距離の詰め方
――まだ、胸のこの辺が……モヤモヤする。
「おーい、明音ちゃーん。だーいじょーうぶー?」
「うぇっ!あ、ごめん……なんだっけ」
劇が終わって二日が経過した月曜日。私たちは五限目が移動教室の美術だから、まだ昼休み中だけれど透子と凛ちゃんと教科書を持って廊下をゆっくり歩いている。……この前は先輩がいきなりおかしな行動をしてきたせいで、私はその後ずっとモヤモヤしていて眠りにつけたのが土曜日の朝日が登った後。それが連日続いたせいか、私は今日一日意識がハッキリとしない。
「大丈夫か?明音。今日ずっとそんなんじゃん」
そう言う透子は凛ちゃんと一緒に少し俯いている私の顔を覗き込む。私の答えを待っているようだし、何か言わないと……それに、私の事を心配してくれているんだもんね。
「ん……別に大したことじゃないよ、昨日夜更かしして映画みてたから眠くて」
そんな真実に掠ってすらいない私の答えに対して「なにしてんだよっ」といい笑い飛ばす透子と、納得していないのか何も言わず、しばらくしてから「まぁいいよ」といった雰囲気で前に向き直る凛ちゃん。凛ちゃんは感がいいのかもしれない、透子は中学からずっと一緒だったからわかるけど鈍感だ。透子に何かを勘づかれた事なんて一度きりもない。
「そんで、なんの映画みたの?」
そう笑顔で聞いてくる透子……鈍感、だよね?
「別にそんなのどーでもいいよ。それより透子、私筆記用具教室に全部忘れたから貸してね」
当たり前のようにそう言いながら手を頭の後ろで組む凛ちゃん。もし仮に私へ気を使ってくれたんだとしても、それはちょっとどうなのかな……本当に筆記用具持ってきてない。
階段を登りながら私たちはそんな会話を交わしていると、ふと透子が「ん?」と音を発したと思うと不思議そうに口を開く。
「……それは構わないけどさ、なんで凛ってアタシは呼び捨てなのに明音にはちゃん付けなんだ?」
目を丸くした透子は突然その場に立ち止まって凛ちゃんにそういう。私と凛ちゃんも透子につられて階段の踊り場で止まった。凛ちゃんだけ少し高いところにいて、こっちを振り返らずにそのまま答える。
「……別に、明音ちゃんも私のこと凛ちゃんって言うからだよ」
そう吐き捨てるように言うとそのまま上へと登っていったから、私達も早足で後を追いかける。
「そういえばさ!アタシ前から思ってたんだけど、凛ってどこ出身?」
何も考えてなさそうにそう言う透子に対して、密かに目を瞑り眉間を寄せて拳を握っていた凛ちゃんはもう既に限界だったらしい。
「そーいえばさぁ、どうして透子って黙ってらんないの?」
「「……」」
凛ちゃんのその一言で空気が死んだ。
「とーこー、消しゴムー」
「ん……はいよ」
美術の授業中に教室が静かなことってあるのかなぁ。授業が始まって二十分、教室の中は昼休みの教室以上にガヤガヤしていた。私たちは今、目の前にあるティッシュ箱の上にトイレットペーパーが置かれたソレをデッサンしている。透子達の班は私の班の隣……というか、私の席の丁度後ろに背中合わせで凛ちゃんがいて、三人で喋りながら描いている感じだ。すると、凛ちゃんが振り向いて私の絵を覗き込んでくる。
「へぇ……明音ちゃん上手だね」
凛ちゃんが関心しながらそう言う。自分だとそんなふうに思えないんだけど……正直嬉しい。私は何も言えず、耳を赤らめてただ黙々と照れていた。
「あぁ、明音は上手いよな!中学の時表彰されてたし」
透子がそんなことを言うと「へぇー」といい自分の描いている絵へと向き直る凛ちゃん。……透子の言っている賞って区の入賞の奴だよね。なんか凄いやつみたいな雰囲気で言われても困るんだけど……でも、言わなくていっか。今度は私が凛ちゃんの絵を覗き込んだ。すると、そこに描かれていたものは……少なくとも私と同じモノを描いているとは思えなかった。
「……ん、明音ちゃん。どう?」
ふふんと自信に満ちたように私へ聞いてくる凛ちゃんに、返事を悩ませる……正直に言うべきだろうか、でもこれも芸術の一部として?……私が言葉に詰まっていると透子が「どれどれ」と呟きながら凛ちゃんの絵を見たかと思うと、うげぇといった表情を浮かべ感想を言う。
「凛って絵下手だな」
「ちょっ透子!」
私が透子とアタフタしていると凛ちゃんはクスッと身を縮めて笑ったから、私は呆気に取られる。
「んもう、私が下手なのは自覚してるよー。明音ちゃんってば優しいんだね」
なるほど、私は凛ちゃんの策にまんまとハマり、反応を楽しまれていたわけだ。凛ちゃんにつられるようにして、不意におかしくって私も笑い出した。その後もしばらく話をしていたが咄嗟に我に返る。まずい、まだ描き終わってないんだった。私は自分の絵へと向き合い、置かれていた鉛筆を手に取り描くべきものに目をやる。……さて、このトイレットペーパーの切れ端の透明感を、どう表現しようかな。
「最も弱いものは……弱いもの」
教室の棚の上に朝から放置されていた身元不明の本を自分の席で読み、開いたページの詩の一部を口に出して繰り返す。中原中也の「初恋」だ。正直私には何を言っているのかさっぱりだったが、何かこう、グッとくる。今はホームルームが終わってクラス内には私含め五人程度しかおらず、みんな各々喋っている。凛ちゃんと透子は見当たらない……もう演劇部に行ったのかな。辺りを一瞥してそんな事を考え、再び視線を手元の本へ落としてその詩をもう一度読み返す。
「あれー?明音ちゃんは泥棒さんですか?」
そう言いながら私の顔と本の間にひょこっと現れる凛ちゃんに、驚いて肩をビクッとさせた。
「いや、こっこれは!これ後ろにずっとあって!」
「いやそれ私のだからさ」
そう言って返してくれと言った素振りで手のひらを上にして私の前に差し出してくる。顔を覗き込んでみると、別に怒っているわけではなさそうで少し安心した。
「……あぁ、ごめん」
私は目を伏せて開かれたままの本を凛ちゃんに手渡すと、凛ちゃんはそのページに目をやる。
「……初恋かー」
そう言いながら凛ちゃんはその詩を読んで、しばらくすると本から目を離さずに淡々と私へ話しかける。
「明音ちゃんはさぁ、好きな人いたことある?」
そんな質問をされて、私はその質問を理解するのに少しかかったが、愛想笑いを浮かべながら細い声で答えた。
「……ないよ」
「ふーん……そっか」
どうでもよさそうに反応した凛ちゃんは本を閉じると、元々本が置かれていた棚の上に本を戻す。それに対して、私は何でそこに置くの?と困惑した表情を浮かべ呆然としていると、本を置いて振り返った凛ちゃんがそれに気がつく。
「これ、私のじゃないし」
そういってニコッと微笑む凛ちゃん……私はとりあえず笑った、どうリアクションするのが正解なんだろう。
「おーい、なにしてんだ?」
私たちを迎えに来たのか、透子が教室へ顔を覗かせた。丁度今気まずかったからナイスタイミングだ。
「あっ透子……じゃあ行こっか、明音ちゃん」
そう言って凛ちゃんは私に背を向けて廊下へと向かって歩いていき、私はその後を小走りで追って教室を出た。何だかんだこの二人といるのは楽しい、近いうちにみんなで遊びに行きたいな……春だしお花見……はもう遅いよね。とりあえず無難にデパート?本当に行けるかどうかもわからないけれど、私はそんなことを考えながら靴を履き替え、みんなと一緒に校舎から少し離れた演劇部の部室へと向かっていった。
〇
「今日は先週の劇のビデオを見て反省会をします!」
「あれ撮影してたんすか……」
今日、陽向先輩は用事で帰ってしまったらしく、私たち三人と月嶋先輩の四人でリビングへと集まっている。先輩はカメラを教室の机四つ分くらいの大きさのテレビへと繋いでいた……この部室にはテレビもあるのか、贅沢だ。
「ん……よし、じゃあ再生するね!」
意気揚々とテレビから離れて私たちと一緒に並べた椅子に座ると、私のセリフから映像がスタートした。
「流石月嶋先輩っすね」
「ありがとう、天宮さんも喧嘩のシーン上手だったよ」
透子は本当にキレてたとは言えず、あははと笑って誤魔化した。それを私と凛ちゃんはジト目で見つめる。……それにしても、本当に先輩は流石だ。映像だというのにこっちにも熱が伝わってくるし、圧倒的に演じきっている。私たちがそれほど上手くないのもあってか、一人浮いているようにも見える。私たち……というか凛ちゃんもやっぱり上手い。先輩がこの前指摘していた動作が演じきれていないって部分も、私みたいな素人にはまずわからなかった。それなのに凛ちゃんはちゃんと自覚できていたのだから凄い……そういう経験あるとか?普段から何か演じてたりするのかな……ほら、お芝居とか。
「あっ先輩!えっと、私ちょっとメグミと話したいことあるんで、三人で先に行ってて下さい」
ふと我に返ると、もう終盤のシーンまで進んでいた……この劇で一番私の中に生きていた場面。先輩は今、どんな顔してみているんだろう。そう気になって先輩の顔を覗くと、先輩はとても嬉しそうに、何かに強く感動しているような眼差しでテレビをじっと見つめていた。それが……それがなぜか、私には嬉しかった。
「私には……本心を晒すことができないの」
……この私自身としてのセリフが、先輩の中で息をしていたら嬉しい。なんで嬉しいのかは相変わらずわからないけれど……嬉しいんだ。私は一人、そっと笑みを浮かべた、無意識に。
すると笑顔の月嶋先輩と私をうつした映像が固まった。……あぁ、終わったのか……こうして見てみるとあっという間の劇だったな。私たちは特に何も会話せずまじまじと映像を見て、各自各々思うところがあったのか映像が終わったあとも少しの間動かなかった。
「……さて、終わったね」
一番初めに動き出したのは月嶋先輩だった。テレビの方へと向かいカメラの接続を切っている。
「……明音ちゃん、最後のところだけすっごーく上手にセリフ言ったよね?」
「う、うん……どんな気持ちで言うべきなのか迷ったんだけど……上手く出来て良かったって思う」
私が凛ちゃんに笑いかけながらそう言っている時、先輩の手が止まっていたことに私は気がついていなかった。凛ちゃんは私の答えを聞き「ふーん」といつも通り興味無さそうな気の抜けた返事をして透子と会話を始めた。なんか、喧嘩のシーンについて話しているみたいだったから、私は少し距離をとる。
「さて、それじゃあこれからの活動についてだけど」
笑顔の先輩が取ってきたカメラを机に置き、椅子を机に戻すよう手をこっちこっちとやっている。私たちは自分の座っていた椅子を戻して先輩と机を囲んで座る。
「この前言った通り、この後のイベントはまず体育祭だね」
「あぁ、うちの学校って体育祭六月終わりなんですよね」
私の言動に先輩は「そのとおり」と私を指さして言う。……体育祭って普通は秋とかなんじゃないかな。なんでこんな早い期間にやるんだろう。
「で、も!」
先輩は机に手を叩きつけ、私たちは驚いて思考を止め先輩の方をビクッと見つめる。
「その前に中間考査もあるからね!」
「「うわぁあー」」
私と透子は頭を項垂れる。そうだった……中間考査。あと一ヶ月くらいか……嫌すぎる。透子は私よりなぜか学力があるため、面倒臭いだけかもしれないけれど……私の学力は中学の時中の下くらいだったから赤点とるかも……進学できないとか一生の恥になる。正直赤点とかそこら辺もまだ理解していないから尚更不安だ。
「……ん、そういえば凛ちゃんはあんまり嫌そうじゃないね」
私のその質問に、凛ちゃんは「ん?」といった表情を一瞬浮かべると私にニコッと清々しい笑顔を浮かべた。
「私、学年二位だし」
「「……は?」」
凛ちゃんのドヤ顔に若干の嫌悪感をおぼえながら私と透子は目を丸くする……そういえば、先輩達との対面式で全校生徒の前で演説してた……凛ちゃんは私の敵になりそうだ。
「だから、勉強とかわからないところあったら全然頼ってねー」
目を閉じ真面目な声で凛ちゃんがそう言うと、透子は「……おう!」と顔を輝かせた。……やっぱり凛ちゃんは私の仲間だ。すっかり凛ちゃんに夢中になっていた私たちに、一つコホンと咳払いをして先輩が混ざる。
「もし悪い点数とってきたら私と雫が許さないからね?」
先輩はそんなことを言ってちっとも面白くない笑顔を浮かべる。聞いたところによると月嶋先輩は学年一位を維持しているらしい、陽向先輩はよく知らないけれど。月嶋先輩は学校の中でもオールマイティで美人だから生徒会長とかよりも全然有名人だ。……もう一人月嶋先輩と並ぶくらい有名人の二年生がいるらしいけれど、その人のことはあまり知らない。なんか、別の意味で目立つらしいけれど……まぁ二年生だから、私には縁のない話だ。
「それで、テストまでの間私たちは何するんです?」
私の質問に対して先輩は困ったような表情を浮かべて口を開く。
「それが……まだどんな劇をするのか決定していないから……とりあえず色々演劇に触れて……いく?」
「暇なんですね」
私が冷淡とし放ったその一言に先輩は身をすくめるよくな動作をして「そうだね」と零した。
「……そうだ!本でも持ってくるよ」
そう言うと先輩は席を立ち上がって二階へと向かい扉を開けたかと思うと、「あっ」と振り向き私たちを見回した。
「誰か一緒に持ってくるの手伝ってくれない?」
……。誰も先輩を見たまま動こうとしない。まぁこの二人の性格からしてまず手伝わないだろう。仕方がないので私がため息を一つ零して先輩の後ろについていった。
「ここにあるやつ、全部持っていく?」
この前劇をした部屋とは丁度向かいにある、倉庫として使われている部屋の中。先輩は机の上に積まれた、見た感じ六十冊くらいの本の山を指さして私にそう声をかける。そこに積まれていた本は大体が海外の童話や物語で、詩集とかラノベとかもあり古いものから新しいものまで幅広く置いてある。
「こんな量の本とかテレビとか、そこにかかってる衣装とか……どこから集めたんですか?」
「うーん……詳しいことはわからないけれど、演劇部はかなり本格的な人達が集まってくるから、必要になったものが段々溜まっていくのかな」
そう言って先輩は本を大きさやジャンルごとに整理していて、私は少し離れた入口付近でその様子を眺めている。正直何もしていないのが申し訳ないけれど、今は特にやることもないし、声もかけられないから別にいいだろう……いいよね?私は先輩の横から回っていき、顔を覗き込むとある事に気がついた。
……先輩の耳周りが少し赤く火照っている。
私はそれを見てさっきまで忘れていた疑問を思い出し、間を空けてから先輩を睨むように静かに問いかける。
「……先輩、この前のアレってどういう意味ですか」
その私の問いかけに先輩は動作を止める。先輩の顔はこの位置から見えない、けれど肩の辺りが若干震えているように見えた。それを見て私は、なぜか多少の罪悪感を覚える。
「……先輩?」
「なんでだろうね……私にもよくわからないんだけど」
そういうと私の方を振り返って姿勢よく背筋を伸ばす。その瞳は揺らいでいたが、この前とは違い儚さや切なさはなく、その代わりに決意で満ちていた。
「私は、星乃さんのことが……好き」
……理解ができなかった。私は先輩の瞳の奥にある光を見つめながら目を見開く。何となく理解していたはずなのに、いざ目の前でこう言われると色々なことが混乱して何も出来なくなる。……っていうか、なんで?
「先輩……なんで私の事、好きなんですか」
私が真面目な顔でそう聞くと、先輩は一瞬驚いた表情を浮かべたかと思うと、視線を自分の足元へと落として寂しく笑って口を開いた。
「……直感かな、恋に合理的な理由なんてないよ」
「……そういうもの、ですか」
「うん……そういうものかな」
私も視線を先輩の足元へ落として沈んだ返事をして返す。……まさか、私が好きを見つける前に好きになられるなんて、皮肉なことだ。……私は涙をそっとのみこんだ。
「私はね……自分の本心を隠して生きてきたの」
先輩が後ろに手を組みながら、不意にそう呟く。私が顔を上げると、その後に「もう知ってると思うけど」なんて微笑を浮かべて付け足し顔を上げて私を見つめる。
「でも……でも君は、星乃さんは」
次の言葉は、哀しさなんて忘れてしまうほどに私の心へと響いた。その言葉は、私のとは違うけれど、それでも信じたい……もしかしたら、きっと私も。
「私の隠した本心を、貫いてきた……だから、好き」
〇
「……あ、やっときたー」
私たちが本を一人三十冊近く抱えてリビングへと戻ると、机に突っ伏した凛ちゃんと透子が私たちの方に痛い視線を向ける。私と先輩は申し訳なさそうに二人のいる机へと向かい本を置く。
「ちょっと色々整理してて」
私が咄嗟にそう言い訳すると、凛ちゃんは私と先輩の顔を交互に見比べた後、机に置かれた手元に目を移す。透子は……なんかずっと頷いてる。
「それで、これが本だよ」
「いや、見ればわかりますって」
先輩と凛ちゃんの会話を見ていたら、さっきの出来事がやっぱり嘘に感じる。それでも実際、現実に起こっていることなのだから不思議な感覚だ。
「あっそうそう。星乃さん、さっき言ったあの本ってどこに置いたかな」
「……えっあ、はい!えっと……ここです」
何も無かったかのように私に接する月嶋先輩に、私の持ってきた方の本の一番上に積まれた青いカバーの付いた本を一冊手に取る。その本は他に比べてやけに綺麗で、頻繁に手をつけていたように見えた。先輩に両手を使って丁寧に渡すと、先輩はその本を慣れた手つきでペラペラとめくり、半分くらいの所でスピードを落として特定のページを見つけたのか、少し顔が明るくなった気がする。
「ほら、天宮さん。ここの表現読んでみて」
そう言って先輩は開いたページを透子の前に持っていく。すると透子は「んぉ!」と情けない声を上げて身体をビクつかせる……寝てたな?
「あっはいはい、えっと……笑顔を浮かべ、声を出して笑っているのに……その目からは涙を流して膝から崩れ落ちた」
そう透子が読み上げると、先輩は本を透子から回収して大事そうにブレザーのポケットへとしまった。すると私たちの方を見回して、笑顔で私たちに課題を与える。
「そう、これをできるようになって下さい」
「んな無茶な」
間髪いれずに凛ちゃんが先輩に物申す。しかし、その凛ちゃんの顔はとてつもない笑顔だった……どういう心情?
「大丈夫、みんな上手だからすぐにできるよ!」
「無責任な……」
私も思わず考える前に口から言葉が出た。私は大きなため息をつく……この人がやれと言えば、きっとやることになるのだろう。……私は不意にクスッと笑った。
「何笑ってんの明音ちゃん、どういう心情?」
透子はリュックを背負い、廊下にいる凛ちゃんの方へと向かって歩きながらリビングに挨拶をする。
「じゃ、お先失礼しまーす」
「うん、おつかれさま」
先輩の返事を背中でうけ、透子がリビングから見える範囲から消えて数秒後、玄関のドアが開き、そして閉じる音が廊下に響いた。私は部屋の中に積まれた本の山をテレビ台の下に並べる手伝いをしている。残りあと五冊だから、終わったも同然だろう。
「星乃さん……て、手伝ってくれてありがとうね」
先輩はそういいながら私の隣に立ち上がり、机の方へと向かっていく。私は手元から視線を逸らさず、作業しながら淡々と答えた。
「いえ、全然大丈夫です。別に大変でもないですし」
私がそういうと、先輩は「そ、そうだね」とぎこちなく呟く。……ん?なんだろうこの違和感……。でも、私は特に気にもとめず作業を終え、そのまま廊下に出て置かれているリュックを背負う。帰る支度を整えた私はリビングへと戻り、机の上で何かの書籍から視線を私に移した先輩と目が合った。
「それじゃ私も」
「あ、え」
先輩は何かぎこちない言葉が口から発せられると同時に席を勢いよく立ち上がる。するとモジモジして腰の前辺りで組んだ手と私を交互に見つめ、私は先輩のその態度に疑問を抱き、頭を横にかたむけて純粋に先輩に聞く。
「どうしたんですか?」
「いや、その……一緒に帰れたらいいなぁ……なんて」
そんなことを目を逸らしながら恥ずかしそうに呟く先輩に対して、私はなんだそんな事かと一人納得し、少し俯いて息をこぼす。そして何気ない顔で先輩の事を見つめ、何ともないように答えた。
「別に、いいですよ」
確かに今日は陽向先輩もいないし、一緒に帰る人が欲しいのかな……あれ?でも陽向先輩って反対方向じゃなかったっけ。……まぁいいか、別に先輩と一緒に帰るだけなら。一人でそんな自問自答をし、頭の中から外の世界にピントを合わせると、先輩は嬉しそうに顔を明るくして私に対してニコッと微笑んだ。
「明日からの活動はずっと読書ですか?」
「そうなるのかなぁ」
先輩と横に並んで学校前の道を歩いている。いつも一人で帰っているから、誰かが横にいるのは少し変な気分だ。私がふと先輩の方に顔を向けると、先輩は肩をビクッとして手元が動いた気がした……何してたんだろう。先輩は私のいない方向に視線をおくり、それを見ていた私は先輩の左耳が赤くなっていることに気がつく。
「……先輩って、耳すぐ赤くなりますよね」
私がそうなんでもなく呟くと、先輩はこっちをバッと振り返って、流れるように耳を手で抑えて恥ずかしそうに俯いた。
「うぅ……中学生の頃も友達に言われた」
「先輩の中学時代……今と変わらず活躍してたんですかね」
私が勝手に先輩がみんなの前でチヤホヤされている像を思い浮かべてそう言うと、先輩は少し固まった後耳から手を離して前に向き直る。すると先輩は少しおいて微笑を浮かべながら小さく口を零した。
「別に……そんなことないよ」
しばらく沈黙が続いて、川沿いの道を二人歩いていた時、私はふと部室での事を思い出した。……先輩は、私の事が好きなんだよね……。なんだか、人に好きになられるのって不思議な気分だ。それに、その人が学校一の有名人さんなのだから映画でも見ているような気分。でも……いや、だからか、やっぱり自分事として捉えられないんだ……ん。
「先輩、手繋ぎましょう」
「……え?」
戸惑って顔を赤くする先輩の事なんて気にもとめず、私は半ば強引に先輩の手を握った。先輩は一言も喋らず、顔を真っ赤にして反対の手で口元を隠している。……手元が湿っている……私はなんともない、先輩が緊張しているんだろう。美人で、いい匂いがして、綺麗な真っ直ぐの黒髪で、スタイルが良くて、頭がいい……みんなが憧れる先輩。それなのに私は……なんともない。緊張もなければ、ドキドキもしない。
「星乃さん……やっぱり恥ずかしいなぁ」
「何言ってるんですか、人のファーストキス奪っておいて」
私が無慈悲にジト目でそういうと、先輩は「うっ」と声を上げて申し訳なさそうな素振りをとる。
「でも……なんで手、繋いでくれたの?」
先輩は私の顔を見つめながら申し訳なさそうな雰囲気を残しつつ、不思議そうに聞いてきた。それはおそらく何の意味も持たない純粋な疑問だろう。先輩がこの前私にいきなりキスしたように、いきなり手を繋がれた先輩も戸惑っているんだ。
「自分の事好きって言ってくれる人と、その……こういうことしていれば、もしかしたら私も……す、好きになれるかもしれないと……思ったので」
私が照れくさそうにそういうと、先輩は少し呆気に取られたあとでクスッと笑いながら「なにそれ」と私に言った。先輩はさっきとは違い、照れているよりも楽しそう……?にしていて、前を向いて笑顔を浮かべている。その顔を見ると、なぜだか私まで嬉しくなってくるような気がしなくもない。
――けど、きっと気のせいだ。
「それじゃあ、私はここで」
あれからしばらく歩いて、大通りの交差点についた。私の家はここから近くて、先輩はもっと離れたところの駅まで行くらしい。信号が青になったから私は先輩に別れを告げ、前へと歩き出そうと脚を動かす。
「待って!」
私が繋いでいた手を離そうとすると、先輩が不意にそう声を上げて力を入れる。もうずっと繋いでいたのに……まだ足りないとか言うやつなのだろうか。先輩は顔を俯かせていて、どんな表情なのかはわからないけれど、耳辺が赤くなっていることはすぐにわかった。私がしばらく動けないでいると、先輩はゆっくりと口を開いた。
「その、キス……したい」
「……は?」
予想外のその言葉に私は目を開き身体を固める。先輩はさっきよりも耳を赤くしてじっと動かない。私の横に見える歩行者用信号はすでに先輩の耳と同じように赤色になってしまっていたので、私は先輩にため息をついたあと答える。
「はぁ……こんなに車も通ってるのに、ホント何考えてるんですか」
「うっ……だよね」
見るからに落ち込んだ反応の先輩に、私は言葉を続けて視線を左下の方向へと送る。
「別に……嫌だなんて、言ってないです」
私がそうボソッと呟くと、先輩はパッと顔を輝かせ、照れている私の目を見て「ほんとにいいの」と訴えてくる。私が先輩の方に視線を戻すと、先輩の瞳の中にある揺らめきを感じる。なんだか、今までよりもずっと綺麗に見えた。……私までそんなふうになっていたら嫌だな……確認の仕様がないし。
そんな事を思っている間にも、先輩の顔が少しずつ私に近づいてくる。もう先輩の息を肌で感じる距離まで来ている。
私は釣られるように先輩の方へ向き直り、ほんのわずかに顔を前へと進めると唇同士が触れ合った。
なんだろう、甘い感じがするような……心地いいような気がする。
……二度目のキス、一度目とたいして変わらない。でも、今回の方が嫌じゃない……別に元々嫌なわけじゃないけれど。でも、ドキドキもしない……周りの視線が気になる、信号とかまだ変わってないかな。何故かキスしている先輩のことじゃなくて、その他のどうでもいい事が急に気になってきた。
ふと先輩の手が私の頭を抱くように回り込んできたことに気がついて、私は少し身を引こうとするが……先輩が腕を寄せるともっと強く唇が触れる。顔全体の距離がさっきよりも断然近いし、より互いの呼吸を感じる。もうハグまで同時にしているようなこの状態の今に、私は驚きのあまり身を悶えさせて先輩の腕から下へ抜けると、お互い息を荒くさせて見つめ合う。
「ちょ……先輩、やりすぎです!」
「あっご、ごめん!」
目をつぶり先輩にキツくそういう私に、先輩は頭を下げて誤っている。流石にあんなことされるなんて……正直驚いたけれど、別にそんな嫌な訳でもないし……そもそもキスしていいって言ったのは私だし。
「別に、怒ってないです」
私はそう言って手を後ろで組んで、顔をあげる先輩を見つめている。この人は考えるより先に行動するタイプの人なんだろうか。
「……ホントにごめん」
「今更でしょ」
そう気にしていないように言い、丁度歩行者用信号が再び青色になるのを見ていた。それを確認した私は先輩から横断歩道へと身体の向きを変え、背中を先輩に見せながら何も言わずに交差点を渡りきる。その流れのまま後ろを振り向くと、手を後ろに組んで背筋を伸ばした綺麗な先輩がこっちに微笑みながら立っていた。私はその光景を見て一人小さく笑い、大きな声を張り上げて先輩にひとまずの別れを告げる。
「では、また明日」
手で拡声器のように口にあて、私が大声でそう言うと先輩は少し躊躇った様子を見せ、私と同じような動作で私に声を届ける。
「……好きだよ!」
先輩はそう言うと満足気に私とは別の方向に横断歩道をかけて行ってしまった。それを見届けて、私は脚を家の方向へと動かし始め、誰もいない中で一人笑いながら言葉を零した。
「もう……知ってますよ」
〇
「あかね、なんか楽しそうだね」
お風呂をあがって髪を乾かし終えた私に、シャツと短パンでだらしなくソファに寝転んでテレビを見ていたお姉ちゃんが声をかけてきた。私はお姉ちゃんの隣に置いておいた寝巻の灰色パーカーを着ながら、先輩との出来事は言わないよう顔を無情にして答える。
「そう?別に……何もないけど」
「ほんとかぁー?」
そう言ってお姉ちゃんはソファを立ち上がり、私の方に手をワキワキさせて身を寄せてくる。ニヤニヤして抱きついてくるお姉ちゃんが「ここがええんかー?」とか言いながら脇をくすぐってきた。私は抵抗したくても力が入らず、声を出して笑い転げ、ジタバタ暴れ回った。
「ちょっお姉ちゃ、やめ!」
「ほらほら〜、コチョコチョ〜!」
ヤバっ息が、息が苦しい!ちょ、ほんとに待っ。
ーガチャッ!
「こんな時間に何してんの!」
「「あっ」」
私たちがバカ笑いしていると、リビングの扉が勢いよく開き、そこには怒りの表情を浮かべたお母さんが立っていた。私たちは組み合った身体を硬直させ、じっとお母さんと目を合わせる。
「……何やってんの?」
お互いの服が着崩れて抱き合う私たちを見たお母さんは何を思ったのか、ドン引きしたような表情を浮かべてもう一度強く聞いてきた。それに対して私たちは息ぴったりで一言答えた。
「「ごめんなさい」」
お母さんが扉から出ていったあと、私たちは立ち上がって服装を整える……本当だ、もう十時。お姉ちゃんは深夜アニメ見たいって言ってたから、今日は夜遅くまで起きてるらしいし、私はもう寝よっかなぁ……昼間はあんなに眠かったのに……今は別になんともない。昼寝した訳でもないのに不思議だ……先輩と色々あったからかな?私はそんな事を考えながら部屋へ行こうと無意識に扉へ歩き出す。
「おやすみ」
「ん、おやすみ〜」
お姉ちゃんに別れを告げて私は二階の自室へと階段を登っていく。……この後何しようかなぁ、別に寝てもいいんだけど……なんか勿体ない気がする、誰かこの現象に名前をつけるべきだ。そんなくだらない事を考え部屋に入り、部屋の真ん中で少し周りを見回して考え込む。その結果、私はいつものように本棚から毎度お馴染みの漫画を一冊手に取った。でも、今回は最終巻である五巻を読むことにする。何度も読んでいるから、勿論内容はこと細かく覚えてしまっている、しかし……無意識に読みたくなるんだ。ていうか……読むと言うより、手に持ちたくなる。……この漫画に出てくる二人の恋の行方だけど、最終的に彼氏が病気で亡くなってしまって主人公の女の子がその人の分も頑張って人生を歩む……的な感じなんだけれど、初めてその終わり方を見た時はすごく気分が凹んで一週間くらいモヤモヤしていたと思う。でも……今となっては、この終わり方が一番しっくりくるんだから不思議だ。……ハッピーエンドじゃないものを求めてしまうのは、一体どうなのだろうか。この考え方は漫画に出てきた二人に対して罪悪感を覚えてしまう、頑張って育てた二人の愛を貶しているような……そんな気分。そんなことを考えているうちにも、目だけで見ていた漫画はもう終盤までページがめくれていた。……結局漫画の内容は少しも頭に入ってこなくて、開始二分くらいでベッドに倒れ込む。特に何もしていないのに、なんだか……どっと疲れた。
「……今日はもう寝よ」
ゾンビのようにフラフラと力なく立ち上がると、アラームをセットして窓際へ行く。カーテンを閉め、ここから反対側の扉付近にある部屋の電気を落として再び布団へと潜って行った。
疲れたけれど、なんだか……いい夢が見れそうだ。