死にかけた黒い竜
一部欠けただけで奇跡的に使えたランプ灯を頭の上に掲げる。
洞窟の中を心細く揺れる光が照らす。見える範囲はそれほど広くはない。
それにしても、ワイバーンの翼がもげてしまうだなんて。しっかりと死体の確認をしてから操るべきだった。いつもならこんなへまはしないのに、今日は急いでいたうえに疲労であたまが回らなかった。
僕はそんなことを後悔しながら、背中の荷袋を背負いなおして洞窟をすすむ。
このでかい穴ぼこはいったい何なのだろう。自然にできたものなのだろうか。僕は天井のほうばかり気にして見上げていた。たぶん出口は上にあるものだとの思い込みだったんだと思う。だから、すぐそば、目の前の存在に気がつくのが遅れてしまった。
しめった息遣いが聞こえた時にはすでに、そいつは僕の足元にいたのだ。
腹の底を打ち震わせたような重い唸り声が下から立ちのぼる。
もう身を隠すという段階ではない。すでに声の主はそこにいる。僕はランプ灯を頭の上から自分の腰のあたりにおろした。
最初に見えたのは、大きく裂けた口、そこからのぞく白い牙。きっと僕にとって一番危険な部分。けれど、そうではなさそうだとすぐに気が付いた。その大きな牙の持ち主は、顔を横にむけて地面にへばりついていた。
その顔は竜だった。
あざやかな漆黒の鱗に覆われた竜だった。
多分、僕の片足くらいなら一口で丸呑みできるだろう。けれど、竜はぐるると唸るだけで、地面にはりついたままピクリとも体を動かさない。ひし形にとがるまぶた。闇のような黒い瞳はうつろで、小刻みに震えていた。まるでぶるぶると痙攣しているように見える。
その時僕は直感で悟った。この竜は死にかけている。もはや身動きができないほどに弱り切っている、と。
僕はランプ灯を腰の前に掲げながら竜を刺激しないようにゆっくりと後ずさる。僕が向きを変えようとすると、竜がまたうなった。さっきよりも小さい唸り声。それは不思議とどこか悲しそうに響いた。威嚇なんてものではなく、まるで僕を呼び止めるような、僕にすがるような、そんな唸り声だった。ただ、そんな気がしただけなのかもしれない。
でも、竜のまなざしは虚空に揺れて本当に苦しそうだった。僕は深く息を吸い込んで、気持ちを落ち着けた。恐れに震える足を、竜に向け直して進んだ。
竜の息はとぎれとぎれで、とても浅かった。僕は膝をまげてゆっくりと左手を伸ばしてそいつの鼻先に触れてみる。かすかに上下している。僕は通じるはずのない言葉で聞いてみた。
「つ……つらいのかい?」
竜は小さく息を吸い込み、吐き出した。僕は聞く。
「痛いのかい?」
竜はまた小さく息を吸い込み、吐き出した。
竜はそうだ、といった。僕には竜がそういっているように聞こえた。
今から僕が行う事に、僕のよこしまな考えが全くなかったとは言わない。この竜を殺して【死体操作】を使えば、この竜の死体を操ってこの穴から抜け出すことができる。そんな自分本位な考えが全くなかったわけじゃない。
でも、僕は純粋にこの竜の苦しみを終わらせてやろうと思った。この竜は死を望んでいる。そう感じたのだ。
竜の弱点である心臓は、ちょうど首の根元のやわい部分にある。僕は竜の顔を横目に胸元にまわりこんだ。竜の体は横向きに力なくしなだれている。首元はちょうど僕のひざ下あたりに位置する。僕はランプ灯を足元に置いて、背中の荷袋を大地におろすと中から短刀を取り出す。右手に握り左手でゆっくりさやを抜いた。あまりつかわない短刀の刃は鮮やかだった。
僕はしゃがみこんで銀に光る剣先を竜の首の根元にあてた。よく見ると首元の一部分に少しのくぼみがある。ここだ。僕はそのまま、何も言わずに全身の力を込め、一気にそのくぼみを、ずっ、と突き刺した。
竜は最後に、きゅう、と短くうめいた。そして浅い呼吸をほどなく止めた。いったいどれくらいの間、この竜は孤独のままこうして苦しんでいたのだろう。誰も来ないこんな暗闇の中で。
僕は剣を引き抜くと目を閉じて竜の冥福を祈った。
おもえば、僕は15歳にして、いま初めて魔物の息の根を自らの手で止めたかもしれない。
しかも、まるで無抵抗な魔物の息の根を。これは魔物を討伐したといえるのだろうか。僕はいいしれぬ罪悪感に揺れる自分の心に喝を入れる。
「からだを借りるよ」
僕は短刀についた青い血をズボンに沿わせてふき取ると、さやに収め荷袋に放り込む。足元のランプ灯を握ると再び竜の頭に回り込む。竜の眉間に手を当ててスキルをつかった。
【死体操作】
間を置かず、竜の体がずりっと音を立てた。違和感。なにかがおかしい。なぜ竜の体がうごいたんだろう。僕は“まだ何も命じていない”のに。まさかまだ生きていたのか。いやさっき確かに呼吸が止まったのを確認したはずだけれど。
ふたたび、竜が唸った。僕は慌てて竜の顔から離れて、後ろに飛びのいた。次の瞬間、竜の首は勢いよく持ち上がり牙をむいて口を開く。大きく喉を震わせた。生ぬるい息とともに洞窟の壁という壁に唸り声が反響して、僕の全身をびりびりと包み込んだ。
竜の首がさらに高く持ち上がり、黒い鱗を波のようにゆらして後ろの体も、もち上がる。僕は、もはや何もできずに、ただ突っ立てその竜を見上げた。竜は悠然とこちらを見降ろす。
さっきまで黒かったと思っていた瞳は、光を宿し透き通るようなブルーに輝いていた。
竜はゆっくりと頭をうなだれ、僕の前に差し出した。まるで頭をなでろとでもいうみたいに。
この竜、知性を持っているのか。
僕はおそるおそる手を伸ばして竜の額のあたりをなでた。すると竜は小さく鳴いた。今まで聞いたことがないようなかわいい声で、きゅるる、と。
明らかにいつもと違う。僕が命じなくてもこの竜は自分の意志で動いている。まるで生きているように。死体運搬の時に【死体操作】のスキルを使ってもいつもならば、こうはならない。
僕は、はたと思い当たる。
いつもと違うのは、僕自身がこの竜の命を絶ったこと。