穴の中
僕はゆっくりと目を開いた。
あれ、ここはどこだろう。何だかとても懐かしい気分。
僕は、まばゆい朝日の差し込む窓辺の食卓に腰かけていた。
「さ、ネイル。あなたの好きな野イチゴよ」
やさしく響く母さんの声。
僕の肩越しに手が伸びてきて、僕の目の前のテーブルに小皿を置いた。僕は手の主であろう母さんをみあげる。でも、下から見上げた母さんの顔はぼんやりとしてよく見えない。僕は母さんに話しかけようとして口を開く。
けれど、不思議と僕の喉から声は出なかった。僕はしばらく口をパクパクした後、声を出すのをあきらめた。顔を前に向けなおして、目の前にある小皿に盛られた野イチゴを見つめる。
小皿に盛られた真っ赤な野イチゴは3つ。一つは母さん、一つは父さん、一つは僕。あれ、一つ足りない。母さん僕の妹のエミーリアの分がないよ。僕はもう一度母さんを見上げる。ぼんやりとした顔の母さん見上げて、僕はエミーリアの分がないことを伝えようとする。
けれど、やっぱり僕の喉の奥から声は出なかった。
母さん、足りないのは誰の分なの。
母さん、意地悪しないで。
母さん、足りないのは僕の分なの。
ねぇ母さん。
「母さん……」
喉の奥から声が出ると同時に、僕はどこか悲しい気持ちで目が覚めた。とたんに忘れていた全身の痛みがよみがえる。
「うっ……」
僕は仰向けに寝転んだまま、ゆっくりと前を見据える。はるか遠い視線の先、岩に丸く縁どられた夕映えの空がある。ここは、穴の中だ。
どうやら、僕は地面への衝突を避けようと無意識にどこかの穴の中に突っ込んだようだった。最悪を避けようとして、より最悪なほうへ進んでしまったみたいだ。
僕は慎重に体を持ち上げる。下についた両の手のひらにふれる奇妙な感触。ざらつくようで柔らかい。ふと見ると僕の体の下にはワイバーンのふくらんだ腹があった。このワイバーンが下敷きになってくれたおかげで、僕は無事だったのか。でも。
僕はあらためて周囲を見渡してゾクリとした。
こんなに深い穴に落ち込んで、果たして無事だといえるのだろうか。翼のもげたワイバーンではここから飛んで抜け出すことはもはや不可能。僕を囲む切り立った岩壁。ここから見あげる限り、手でつかんだり、足をかけたりできそうなでっぱりはなさそうだ。
その時、僕の脳裏にエミーリアの顔が浮かぶ。早く家に帰らないと。ぐずぐずしている暇はない。とにかく、ここから出る方法を考えなくては。戦闘はからっきしだめだけれど、僕だって冒険者のはしくれだ。今までもそれなりにピンチは切り抜けてきたんだ。
僕は自分の右頬をパチンとたたき、気合を入れた。
ゆっくりとワイバーンの腹の上に立ち上がる。
全身をぐるりと見下ろしながら指を曲げたり、足を片方ずつあげたりしてみる。大丈夫、骨が折れたりはしていないようだ。その時、視界の隅に転がる麻袋。僕の道具袋だ。僕はワイバーンの腹から飛び降りると、岩場を進んで麻袋を拾い上げ、中身を確認する。
開いた袋の中。ろくなものはない。今日は日帰りでの討伐作戦だったのだから。
残る食糧は乾いたパン、干し肉数切れ。小ぶりな鉄製の水筒はいびつにへこんで、中の水は漏れてカラ。あとは魔物の運搬につかう用の長めの縄とそれなりの大きさの布切れ、ひび割れたランプ灯。そしてあまり使わない鉄製の短刀。
麻袋を覗き込んでいた僕のほほを風がそっと誘う。僕は自然と風がきた方向に目をやる。そこには真っ黒い横穴がぽっかりと。この穴の先にあるのは絶望か希望か。とにかくほかに道がない。
僕はさらなる最悪へと突き進む覚悟で行動を開始した。