い私はゆっくりと口を開いて、自分の内に入ってしまった先輩に聞こえるよう大きな声でわざとらしく言う。
――なら、なんでそんな哀しそうなんですか。
先輩は驚いてバッと顔を上げ、私の瞳を一直線に見つめてきた。先輩の瞳には自分の発言に驚き目を見開く私の姿が反射している。言葉を考えるよりも先に、自分でも理解できないような台詞が口から出てきて、私も戸惑いが隠せない。
なんでそんな事を言ったの?なんでだろう……でも、このまま先輩が哀しい決意を抱えたまま過ごしていくなんて嫌だ。私は瞳の奥深くに煌めきのような、断固とした決意を抱いたのを肌で感じる、無謀だと分かってはいるけれど……これが、最善策だ。拳を強く握り締めて震える指先を自分自身から誤魔化す。
「……私が壊しますよ、その偽物の決意」
私は小さな声でそう宣言しながら頭を正面に向け直し、再び俯いてしまった先輩を尻目に一人道を帰って行った。
○
その背中に手を伸ばして掴もうとするけれど、私には遠すぎる。夕陽に照らされて強く足を動かすその姿、私にはできない決意。
私は、あの子が好き……そう、好きだ。皆が色々な想いを抱き、自分のしたい事をする中であの子だけは違った。自分の意思など持たずに他人の想いを自分が肩代わりすることで、真似して生きている。本当にやりたい事、自分の望みなんてない空っぽの心。だから、あの子は私に失望なんてきっとしない……私がどんな行動や選択をしても、きっとただそれに賛成してくれる、受け入れてくれる。そんなあの子だからこそ、私は隠してきた心の内にある、もう忘れかけていた他者に対する好意を呼び覚ますことができたんだ。
でも、今の彼女は……自分の意思で私の決意を破壊すると言った……私を否定した。私にはこれしかないというのに。ん、なんだろう……この胸の中のモヤモヤ、何かが遠のいていくようなこの侘しさ。
あれは、あの子の本心?否、違う。
あの子はきっと、一人で本心に辿り着くことは不可能だ。あの日、私には見えた。あの突然気絶した後に目を覚ました時の瞳の奥……それは、あの子が抱いている恐怖。あの子は自分が本心を見つけることを本能的に拒んでいる。
だから、私は安心できる。外的要因が何も無ければあの子は何も得られない、私のモノでいてくれる。もし仮に、あの子が私の事を好きになってくれるのならば……それは嬉しい、うん。この仮面の内と外の両面を知った上で好きになってもらえるのならば。
私はもう影さえも見えなくなってしまったその道の奥、いないはずのあの子をただじっと見つめる。川のせせらぎと風の空を切る音、木々が風に揺らされ小さく不規則な音色を奏でる。
あの子は、これからどうするんだろう。私は、嫌われてしまったかな……怒鳴ってしまったし、強く当たってしまった。本当の私はこんなにも弱くて脆いということを見せつけた。……いや、あの子は気にしないか、そういう子だ。
私は明音の透明な足跡を辿って足を動かし、手を後ろで組む。ふと空を見上げると、うっすら星がひとつ高いところにあるのを見つけ、そこをじーっと見つめながらため息をこぼした。
「はぁ……しばらく、気まずくなるなぁ」
○
「さて、どうしよう……」
風呂上がり後、リビングのソファで仰向けに寝っ転がり、真っ白の天井をボーッと見つめながら物思いにふける。……あぁ、時計がうるさい!
ポコポコとソファの背もたれ部分を握りこぶしで叩いていると、さっきまでキッチンでミルクを阿呆みたいに入れてコーヒー飲んでたお姉ちゃんが私の視界にヒョコッとら現れたかと思うと「なにやってんの」と若干引いている口調で話しかけてきた。
「うーん……ちょっと考えごと」
私がそう呟くように答えると、お姉ちゃんは私の視界の下の方に消えて間髪入れずに私のお腹へと勢いよく腰を下ろす。私は「うっ」と声を漏らして叩く標的をお姉ちゃんへと変更した後、顔をムスッとさせながら再びドンドンやる。
「ちょっ痛、ま!待て、冗談じゃん」
焦った様子でお姉ちゃんが立ち上がると、私は起き上がってソファに座り直し、その隣にお姉ちゃんも座り込んだ。チラッとお姉ちゃんの方に目を向けると、お姉ちゃんは透き通るような赤茶色の紅茶らしき液体の入ったマグカップを持っち、テレビを付ける。おそらくコーヒーを飲んだ入れ物に紅茶を入れたのだろう、コーヒーだかティーだか何やってんのこの人。
「それで、何悩んでんの」
テレビのチャンネルがコロコロと変わるのを見つめながら、お姉ちゃんが私にそう無気力に聞いてくる。
「んー……友達の恋愛事情と人の想いを知る方法」
私もお姉ちゃんと同じくテレビをボーッと見つめながらそう答えると「何それ」といいながらクスッと笑った。
「あかね……ホントに、最近楽しそう」
とあるアニメでチャンネルを固定したお姉ちゃんが嬉しそうにそう言うから、私まで少し嬉しくなってしまい少し頬が熱くなるのを感じる。
そうか、私は楽しいのか……ん、このくだりこの前も無かったっけ?
部屋の電気をパチッとつけ、自室の扉をしめて自分の机の上で充電されているスマホからケーブルを抜くと、十一時頃に月嶋先輩から「おやすみ」とだけ連絡が来ていた。私はホッと息をつき、既読をつけるのが面倒くさくてそのまま通知を消す。
「嫌われたかと思った……」
スリープしたスマホを片手に私は灰色パーカーのまま机の隣、地べたに寝っ転がってまた天井をボーッと見つめる。あんなに怒鳴られたし、踏み込んだことをした……先輩を否定したんだから嫌われていても不思議じゃなかった。私は頭の片隅にあった不安がひとつなくなって気分が楽になり、机の上に置いてあったヘッドホンを取る。耳に当てる部分の下面にある電源ボタンを長押ししてスマホと無線を繋ぐと、手馴れた手つきでとあるアルバムを選択した。
色を抜ききったモノクロの少女の胸にハート型の穴がポカンと空いているそのジャケットからは、それに似つかないほどのカラフルでポップな音色が弾み出てくる。甘いスイーツのような歌詞に、可愛いの塊のような旋律、そして微かにある……何かが足りない感じ。うるさいくらいの音量で音楽を流しっぱなしにして私は状態をグッと持ち上げた。
「とりあえず……もう、寝よ」
スマホを机に置き、ヘッドホンをつけたまま電気を消しに立ち上がる。一瞬フラッとして壁に手を当て、明日からのことを考えて重くなった身体をノロノロと動かす。部屋の電気を消すと同時に、少し空間が広くなったよくに感じてそのままベッドへ倒れ、薄手の布団へと潜り込んだ。
次の日の朝、先輩に未読スルーしているのを思い出して起きて早々「おはようございます」と送信した。