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Ⅲ.怒張

【加虐的な語り手による贅言】

 Kはそれから週末が来る度に[AB工房]、Nの元へと通った。Nの絵は着々と描き進められ、その数は一枚に留まらなかった。それからKは、これはすぐに気がついたのだが、Nの描く絵が好きだった。Nはその自由で軽い言動と裏腹に、醜い人間の顔を描くのが非常に上手かった。

 あるとき、Kは実家に帰って、一枚の絵を久々に取りだした。そう『毛皮を剥がれたヴィーナス』である。画面右側には毛皮を奪ってニタニタと醜い笑顔を浮かべる男。左にはその男に踏まれるようにして、怯えている女。Kは、女をじっとり見つめた。見ているうちに、女の顔が歪みだして、Nが笑った。そうしてやっと気がついた。踏む男と踏まれる女の、欲望で厚塗りされた醜い顔は、どことなくNの描く人物に似ていた。

 何故、Nの絵が好きだったかって、それはKが描きたかった絵に似ていたんだね。


【怒張】

 『毛皮を剥がれたヴィーナス』は、無事白眉の店主へと引き渡された。

「やっぱり良い絵だ。欲に塗れた人間の顔が妙に生々しくって。」店主は、両手で額を掲げて絵を見た。

「今となっては、もう過去のものですよ。自分で描いたはずなのに、見返すと記憶と違ったりしていますから」

「そうかい?一度離れて時間が経ってしまえばそんなものかな。」

店主は絵の中の男の顔が気にならないらしかった。

「ああ、そういえばK君。最近Nの絵のモデルをやっているらしいね。」

「え、Nから聞きましたか?」Kはたじろいだ。

「うん。気をつけなよ?あいつはほら、見境ないからさ。」

店主の笑顔は、妙な色を含んでいた。

「いや、ただNさんの絵が好きなので。それだけですよ。」

「はは、下世話だったね。あれも変わった奴だよなあ。すごい人間だよ。絵の善し悪しで言えば、俺の目からすればまだこの『ヴィーナス』の方が、Nより“巧い”と思うし、あいつよりいい絵を描く人間はそこら中にいるけど。でもあいつはちゃんと絵で生きてるからなあ。絵の才能はそこそこだが、画家になる才能はある。」

店主は、出来の悪い教え子を語るような口ぶりで言った。Kは掌に痛みを感じた。知らぬ間に彼の短い爪は掌に食い込んで赤い跡をつけていた。


***


 狭い廊下を身を屈めて進んだ所で、見馴れたピンク色のドアが現れた。おもちゃのような板に、金の豪奢なノブがつけられている。Kはドアを二度ノックした。中で作業をしている人間はいつも通りに「ちょっと待ってくださいね-」と返してきた。

 金のノブががちゃりと捻られ、部屋の中に引き込まれる形で開いた。部屋の主は染みだらけの黒いエプロンを着た胸元で迎えた。「どうぞどうぞ」その声が今日はなんだか楽しそうだった。

「失礼します。」

 

 更に身を屈めてドアをくぐると、Kの頭にくらりときた。美女の頭をかき抱いて甘い香りを肺一杯に吸い込むより、口移しのコアントローより、夜中のホテル街でそっと腕を組んだ瞬間の柔らかな肉より、もっとずっと刺激的な光景がそこにあった。

「どう?数が増えたから並べてみたんだよね。」

 Kの顔、僕の顔、私の顔、Nの顔、偏屈な顔、笑っている顔、悲しげな顔、ざっと20枚はあるだろうか。入り口を取り囲んで半円を描くように、大量のイーゼルが並び、一つ一つ違った醜悪な顔が載っていた。

 ああ、でも、そうじゃない。僕が見たいのは、ここに並ぶ顔じゃない。繊細に描き分けられたいくつもの顔を見回しても、彼が欲する顔はそこになかった。息が苦しい、膝がかくかくと笑う。血液が全身を巡る。目の前のNが、悪戯っぽく笑っている。肌の波打つ肉の動きが、その皺が、張りが愛おしくて、それから憎くて、あの頬に僕の足が沈み込んで、あの悪戯っぽい笑顔が歪んで、それを踏みつぶして、この部屋は…

「ふふ、…バレてますよ。ずっとずっと、Kさんが抱えてる煮詰まった下心」

「私の顔が好きなんですよね。」

「この顔が、ニヤついていると欲しくなっちゃうんですよね。」

踏みたくて、踏みたくて、堪らないんでしょう。分かるんです。あなたが丁寧に人に接する理由。ねえ、分かってますか。私はこんな風に自由に喋る。あなたと違って、好き勝手に思った事を口にするんです、Kさん。それに、あなたの事は手に取るように分かっちゃう。Kは今、Nの口を塞ぎたくて堪らない。あの口に踵が埋めたい。こうですよね、ふふ。それに、世界を好きに描く。あなたは諦めたんでしたね。どうしてでしょうね。私の方がずっと稚拙な画を描くのに、あなたは手放して私は持ってる。この間、私の背中、ちらっと見せてあげましたね。見たでしょう?あの赤い線が歯形だって、あなたに分からないはずがない。色んな女の子を噛んだりもしてきましたもんね。でも、一番に欲しい私はあなたは、私でもあなたでもない誰かに沢山噛まれて、踏まれて、ゴミのように、愛玩動物のように、聖母のように嬲られてきました。

 Kは私に当然掴みかかった。肩に掌を押し当てて、倒そうとする。しかし、足に力を込めた私とKとは拮抗する。簡単に押し倒されはしない、してあげない。

「ねえ、Kさん。いいですよ、特別。あなたの欲求を私が受け止めてあげます。」

Kの力が鈍ったと同時に、私は一歩前に出た。だってKはこんな風に耳元に唇を寄せるのが好きだから。

「でも、女の子達に散々教えてきたんでしょう。おねだりするときは、どんな風にするんでしたっけ。」


 Kは膝から崩れた。右膝が地面に触れて、左膝が地面に触れる。すぐ上に迫る私の顔をじっと上目に見つめるその目には、焦点が合わないで黒目が揺れる。ああ、右手がゆっくりと差し出されて、それから慌てたように戻った。逡巡している様が妙に滑稽だ。今度は意を決したような左手がすっと伸びて、中指の先端で床を撫でる。のど仏がごくりと動く。ぬるぬるとして泡だった唾液が喉に絡みつく感覚が、私には手に取るように分かる。また右手が伸びてきた。じりじりと床に近づいてく。私はそれを黙って見つめる。Kが言い訳に出来る事なんて一つも余分に与えない。ああ、右の人差し指と左の人差し指が触れる。深呼吸、深呼吸。息を吸って、止めて1秒、Kは真剣な目をする。

 ゆっくりと、倒れるようにKの頭は落ちていった。髪が床にあたってかさりと音を立てる。

「…顔を、踏ませてください…」

頭を上げたKの顔は泣き出しそうなほどの昂奮を湛えていた。ああ、私も私の顔が異常なまでに…


***


 ゆっくりと、顔の肉に沈みこむ足。

 果たして、Kが土下座をしてまで踏んだそれは、本当に顔だったのだろうか。

【加虐的な語り手による贅言】


 その夜、家に帰ったKはゴミの分別をした。アイマスクは燃えるだろう。皮のベルトは金具が燃えないな。鞭は革製だから燃えるだろう。口枷は、電動の玩具は、エナメルのマットは…。キャンバスは燃えるだろう。イーゼルは粗大ゴミ。一つ一つルールに則って正しく処分した。

だって彼はやっぱり、丁寧で真面目な男だったんだ。

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