嫉妬の黒い流水
「んんーっ……はぁ、ねみぃ」
「でも学校出発したの八時頃だから普段と変わらなくない?」
「いや、朝っぱらから二時間もバス乗ってたら眠くなるって」
貸切バスの三号車、丁度真ん中辺りの右側に私と透子は並んで座っていた。眠たそうに大きく欠伸をする透子の方をチラッと見て、窓枠に肘をかけて頬杖をつきボーッと外を眺める。出発した時とは打って変わって、車通りの少ない細い道をゆったりと走っているバス、さっきまでの……高速道路だったのかなぁ?車線が多く山の縁を沿うような道路をこのバスは外れたから、今はもう目的地にかなり近づいたのだろう。
私は乗り物酔いしやすいって訳じゃないんだけど、一応二人に頼んでタイヤの真上を避けているこの座席にしてもらった。その為、酔いには遥かに遠く余計に心地の良いくらいの揺れを感じる私たち。校外学習のワクワクというよりは、眠気や心地良さでリラックスしている。心を落ち着かせている私の耳に入ってくる様々な音、籠ったエンジンの音に一軍の大きな駄べり声、そして……真後ろの人がつけているイヤホンからの過度な音漏れ。
「……凛ちゃん?……りーんちゃーん、おーい」
……視覚と聴覚を遮断して自分の世界に入ってしまっている凛ちゃんに私の呼びかけは全く届かず、その消え入りそうな一方通行の声は透子の耳だけが拾ってくれた。身体を硬直させてその数秒後、透子は私と後ろの席を軽く一瞥した後に一つ大きな欠伸をする。そして予め行動を決めていたかのようにスッと身体を捻らせて私の方に向けると座席同士の間から手を伸ばし、ちょんちょんと凛ちゃんの足を優しくつついた。
そんな凛ちゃんは反射的に身体を少しビクつかせてパッと目を見開き、直ぐに隙間から覗く透子と視線が合い面倒くさそうにゆるりとイヤホンを耳から外した。
「あぁん?」
「ガラ悪ッ」
透子が口をこぼした後に、目を閉じてため息を漏らしながら真っ直ぐに向き直った。だから今度は私が変わってその位置に身体をやり、隙間から後ろを覗き込む。するとそこには、下からジトーッと睨みつけるような目つきで嫌悪の表情を顔いっぱいに浮かべており、如何にも邪魔をするなと言わんばかりの態度をとって気だるそうに足を組んでいる凛ちゃんの姿があった。これは音楽を中断されて怒っているのか……または驚かされたのが癪なのか。
「凛ちゃん……音、凄い漏れてるよ」
「……ん?あぁ、じゃー聴く?」
……うん、一体何が「じゃあ」なんだろう。
キョトンとした顔でさも当たり前のようにイヤホンを差し出すその手を、私は特に拒む理由も見当たらなかったので「じゃあ……」と促されるままに受けとる。そのイヤホンは普段見慣れているような耳に入れるタイプのものじゃなくて、耳に当てて眼鏡のように引っ掛けるタイプだった。私はイヤホンだと、どんな大きさや材質をしていても耳から直ぐにポロッと落ちてしまいヘッドホンを着用するようにしていたから、この手のタイプはとてもありがたい。便利な物もあるもんだね、これだと汚れにくいし。このイヤホンに対する物珍しさを頭に浮かべながら、金管楽器のような中音域の音を垂れ流しているコレを耳にはかけずに、ただそっと当てる。
……まさかの演歌ッ。
「い……意外だね」
独特のコブシを数秒聞かされた後、透子が興味津々にこちらを見ていたから私は何も言わずに透子の膝上へとイヤホンを置いた。透子はそれぞれが左右どちらに当てるのかを少し探り、躊躇いなくスッと耳に持っていき目を瞑った。
「……別に、アタシはイメージ近いけどな」
「え、ほんとに?」
耳に当ててすぐ、透子は軽く頷くような仕草をしながらそう答え、イヤホンを隙間から凛ちゃんへと返した。凛ちゃんに演歌のイメージなんて全くなかった私からすれば、透子の発言はとても異様な物にしか見えない。身体の向きを直した透子とお互い不思議そうに呆然と見つめあっていると、後ろからクスクスと息を殺して笑う声が聞こえてきた。
「あー、明音ちゃん……冗談だよ。渡した後に演歌って検索かけてヒットしたの流しただけ。透子に渡すのが隙間から見えたからさぁ?元々聞いてた曲に戻したの」
可笑しそうに笑う表情のまま、ご機嫌な声色でそうネタばらしする凛ちゃんの言葉を聞いて私は何を言っているのか理解できず一瞬固まった後に、ハッと我に返って事の始終を知った。その一方、透子は隣で「なんで演歌?」と無表情のまま後ろに向かって疑問を抱いている。
「ちなみに、透子は何が流れてたの?」
「ん?えっと……シャウト強めの、ヘヴィメタ」
……うーん。
また正面に向き直って体勢を整え直す透子がシャツを柔らかそうな材質のズボンにしまい直しながら思い出すよう私へ告げ、私は何とも言えない表情を浮かべて顔を横へ僅かに傾けた。
確かに凛ちゃんならイメージに合わないこともないんだけどさ……歌詞とかの物語性?っていうのかな?そういうのが好きな私にとって、なんて言ってるのか聞き取れないような曲は相性が悪い。あっクラシックとかはまた別だけどね?
私がそんなことを考えていると、凛ちゃんはイヤホンジャックをスマホからプツッと引き抜いてカバンの外側にしまい、曲を変えた後になんとなく消してしまった音楽アプリを開き直す。そこに表示されていたプレイリストの多くはヒップホップジャンルだったということを、私と透子は知る余地もない。
「ん、そろそろ時間だな……もう少しで着くと思うけど」
透子が左腕に巻き付けられた腕時計を見つめながらそう零すと、後ろから「んんっ」と引き攣るような声が聞こえる。凛ちゃんの隣には誰も座っておらず、伸びるように手を上へ引っ張ったかと思うと、横に大きく弧を描くよう振り下ろして体の緊張を解いた。
「はぁ……早く外の新鮮な空気を吸いたいねぇ」
「っしょと」
「ありがとございましたー」
二時間程のバスから解放されて、高い段差を確実に降りながら河原に足をつけ、腕を横に広げて全身を引っ張るよう伸ばし胸いっぱいに空気を吸い込んだ。後ろから透子が運転士の人にお礼を言いながら静かにバスから降りて、地面に着いた時の石がぶつかり合うようなコッという音を背に感じる。靴を入れるための袋やお財布の入ったリュック、スマホなどを手にしている一年生達が一つの筋みたいに真っ直ぐ川へ向かう中、私と透子はその列から横に外れてポケットに手を入れながらこちらを見つめるその子の方へ向かった。
「おそー、降りてきたのほぼ最後じゃん」
「いや、人が一気に降りようとして通路が埋め尽くされてたのに我先と押しのけて出たの凛じゃん」
「まぁまぁ……それにしても、涼しいね!」
血が上ってきている二人を仲裁し、わざとらしく大きな深呼吸をする。すると川に止まった細くクラス人数分乗れるかどうかくらいの舟から三組の召集が聞こえたような気がしたから、二人に「行こっ」と告げて前を歩き出した。足元は砂利というには少し大きすぎる石で埋め尽くされていて、うっかりしていると足が引っかかってしまうかもしれないから緊張を交えて下を見つめながら進む。
ライン下りかぁ……初めてだな、そんなの。初めての場所で初めてのことを友達と一緒にやるんだから、心が踊る。気がつけばついさっきまで慎重だった足取りも軽いものになっていて、ふと振り返ると二人との距離も少し開いてしまっていたほどだった。透子と凛ちゃんが私のことを特に何も含まず見つめながら歩いてくるのを、私はその場に立ち止まって数秒間待ち一メートルもないくらいの距離になってまた首を正面に向き直して歩みを再開させる。
「そういや、ライン下り後ってそのまま自由行動なん?」
「多分?……うん、そう」
「あ……」
三組の団体が目前にまで迫っている最中、透子と凛ちゃんが後ろで無表情に何となく語っていた話題を耳にして、はっと自分のかなり面倒なミスに気がついてしまった。……あ、やば。
咄嗟に立ち止まり顔を蒼白させて身体をゆっくり後に身体を向けると、二人は声を上げた後に突然止まった私へ対して不思議そうな表情を浮かべてその場に止まった。
「ん、明音?どした?」
「お財布……バスの中」
私がそう言い放つと私たちの間にはしばらく何の言葉も飛び交うことはなく、他の生徒が大勢会話しているのにも関わらず私はこの空間が無音に感じられて、目を見開き呆然とした表情のまま固まってしまっていた。
「……これ終わったら、一回バス戻れるのかな」
呟くように小さくそう不安を口にすると、心配してくれていた二人は静寂の中で「クスッ」と声を漏らしたかと思うと、咄嗟に声を大にして抱腹絶倒した。そんな姿に私はキョトンとし、戸惑いを隠せない。
いや、笑い事じゃないんだけどなぁ……。
私が強く視線を二人に向けながら眉を顰め気に食わない表情を浮かべていると、まずは透子がそれに気がついて笑いがまだ耐えない中無理やり呼吸を整え、目から溢れそうになっている涙を右手の中指でスーッと横に引くよう拭って口を開く。
「あー、いや、ごめんごめん……」
「……明音ちゃんにしては、ドジだなーって思って」
凛ちゃんも落ち着いてはいるものの、まだクスクスと口元を手で隠しながら目を逸らしていた。
「……んもう」
なんだか私もおかしく思えてきて、さっきまでの腹立たしさや不安はなくなり二人につられよう笑みがこぼれた。
「ねー透子。水、触ってみて」
「…………なんか、ぬるいな!」
「すぐ目の前、波が荒くない?水かかるかな」
舟の中で二列、向かい合うように各々黄色いライフジャケットを装着したクラスの人達が座って舟の内側に張り付いている水避けのビニールを肩にかけながらワイワイと話している。担任の男性教師が後ろの船頭の人と何か笑顔で会話しており、前の船頭の人は遠くを見据えるような眼で棒を力強く引いては刺してを繰り返していた。
「おっと!……ちょっとかかったな」
先程見えた波がたっていた場所を通過したが、実際は舟が前方に傾き水しぶきが軽く入り込んできたくらいで少し残念……どうやら今日は波が穏やからしい。凛ちゃんが明らかに退屈そうな顔を垣間見せたような気がして、私はそのあまりにも暗く死んだような目に背筋をゾッとさせられたけれど……まぁ、見なかったことにしよう……私も残念なのは同じだし。あっでも、バスで透子が前来た時はめっちゃ濡れて凄かったって言ってたし……また、来てもいいかもな。
船頭さんいわく、この先はもうずっと穏やからしい……川は平になって波も音を立てずにユラユラとうごめいて舟をぬったりと運ぶ。右には木が生い茂り緑の深い山を作り出していて、左には岩が抉れるように募り重なり崖を作っていた……これが有名だと噂される岩畳か。頭を舟の縁に乗せて下からそれを見上げていると、男女二人のカップルらしき人や年配の男性など、様々な人が私たちへ手を振っていた。
その時の私は角度的に目には太陽光が入らず、暗く沈んで見えたかもしれない。特に何か感じた訳でもなくこの川のごとく流れるように手を振り返して、次来る時は今日みたいに曇ってないで晴れてたらいいなぁっと考えていた。
○
「私ちょっとトイレー」
クラス撮影を終え、自由行動が開始されたとほぼ同時に凛ちゃんはそう言い残し急ぎ足で長い階段を登っていってしまった。取り残された私たち三人は、苦笑を浮かべながら相変わらずだなぁなんて感慨にふけっている。
……ん、三人?
「……あれ?銀杏田さん」
気がつくとそこには、さも当たり前かのように銀杏田さんがちょこんと凛ちゃんのことを見送っていた。私の呼びかけに反応し、私と透子の方へクルッと回り「こんにちは」と微笑みながら今日一番の挨拶を交わす様子をみて、私たちは呆然と立ち尽くすしかない。
……そっか、一年生全員での校外学習だし一組がいてもおかしくないか……って。
「ホント、いつの間に……」
私が言おうと思っていたことを透子が若干引いているような表情で先に言ってくれた。
「先に撮影が終わってたから、そこの隅で待ってたのよ」
当然でしょ、どうしたのと言わんばかりのクエスチョンを浮かべたその顔に愛想笑いを浮かべることしかできない。まぁ……一緒にまわりたいんだろう、私は構わないけれど、凛ちゃんが許すかな。
「凛がなんて言うかだな」
「え?う、うん」
頬杖をついて真剣な表情を浮かべている透子が丁度同じことを考えていたので、私は少し反応がガタついてしまった。でも、そっか……透子も別に嫌じゃないんだね……まぁいつも通りか。
……銀杏田さん、クラスに友達いないのかな。
「なんか、失礼なこと考えていないでしょうね?」
「……へ!?いやいや、そんなそんな……滅相もございません」
少し俯き気味だった私の表情を下から至近距離で覗き込むようにじーっと優しく睨んでくるその目に、たじろぐように二歩後ろへ足を下げて両手を左右に振る。
余りの距離にビックリした……っというか、銀杏田さんって身長小さくて、顔が整っていて……可愛い子だな。ちょっとビックリさんだけど……いい子なんだよね、なんで凛ちゃんが避けているのかがわからないくらいに。
……途端に何かモヤっとした。
胸のこの辺がキュッと締め付けられるような……どちらかというと不快感。
……先輩、今何してるのかな。
柔らかい拳を胸の前に当て、歯をくいしめる。少しそのままの状態を保っていたのだが次第に呼吸が荒くなってきていることに気がついて銀杏田さんと透子が何か話している最中、後ろからそっと近づいて透子の肩をトンッと叩く。
「ごめん透子、ちょっとそこまで行ってくるね」
私が笑顔を浮かべてそう告げると、透子は少しの間硬直して怪訝な表情をした。後に私が透子に背を向けて来た方へ戻り出すと同時に「おう」と深みのある声でハッキリと返し、何が何だかわかっていない銀杏田さんと真剣な顔をした透子の二人を残して岩畳の方へ足を運んだ。
まだ後ろを振り向けば透子と凛ちゃんが小さく見えるくらい離れたところで、小さな木板の橋を身長の高い……多分カップルとすれ違いながら渡る。チラッとその人たちの幸せそうな顔を見て私は何気なく恋人なんてワードが頭にぼんやりと浮かび、空をボーッと見つめながら一つ息を漏らした。
「恋人かぁ……いたら楽しいのかなー、なんて。女子高だからそんな出会いなんて、ないだろうけどね」
目に涙を溜めて口角をあげる自分自身を慰めるように、別に漫画とアニメがあれば……恋愛している人達を見ることが出来ればそれでいいと自己暗示に似たものを頭の中で何度も唱えていた。かなり急な岩肌を足元に注意しながら一歩一歩確実に登っていくと、周りに比べて少し高い所にある私の腰丈くらいのサイズをした岩にたどり着いた。そこによっと膝から乗り状態を起こして周辺を一瞥するかのように見渡す……さっきまで自分たちが流れていた川がどこまでも果てしなく続いているように見え、その右側には大きく細長い木が沢山生い茂り山の縁を支えている。私の視界をほとんど埋め尽くす灰色っぽい岩の間から、所々に緑の草が生えているのが私も今自然の中にいるのだということを強く実感できた。両腕を鳥のように大きく広げ、目をそっと閉じながら身体いっぱいに空気を吸い込む。
「んーっはぁ……落ち着くなぁ」
崩れ落ちるように足元へ腰を下ろし、優しく頬を撫でる風に身を預けると初夏の湿った空気すらサラサラと感じてしまうほど心地がいい。そのまましばらく風に当たった後、まるでそうする事が決まっていたかのような速度でポケットから黒い無地のカバーがついたスマホを取り出し、電源ボタンを軽く一度押し込む。ロック画面が表情されたその画面には通知なんて一件たりとも来ておらず、少し口をゆがめて目を伏せる。もの悲しげな表情のままスマホを見つめて固まっている中、ハッと我に返って目を瞑りながら頭を左右に軽く振って余計な思考を取り除き、ロックを解除して連絡アプリを開いた。様々な人の連絡先がある中、私が真っ先にタップしたのは黒い猫のイラストをアイコンにしているピン留めされたその人。
今日はおはようって連絡来ないんだな……確認すると、最後のトークが昨日の夜一時半に送られた「おやすみー!」だった。 最近は……というか、先輩とのイザコザの後からいつもこんな時間までどうでもいいようなやり取りをしている。なんだかそんな時間が……私には、楽しく思えているんだよ。
一人になった目的を果たすために、電話をかけて右耳にそっとスマホを当てる。耳に当てて二、三秒後にプルルルルッとコール音が耳を突き刺すように鳴り、少し頭の内側に締め付けられるような痛みを感じた。三コールくらいしただろうか……左耳で自然の音、右耳で機械的な音を受け止め続けて数十秒、コールは突如としてなりやみサーッと空気が動いているかのような音に変わった。
「……もしもし、明音?」
「あっ、先輩!」
その優しい声は……まるで私の隣に座っているかのように暖かく囁いた。私の声を聞き電話していると言う事実を強く感じた先輩は、さっきの優しい声とは打って変わってハツラツとした声を出す。
「どうしたの、明音からかけてくるなんて珍しいね!」
「……少し、寂しくなっちゃって」
今日は風が少し強い、私の髪が風に吹かれて時々ユラっと揺すられていた。しかし当の私はそんなこと気にもとめずに岩の上に置かれた左手をそっと握り、特に楽しかったり嬉しかったりした自覚はないけれど……頬が緩んで。そんな表情で語った言葉は電話越しの先輩にも私が今どんな顔をしているのか察せてしまう程柔らかい声だった。
「……そっか」
少し間をあけてから発せられた先輩の声は、私の声色に似て柔らかい。同じものを私と先輩で感じているのだと思うと、私の心はなんだか優しい熱をじんわりと宿した。かと思ったら電話の向こうからクスッと笑い声が聞こえたかと思うと、先輩はニマニマとしているのが安易に伺えるような声で話しかけてくる。
「そんなに私が恋しいの?」
「調子に乗らないでください、ただ先輩が何してるのか気になっただけです」
先輩が吐き捨てるように小さく「それはもう恋しいのでは」と言っていたが、私は自分にそんな事はないと言い聞かせて無表情に返答を待つ。
「えっと……私は今部室だよ」
「え、今日部活あったんですか!?」
知らされていなかった事実に余りの驚きを隠せず、大きな声が咄嗟に出てしまった。これにはスマホの向こうからも「うっ」と被害をうけた声が聞こえてきて申し訳なさが胸に込上げる。
「いや、体育館にセットを組み立てたりとかさ?準備とか、手続きとかの事務作業!もう次の火曜日……来週の頭には体育祭本番だしね。雫もさっきまでは一緒にいたんだけど」
今日あったっけと思い返しても記憶が存在しないのも当然か、元々今日は先輩たちだけ……というか、あっても私たち行けないよね。でも、先輩方にだけ面倒な仕事を押し付けてしまっているのは前々から心苦しいなと思っていた。
「先輩方……なんか、色々すみません……ありがとうございます」
「いいのいいの!そのうちみんなにも教えるからさ。それに、振替休日の月曜日は招集かかってるから大丈夫だよ!明音は……そっか、校外学習だっけ?楽しんでね!」
「……はい!」
先輩の方からティロンッと通話をきられ、その音の余韻に浸っていた私も耳からスマホをそっと離した。
……胸には名残惜しさが渦巻いている、でも……今はここを楽しむのが大切だってわかるから。
「楽しんで……ねぇ」
「あ、来た来た……おーい、どこ行ってたのー」
「ごめんね、ちょっとそこまで……じゃあ、行こっか」
手を振る凛ちゃんの周りには申し訳なさそうにモジモジしている銀杏田さんもいて、どうにか透子が頑張って交渉してあげたんだなということが見受けられた。透子の視線を普段よりもずっと沢山感じたような気がしたけれど……まぁ、いいや。
「合流遅れて言うのもなんだけど、どこ行くの?」
「あ、私ソフトクリーム食べたい!」
「心優、ここ来てソフトクリームとか……」
「「「……あっ、バス」」」
○
「よっしゃ凛、この坂道の上まで先に登りきった方の勝ちな」
「あ?…………うん、いいよ」
長く石でできた一本の坂道、クラウチングスタートの構えをとり、早く身体を動かしたくてウズウズとしている透子が凛ちゃんにそう告げると、凛ちゃんはまるで虫でも見るかのような目つきで「勝てるわけがないだろう」と静かに見下したその数秒後、何を考えついたのか了承して透子と同じ構えをとる。透子の燃えるような目配せを受けて、私と銀杏田さんは二人の横にたちスタートの合図をする。
「レディー、ゴー」
かなり棒読みなその私の掛け声と同時に、透子は坂だとは思えないほどの速度で風を切るように走っていった。それを確認した凛ちゃんはのそっとその場に立ち上がったかと思うと、私と銀杏田さんの手を握りしめて向きを反対にグルーっと変える。
「……え?」
「河西さん……?天宮さ」
「さて、次どこ行こうか」
私たち三人は透子を背に坂を降り始めた。
「ん?……うわっ!?このアニメ!」
「どうした、明音知ってんの?」
「うん、めっちゃ面白くて好きだよ!でも舞台ってここだっけ………………ん…………あっなるほど、映画版か」
私と銀杏田さんがソフトクリームを買ったお店の窓に貼られていた一枚のポスター、どうやらこの地域で行われているお祭りに関しての広告らしけど……そこに映っていた少女……いや、少女のもう一段階下の浴衣姿の女の子が、私には見覚えがありすぎた。へー、そっかそっかぁ……本屋とかで自分の好きな本が置いてあると、なんだか嬉しくなるよね。
「星乃さんも、このアニメ知ってるのね!」
「え?……うん、漫画でしか読んだことないんだけどね」
銀杏田さんが目をパアッと輝かせ、手を胸の前で組んで私の方に身体をグッと近づけながら、仲間を見つけて嬉しそうに私へ声をかけた。このアニメって、ちょっぴり女の子同士的な要素があったから銀杏田さんが知ってるのは意外だ……というか、反応的にかなり好きだったのかもしれない。まぁ、私も同士がいることはとても嬉しいし色々話したいなーなんて思わないこともないんだけどね。銀杏田さんの距離感に対して、相手にはわからないくらいに少し背をそらして余計なことは言わないように返答する。私たち二人きりならいいんだけど、周りに透子と凛ちゃんもいるし変に話が盛り上がるのは良くないと見た。しかし、そんな私の冷静な判断を衰えさせるかのように現実は追い討ちをかけてくる。
「その……さっきから色んな所にキャラクターのパネルが置いてあったのよね」
「ホントッ!?見に行こ見に行こ!」
私の今日の予定は、「長瀞観光」から「アニメ聖地巡り」へガチッと変更される。意気揚々と銀杏田さんの手を取って、戸惑っているその身体を引き私たちは駅の方へと早足で向かった。
はしゃいでいる私たちに置いてけぼりにされた透子と凛ちゃん。凛ちゃんは頭を左へ軽く傾けながら視線を右上の空の上に送り、何か考え事をするかのような素振りを見せた。
「……私も知ってるかも」
「嘘こけッ」
自由行動が終わり、バスで五分程度移動した場所。一学年の生徒が全員すっぽり入れた程の大きさを持つ半屋外の木で組まれた小屋のような所で、私たちは本日最終イベントのバーベキューをしていた。
「……ん、美味いな!」
「透子ー、タレー」
「パネル……全種は見つけられなかったなぁ」
六人分の椅子が一つの机に三個二列で並べられていて、机の上には二つの……電熱コンロ?みたいな物があり、これを使って焼いてバーベキュー……と。
必ず六人で一セットって決まりだから、私と透子と凛ちゃんが同じ班なのは大前提としてクラスの中でも目立たない別の三人組と一緒なんだけど……まぁ、私たちって浮いてるらしいんだよね。うん、主に凛ちゃん。だから六人班といっても真ん中で空気が一刀両断され普段と変わらず私たちは三人で会話している。銀杏田さんはバス移動と同時に自分のクラス班へと戻ったきりだ。
「そーいえば、明音ちゃんさ。さっき一人で何してたの?」
食事をしながら三人ダラダラとキャッチボールにすらなっていなかった独り言紛いの会話の最中、凛ちゃんが突如として放ったその突き刺すような言葉。二人並んだ私と透子は一斉に手を止めて対面にいる凛ちゃんへ視線を移す。するとそこには、ニヒルな笑みを浮かべて頬杖をつき下から睨むような鋭く深い瞳を浮かべた顔があった。
……あ、これ頭に血が上ってそうな雰囲気です。でも、なんでだろう……あれ、私がさっき席を外した時になんかあったのかな。
「お、おい?凛……どうしたん?」
「いやぁー?なんかぁ、私のハートが?まーた脅かされたよーな気がして?仕方なかったからさぁ?」
透子の声に反応して口を開くものの、さっきから視線がずっと私へ当てられていて全くブレない事がわかった。
……あぁ、これ私だ。私がなんかしちゃったのか。
でもなんだろう?ハートが脅かされるとか……ハート……心?…………愛!
一瞬自分の知能が五歳児並に下がってしまったような気がして軽く頭を右手でポンポンッと叩いた。相変わらずの表情で凛ちゃんはじーっと私を睨みつけているし……やっぱり自分で答えを出さないといけないよね。私がふと喋らなくなった透子の方にチラッと目をやると、透子は何の話かわからず既にもう話の輪から一人抜けていて、箸を手に自分の分の肉や野菜を熱せられた鉄板へと運んでいた。
そんな姿を気力のぬけた愛想笑いを浮かべて見ていた時、私は一つ閃くように一つの記憶が脳裏に浮かぶ。
……あぁ、そっか……それだと辻褄が合う。間違っていたらどんな顔をされるかわかったものじゃない……けど、恐らくこれが……いや、絶対これだと思う。
「……んッもしかしてさ、私が先ぱ」
――ブゥーッ!
突如として私たちの間に響き渡ったその音は、まごうことなく私のスマホから発せられたバイブ音だった。私はその太ももに伝わる振動に言葉が詰まり、真顔のまま凛ちゃんを見つめ体を硬直させる。凛ちゃんも透子も、私のお腹の方をじーっと見つめて呆気に取られた表情を浮かべていた……が、すぐに凛ちゃんはニコォッとさっきよりも不気味なわざとらしい笑顔を浮かべて顔を横にクイッと傾ける。
「どーしたの?通知、見なよ……誰からかなぁ?」
連絡アプリしか通知入れてないし、私にメッセージ送ってくる人なんて……。
やってくれましたね先輩ッ!
透子はジトーっと呆れ果てたような顔を私に向けて「もうだめだな」と見捨てるようすぐに食事を再開したし、私は今最悪な状況下にある……また通知来たよ。恐らく凛ちゃんはわざわざ遠出先なのにも関わらずに先輩と連絡をとっていた私が嫌なのだろう。ほら、嫉妬……的な?先輩のこと、凛ちゃんは好きなんだもんね。
……ねぇ通知止まんないんだけど!さっきからブーブータイミング最悪すぎる!
「ごめ、ちょっとトイレ!」
私はそう言ってバッと立ち上がり、逃げるようにして狭い椅子間を滑るように抜け外へと駆け出した。勿論その様子を眺めていた凛ちゃんが納得なんてするはずはなく、私の背中をじっと見つめながらさっきまでの笑顔は消しさり、歯を食いしばって獲物を狙う虎のように酷く睨みつけていた。
「…………凛?」
「私……手、洗ってくる」
透子の低くて強い心の奥にジーンと沁みるような呼び掛けに、凛ちゃんは顔を伏せてノロッと立ち上がり手をぶらぶらさせながら静かな怒りを示す。
咄嗟に透子が凛ちゃんの腕を掴もうと上体をグイッと机の反対側へ伸ばすが、生憎凛ちゃんは既に立ち上がってしまっていたので透子の手は何も無いところへと振り下ろされ空振りしてしまった。逃したあとも動きを停めず、透子は真剣な面持ちに変わって凛ちゃんがゾンビのように気の抜けた歩き方で遠ざかっていく姿に、小さく……でも確実に凛ちゃんの頭へ訴えるように発した。
「……遅くなるなよ?」
○
「まったく……何事ですか」
トイレとは反対側の屋外に出て小さな石の水道、食事を終えた人達が既に何人かたむろしている中で私は先程の通知を険しい表情で開く。まぁ想像はついていたけれど、通知は全て月嶋先輩からだった。いざ開いてみると、内容は……正直今じゃなくていいもの。前日の打ち合わせが終わった後、みんなで駅に小道具の買い出しへ行かないかという誘いだ。スマホを両手に呆れ返り大きくため息をついて、「わかりました、みんなに伝えておきます」と送る。私が送ったメッセージは五秒程度で既読とつき、なんだか心が高揚しているような気がして頬を微かに赤らめた。
私が瞼に指先を当てて呼吸を整えようとすると同時にポッという音が手元から鳴り、すぐに目を開いて目線をスマホへ落とす。
「二人だけでも全然いいよ……って、何言ってるんですか」
先輩のそんな言葉に、私はクスッと肩を縮ませて笑を零した。少し私の上に広がる曇った空を見つめながらゆっくりと呼吸し、「何言ってるんですか」と入力して送信する……相変わらず既読が早い。
「へー……月嶋先輩からねぇ」
後ろから至近距離で右耳元へそっと呟くその声に、私は急に声をかけられた事と耳に吐息が当たった事、その声主が誰なのか身体を過敏に反応させてビクッと後ろを振り返る。
「明音ちゃん、トイレはぁ?」
「いやぁ、あはは……」
顔を覗かせている方とは逆側から手をぬっと這わせ、恐ろしいくらい巧妙な手際で私のスマホを回収すると十歩程度後ろへ下がり画面を見つめていた。
……まずいなぁ、非常にまずい。……うん!やば!
私が身体を後ろに半回転させると、相変わらず凛ちゃんは怖い表情を浮かべながら私のスマホをスクロールしている、それなのに私は……焦りがない。やばいなーとか、怒られるなーとか……そんな浅はかな感情しか抱けない。罪悪感がないとかじゃなくて、ことの重要性に実感をもてないんだ。
……でも、もしこれで凛ちゃんに嫌われたら。前にも三人で遊んでいた時に同じようなことがあった……離れかけた友情、出会ってまだ数ヶ月……容易に崩れる関係性だろう。友達を失うのは……悲しい、それは嫌だとはっきり心が訴える。
「明音ちゃんってさ、月嶋先輩と付き合ってんの?」
「……ん!?」
下を俯きながら胸に手を当てて不安を抱いていた私に、凛ちゃんは何の表情も浮かべずに淡々と吐き捨てる。私はさっきから身体が変に緊張してしまって一々リアクションが変になってしまう。
「いや……付き合ってるわけじゃ、ない……よ?」
「まぁ……だろーね。先輩から一方的にって感じだし」
……怖いと思った。目も合わせずにそう怒りと嫉妬を含んだような声で話しかける凛ちゃんは、一体何を思って私と会話しているのだろう……そして、一体どこまで知られているんだろう。そんな不安が私の中に募り募って身体まで蝕んでいこうとするのを感じていた。ふと自分の膝や指先、背中の上の方が震えていることに気がつく私。それと同時に凛ちゃんは私へスマホを片手で差し出し、真っ直ぐ透き通った眼差しを私へと向け口を開いた。
「ねぇ……明音はさ、先輩の事……好きなの?」
「……え、どうしたの?……そう、だね……尊敬してるよ」
「そうじゃなくてさ!」
はぐらかそうとする私の言葉を遮るように、その声は強く心を揺らすように現実を叩きつけようとする。凛ちゃんも頭を下にグッと向けて腹から叫ぶような言い方をしたからか、呼吸が多少荒くなって顔を向き直した。
「……わかってるでしょ、言葉の意味」
「うん……私、私には……もぅわかんないよ」
右手で左腕を掴み、自分の身体へ寄せるようにして力をこめる。もう視線もほとんど地面に広がる砂利にしか向いていなくて声もはれない。
「だって、だって私……何されても」
「ドキドキしない?」
ハッとして視線を凛ちゃんへ一気に持ち上げる。目を見開いた私の瞳に映る凛ちゃんは、歯を食いしばって肩を震わせていた……けど、どこか悲しげな雰囲気を纏っていて目が離せない。
「何をされても、ドキドキしないって言葉……何かのアニメに似た言葉があったよね。……明音、楽しくない?何も心に響かない?……あのねぇ、それはさ」
一瞬顔を下げて表情が見えなくなったかと思うと、ゆっくりと持ち上がった顔にあったのは……もの悲しげな含み笑い。
――好きじゃないって事なんだよ。
……私が先輩を、好きじゃない。
「ねぇ明音ちゃん、月嶋先輩はさ?何も感じられないその弱い心に甘えてるんだよ……都合のいーように自分だけが愛とかいう理由をつけて」
そう言いながら瞼をゆっくりと下ろし、身体が言うことを聞かずにただ無闇に震え続ける私へ静かに近づいてくる。
「明音ちゃんさ……感情、薄い……っていうか、ないに等しいよね。それくらいわかるよ……だって、私にとって大切な人だもん。見逃すわけがないでしょう?」
凛ちゃんの言葉が怖かった。
「あの先輩は、何も感じない明音ちゃんになら受け止めてもらえると……心のない明音ちゃんをまるでストレスの捌け口みたいに」
「り……凛、ちゃん」
「っていうか、何?そもそも女の子同士の恋愛なんて変だよ」
否定、否定、否定、否定否定否定否定……凛ちゃんの口から溢れるその言葉は、私の価値観や築き上げてきたものを意図も簡単に崩落させていく。
凛ちゃんが怖かった、先輩の今までの行動全てが怖かった、それを信じていた私の心も怖かった。
「ねぇ、明音ちゃん」
全てが嘘だったというその身に余る程の絶大な恐怖に身を黒く汚される。ねぇ、誰か……私にどこまでが嘘でどれが本当なのかを教えてよ。
「私は、こんなにも明音ちゃんの為に……傷つくのを覚悟の上でホントのことを教えてあげてるんだ」
少しずつ少しずつ近づいて来ている凛ちゃんは、もう私まで四歩程度の距離に迫っていた。凛ちゃんの声は次第に近く、大きく、頭の中に強く反響して足音もジャリジャリと認識できるほどにまでなっている。
「あの人は、酷い。うん、酷い人だよ。弱った人間を都合のいいように……私は違う。だって、こんなにも明音ちゃんのことを思ってあげられる」
頭が痛くなって、私は身体を少し丸めるようにして両手を頭で力いっぱい握りしめる。もはやこれは恐怖なんて言葉で片付けていいのだろうか……苦しすぎる、誰かに首を絞められているかのような。
「明音ちゃんの為に、本気で怒って、本気で傷ついて……それは、嘘偽りのない心からの親しみ」
そんな私の目の前に立ち止まったその足は、ピタリと動作を辞めてなんの動きもしめさない。
「あんな悪い奴の事なんて、もう……忘れてさ」
顔の正面から優しく……心に寄り添うような声で語りかけられて、腕に何かがぶつかったかと思うと背中に回された腕が私のことをギュッと強く抱きしめ、凛ちゃんは右肩に顎をポンっとのせた。目を見開いて呼吸が乱れている私に、その声は頭を撫でるかのような心地良さを声色に孕ませて続ける。
「大丈夫だから、だから一緒に抜け出そ?」
私には見えなかった、その時の凛ちゃんの悪意に満ちた最悪の冷笑。鋭く空を睨みつけるような瞳には、自分の目的の為ならば手段を選ばないと言わんばかりのドス黒さを浮かべて三日月のようにニヤリと他者を嘲笑するその口。
その顔から発せれる優しく決意のこもった声は、私の耳にゼロ距離で偽りの事実を施した。
――私は、絶対に明音を裏切らない。
これは、嘘偽りのない決定的な真実だよ。




