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表題は私に咲く  作者: kurage.kk
第一演目
5/17

偽りの仮面


 夢って不思議だ。起きてから数十秒もすると何があったか忘れてしまう。

 楽しい夢、怖い夢、悲しい夢……覚えていられるのは、そんな感情と気持ちだけ。何があったのかわからないけれど、それが何故か無性に心地いい。いつもと変わらず五月蝿く部屋に鳴り響くアラームを止め、十分程遅れて起きる気力がわき布団をズラしながら上体だけを起こしカーテンの隙間から漏れる淡く黄色い太陽光をじっと見つめる。

「……もう、朝か」

 なんだか枕の一点が冷たく湿っていて、目元がカピカピしているような気がする。一体どんな夢を見ていたんだっけ……確か川の中から水面を見上げてて、そこに映る自分を見ているみたいな……胸の辺りが締め付けられるような苦しさ……まぁ、別になんでもいいか。だって、記憶に残っていないのだから……悪夢じゃないだろう。


――それか、心地の良い悪夢だ。



「あ、こんにちわ。おつかれさまです」

 六時間にわたる授業という名の精神的苦痛が終わり、私は凛ちゃん達を置いて一人先に部室へと来ていた。リビングに入って先輩達と目が合うと、私は会釈しながら挨拶をする。椅子に座り本を読んでいた先輩方二人は私にペコッと軽く頭を下げ、また再び本へと視線を戻す。先輩方の前にある机の上にはペットボトルの麦茶が置かれていて、この人達も麦茶とか飲むんだなーって思った。なんか、紅茶とか作って飲んでるイメージを抱いていたから。部室でそんなことしている方がおかしいんだけどね……でも、この部室……っていうか家には、リビングの一角にキッチンがあるし、多分可能ではあるんだろう。……ホントに、なんでここ部室なの?

 テレビ台の下に整理した溢れるような本の中から、適当に真ん中のあまり分厚くない本を選んで机へと向かう。先輩同士が向かい合うように座っているから、私は必然的にどちらかの先輩の隣に座らないといけないんだけれど……陽向先輩と月嶋先輩、どっちの隣に座ろうかな。机のすぐ目の前に着くと、私はそれぞれ二人の先輩をチラッと見たあと、よく話す月嶋先輩の隣になんとなく座った。私が座った時に月嶋先輩が少しビクッとしていた気がしなくもないけれど、私はそんなこと気にもとめずに手元の本へと注意を向ける。他に比べて薄いからなんとなく持ってきたけど、これ何の本だろう……。私は裏返っている本をひっくり返して、そこに書かれているタイトルを読み上げた。

「なになに……ゲーテ詩集、えっ詩集?」

 私はなんてものを持ってきてしまったんだと絶望した表情を浮かべる。私が詩集って、なんか厨二病っぽくて恥ずかしい……先輩とかに変な勘違いされなければいいんだけれど。そんな事を気にして不自然にキョロキョロしていると、その違和感を感じ取った陽向先輩が私の方を見て、詩集に気がつき話しかけてくる。

「……あら?星乃さん、詩集なんて読むのね。好きなの?」

 まさかの陽向先輩が声をかけてくる。その陽向先輩はちょっと嬉しそうな話し方だったけど、それ以前に私は少し混乱していてそれどころではなかった。え……もし仮に声をかけてきても月嶋だろうと思っていたから、正直凄く驚いた。私が目を見開いて固まっていると、陽向先輩はいつまでも答えない私にイラッとしたのか、口調を強くして吐き捨てるように言った。

「……カッコつけたいの」

「いやそれだけは違います」

 陽向先輩が話終わる前に私は真顔で完全否定する。そのあまりの迅速さに陽向先輩はギョッとして、若干引いたような素振りで「へ、へ〜」と言ってきた。……信じてもらえたか怪しい。

「でも、それ結構面白いよ?」

 そんな中何を思ったのか、私と陽向先輩の空気に月嶋先輩が入り込んでくる。そのセリフはカッコつけと評価した陽向先輩に向けてなのか、行き場のない私に向けてなのかはわからないけれど……この本は先輩のオススメ、それが無性に頭によぎる。

「そうなんですか……じゃあ、読んでみようかな」

 顔色一つ変えずに私がそう言って本を開く様子を、月嶋先輩はまるで子供の成長を見守る母親のような目と笑みで私の事を見つめる。そんな私達の構図を見た陽向先輩は不満そうにじっと私達を見ていたけれど、私はどうして陽向先輩がそんな顔をするのか理解できなかった……とりあえずこれ読もう。


「こんちゃー」

 気力のないそんな挨拶が開きっぱなしのリビングと廊下を繋ぐ扉から聞こえると同時に、ダルそうに腕をダランと垂らし、前かがみでノロノロ歩く凛ちゃんと、頭の後ろで腕を組んでボーッとしながら歩いている透子が部屋の中へと入ってきた。凛ちゃんが項垂れた頭をグイッと後ろに回して、見下すような視線で空いている陽向先輩の隣の席を確認し、そっちへのそのそ進んでいく。透子は壁際によけられている椅子をこっちへ持ってきて、私の隣……月嶋先輩と逆の方向へと座った。

「……河西さんは、一体何があったの?」

 月嶋先輩がキョトンとした顔で座っている透子と机に全身を預けてダラっとしている凛ちゃんを交互に見て不思議そうに、それでいて寄り添うような声色で聞いた。

「いや……凛がいつも飲んでるサイダー、売り切れてたんすよ」

 ビクッと身体を揺らす凛ちゃんに、私たちは全員揃って視線を向ける。月嶋先輩は愛想笑いを浮かべているが、透子と陽向先輩は死んだ魚の目だった。

「……凛ちゃん」

「何!悪い?だって飲みたかったのに無いんだもん!」

 私が声をかけると凛ちゃんは机から顔を上げて私に向かって怒鳴り、それをまぁまぁと手で落ち着かせる透子。凛ちゃんって以外と子供っぽい……?

「いや、そうじゃなくて……そこの冷蔵庫の中に入ってなかったっけ」

 そう言いながら私は部室のキッチンを指さす。この前部室散策した時に冷蔵庫を開けたら色々な飲み物が入っていたような気がしたから、もしかしたらサイダーもあるかもしれない。私のその言葉を聞いた凛ちゃんはハッとした顔で数秒じっとしていて、咄嗟に立ち上がり冷蔵庫へと向かって物色を始めた。私がそんな凛ちゃんを指さして月嶋先輩と陽向先輩に視線を送ると、陽向先輩がため息をついて一度小さく頷いた。

「別に飲んでいいわよ、三年生の忘れ物だし……賞味期限は一応きれてなかった……と思うわ」

「一応って……」

 そんな会話を交わしてもう一度キッチンの方に目をやると、すでに発見したサイダーを六分目くらいまで飲み干している満面の笑みを浮かべた凛ちゃんが視界に飛び込んできた。あぁ……お腹壊さないでね。凛ちゃんが満足そうに椅子に戻ってきたタイミングで、月嶋先輩は集まっている演劇部全員に声をかける。

「それで、今日からは読書とかがメインの活動になります。小説とか読んで感性を磨いたり、物語の知識を増やしていくのが目的だね」

 月嶋先輩が私達にそう言うと陽向先輩に視線を送り、続きの説明を求める。

「えぇ……だから、別に自由にしてなさい。そこの棚の中にタブレットが一つと、テレビ台の下に本が沢山あるから」

 そんな事を目をつぶりながら言うと、透子は「はぁーい」とのびた返事をして本を取りに行った。凛ちゃんは……ニヤッとしたまま明後日の方向を見つめていて反応がない。……先輩達、これから苦労するだろうなぁ。私は手元にあるゲーテ詩集にまた視線を落として七ページあたりの読んでいた箇所を探し、読書を再開する。



 ……部屋の中には穏やかな沈黙が流れていた。しばらく読んでいるけど……やっぱりこの詩集、何を言ってるのか私にはさっぱりだ。いや、意味はわかるんだけれど……なんで?ってなる。下手にこういう物には手を出さない方がいいな、うん。

「……明音ちゃんってさ」

 不意に私の名前が呼ばれて声のした方向に目をやると、腕を机の上で組んで頭だけあげた凛ちゃんと目が合う。私がどうしたのと言わんばかりに目を開いて次の言葉を待っていると、凛ちゃんは口を開いてから数秒して声を発した。

「……陽向先輩がどんな人か、ちゃんと知ってる?」

 私は急に何を言い出したんだと思い、質問を待っていた時から表情ひとつ変えずに頭を少し左に倒しクエスチョンを浮かべる。そんな私達の会話を聞いていた先輩方や透子も目をキョトンとさせ凛ちゃんに視線を送り、それに気がついた凛ちゃんが「いや、だから」と続けた。

「私たち、これから一緒に劇していく仲間なのにぃ……学年クラスくらいしか知らないじゃないですかー?」

 その凛ちゃんの言葉は、遠回しにお互いのことをよく知る……自己紹介をしようという提案に聞こえた。他のみんなもおそらくそう思ったのだろう、納得したような表情を浮かべて各自正面に向き直る。月嶋先輩は手を口元に近づけ俯いていたかと思うと、急にバッと顔を上げた。

「……自己紹介、しよっか」

「そう、それですそれ」

 月嶋先輩の宣言に凛ちゃんは伝わった事の満足感でまたダランとしてしまった。その様子を私と陽向先輩は愛想笑いを浮かべてじっと見ている。

「そんで、誰からやるんすか?」

「じゃあ……私からやろうかな」

 透子の呼び掛けに、月嶋先輩が一番に名乗りをあげる。言い出した凛ちゃんからでもいいかなと思ったけれど、やはりここはしっかりしている月嶋先輩がスタートさせるのがいいだろう。月嶋先輩は椅子を引いて立ち上がると、私たちを見ながら自己紹介を始めた。

「二年三組、月嶋恵美です。読書と音楽と演劇が好きで……演劇部部長になりたいと思っています、よろしくね」

 先輩はそう言い席に座ると、私と透子は小さな拍手を送った。月嶋先輩の自己紹介が終わると、小さくため息をついて陽向先輩が立ち上がる。

「二年一組、陽向雫。好きなものは……そうね、やっぱり読書かしら……みんなの事サポートできるよう努力します、よろしく」

 少し冷たい声で言い終えた陽向先輩だったが、なんだか私にはそれが照れ隠しのように見えた。……さて、先輩組が終わったから今度は私達だけれど誰から言うか沈黙する。

「はぁ……仕方ないなぁ」

 凛ちゃんが言い出したのに、とんでもなく面倒くさそうに立ち上がると一呼吸おいてから自己紹介を始めた。

「一年三組河西凛です好きなのはゲームと音楽よく休日は音ゲーしにゲーセンとか行ってますよろしく」

……ぐうの音もでない自己紹介だ。凛ちゃんは間を空けずに淡々と言い終えると崩れ落ちるかのように席に着く。それを見ていた私に対して透子が立ち上がりながら耳打ちしてきた。

「じゃあ次アタシね」

 立ち上がった後、ふと少し恥ずかしそうに頭をポリポリとかいて透子は自己紹介を始めた。

「一年三組の天宮透子です。身体動かすのが好きです!んで……うん、よろしくお願いします」

 透子が座ると同時に、変な緊張をうまないために間髪入れずにスっと立ち上がる。

「一年三組、星乃明音です」

 みんなの視線を感じる。何の感情もこもっていない眼差し……みんなこんな茶番に興味はないんだろう。凛ちゃんも陽向先輩も透子も、私を見ている。だが言うならばそれだけ、見ているだけだ。……でも、一人。一人だけ、私を見つめている眼差しが輝いている……その視線を辿った先にいるのは、月嶋先輩。

「好きなものはアニメと漫画、海で」

 私に好意を寄せていることが一目瞭然の、その暖かい瞳。見つめられるだけで、何故か嬉しくなるその顔。

「ここ演劇部で」

 温かく感じるような、この胸の違和感……私はハッと咄嗟に我に返る。私は今、何を言おうとしていたんだろう。……ここ演劇部で?なんだ、何がしたいんだ、何を思っていたんだ。


 ……あぁ、なーんだ……いつものやつか。


 きっとそうだ……そうに違いない。私がいつもいつもずっと使い続けてきたこの言葉はもう古びて錆だらけになっている。私の心を守るための鍵、もう本当は捨ててしまいたいのにどうしても離れてはくれない私を束縛する鎖。……なぜだろう、先輩の眼差しが認知出来なくなってくる、周りの人が真っ黒だ……温かさを感じない、過去も未来も視野に入らない。心の高鳴りもないし、緊張もない。あるのは、どうにもならない無力さと、モノクロに染まった世界。

 ふと全てに興味がなくなった私は、瞳からハイライトを消して深い深い絶望を浮かべる。しかし、見ているだけの人達にそれは気が付かない。そして最後に、死人のような温度のない言葉を吐き捨てた。


――何の問題もなく、平穏に行けばいいと思います。



 声、聞こえる、大きい、私に向けられている、心配の声。……何?何があったの?ここは……どこ?暗い、黒が認識できないほど真っ暗だ。寂しい、怖い、気持ち悪い、痛い、苦しい。何これ……少し奥に地面に突き刺さって斜めに立っている止まれの標識と、人が横に八人ほど広がったくらいの小さな石橋がぼんやりと見える。……水のせせらぎに、風がビュービューと唸る音。その橋の手すり?部分に中学生くらいの身長の白い人らしき影がぼんやり浮かんでいる。……ここは、何度も来ている気がする……夢、なの?何かが脳裏に訴えかけてくる……聞きなれた、少女の声。

「……」

「……思い出した、またここなんだ」

「……」

 ……………………………………………………、……。………………………………?………………、……………………。


「……さん、星乃さん!」

 ハッと目を覚ますと、月嶋先輩が私を上から覗き込んでいる場面が視界に映った。心配して何度も私に呼びかけていたであろうその瞳には、涙が滲み出ている……あぁ、温かい。私は目だけを動かして周りを一瞥し、寝起きのような細い声で尋ねた。

「……月嶋、先輩。えっと……私は」

「いきなり倒れたのよ、席に着くと同時にね。……頭から横に倒れたから死んだかもしれないと思ったわ」

 私の顔をヒヤヒヤして上から見下しながら陽向先輩が状況を説明してくれた。なるほど、私はいきなり気絶したのか……少し肩が痛む気がするけれど、命に別状がなくてよかったと思う。

「明音、びっくりさせんなよ!」

「透子……ありがとう、ごめん」

 凛ちゃんは少し離れた所の椅子に座って、私を心配する透子をチラッと見た後、私の事など心配しておらず、それどころか私を睨みつけているかのようにも見え、私はその視線に少し身震いした。

「星乃さん、大丈夫?立てそう?」

 月嶋先輩が私の手を取りながらそう訪ねてきて、私は「大丈夫です」と弱く返答して立ち上がった。みんな困惑しているけれど、正直私が一番よくわかっていない。なんか……夢を見た気がするんだけれど……忘れてしまった。既視感だけが残っていて、とても気持ち悪いけれど思い出せない……まぁ、こればかりは仕方がない。

 でも……掴もうとしていた星が、突然姿を消したような……切ない気分だ。

「時間的にも、今日はもう解散にしよっか」

 月嶋先輩がそう言うとみんな賛成し、今日はもう帰ることになった。みんながソサクサと帰る支度をする中、月嶋先輩は不安そうな顔を浮かべて急ぎ足で私のところへと寄ってくる。

「星乃さん……ホントに」

「そんなに心配しなくても……大丈夫ですって」

 私のその返事に納得出来ていなさそうな表情を浮かべる月嶋先輩は、もうキリがないし無視しよう。心配かけたのは本当に申し訳ないと思っているけれど、正直のところ流石にしつこい。なんでそんなに私に構うの……あれ?

 私は自分の両手のひらを胸の当たりに持ち上げてじっと見つめる、なんだろう……この違和感。きっと昨日までの私ならば、心配されたらもっとこう、他に嬉しいとか思ったかもしれない。なのに、今はそういったものがない……元々気のせいだった可能性もあるんだけど。

「考えたって仕方ない……か」

 相変わらず私の事をじっと見つめていた月嶋先輩も、私の独り言は聞こえなかったらしく、いきなり手を見つめだして壊れているように思われたかもしれない。現に先輩は今、口を開いてワナワナしている。はぁ……全く、どうすれば先輩は落ち着いてくれるのか……あっそうだ。

「先輩、今日も一緒に帰ります?」

 私がそう言うと月嶋先輩は目をキョトンとさせた後、あからさまに嬉しそうな表情へと変わる。

「……じゃあ、そうしようかな」

 仕方ないなぁ〜と言わんばかりの先輩の態度を、めんどくさい人だなと思いながらじっと見たあと、私達も他の人達に続いてリビングを後にする。ふと扉で振り返ると、さっきまでワチャワチャしていたリビングは今はもう電気も消えて夕陽色に染まり、完全に静まり返っている。私はそれを見て少しニコッと微笑み、リビングの扉をそっと閉めた。みんなもう部室から出てしまっているから、リュックは私と月嶋先輩の二つだけ。先輩のリュックには真っ白のハート型ストラップがついていて、以外とこういうの興味あるのかなって思った。先にリュックを背負った私は、玄関に向かい靴の目の前で後ろを振り返る。

「それじゃあ先輩、帰りましょうか」

「うん、そうだね!」


 一番最後に部室を出た月嶋先輩が鍵を閉めると、それを見届けた全部員は校門へ向けて足を動かし始める。そんな中、月嶋先輩は私に「鍵を返してくるから先に行ってて」と言い職員室のある校内へと一人反対方向に走っていった。

「んー、今日は疲れた」

 身体を伸ばしながらそう大声で呟く凛ちゃんを見ていた私は横からチョイチョイと手で肩をつつかれ、その方向に顔を向けると不機嫌そうな顔の陽向先輩がいた。えっと……なんだろう、私なんか怒られるような事したかな……?

「星乃さん」

「は、はい!」

 私は変に緊張してしまって、身体が固まり動作がぎこちない。少しうるさいくらいの声で陽向先輩に返事をすると、陽向先輩は私から正面に視線を戻して続ける。

「最近、恵美と仲良いわね」

「!……あっはい、そう……ですかね」

 私は少し肩をビクッとさせた後、すぐにいつも通りの声で曖昧な返答をする。先輩は私の事好きって言ってたけれど、優等生でみんなの憧れの先輩にとって、それは他の生徒にはバレたらいけない気がした。そんな私の返答を聞いた陽向先輩は歩く速度をあげ、少し距離が離れてしまった凛ちゃんと透子の方へと歩いていく。

「私だけで十分なのよ」

 最後に私に何か言っていた気がするけれど、ある程度距離も離れてしまっていたし先輩は背中を見せていたから聞き取れなかった……一体なんだったんだろう。

 校門前についてみんなが先に帰っていくのを見送り、私は月嶋先輩が来るのを門に寄りかかり待っていた。運動部が学校の周りを走っているのが見える。私もそこにいる可能性もあったのに、私は演劇部を選んだんだよね……あれ、なんで演劇部にしたんだっけ。……まぁ、いいか。

「ごめん!おまたせ」

 髪が乱れない程度に走り、呼吸を乱した先輩が私に手を振って近づいてくる。少しでも早く来れるよう努力してくれたんだろう。

 ……あぁ、そっか、きっとこの人のせいだ。

 私は手を口元へやりクスッと笑い、それを見ていた先輩が不思議そうに私を見つめる。……なんでだろう、こんな何でもない一つ一つの会話が楽しい気がする。

「それじゃ、帰りましょうか」

「うん、帰ろ」



「へぇー、陽向先輩って学年三位なんですか」

 横に並んで私達は川沿いの道を歩く。この前通った道と何一つ変わらない、草の高さも変わらなければ空の雲も同じように見える。私達は他愛もない会話を交わしながら歩いていたが、ふと私は過去の疑問が頭をよぎった。

 これは……聞いていいのだろうか、でも聞かなければ知れないまま。それは、嫌だ。

 私は歯を食いしばり緊張して動こうとしない口を無理やり開く。

「……先輩、私が嘘ついてるって先輩に言ったの、覚えてますか?」

「……あぁ、そんな事もあったなぁ」

 先輩があまりに昔のことみたいに言うから、私は「先週ですよ」と笑いながら答える。でも内心全く笑えない、まだ緊張していて声を出すのも苦しい。そんなふうに自分の中で悶々としていると、先輩はその場に止まって足元を俯き、小さく笑いながら口を開いた。

「私……みんなの憧れる人にならないといけないの」

 それは夢とか決意とかそういった類の物ではなく、今にも消え入りそうな哀しい宣言だった。

「……どうしてですか?どうして自分が苦しくなってまで」

 私は先輩に焦りと疑問を混ぜ合わせたかのような感情で、脚を先輩の方に一歩進めて言う。

「……もう、誰も失望させたくない」

 そう言って先輩は顔を見せずに川の方向へと歩いていくから、私もその後を続く。川の淵に膝から座り込み流れるその冷たい水に手を浸す、私はその様子を二歩後ろで眺めることしか出来ない。

 ここには踏み込んでよかったのだろうか……人には知られたくないものがある、私にだって。それに私は踏み込んでしまっているのだろう……それは、私にとてつもない不安と全身を切り裂くような恐怖を与える。

 それでも……それを他者に話す先輩の方が苦しいだろう。だから……先輩が話してくれるのならば、私は先輩の全てを受け止めるだけだ。

「中学二年生の時にね、生徒会長に立候補したの」

 先輩は川に手を入れたまま、私が知りたがっている先輩の事を話し始めてくれた。その声は、まるで赤子に子守り唄をうたうように優しくて耳あたりのいい声。

「生徒会には入っていたものの、勉強も運動もそこそこだった当時の私にお父さんは期待してくれた、あの頑固なお父さんが私に『お前ならできる、期待してるぞ』って言ってくれたの。他のみんなも私を応援してくれた、もう私が生徒会長になっているみたいに話すものだから、おかしくって」

 顔は見えない、ただしゃがんでいる先輩の背中だけが私の視界に映る。でもそのセリフは儚く嬉しそうな感情が伝わってきた。

 きっと……先輩にとってその期待は何よりも大切な自分が生きていくのに必要なエネルギーで、それがあれば自分はなんでもできる……なんていう素敵なものなのだろう。

「でも……私は、裏切った」

 突然空気の重圧が増していくのを全身で感じる。まるで世界が地面に叩きつけられているようなプレッシャー。

「演説本番の日、私は発熱で早退したの」

 目の前に広がる景色が、全て寒色へと変わる。目に見えるように伝わる先輩の不安、不安、不安。

「もちろんそのせいで私は例外なく落選」

 駄目だ、今すぐにでも先輩の顔を見なくてはいけない、想いを確かめなければならない。この空気は、非常に不味い。


――先輩が、呑まれる。


 私は先輩の横へ回り込むように脚を動かした……のに、一歩進んでからというもの……。


「かっ身体が、言う事を聞かない……」


 脳裏に止まれの標識が大々的に映り、私の身体は自分の物じゃないみたいに感覚がプツンと切れた。


 先輩、先輩、駄目、声が届かない、こんなに近くにいるのに。


 そんな私の事など知らずに先輩は話を続ける。

「お父さんがその日の夜にね、私に言ったの」

 

 なんで、なんで私までこんなに苦しいんだ。胸の中から過去に閉ざした黒いものが溢れ出てくるような辛さ。


 先輩は……これを背負っているの?


 先輩はその場に立ち上がると、私の方にゆっくり、ゆっくりと身体を回転させる。


 ……あぁ、そんな顔をするんだ。そうやって耐えてきたんだね。何度も想いを押し殺して、偽物になる。


 先輩は瞳を閉じて笑みを浮かべながら、無理やり沈みきった空気を浄化するように……完璧な、演技を超える偽物の笑顔を貼り付けて、絶望という絶望を全て込めるように吐き捨てた。


「ホントに、残念だ」



 私なら、呑まれていた。

 大きすぎる絶望の壁に先輩は道を遮られている。私には……残念ながらどうにもできない、耐えることも危うい。

 月嶋先輩は私の頭の上を見上げて、ラジオ体操のように深呼吸をしている。その顔には、さっきまでの絶望はもう感じられない。この一瞬で、先輩は自分の闇を再び心の中に引き戻した。私はそんな先輩を見ながら呆気に取られている。驚いた訳では無い、なんとなく先輩が抱えているものが大きいのもわかっていた。

 でも……私は何も出来ない、声の一つもかけてあげられない。「大丈夫ですよ」とか「頑張って耐えているんですね」とか……そんな言葉を先輩にかけて、もしそのせいで先輩が更に苦しむかもしれないと思うと……私にはやはり、何も出来なかった。

 悔しくて俯き、歯を食いしばり拳を握る。全身に力を入れると同時に、この悔しさは自分の無力さに対する怒りへと変わった。

「ふぅ……なんだかスッキリしたかも!」

 月嶋先輩はそう言って私に視線を戻すと同時に、いつもと変わらない瞳で私を見つめてほほ笑みかける。私はその笑顔を見ると、全身の力が足の裏から大地へ抜けていくのを感じた。

「あっこの話、星乃さんと雫だけにしか話してないから、ね?」

 先輩は明るい声でそう言い、口の前で内緒と指でジェスチャーをする。……全く、この人は本当に。

「……話してくれて、ありがとうございます。そ、それと……明音でいいですよ」

 私が照れながらそう言って腕を後ろで組み先輩に笑いかけると、先輩はパァっと顔を輝かせて大きく頷いた。

 その先輩の笑顔は嘘なんかじゃない、偽物なんかじゃない。これは……そう、本心だ。

 誰もかも欺いて、自分さえも偽り続けている先輩が、本心を見せられる人間……それが、私なんだね。

「……先輩、スマホ貸してください」

 私が真面目な顔でそう言い手を先輩に差し出すと、先輩は「なんで?」と困惑し、スカートのポケットの中に入っていたスマホを意図が理解できないまま私へと手渡す。そして受け取ったスマホを平然と起動させる私。

「……先輩、パワードかけた方がいいですよ」

「……え」

 私は先輩のスマホでとある画面まで操作すると、今度は私のスマホもポケットから取り出してそっちを操作する。先輩はそんな私の様子をボーッと見つめ、私が「よし」と声を出すとハッと我に返った。私は自分のスマホをスリープさせポケットにしまい、先輩に笑みをうかべて先輩のスマホの画面を私の顔近くで見せつける。

「先輩が私に、話してくれたご褒美です」

 その画面には「明音」という名前の連絡先を登録したと表示されている。先輩はそれを唖然として五秒程見つめて、急に顔を明るくさせて私の方へと歩み寄ってきた。

「これで、いつでもお話できますね」

「……ありがとう、明音」

 嬉しそうに私からスマホを受け取る先輩を見ていると自然に笑顔になった。ふと空を見上げると、もうかなり暗くなっていることに気が付いて、川から道の方へと向かって私は静かに歩き出す。それに気がついた先輩はスマホを大事そうにポケットにしまい、私の後ろを同じく静かに歩き出した。

 ……全身で、安心を感じる……この感情は一体、なんのアニメの影響だろう。きっと、私のじゃない。


 夜二十二時、ベッドの上でうつ伏せになってスマホをいじっていると、シュポンという音とともに「恵美」って連絡先からよろしくスタンプが送られてきた。私はそれを見てフフっと笑い、好きなアニメのよろしくスタンプを返す。……あれ、先輩にアニメスタンプってあまりよくないのかな?アニメ好きじゃない人からしたら痛いかも。……そんな小さな不安が頭に浮かび、スマホの画面をボーッと見つめる。……でも、もう時間も時間で眠かったから私は気にするのをやめた。

「……もう寝よ」

 先輩に「おやすみ」と送るとすぐに既読がつき、「おやすみ」と温かい返信がくる。私はなぜかそれが無性に嬉しく感じて、顔を耳辺りまで少し赤らめてスマホを両手で持ったまま顔を枕に埋めた。


 あぁ……なんだろう、胸の中がウズウズする。これは、嫌じゃない……なんだろう……なんか、心地いい。


 私はそのまま眠りについてしまったため、その日私の部屋は一日中電気がついており次の日お母さんにひどく怒られた。

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